第1話 あるホストの一生

(……ようやく行ったか)




 看護師の足音が遠ざかるのを確認した俺は、震える手を下ろし、ベッドに身体を横たえた。




 全身が痛い。




 初めに悪いのは肝臓だけだったはずなのに、どうしてこうなるのか。




 病と言う奴は、目に見えないから性質が悪い。




 いっそのこと、全身に転移しているというガンが擬人化して目の前に現れてくれれば、まだ口説きようもあるのだが。




 コンコンコン。




「どうぞ。レディー」




 再びノックの音。




 俺は佇まいを正した。




 どうやら、俺は病院で一種のネタにされてるらしく、看護師や暇な子どもたちの来訪が後を絶たない。




「ようやく見つけましたよ。聖夜さん」




 入ってきたのは、ブランド物の白いスーツを着た優男だった。




 よく見知った顔だ。




「なんだ。白夜か」




 俺はベッドに無造作に身体を投げ出した。




 男に遣う気はない。




「ひどいじゃないですか。僕にも入院先を教えてくれないなんて」




 病室のベッドに横たわる俺に、白夜は目を細める。




「お前こそ、ひどいじゃないか。そっとしておいてくれよ。禿げた白鳥を見て、何が楽しい」




「一度くらい見てみたかったんですよ。あなたが弱ってる姿を」




「悪趣味な奴だな」




 俺は顔を歪めた。




 ホストは惨めであってはならない。




 最後まで最高にかっこよく、他の男には嫉妬され、あらゆる女の目を奪うほどに美しくなければ、存在している意味がない。




「ひがみですよ。生涯あなたに勝てなかった永遠のナンバー2の。誰がなんと言おうと、あなたは、歌舞伎町の――日本の――いや、世界で最高のホストだったんだから」




「大げさだな。俺より有名なホストは、何人でもいるだろう。テレビに出まくってるあいつとか、美容業界で成功した奴とか」




 俺は苦笑した。




 最高?




 噴飯ものだ。




 所詮ホストは、泡沫の夢。




 歌舞伎町など、せいぜいは200平方メートルにも満たない箱庭に過ぎない。




 ホストなど、今この瞬間にこの世から消え失せても誰も困らない賎業である。




 そんな猿山のトップになったところで、世間様に誇れるところなどあろうか。




「彼らはホストを踏み台にしてただけだ。でも、あなたは違う。生涯、ホストであり続けた。顧客の全てが極太金持ちで、庶民を風俗に堕とすことも、闇金に堕とすこともなく、ナンバー1を維持し続けるなんて、他の誰にできるっていうんですか」




 白夜はそう言って目元を拭った。




 俺と違って、涙脆い奴だ。




 だからこそ、多くの人間が彼についてきたのだろうが。




「偶然だろう。俺は女に恵まれた。それだけだ」




 幸せな人生だった。




 心からそう思う。




 若気の至りで突っ込んだアパレル業界でこしらえた莫大な借金。




 絶望の縁で行く当てもなくふらついていた夜の街で、いいオーナーに拾われた。




 がむしゃらに働き、しこたま金を稼いだ。




 いい仲間に恵まれ、いい女に恵まれた。




 どれだけ取り繕おうと、ホストは水商売である。




 日陰者であり、余剰産業であり、誰もが持つ心の隙間に忍び込む悪魔だ。




 だが、それでもなお、俺は自分の職業ホストを恥じない。




 俺の居場所は夜にしかなく、必然に導かれたその世界で、僅かな間でも輝けた。




 酒を愛し、女を愛し、金を愛し、享楽と退廃と欺瞞の世界で全力を尽くした自分を心から誇りに思っていた。




「ずるいですよ。聖夜さん。結局、僕に一度も勝たせてくれないまま逝くなんて!」




「なに言ってるんだ。クラブヴィーナスを継いだのは俺じゃなくて、お前だろう。俺は後継者に選ばれなかった。お前の勝ちだ」




「そんなことはない。あなたは本当ならクラブヴィーナスを継げる力があった、もちろん、独立したってよかった」




「違う違う。ガキなだけだ。結局、俺は最後まで、大人になれなかった。お前は立派だよ。俺は、結局、自分以外の誰かに責任を持つなんてことは、できやしなかった」




「そんなこと言って。あなたが、稼いでたんでしょう。時代遅れのヴィーナスの膨れ上がる借金を抱えて――」




「もうやめよう。過去の話は嫌いなんだ。未来の話をしよう」




 ホストの美学は過去のもの。




 紳士は遺物で、キザは死語。




 『親しみやすい』というお題目の、教養も倫理も正義もないガキどもが大手を振って軽薄な愛を囁く歌舞伎町。




 時の流れは止められない。




 いっそ、いい時に退けたと思う。




 元号も改まり、これから貧しくなっていくことが確実な日本で、ホストを待ち受ける現実は、今以上に厳しくなることは明白だ。




「未来ってなんですか、もう、あなたは死ぬんだ。葬式か、墓の話でもしろって言うんですか?」




「墓はいらないな。遺骨は、適当にゴミ箱に捨てておいてくれ。所詮、ホストなんて、その程度の存在さ」




「嫌ですよ。とびきり、最高の葬式をしてやる。いや、歌舞伎町全部を喪に服させてみせる。あなたは、夜の王だ」




「よく恥ずかしげもなくそんなことを言えるな。――でも、お礼を言うべきなんだろう。お前のおかげで、俺は何の心配もなく死ねる。後は頼むぞ。白夜」




 俺は弟分に満面の笑顔でそう呟いた。




 白夜を帰らせてから数週、いよいよやせ我慢も効かなくなってから、俺は、面会を謝絶した。




 最後の時は独り。




 嘔吐感と、血管に棘のついた熱球を流し込まれたような苦しみに出る冷や汗。




 それでも、ナースコールはしない。




 両手の人差し指で、無理矢理口角を釣り上げる。




 初めて俺の死体を見るだれかに、見苦しい顔を見せるのは嫌だったから、精一杯微笑んだ。




 俺は笑えているだろうか?




 あの、世界一最高で美しい虚栄の都――クラブヴィーナスの、指名写真で輝く俺のように。




 歪む視界。




 シャンパンタワーに福沢諭吉の顔をした蝶が舞う。




 通り過ぎていった数多の女たちが、俺の全身に口づけをした。




 ありがとう。




 ありがとう。




 歌舞伎町。




 血を吸い、穢れ太るネオンの街よ!




 どうか、夜々栄えあれ!

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