第27話 過去を探して旅に出た骸

「「――、」」


 静寂に包まれる室内。二人は顔を見合わせて、互いに視線を逸らした。


 急に立ち去った一颯への不満が胸中に渦巻く。


 綾香にはどうすべきか分からなかった。だから頼ったというのに、まさか最終的な判断をこちらに丸投げしてくるとは。


 後押しはしてくれた。でも、言葉が足りなすぎる。まるで普段の一颯みたいだ。


 綾香は、一颯には二通りの顔があると思っている。一つは、普段の日常で見せる、ちょっとだらっとしていて、マイペースな面。もう一つは、以前依頼をしにここに来た時の、必要なことを必要なだけこなす、仕事人然とした面だ。


 こんな公私の使い分けみたいなことを、まだ高校一年の彼が当たり前のようにやってのけるなんて驚きだが、だからこそ頼りにもなる。


 だが今の態度は、仕事人として押し殺していた『私』の部分が、明らかに漏れ出ている感じだった。それも、冷たくて、他人を拒絶するような、いつかの日の彼。


――そういえば、あの時の藤見君は、結局何だったんだろう。


 気になる。でも多分聞くことはないだろう。踏み込めば、きっとこの関係は終わってしまう。


「三浦さん」

「へ、え? な、なに?」


 不意に差し挟まれた声が、綾香を現実へと引き戻す。見れば、佐斗の真剣な眼差しが向けられていた。


「どうか、話して欲しい。絶対に口外はしないから」


 綾香はそもそも、佐斗に話す分にはいいんじゃないかと考えていた。ただ、自分の判断というものが果てしなく信用出来なかっただけ。一颯が良いと言うのなら、それを拒否する理由は、本来ならないのだ。


「――わかったわ」


 そうして綾香は、これまでにあったことを佐斗に話した。絶対に口外しないという条件を、念を押すように繰り返し口にしながら。





 一颯は、一時間、初理のところへ行って時間を潰してから部室に戻ると、心なしか疲労感を滲ませる綾香と、だらりとした姿勢で窓の方を見つめる佐斗がいた。


 そんな二人を連れて部室を出て、そのまま解散の運びとなる。


 綾香は駅へ、佐斗と一颯は共に寮だ。


 お互い無言のまま、五分そこらの帰り道を歩き、外観も内部もまるっきり普通のマンションと変わらない寮のエントランスへと入る。


 壁には銀色のポストがずらっと引っ付いていて、503と書かれたところには、新しい郵便物は届いていないようだった。


 オートロックで施錠されているドアを開け、その先の通路を少し歩いたところにあるエレベーターに二人して乗る。先に乗った一颯が5のボタンを押し、続いて佐斗が3のボタンを押した。


 扉が閉まり、緩やかにかかるG。入口ドア上部に表示されている階数が2に変わったところで、佐斗が声を掛けてきた。


「藤見君、もう少し時間あるかな」

「ん? まあ、あるけど――」


 部屋に戻っても、適当に飯食って、勉強やら読書やらで適当に時間潰して後は寝るだけ。時間ならいくらでもある。


 佐斗が『開』ボタンを押して、

「ありがとう。じゃあ、とりあえずここで降りてもらっていいかな」


 佐斗の部屋でもあるのかなと、一颯がエレベーターから出るのに続いて、佐斗が出てきた。そのまま佐斗は、一颯に先行して通路を歩いていく。


 廊下の突き当たりより手前、302と書かれた部屋の前で止まった。


「ここ、翔の部屋なんだ」


 はっきり笑顔とは言えないような、弛緩した表情が一颯に向く。


「――、」


 一颯の瞳が一瞬にして怜悧さを帯びる。


「お前、刃傷沙汰にまでなったってのは聞いたんだよな?」


「――――そっか」


 ぽつりと零した言葉。佐斗は落胆したように視線を落としたまま、


「うん、聞いたよ。いや、別にドアを開けるつもりはなかったんだ。ただ、やっぱり信じられなくてね」

「なら、今は?」


 泣いているのかもしれない。そんな懸念はあれど、一颯は確認せずにはいられなかった。


「信じるしかない、かな。うん」


 今は納得できないということだろうか。とはいえ、理性的な回答が得られて、一颯は幾分か安心していた。


「そうか。まあ――頑張ってくれ」


 一颯はそう言うと、踵を返す。


 冷淡過ぎるとは、一颯も自覚していた。だが、今、一颯に出来ることはない。佐斗は、綾香や他のクラスメイトたちのような、痛みを分かち合える人間たちと共にいるべきなのだ。


――ああ、でも、新美は、秘密を秘密にしたまま傷を舐め合える、器用な人間なのかな。


 そんなことを考えながら、一颯はエレベーターに乗り、五階の自室へと戻った。


 内側から鍵を掛け、靴を脱いで玄関を上がる。廊下を抜け、扉を開けると、いつも通りの閑散とした風景が目に入った。


 部屋奥のベッド、その脇からずらりと並ぶ本棚の一つの上に、真っ黒な、ちょっと高級そうなお菓子の箱がある。


 腕を伸ばし、それを手に取る。


 蓋を開けると、中には一枚の写真が裏返しにして入っていた。


 摘まんで、表にする。そこには、一人の、見た目妙齢な美しい女性が映っていた。


 どこぞの花畑をバックに、真っ黒な長髪が風に流され、それを手で抑えるようにして微笑んでいる。女性向けファッション誌を彷彿とさせる、不自然に劇的な一コマ。


 これが、一颯の母親と思われる人物の痕跡だった。


 綾香や佐斗や翔にもあるように、生まれたばかりの赤ん坊でなければ、本来、人には誰しも過去がある。そして、その土台となるのは、両親という存在だ。


 親がいなければ子は生まれない。生まれて来なければ、そもそも過去というものが紡がれない。当然のことである。


 だが、一颯には過去が希薄だった。正確には、中学一年時より以前の記憶に、重度の欠損が見られたのだ。


 原因は一つの交通事故だと説明された。記憶障害らしい。目を覚ました時には既に怪我も完治していたし、日常で使うような知識の欠落もなく、一颯に実感はなかった。


 朧気ながら覚えている、母親だと思われる人物とのひと時。勉強した覚えのない諸知識。そして、この写真だけが、一颯の事故以前の存在を証明する、あまりに不確かな証拠であった。


――過去がないから、分からないのかね。


 我欲に従って生きるだけの赤ん坊に、経験と知識を与えることで、人間は、社会を構成する一存在として確立される。


 知識はそこそこ蓄えた。だけど、おそらくは経験が致命的に足りていないのだ。


 記憶のほぼ全てを失って目を覚ましたあの瞬間から、失くしたはずのたくさんのものを探すべく奔走した一年。そして、中学校で過ごした二年と、少しの高校生活。これだけで人になれるというのは、きっと、思い上がりなのだろう。


 ふぅ、と小さく息を吐き、写真を箱の中に、裏にして戻した。蓋をして、その下の本棚を物色し始める。


 感傷に浸りきれない。普通なら、涙の一つでも流していいのではないかと一颯は思う。


 だが残念ながら、一颯は泣いたことがなかった。勿論、目にゴミが入るなどして、涙が分泌されたことはある。しかし、感情が昂って――というのは経験がなかった。


 涙のメカニズムなんかも調べてみたが、そんな簡単に模倣できるわけがないと理解させられただけ。そもそも、模倣する意味なんか多分ない。


 どうして人は泣くほど悲しむのか。どうして人は前後不覚になるほど怒るのか。


 優しさとは何なのか。


 それらが分かれば、今よりも少しは普通に近づけると、一颯は信じていた。

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