第25話 馬には乗ってみた人には添うてみた

 私がラムールに滞在して一週間が経ったころ、交流会の主役でもあるブルーメンブラット辺境伯が遅れてやって来た。

 使節団には先発隊と後発隊がいて、私やガランサシャたちは前者にあたる。ちなみに、後発隊にはアーノルド・フォン・ギュンターやクシェル・フォン・ブルーメンガルテンなどの顔見知りもいた。その後発隊を率いたブルーメンブラット辺境伯は、所用によりリーベを発つのが遅れ、ジャルダン家に訪問したのは七日目の昼ごろだった。

 赤い正装で訪れたブルーメンブラット辺境伯は「お会いするのを楽しみにしておりました」と挨拶をし、それをフレーズ・ル・ジャルダンは「長旅だったでしょう。休まれてからゆっくり話しましょう」と温かく出迎えた。両者の関係性は良好のようだ。それまでの交流が伺える。

 ちなみに、ラムールを訪問してから、ブルーメンブラット辺境伯と私は、赤の他人のふりをしている。表向きの私生児とも、真相の賎民の子とも違う、一介の辺境伯と一介の令嬢という立ち位置でいた。

 こうなってくるといよいよ平和で、私のゴシップなど微塵も知らない異国の地で、私は、これまでの人生で味わったことのなかった居心地を堪能していた。


「アウフムッシェル嬢、ラムールの土産はもう買われましたか? ラムールは生地の種類が豊富ですし、ドレスやカーテン用の生地がおすすめです。もしよければ、私の行きつけの店をお教えいたしますわ」

「嵩張ると荷物になるでしょうし、幅の取らないものもおすすめです。ラムールの化粧水ハーブウォーターはいかがかしら? ジャスミンの香りのするものもありますのよ。ラムールの令嬢はみんな、イドラテ社のミントウォーターで肌の美しさを保っていますわ」

「そうそう。観光にはもう行きまして? 巨匠エマニュエルの手がけた真珠宮パレ・ド・ペルルはいかがかしら。この時期は一般開放されているのですが、かのニネット姫のために作られた庭園には二十種類ものダリアが植えられているのです。ラムールの名所の一つですし、ぜひともアウフムッシェル嬢をご案内したいわ」


 ラムールの令嬢たちが好意的な笑みを浮かべ、私に話しかける。サクランボの香りのする紅茶を飲みながら、私はそれに「まあ」「素敵ですね」と相槌を打つ。

 オルタンシア・ル・ジャルダンの開いたお茶会で、私は歓待されていた。ホストであるオルタンシアは、私を自らの隣の席に座らせている。バルコニーから吹く夏風の心地好い部屋の中、円卓を囲うように座る令嬢たちは、朗らかな笑顔で話を広げた。


「ラムールを訪れてからずいぶん経ちましたが、まだ町のほうへは出ておりません」私は答える。「日々、ラムールの勉強に精一杯で……皆さんとの交流が唯一の癒やしなのです」


 使節として派遣された令嬢や令息の義務には、使節団の補助サポート、ラムールの歴史や文化の勉強、ラムール貴族との交流がある。このお茶会さえも業務の一つだ。

 ここにいるメンバーも、交流の軸となるジャルダン家はもちろんのこと、その姻族、さらに遠い分家、あるいは、ジャルダン家と同様に国境線付近に領地を持つ家の令嬢たちだった。

 ちなみに、このお茶会にガランサシャは招待されていない。ラムール訪問初日の大立ち回りのおかげで、令嬢たちからは完全に危険視されており、話題にすら上がらない。リーベでは常に話題の中心にいた社交界の花形ソーシャライトとは思えない零落ぶりである。


「まあ。私たちもアウフムッシェル嬢とお話しできて嬉しいです」

「けれど大変でしょうね。ラムールに来て、慣れないことも多いでしょうし」

「なにかわからないことや困ったことがありましたら、いつでもおっしゃってくださいね」


 彼女たちの親切に、私は「ありがとうございます」と返す。

 ガランサシャがあまりに強烈だったためか、とりわけ敵意のない私を、彼女たちは受け入れてくれた。いっそ居心地が悪いくらいにくすぐったい。社交界にデビューしてからは初対面の相手にすら私生児だの身の程知らずだの馬鹿にされていたのに、それがさっぱり嘘のよう。誰も私を蔑まずに、好意的に接してくれる。それが本当に新鮮だった。

 テーブルの上に並べられた、紅茶の水色すいしょくに合わせたティーセット、バラの砂糖漬けの詰まった硝子ジャー。小皿にはバターのしっかりしたキャラメル。甘いものの苦手な私だけれど、この空気は悪くない。フェアリッテの作りだす、甘くて優しい空気に、どことなく似ていたので。


「皆さまのご意見も参考にさせていただきますね。ちなみに、ラムールは食も豊かなのでぜひなにか持ち帰りたいのですが、家の者があまり甘いものを好まなくて……なにかよい土産はありますか?」


 私は隣にいたオルタンシアに尋ねる。相手は年下の令嬢とはいえ、このお茶会のホストに当たる。ホストの顔を立てるのは礼儀だ。

 オルタンシアは少し考えるそぶりをしたのち、「でしたら、塩漬けにしたオリーブのペーストなどがよいでしょうね」と口を開いた。


「物持ちもしますからリーベまでの帰路でもだめになりませんし、バケットに塗ると絶品です。昨晩の蒸し鶏もそれで味つけしておりましたので、お口に合うなら……」

「ああ、あれでしたか。風味もよく、もう一度口にしたいと思っておりましたので、ちょうどよいですね」


 私の肯定に、オルタンシアはぱっと日が差したように微笑んだ。私の意に沿う返答ができて安堵しているようだった。

 わかりやすく嬉しがってくれたため、私はお世辞を重ねることにした。


「オルタンシアさまは打ってつけのものを見つけてくださいますね。ラムールにいるあいだの私の夜会用ドレスも、オルタンシアさまが手配されたと聞きました。先日のような素敵なドレスを見繕ってくださり、ありがとうございます」


 そのように褒めそやせば、オルタンシアは顔に朱が散るほど照れ入り、蝶の羽ばたきほどの小声で「め、滅相もないです、気に入ってくださったなら、嬉しいですわ」と言った。

 社交界にデビューして間もないオルタンシアの初々しさは、雛鳥を思わせた。邪な牙を持つ者に食われそうなほどか弱い。だからこそ、夜の席ではシャペロンであるブーレンビリエ夫人が目を光らせていたのだろう。ガランサシャがこのお茶会に招待されなかったのも、ブーレンビリエ夫人の入れ知恵かもしれない。

 そこで、オルタンシアが思い出したように言う。


「お伝えしていたように、このあとはジャルダン家の所有する森に行きます。皆さま足元はよろしいですか?」

「ええ。ちゃんと革靴を履いてきましたわ」

「私は常歩がやっとなので、少し不安です」

「ご心配なく。私もそうですが、馬に乗るのが苦手な方もいらっしゃると思いますので、乗ったあとは先導していただけるようお願いしておりますわ」


 お茶会のあとは乗馬だと聞いていたので、馬の背を跨いだ際に脚が見えないよう、乗馬用の履き物であるキュロットを身につけていた。靴もミュールやパンプスではなく、ヒールのないブーツを選んでいる。

 ただ、私のように乗馬を嗜んでいる者や、学校で馬術を習っている者は少ないようで、馬を走らせるというよりは、ジャルダン家の森を物見に行くのが目的だ。

 私たちが下へ降りると、すでに馬の準備ができていた。オルタンシアの言うように、馬を牽引する紳士たちもいた。

 その中に見知った顔を発見する。使節団の後発隊としてラムールに訪れた、アーノルド・フォン・ギュンターだ。

 自慢好きなアーノルドが馬に乗るでもなく、わざわざ牽引役を買って出たというのだから、交流会の理念に則した振る舞いとはいえ、お優しいことだ。


「では、皆さんに一頭ずつ馬をお貸ししますので、これから森に向かいましょう。今なら百合も見頃ですし、川辺は夏を忘れるほど涼しいですよ」


 令嬢たちは手を貸してくれる紳士に助けられ、馬に乗っていく。ほとんどの馬には横乗り用の鞍がついており、ドレスを着る女性たちでも上品に座ることができる。

 私は自分の番を待っていると、ふと、馬を曳いてくるノワイエと目が合う。双子の姉であるオルタンシアと同じ、かすかに青みがかった優雅なグレーの瞳だ。ただ、彼は私と目が合うなり眉を顰めた。


「ごきげんよう」


 挨拶をしてみたのだけれど、彼の様子は変わらなかった。

 実のところ、こういう態度は今日が初めてではない。初めて会った日も無愛想だったけれど、それはどんどん顕著になっていった。すれ違いざまに会釈するとそっぽを向かれ、食事の席では睨みつけられることもしばしば。

 訳もわからず目の敵にされるのには慣れているが、ここまで訳がわからないことは未だかつてない。

 ノワイエは私の目の前で馬を止めて、私の側に立つ。馬につけられた鞍も横乗り用ではなかったので、ノワイエの曳いてきた馬こそが、私に割り当てられた馬なのだと悟った。


「……手を、」


 と、彼が言い終えるよりも、その手を差しだすよりも先に、私はあぶみに足をかけ、この身一つで馬に跨った。

 弁明するなら、彼が私の補助を買って出るには少し間があったがゆえの行動であり、私は別に彼を無視したわけではない。そのため、馬に乗ってから見下ろした先に、手を浮かせたまま私を唖然と見つめる彼が見えたので、すかさずフォローを入れた。


「お気遣いありがとうございます。私は馬に乗ることにも慣れておりますし、今日はドレスの中にキュロットを履いておりますので、ご心配には及びませんわ」


 内心、驚いてはいる。まさか私までエスコートされるとは思ってもみなかったのだ。そもそも、私は誰かに引いてもらった馬の上でにこにこする性格でもないので、一人で勝手に乗って走らせる心積もりでいた。

 けれど、ノワイエは浮かせていた手をぎゅっと握りしめながら、唇を噛み締める。恨みがましそうに私を見上げたので、嫌な予感がした。


「……ぶ、無礼者め! この俺をノワイエ・ル・ジャルダンと知りながら馬鹿にしているのか!」


 ノワイエは声を尖らせて私を責めた。

 人々の注目が集まり、あたりが水を打ったように静まり返るのがわかる。

 驚いた私は咄嗟に「してません」と答えたが、ノワイエは「口答えをするな!」と詰めるだけだった。

 口答えと言われても、本当に馬鹿にしていない。思ってもみないことで怒鳴りつけられ、私は途方に暮れる。


「あの、いかがされましたか」


 近くにいたアーノルドが、馬の手綱を令嬢に預け、こちらへと近づいてくる。彼の言葉は伺い調子だけれど、立つ位置は私をノワイエから庇うものだったので、仲裁に入ろうとしてくれているのがわかった。


「この女が俺を侮辱したんだ」

「なにか誤解があったのかもしれません」

「あるものか。見ていただろう! 生意気にも、俺の気遣いを断り、挙げ句の果てには馬上から見下ろして……侮辱しているとしか思えない!」

「怒りを収めてください、ノワイエさま。彼女は相手を馬鹿にしたり、口汚く罵るような者では……者では、」


 自信を失くすな。

 アーノルドは思い詰めるように口籠ったけれど、ノワイエが「この女を庇うのか!」と上から被せたので、おそらく誰も気づかなかった。

 そのうち、まだ馬に乗っていなかったオルタンシアが、強張った面持ちで近づいてくる。


「ノワイエ。私も見ていましたよ。アウフムッシェル嬢は貴方に無礼なおこないなどしていないでしょう。なにをそんなに気が立っているのかは知らないけれど、皆さんのいる前でみっともない真似はおよしなさい」

「うるさい、オルタンシア!」ノワイエはさらに声を荒げる。「この女が来たときから、ずっと気に食わなかったんだ。すました顔をしやがって。このことは、お父様に言いつけてやるからな!」


 なんだそれ、ガキくさ……私は途方に暮れ、「どうぞお好きに」という言葉が喉の奥まで出かかったのだけれど、刹那、これは交流会だと脳裏を過ぎった。

 これはラムール貴族とリーベ貴族の交流会。責任感など睫毛ほどしかないものの、私はフェアリッテに口添えしてもらい、使節団の一員として加わったのだ。私が問題を起こすとフェアリッテに迷惑がかかるだろうなとか、悲しむだろうなとか、そういうことをぐるぐる考えて、私は矛を収めることにした。

 馬を下りようとする動作を見せると、アーノルドはその場から立ち退いてくれた。私はアーノルドのいた場所に下り立ち、ノワイエの瞳を見て言う。


「そのようなつもりはありませんでしたが、ノワイエさまの気分を害してしまったなら申し訳ありません。生家ではよく一人で馬を走らせていたもので、気が急いておりました」


 私は胸に手を当て、やや落ち着いた顔を作り、謝辞を述べた。息を一つつくほどの間を置いて、私は愛想よく微笑んだ。


「思えば、ジャルダン家からお借りしている馬でしたのに、許可も得ずに乗ってしまいましたね。この森にあるという川のせせらぎはどれほど美しいのでしょう。ノワイエさまが案内してくださいますか?」


 最優秀評価アインスがついてもおかしくないほどの大人の対応をした。フィデリオや乳母に見せてやりたいくらいの出来栄えだ。小声で「アウフムッシェル嬢はお優しい方なのね」と聞こえてきたので、誰の目から見てもそうだったに違いない。

 しかし、ノワイエはカッと顔を赤くして、深い剣幕を作った。何故。


「っよくも、俺に、恥を掻かせたな」


 そう取るか……。

 さすがに面倒になった私は、表情を作るのを忘れそうになる。奥歯を噛み締めてなんとか耐えようとしたとき——それを勘繰られたのかもしれない——ノワイエがさらに怒声を重ねた。


「第一、女の分際で馬に乗るなど、リーベではどうかは知らないが、嫁の貰い手がなくなるぞ! 仮面でもつけていれば誰も気づかぬものを、よくその不細工な面を晒せたものだな! なにが、なにが川のせせらぎだ、お前のような醜女に誰がかまうものか!」


 方々から息を呑むような悲鳴が聞こえた。令嬢たちは「なんてこと」と顔を赤くしたり青褪めさせたりしている。オルタンシアなど卒倒してしまいそうだった。

 私を庇ってくれたアーノルドも怒った顔で、「あまりにも無礼です。彼女に謝ってください!」と声を張りあげる。

 ややあってから、騒ぎを聞きつけたらしいブーレンビリエ夫人が駆けつけ、ノワイエは邸に戻されて行った。

 一方的に罵倒された私を気遣うようにして、皆が「ノワイエが申し訳ありません」「気に病まれたことでしょう」と声をかけてくる。特にラムールの者は、心の底から私に対して詫びているようだった。

 交流会で、ラムールの、それもジャルダン家の子息が、リーベの令嬢を罵ったというのだから、その緊張ももっともだ。

 私は私で、醜女とは、クシェルですら言ったことはないな、と思った。






「貴女、ついにしでかしたようね」


 夕日の差しこむ談話室で、ガランサシャが私に話しかける。

 この談話室は、リーベの使節団のために用意された部屋で、特に令嬢令息たちの溜まり場になっている。シックな深緑を基調とした部屋で、チクタクと時計の針の音が響く。

 ジャルダン家の森から帰り、室内着のドレスに着替えた私は、談話室のカウチに腰かけ、本を読んでいた。学校から夏休みの課題として出された、ラルス・ベヒトルスハイムの『次世代の機能主義理論』の中巻だ。

 ジギタリウスを連れて談話室に入ってきたと思ったら、いきなりそんなことを言うものだから、私は目を細める。


「なんの話でしょう」

「メイドたちが噂しているのを聞きましたのよ。ノワイエ・ル・ジャルダンが貴女と口論になったと」

「正確には、ノワイエ・ル・ジャルダンがプリマヴィーラ嬢を怒鳴りつけたと」

「何故わざわざ正確さを欠く言いかたをなさるの?」

「貴女がなにかしでかしたから、彼が貴女を怒鳴りつけたのでしょう? ラムールとの交流のための機会だというのに、貴女ったらなにをやっているのかしら」


 それはこちらの台詞だ。初日にやらかしてお茶会にも招待されない無法者はどこのどいつだろう。

 ただ、やや私から離れた席で『次世代の機能主義理論』の下巻を読んでいたアーノルドが、ガランサシャの誤解を解こうとした。


「僕もその場にいたけれど、プリマヴィーラ嬢に咎はありません。あれはあちらが一方的に怒鳴りつけてきたのです。聞くに耐えないほど酷いものでした……女の分際で、醜女が、などと、口汚く罵ったのです」

「醜女と?」ジギタリウスは本気と驚いた顔をして、私を見た。「プリマヴィーラ嬢に対して? 不義の子、身のほど知らず、緑の目をした悪女と散々に罵られながら、その容姿を貶めることはついぞ誰にもできなかった貴女を、言うに事欠いて醜女と?」

「顔だけが取り柄みたいな貴女を?」


 ガランサシャも短く驚く。私は「お二方の言いようも、じゅうぶん聞くに耐えませんが」と睥睨した。この姉弟は本当に姉弟なのだな、とわかるような反応だった。


「きっかけは、些細なことでした。プリマヴィーラ嬢が馬に乗るまでのエスコートを、彼がしようとして、それに気づかずプリマヴィーラ嬢が乗ってしまったのです」

「なるほど。よくあることですね。僕はよくプリマヴィーラ嬢に無視されますよ。ね?」

「さすがに申し訳なかったので、私もその場で彼に謝りました」

「ほらね?」


 へらへらと笑ってアーノルドを見遣るジギタリウスに、アーノルドは「君はもう少し怒っていいと思うが」と返した。 ガランサシャは興味深そうに頷き、「なるほど」とこぼす。


「謝っても時すでに遅く、ノワイエ・ル・ジャルダンは、貴女をのことを、生意気な女だと思ったのでしょうね」

「ただ、メイドの口ぶりからして、プリマヴィーラ嬢には同情的でした。使節団やジャルダン家当主も、ノワイエ・ル・ジャルダンの失態として対応してくださるでしょう」


 そのとき、再び談話室の扉が開き、クシェルが足音を立ててこちらへと近づいてきたかと思えば、睨みつけるように私へ言う。


「ついにしでかしたな」

「…………」


 私は目を瞑って、ため息をついた。ガランサシャは、でしょうとも、と言いたげに肩を竦める。


「お前とノワイエさまが口論になったらしいと聞いた。正確には、お前がノワイエさまに怒鳴りつけられた、とのことだが」

「ですから……何故わざわざ正確さを欠く言いかたをなさるのでしょう」

「お前がなにかしでかしたから、ノワイエさまがお前を怒鳴りつけたのだろう。せっかくの交流会だというのに、ブルーメンブラット辺境伯の顔に泥を塗ったな」


 私の信用のなさには我ながらがっかりだ。

 クシェルの誤解を解くため、アーノルドとジギタリウスは苦笑まじりに事態を説明する。

 話を聞くうちに、クシェルの眉は跳ね、みるみるうちに驚きに満ちた表情を形作る。顎に手を遣り、「醜女だと? ……僕ですら言ったことはないぞ」とこぼした。奇遇だ、私も同じことを思った。

 クシェルは別のチェアに腰かけて、足を組む。


「だがまあ、お前から仕掛けた話でないのなら重畳だ。その程度のこと、お前が問題にしなければ大事には至らないだろう」

「心得ております」私は本へと視線を落とす。「元より騒ぎたてるつもりはありません。むしろ、屋敷中に知れ渡っていることが驚きです」

「あくまでも、互いの良識と共通意識で成り立っている他国交流だからな。せっかく来てもらっているリーベの使者を、ラムールの者が罵ったとあれば、過敏にもなるだろう。幸いだったのは二人とも令嬢と令息だったことか。子供の喧嘩として片づけられるからな」

「これが、私やブルーメンガルテン卿が相手でしたら難しいところでしたし、シックザール小侯爵でしたら運命ファタリテートに祈るしかありませんでした」ガランサシャは続ける。「いきなり両国の火種になるようなことはないものの、禍根を残すことになるでしょうから。リーベとラムールはお互いに潔白でなければならないのです」


 やはり、学び舎を卒業し、まつりごとに関わるようになった者は、物の見かたが違うようだった。アーノルドは少し俯いて、「僕は、ノワイエさまを責めるべきではなかったのだろうか」と呟く。


「それはない」クシェルはしかと告げる。「むしろ、お前が反論しなければ、ノワイエさまが完全に悪者になっていただろう。今よりさらに立場を悪くされる。リーベとしても、ラムールを悪に仕立てあげたいわけじゃない。また、言い返せる程度の関係性があったという見解もできる」


 アーノルドは安堵したように息をこぼす。そのあと、「にしても、」と再び口を開く。


「どうしてノワイエさまはあんなに怒っていたのでしょう。差しだした手に気づかなかったことは、たしかに無礼とも取れますが……そのあとのプリマヴィーラ嬢の対応は悪くなかった。僕から見ても、彼女がその場を丸く収めようとしているのがわかりました」


 たしかに、あれについては私も不思議に思っていた。せっかく空気を重くしないように私も気を配ったのに、ノワイエはそれを無下にした。怒髪冠を衝くように、彼は怒りを深めた。


「純粋に、対応がよすぎたのでしょう」ガランサシャが私のほうを見遣る。「相手はジギィの一つ下でしたかしら。加えて、ラムールの辺境の地にいるとなれば、社交界を渡る機会にも恵まれなかったことでしょう。貴女が社交人として完璧な対応をすれはするほど、対照的に子供っぽく見えてしまうもの。実際に子供ですけれどね。稚拙で未熟な己を自覚し、その羞恥心を、貴女のせいにしているだけよ」


 ガランサシャの説明には説得力があった。

 アーノルドも納得しているようだ。

 私も、“社交人として完璧な対応”と言われては、誇らしい気持ちになってしまう。それを隠すように、内容が頭に入ってこない本の文字を目で追った。

 ガランサシャは膝の上にクッションを置き、寛ぐ様子を見せた。クッションの上に両肘をつき、その手の上に顎を乗せ、「しかし、難儀なものね」とこぼした。


「やはり王都から離れた地方に住んでいると、あんなふうに分別のない対応しかできないのかしら。これだから田舎者って哀れですわね!」

「ボースハイト嬢」

「シシィはすぐにそうやって。辺境の地に住んでいようと、ブルーメンブラット嬢のように社交術に長けた方もいらっしゃるのに」

「ブルーメンブラットは王都にも別荘をお持ちでしょう。王都で開かれるパーティーにも何度か顔を出していたし、地方で開かれるパーティーならば彼女の独壇場でしょう。じゅうぶん社交界に精通していると言えるわ」

「ボースハイト侯爵家も、リーベのあちこちに別荘があるんだったか」

「そもそも、ボースハイトの領地は王都とそう離れてもいませんから、パーティーへ行くことに困ったことはないけれどね。ギュンター侯爵家はいかがでしたかしら」

「ギュンター家は宮廷に仕える歴史が長かったため、むしろ領地に帰ることのほうが少ないですね。今もその名残があり、家や領地の管理を、母や家令が任されることもあります」

「ブルーメンガルテンなどの王領伯家は聞くまでもありませんね」

「王都に住んでいるからな。王都の外に小さな領地をいくつか所有しているものの、家令に任せておける程度だ。むしろ静養や行楽のため、地方に別荘を作る。地方のパーティーにわざわざ参加することは少ないがな」


 侯爵家や王領伯家は王都に邸宅を構えていることが多く、また、裕福なぶん、地方にも邸宅を置いている。そのため、どこで開かれるパーティーにも顔を出すことができるのだ。

 一方、邸宅を構える余裕のない家は、王都のパーティーへ行くのには何日も馬車を走らせる必要がある。自然と社交界に顔を出す機会は減り、貴族としての話術や立ち振る舞いを磨くチャンスも減るのだ。

 アウフムッシェル家とて、一応、王都の近くに別荘はある。王都でパーティーが開かれる際はそこに滞在するものの、私はデビュタントを迎えるまで、その存在を知らなかった。


「そういえば、ブルーメンガルテン卿は、ラムールに来てよろしいの? 卒業してからは婚約の話を持ちかけられることも増えたでしょう。夏は特に社交界の賑わうシーズンですし、お誘いの手紙も多かったのではないですか?」

「断った。大きな仕事を任されるようになる前に、見識を広げたくてな。卒業してからは立てこんでいたため、後発隊としてラムールに訪問することになったが」

「お忙しいんですね」

「王太子妃となる令嬢が決まれば、当然、宮中は慌ただしくなる」

「ブルーメンブラット嬢がベルトラント殿下と婚約を決めたのを皮切りに、僕たちの世代はすっかりそのムードですよ」と苦笑を浮かべるアーノルド。「僕たちも、あと二年で卒業ですからね。婚姻関係の話はこれからも増えてくるのでしょう」


 ジギタリウスはこちらをちらりと見遣った。この男は、私がその手の話に辟易としていたことを、知っているので。

 リーベに帰れば、またそういう話が持ちあがるのだろうか。あるいは、アウフムッシェル夫人が勝手に話を進めていたりして……さしものあの方でも、当人のいないところで話をまとめることはないと信じたい。


「この際、ラムールで婚約相手を探してはいかが? ラムールの女性は皆一様に貞淑で、女性が多いと聞いておりますわ」

「馬鹿なことを」

「異国の地へ遊学に来たのですから、リーベにはない出会いがあってもおかしくはありませんもの。さっきから黙っていらっしゃるけれど、プリマヴィーラ嬢もそう思うでしょう?」


 私に話を振るな。

 ラムールに来てもこの手の話は絶えないのかしらと、私は肩を落とした。






 ラルス・ベヒトルスハイムの『次世代の機能主義理論』が全く読み終えられず、私は落ち着く場所を求め、城を歩き回った。与えられた私室には未だに慣れず、かといって談話室は騒がしく、人気ひとけのある場所だとメイドに気を遣われ、とにかく心休まらなかった。

 できれば人通りの少ない、影のある場所で、座れるところが柔らかければなおいい。見つからなければ庭のほうにでも出るか。

 そのように考えて廊下を歩いていたとき、曲がり角の向こうから話し声が聞こえた。


「——馬に乗るのが苦手でしたら、私がお教えしますよ、オルタンシアさま。私の馬術は学び舎でも評判だったのです」

「そうですか。でしたら、またの機会に皆さんと、」

「おや、おわかりになりませんか? 私と貴女の二人で、時間を共有したいということです」

「……ええと、それは……」


 面倒な気配を察知して、足を止める。曲がり角の向こうの情景が容易く想像できて、私はその場で額に手を遣った。

 小さく息を呑む音が聞こえたと思ったら、か細い「手をお離しください」という声が聞こえた。相手の男がオルタンシアの手でも握ったのだろう。男はオルタンシアとは対照に軽やかな声で囁く。


「ラムールの女性は実に貞潔でいらっしゃる。淑女の手の甲にキスを落とすのは、挨拶となんら変わりませんよ」


 男の口ぶりからするに、リーベの貴族なのだろう。声もまだ若いし、おそらく歳はクシェルと同じがその一つ二つ上。使節団に加わった者の中にはそれくらいの世代の者もいたような気がする。他国まで来てなにを色惚けしているのやら。

 ただ、相手がオルタンシアとあっては、政治的な意味も絡んでくるだろう。ラムールの辺境伯の愛娘との婚姻は、下手にリーベの貴族令嬢と婚姻するよりかは、よっぽど価値がある。婚期の近づいた男が焦り、賭けに出たに違いない。

 うんざりした私は引き返そうとして、しかし、引き返した道には探し求めた環境がなかったことを思い出した。遠回りをして別のルートを辿るよりは、このまま前に進んだほうがよいかもしれない。

 私は渋々足を進めて、目の前に飛びこんできた光景に、早くも後悔した。


「……なにをしてらっしゃるのかしら」


 手を握るどころの話ではなかった。男は、顔を強張らせたオルタンシアの腰に、手を回していた。相手の吐息が触れそうな距離である。歳の離れた相手と関係になることは珍しくないけれど、この絵面はさすがに物騒だ。哀れなオルタンシアは獣に襲われたときのような顔をしている。

 私という通りすがりを見た男は、「いえ」と手を離した。解放されたオルタンシアは両手をぎゅっと握りしめている。


「オルタンシアさまが転びそうになっていたところを支えてさしあげただけですよ。そうでしょう? オルタンシアさま」

「え……ええ」

「お怪我はありませんか?」

「はい。お気になさらず……」


 怯えた様子のオルタンシアは、男と話を合わせる。否定しても後が怖いし、真実を伝えて根掘り葉掘り聞かれても恥ずかしい思いをするだけだから。

 当事者の二人が丸く収めようとしているなら、私も話を合わせるほかないだろう。ただ、このようなことが今後もあっては、また巻きこまれるかもと、私も穏やかではいられない。ラムールの者が相手なら話を合わせるに留めたけれど、リーベの者が相手だったので、釘は刺しておくことにした。


「そうなのですね。安心いたしましたわ。リーベでも、女性の体に触れること、それこそ、手の甲にキスを落とすことさえも容易には許しておりませんから。万が一があったのではないかと驚きました」


 先刻の会話を聞かれていたことを知り、男はわずかにたじろいだ。ただ、私はあくまでも婉曲に伝えたのみ。表立って批判したわけでない。

 男は「肝に銘じておきます」と答える。どちらの意にも取れる玉虫色の返答だった。私も「ええ。そのほうがよろしいかと」と告げた。


「オルタンシアさま。城の中を案内していただいても?」

「えっ?」

「本を読める場所を探していますの。談話室が落ち着かなくて。どこかよい場所を知ってらっしゃるなら、ぜひとも教えていただきたいのですが」


 私がそう言うと、オルタンシアははっとして「もちろんです」と答えた。

 それから、オルタンシアは男に挨拶を交わし、私とその場を離れる。

 歩いてからしばらくして、あたりに男の影がなくなったころ、前を歩いていたオルタンシアは私へと振り返った。


「あの、助けてくださり、ありがとうございました」

「いえ。本を読める場所を探していたのは本当でしたので」

「あの方との話に割りこんでくださったでしょう」

「あんなものはとは言いませんわ。これまでもあんなことを?」

「いえ、少し、断りづらいくらいで……今日が初めてです。私もどうしてよいかわからず、恐ろしかったので、アウフムッシェル嬢が来てくださって、どれだけ心強かったか」

「オルタンシアさまからのお言葉があれば、あの者を出禁にすることはできるでしょう」

「リーベとラムールのあいだに亀裂を作りたいわけではありませんから。そこからどんな確執に発展するかもわかりませんし」オルタンシアは憂うように続ける。「……難しいですね、人と人との交流は」


 私より二つも年下の少女が、社交人として正しくあろうとしている。貴族の責というものだろう。さきほどの男よりもよっぽど立派だった。

 オルタンシアはそのまま城を案内してくれた。ほとんど物置となり、人の寄りつかなくなった部屋があると教えてくれた。実際に通された部屋はたしかに小さかったけれど、思ったよりも物は整理されているため、ちょうどよい広さに感じた。窓辺からは青々とした木々と金色の夕日が差しこみ、そのちょうど足元にはふわふわの絨毯とクッションが敷き詰められている。


「なんだか子供部屋みたい」

「元々は子供部屋でした」とオルタンシアが答える。「私とノワイエが五つになるころまで、この部屋にいたのです。もっと広い部屋で別々にすごすようになり、今はこうして残されています」


 そこでオルタンシアは思い出したようで、「昼間はノワイエが申し訳ありませんでした」と頭を下げた。


「お気になさらず。私も不用意でしたから」

「いえ。アウフムッシェル嬢にはなんの非もありません。まさかノワイエがあんなに怒るなんて……そのせいで、アウフムッシェル嬢にはたいへん失礼なことを」

「オルタンシアさまが心を痛めるようなことではございません」私は微笑んで告げる。「ジャルダン家の森は広く、清々しい空気に満ちていましたね。また馬を走らせに行ってもよろしいでしょうか?」


 私がそう言うと、オルタンシアは感じ入ったように表情を崩し、「もちろんです」と答えた。両手をもじもじと組み合わせて、逡巡、言葉を続ける。


「アウフムッシェル嬢は、素敵な方ですね」

「え?」

「ノワイエの一件も、許しの姿勢を見せることで、不要な波風を立てないよう取り計らってくださいました。それに、さきほど私を助けてくださったときは、丁寧なお言葉を遣いながら、相手を制していました。フェアリッテさまとはまた違う凛々しさで、驚きました……私など、なにもできなかったのに」


 オルタンシアは自信なさげに俯く。飴色の髪がさらりと揺れた。

 ガランサシャの言葉を借りるなら、王都から離れた地方に住んでいると、お粗末な対応しかできない。特に令嬢はデビュタントを迎えるまで、他の貴族の屋敷に一人で遊びに行くことも、社交界に参加することもできない。経験がなければ、社交界で通ずる話術を身につけようがない。

 の私など、社交界に出ることはもちろん、他家の邸に遊びに行くこともなく、それはもう稚拙で未熟な令嬢だった。腹に据えかねることがあれば分別もなく喚き散らし、なんの隠しだてもすることなく相手を罵った。ガランサシャのように家柄と立場を備えていればよかったものを、アウフムッシェル伯爵家に預けられた私生児ともなれば、それはそれは滑稽で、手のつけられない珍獣だった。

 今となっては思い出すだに恥ずかしくなってくる。下手という下手を打ちまくった黒歴史だ。いくらなんでももう少しやりようはあっただろうに。

 私が内心で悶々としているのを知らないオルタンシアは、さらに言葉を続けた。


「私は、思ったままの言葉を伝えることしかできませんから、真面目に取り合ってくださる方でなければ通じないのです。先ほどの方は、困ることも多かったですけれど、きっと害意はないでしょう? けれど、ラムールの夜会では、柔らかな言葉で嫌味を言ってくる方もいて……けれど、私がなにを言い返しても、相手はさらに言いくるめてくるのです」

「ブーレンビリエ夫人は? そういうときのためのシャペロンでしょう」

「もちろん助けてくださいますが、夫人がいなくなると、途端に笑われるのです。いずれ私も一人で立ち向かわなければなりませんし、人の影に隠れてばかりでは、いつまで経ってもみじめなままでしょう?」オルタンシアは私を見上げる。「アウフムッシェル嬢は、どうやって社交界での話術を覚えたのですか?」


 私の手本はフェアリッテだ。敵を作らないための話術はもちろん、微笑みかた、跪礼カーテシーの姿勢から相槌に至るまで、全部彼女を真似た。フェアリッテの話術は敵を作らずにもので、厭味だって難なく躱す。愛想を配ることで口喧嘩を避けるのだ。

 ただ。

 敵を作る前から相手が敵だった場合、つまり、悪意のある相手から喧嘩をふっかけられた場合。みっともなく打ちのめされることのないよう、こちらも迎撃するための作法を学んだ相手は、私の手本となった者は、別にいる。

 彼女は言った——プリマヴィーラ、上手くやらなくてはだめよ。


「……いとも涼しげに、優美に言い返すのが上手な友達がいたのです。私は彼女の話法を真似たにすぎません」


 私はドレスに皺が寄ることも気にせず、絨毯の上のクッションに座りこむ。オルタンシアも私に倣って座りこんだ。互いに身を寄せ、視線を合わせる。まるで秘密の作戦会議みたいに。


「一番容易いのは、相手の揚げ足を取ることでしょうか。言葉尻を捕らえるとよいでしょう。オルタンシアさまは、どのように言われることが多いですか?」

「ええと……干乾びたオレンジのような髪だと」


 辺境伯の令嬢を相手にずいぶんなことを言う。私の亜麻色よりもよっぽど輝かしい飴色だというのに。ただ、厭味にしてはあまりに隙が多く、相手の程度が知れると言うものだ。


「でしたら、こう言い返してやりしょう。“干乾びたオレンジを見たことがあるの? ずいぶんみすぼらしい生活をしてらっしゃるのね”」


 私の言葉に、オルタンシアは楽しげに笑った。小さな肩は小刻みに震えている。スタッカートのついた調子で「ふ、ふふふっ、いいですね」とこぼした。


「他にはなんと言われますか?」

「雨が降ると思ったら私がいたからだとか、カビが生えそうで困るとか」

紫陽花オルタンシアは雨を呼ぶ花と言われていますからね、陰気だと言いたいのでしょう。そう言った者の名前は?」

「ミュゲ」

「まあ、鈴蘭ミュゲ。言い返すには打ってつけではありませんか」私はしたり顔で続ける。「“谷底から声がしますね。もっと大きな声で話してくださらないかしら、上からだと聞こえませんの”」

「谷底?」

「鈴蘭は谷間の百合とも申します。花になぞらえて貶めてくる者がいれば、こちらもそのように言い返してやればよいのです。“底辺に咲く花がぼそぼそしゃべってみっともないわね”、と」


 ついには手を叩いて笑った。オルタンシアは「最高です!」とはしゃいでいる。

 私も得意げになっていたけれど、ややあってからオルタンシアははっとする。


「でも、そこからさらに言い返されてしまうかもしれません」

「たとえば?」

「本当に大きな声で騒がれたり」

「夜会の場で? それこそこちらの思う壺ですわ。周囲は騒ぎ立てた者を、愚かで分別のない者と見なすでしょう。むしろ社交界で爪弾きにされますよ」

「では、ええと……ううん……思いつきませんけれど」


 オルタンシアは困ったように俯く。話術に心得のない者は、なんと言い返されるか想像できない。意地の悪いことを思いつきもしないのだ。腹黒い者のほうが、社交界では生き残れる。

 私は「そうですね、」と考えてみた。


「揚げ足を取られることはあるでしょう。たとえば、耳が遠くなったのかしら、見た目よりもずっと耄碌してらっしゃるのね、なんて」

「あ、そんな感じ! そんなことを言われたら?」

「そのミュゲが自分より年上なら“貴女ほどではありませんが”、季節が夏なら“紫陽花も散りゆくときですから。とっくに散り終えて腐葉となった者もおりますが”、相手が不細工なら簡単ですね。“見た目? どこかの誰かと違って美しいでしょう?”」


 胸に手を置き、芝居がかった調子で言うと、オルタンシアは「そんなこと、アウフムッシェル嬢にしか言えません」と笑った。そんなことはない。ガランサシャなら余裕で言える。

 ただ、オルタンシアの顔色は、先刻よりも輝いていた。その顔で言えば、相手の意表を突くことは容易だろう。必要なのは言葉だけではない。


「なんと返すかも大事ですが、視線や表情も大事です。目も合わせられない臆病者の言葉など、ちっとも怖くありませんから。けれど、闇雲に相手の目を見ればいいというものでもありません。目を合わせる価値もないのだと相手に思わせることもできます。どういう視線で、どういう表情で言えば、相手を折ることができるのか、それを見極め、使い分けることも必要になるでしょう」

「表情ですか」

「ええ。私の友達は、憐れを誘って他人を遣うことにも長けていました。可哀想であることを演じ、欲しい言葉を引き出すのです」私は眇める。「オルタンシアさまなら、その手段もありですね。たとえば、パーティーの主催と話す機会があるなら、そちらもミュゲに失礼なことをされていないか心配だと伝えてみるとか。上手くいけば、主催が事情を汲んで、オルタンシアさまの出席するパーティーにはミュゲを招待しないかもしれません」


 遠回しに伝えることが大事だ。あくまでも自分への被害は二の次で、あなたのことが心配なのだと示す。周りを巻きこめれば強い。これまでのオルタンシアの振る舞いから推察しても、真面目で誠実そうな彼女がそのように言うならと、便宜を図ってくれる者はいるだろう。

 オルタンシアはしみじみと聞き入り、「なるほど」と頷いた。


「社交に長けた方は、そのようになさるのですね」

「誰でも多少はやっているものです。ボースハイト嬢などは白々しいほどですが」

「アウフムッシェル嬢はあの方とも仲がよいのですか? 私はあまり話したことがないので」

「いいえ。けれど、考えかたが少し似ています。彼女のほうがよっぽど苛烈ですけれど」

「やはり、アウフムッシェル嬢にとって、一番仲がよいのは、お話に出てきたそのご友人ですか?」オルタンシアは首を傾げる。「話術を学んだ相手とおっしゃっていましたし、きっととても慕ってらっしゃるのでしょう」


 私は言葉に詰まる。

 彼女は一番の友達だった。なんでも話せる親友だった。大好きだった。裏切られた。次は上手く殺ると言って、去って行った。あの日から一度も会っていない。

 こんなことを言っても、オルタンシアが困るだけだ。私は、詰まった言葉を息として吐きだして、夕日の彼方へと押しやった。


「……ええ」私は認めるように告げる。「しばらく会えてはおりませんが、とても大切な友達でした」


 彼女に裏切られた苦い春に思いを馳せる。

 ねえ、クラウディア。貴女を狂わせて、私を憎ませた、私たちの運命を変えるほどの想いは、いったいどんなものだったのかしら。

 私はそれを知りたいと思っている。

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