第22話 聖女を突いて君が出る

「もう二度としないと誓ったのに……」


 絶望という概念を喉に詰めこんだかのような声でそう呻いたフィデリオは、右手で顔を覆って背を丸めている。それを囲むのはギュンターやパトリツィアなどのフェアリッテ派閥の者だ。彼や彼女らは口々に「驚きました」「素晴らしい心意気です」とフィデリオを褒めたたえている。放課後の人通りの少ない廊下、雨粒や雷光から遠い柱の陰では、そんな彼らの声だけが響いていた。

 先刻の経営学の課題発表後、フィデリオは完全無欠の学年主席であるディアナに、学年末試験での勝負を挑んだ。それを聞いた者はその場で固まり、何事かとなりゆきを見守っていた。返してほしいものがある——そのようにのたまったフィデリオを、はじめ、ディアナは可憐な笑みで迎え討っていた。


「アウフムッシェル卿のおっしゃることがよくわからないのですが、返してほしいものとはなんのことでしょう?」


 当然の反論だ。誰しもがそう思ったはず。まるでディアナが物盗りであるかのような口ぶりに、誰もが混乱していたし、ミットライト派閥の者は不快に思っていたはずだ。けれど、フィデリオの発言に私は思いつくものがあった。そして、その発言だけで悟ることのできる人間はごく少数であり、ディアナはまぎれもなくその一人だ。

 先のディアナの返答に、フィデリオは「ここで口にするのは控えるべきだろうね、お互いのためにも」と冷静に返す。ディアナは安らかに閉口したのち、「勝負というのもおかしな話ですね」と首を傾げた。


「学業を修めることは己の研鑽であり、その努力の結果として成果があるのです」

「もちろん。だから、なにかを賭けようが賭けまいが、やるべきことは変わらないと、俺は考えているよ」フィデリオは臆せず言った。「俺はこれまで己の研鑽として勉学に励んできた。その結果、冬は俺が一番を取り、春には貴女が取った。夏は再び俺が取ろう。その成果として、くだんのものを貴方に望みたいというだけだ」


 フィデリオのその言葉に、ディアナのまとう神聖が怒気を帯びた気がした——表面上は一切の変化がなく、偶像イコンのようにぴくりとも動かなかったけれど、ディアナは絶対に、気分を害していた。

 結局、ディアナはフィデリオの勝負を受けた。

 周囲が湧きたち、二人が教室を出て、そして今、フィデリオは「最悪、本当に最悪」と亡霊のように呟いている。さっきまでの毅然とした態度と打って変わった様子に、彼の背を撫でるフェアリッテは「貴方って不思議なひと」と呆れた。パトリツィアも苦笑まじりだ。しかし、フィデリオの前にいるギュンターは「天晴あっぱれだ!」と快活に笑っており、フェアリッテのルームメイトである三人も「正々堂々とした宣言でしたわ」「あのミットライト嬢に挑むなんて」と感嘆した。特にヴォルケンシュタインは興奮したように拳を握り締めていた。そして、驚くべきことに、この場にはカトリナもいた。家がミットライト派閥ということもあり、居心地が悪そうにパトリツィアの後ろに隠れていたものの、パトリツィアと手を握り合っていたのは見えた。


「秋の中間試問ではあれだけ後悔していたのに、」フェアリッテは目を眇める。「どうしてそんなことをするのかしらね。慎重な貴方がミットライト嬢に勝負を挑むなんて、意外だったわ」

「……事情があるんだよ」フィデリオは顔を上げた。「勝算はないわけではない。謝肉祭が終わっても、ミットライト嬢は休日の奉仕活動をやめていない。勉学に割ける時間は削られているはずだ」

「その条件は、貴方が次席に落ちた春の試験でも同じだったはずでしょう?」

「いや、学期末試験と学年末試験は違う」とギュンター。「学年末試験はより多くの範囲が出題される、一年の総括だ。より時間をかけられる者に有利がある」

「とにかく……口にしたからには、腹を括るしかない。このままただ圧力をかけるだけで終わらせはしないよ。俺が首席を取る」


 その言葉にいっそう周りは色めき立つ。

 彼らの会話を離れたところで聞き取っていた私は、誰にも見つからないうちに、静かにその場から去った。

 フィデリオの真意は知らないが、彼の企んでいることはわかる。まさかとは疑って、でもそれ以外には考えられない。たぶん、おそらく、いやきっとそう——フィデリオは私のフレーゲル・ベアを奪還しようとしている。

 なんとも言えないむず痒い気持ちになって苛々した。どうして彼がそんなことを。取り返してくれるつもりなら受け取ってやろうと思うけれど、こうして期待して、もし違ったら? そんなの私が馬鹿みたいだ。そもそもこんなことに思い悩んでいるのが馬鹿。あの男め、中途半端に期待を持たせて、裏切ったらただじゃおかない。

 不快に唇を歪めて歩きつづけていると、同じく授業を終えたらしい第一学年の生徒が、ちらほらと廊下を歩いていた。その中には見知った顔もあって、面倒だな、と思った私は自然と早足になる。突っ切るように通りすぎようと思ったのに、彼は友人の令嬢や令息に「ごめんね、先に行ってて」と断りを入れて、私の背に声をかけてきた。


「どうしたんですか? プリマヴィーラ嬢。なにかいいことがあったんですか?」

「……腹が立ってるのわからない?」


 ジギタリウスは暢気に首を傾げて、「嬉しい半分、怒り半分ってところでしょう」と言った。私は小さく舌を打つ。ただし、その音は見事に反響し、いやに響いた。それを聞きつけた生徒たちは、私を振り返るなり足早にその場を去っていく。何人かは心配そうにジギタリウスを見ていたけれど、当の本人はにこやかに手を振るだけだった。

 ジギタリウスは私の隣に並び、同じように歩いていく。そして、「そういえば、今日は経営学の課題発表があったんですよね?」と尋ねてきた。


「どうしてそれを知っているのかしら」

「トラウト卿が教えてくれました」ジギタリウスはブルーメンブラット派閥の者の名を平然と口に出した。「課題内容は“隣接する他の領地との諍いとして想定される問題とその解決策”でしたよね? 発表がまとまらないと、トラウト卿は困り果てていましたよ。彼の結果はどうでした?」

「知らないわ。最優秀評価アインス優秀評価ツヴァイでなかったことはたしか」

良評価ドライ可評価フィーアでかまわないと言っていたので、おそらくそのあたりでしょうね。ちなみに、ベルトラント殿下と課題に取り組まれたという、ブルーメンブラット嬢とミットライト嬢はいかがでしたか?」


 課題としての評価で言うのならば、二人はおそらく最優秀評価アインスを獲得しているだろう。ディアナは全てにおいて最優秀評価アインスを落としたことはないし、フェアリッテだって経営学は得意科目だ。ただ、課題発表による評価以上のものが先刻は下されたので、閉口した私は図らずもジギタリウスを無視する形になった。ジギタリウスは私のそっけない態度なんて慣れっこなので、なにも気にせずに言葉を続ける。


「シシィは不服そうでしたよ。自分がそこにいれば絶対に二人に勝てたのに、と」

「最高学年の彼女が出張るなんて興醒めもいいところでしょう」

「どうでしょうね。僕としては、完全無欠のミットライト嬢が負けるところなんて想像できませんから、いい勝負をするんじゃないでしょうか?」


 たしかに、ガランサシャに分があるとはいえ、あのディアナがただただ打ちのめされるだけというのは想像できない。

 けれど、ディアナも所詮は人の子だから、どこにも欠けがないなんてありえないのだ。


「……ジギタリウス。ガランサシャに伝えて」私は告げる。「貴女の言うところの、ミットライト嬢の弱みの一つでも、見られるかもしれないわよ——って」






「それでまさか、春風の清々しい休日に貴女と出かけることになるとは、思ってもみませんでしたわ。プリマヴィーラ嬢」


 馬車の中、向かい合って座るガランサシャは、両手を軽く広げて肩を竦めた。

 彼女の言うとおり春風の清々しい日だ。少し開けた車窓からは爽やかな日和を感じた。空は輝くようなアクアグリーンで、日差しを受けた新緑も負けじと蒼々しい。小気味のよい車輪の音と馬の蹄が響くのも平和そのもので、まさか目の前に政敵である王太子妃候補が腰かけているなどと、夢にも思わない。

 ちなみに、この馬車はガランサシャが手配したもので、ボースハイトの家紋であるロベリアを冠した漆黒の籠を、青毛の馬が牽いている。休日の午後に迎えに遣わせて、そのまま二人で学校を出たのだ。


「それに、貴女の普段着用のドレス姿を初めて見たのだけれど、意外に素朴というか質素というか、地味なのね」


 言い換えれば言い換えるほど悪し様な口ぶりになっていくガランサシャ。

 そこまで扱き下ろされなければならないほど、今日の私の服装は地味ではない。むしろ、あのガランサシャと外出するのだから、立派なものを選んだほうだ。

 春らしいメドウな黄緑のドレスで、デコルテと割れた袖にはレースをあしらっている。裾の広がりは落ち着いており、リボンと真珠で上品に飾りつけているため、大人っぽい仕上がりだ。髪も柔らかなシニヨンにまとめ、真珠仕立ての花飾りのついた帽子トークを被っている。アウフムッシェル夫人が私に買い与えたものの中でもセンスのある組み合わせだった。

 しかし、ガランサシャはもっと派手だった。爛漫の春が如き鮮やかなミモザイエローを基調としたドレスで、彼女のイメージではなかったものの、意外にもしっかり着こなしている。アクセントに至るところで白と黒を取り入れているのが巧妙で、タータンストライプのリボンやドットレースのフリルは遊び心がある。鍔の広い帽子ハットにも黒のパイピングを施されたレースが花のように綻んでいて、職人が一片ひとひらずつ丹精をこめて縫いつけたのが見て取れた。目を引くほどに派手なのに、決して下品ではないセンスが滲んでいる。ガランサシャは王都の流行に敏感だと聞いているし、これがリーベの令嬢にとっての最先端のお洒落なのだろう。

 ガランサシャは扇子を広げ、「私ならそんな格好じゃ恥ずかしくて外に出られませんわ!」と笑う口元を隠した。癪に障ったので「まあ、貴女にこの色は着こなせないでしょうしね」と返してやった。


「あら、おかしなことをおっしゃるのね」ガランサシャは首を傾げる。「色に限って言うのなら、私に着こなせないものも似合わないものもなくってよ。だからかえって困ってしまうのだけれどね。なんでもふさわしいと、服を選ぶのも大変で」


 相変わらず自己愛の強い女だ。しかし、遺憾ながら、その言葉に偽りはないのだろうと思わされた。ガランサシャは私と同じで、深い色合いのものを選んで身につけているイメージがあったのだが、今日のような明るく鮮やかな色でもきちんと着こなしている。似合わせるのが上手いのかもしれない。


「まあ、西海岸の田舎に住まう貴女に、王都の流行りを望むのも、無理難題というものかしら。よろしければ私が見繕ってあげましょうか。貴女に似合うものも、この私はしかと見抜いていてよ?」

「遠慮するわ。自分に似合うものくらい理解しているので」

「貴女はパーティーでも、重たい色彩のものか、その瞳に近しい色調のものを、よく身に纏っていらっしゃるものね。色合わせは悪くないけれど、質感や装飾にもこだわりをもったほうがよいわ。そのドレスも、私なら真珠ではなくダイヤモンドを合わせるでしょうね。そのほうが映えるから」


 他人の服装に難癖をつけるな、と私は顔を顰めた。このドレスには初めから真珠が仕立てられていたので、私がどうにかできるものでもない。おまけに買ったのはアウフムッシェル夫人だ。あのひとのせいで私が扱き下ろされるなんてやってられない。


「ドレスの話はもういいわ」

「あら。私はいつまでだってしたいけれど」

「今日どうして私たちがこのように出かけているのかをもう忘れたのかしら。ミットライト嬢についてよ」

「もちろん存じているわよ。そもそも貴女が私を呼びつけたんじゃないの。いきなりのことだったので、私も驚きましたわ」


 私たちが向かっているのは、王都のはずれにある町の神聖院だ。ディアナは今日の午後、そこで奉仕活動をおこなうらしい。


「ミットライト嬢の弱みを見られるかもしれないとおっしゃるけれど、本当かしらね。つまらない結果になったら、私は王都のブティックで買い物をして帰るから、貴女はご自身で帰りの馬車を見つけてね」


 特別意地悪く言ったつもりもないような清々しい笑顔でガランサシャは言った。

 私はそれを鼻で笑う。この女と時間を共有するのは最悪だけれど、その存在感を利用すべく同伴させているのだから、ここは私が折れてやることにする。


「その前に、意識の擦り合わせをしておきたいのだけれど」私は足を組む。「ボースハイト嬢の考えるとはどういうものでしょう?」


 ガランサシャは扇子を畳み、もう片方の手の平へトントンと叩きつけるようにして手遊んだ。


「そうね。普通ならば、相手の後ろ暗いところでしょうね。叩けば埃が出るのが一番よいわ。あの方がなにかしでかしているわけじゃなくとも、ミットライト家がそうである場合もあるのだし、そういった隙があれば重畳ね。もっとも、ミットライトがそんな隙を迂闊に見せてくれるわけがないし、聖女と名高いミットライト嬢が悪事を働くことも想像できませんが」


 少なくともディアナに限っては、前夜祭でタピスリを台無しにしたという確固たる悪事が存在している。ただし、そのことを洗いざらい吐いてしまうと、私の答案用紙改竄の件も芋蔓式に取り上げられるだろう。政敵であるガランサシャに馬鹿正直に伝えてしまっては一人勝ちさせることになる。そういうわけで、私はこの弱みについては一切話す気がなかった。

 こういった弱みを手札カードとして切れるのが最善だろう。ガランサシャだってそう考えている。けれど、ディアナを相手にそれを目論むのは名実が違えていても無謀というもので、つまるところ、ガランサシャが望むのはそれではないのだ。


「聖女らしからぬ瑕疵でしょう」

「ええ」ガランサシャは頷いた。「あの方はあまりにも神聖視されているから、ただの令嬢として争うには分が悪い。実績だの愛だのを蹴飛ばして、聖女だからという一点のみで、呆気なく選ばれてしまいそうじゃない。けれど、そうやって神聖視されているものは、その期待を裏切れば容易く失墜するものです。彼女を聖女と呼んでいる者にとっては、崇めている分、失望も大きい。私はね、人間ならば誰にでもあるような悪意を、あの方から見つけたいのよ。人並外れたあの方の、人間らしいところが見てみたい」


 私はふっと笑う。

 私もガランサシャと同じ意見だ。

 ディアナ・フォン・ミットライトは完全無欠ではなかった。なんでもできはしなかった。優しくはなかった。誠実ではなかった。聖女ではなく、ただの貴族の娘だった。そういう当たり前のことが、あの女にとっては大きな打撃になる。聖女はブランドなのだ。その信頼が崩れるのは凄まじい痛手である。

 だからこそ、先日の経営学の課題発表は、あの場にいた生徒を惑わせるほどの影響を与えた。神聖で、慈悲深くて、いつでも正しい、心清き聖女が、カミル・エルマン卿の犯した真の間違いを見抜けず、挙げ句、己さえも間違えて、それを他者に指摘されてしまった。誰もがそれに驚愕していたし、特にミットライト派閥の者は、夜空から月が落っこちたかのような、冬に雷鳴が響いたかのような、衝撃的な様子だった。


「あの方のそんなところが神聖院に赴くだけで見られるとでも?」

「簡単ではないでしょうね。でも、彼女はじゅうぶん追い詰められているはずだから、あと少しつつけば襤褸が出るとは思うわ」


 たしかに聖女というブランドは堅牢だ。彼女は生まれたときから、あるいは生まれる前から、運命ファタリテートの化身や生まれ変わりだと言われてきた。ミットライトとシックザールの密約から始まったそのブランディングは、けれどいまや、並外れたディアナの才覚と労力によって賄われている。全科目で学年主席を維持するための日々の勉学と練習、休日は神聖院で奉仕活動、毎秒続く完全無欠の振る舞い。余念も余暇も許されないようなブランド管理である。常に神聖で慈悲深く、いつでも正しい。まるで運命そのもののように、民を憐れみ、世界を導く、清らかにして全知たる乙女。月と純潔の女神ディアナ

 馬鹿げた話だ。その月のように青白い肌の下には、五大侯爵家の一つであるミットライト家の血が通っている。どれだけ浮世離れした見目だったとしても、あくまでも人の身だ。リーベという王国に生まれた、ただの貴族の娘だ。その華奢な体の内にあるのは、感情に脈打つ心臓だ。


「賭けとはいえ、はこちらにある。私に、フェアリッテに、フィデリオに……図らずも追い詰められているのだからね」


 ガランサシャはいるだけでプレッシャーになる。一目見ただけでおくれを取る。刃を交えた途端に一筋縄ではいかないことを思い知る。五大侯爵家という家柄で武装し、悪辣な言葉と振る舞いで相手を傷つけ、貶め、純白な顔で嘲笑うのだ。雪のひとではなく、氷のひととでも呼ぶべきだろう。


「手に負えないほどの圧力で、遥か高みにいる月を地に落とす、と」ガランサシャは扇子の先を顎につける。「……まあ、よいでしょう。私が目をかけてさしあげた貴女がそこまで言うんですもの。一度は信じてあげる。まずは確かめてみなくてはね。話はそれからよ」


 そうして、私たちは神聖院に着いた。

 馬車を下りると石畳で舗装された地面に靴の音が鳴る。王都の外れといっても開けた町で、街中にいきなり建ったようにも見える神聖院も立派なものだった。空を突き刺すような真っ白い尖塔と、フィリアの神殿に見られるような勇壮な円柱が正面に見える。その円柱の並びを抜けると院内へ入る大扉があるのだが、貴族がそこから入ることはまずない。その入口から垂直の角度に位置する別の扉があるのだ。

 私たちと同じように馬車を下りた貴族たちが、日傘を折り畳みながら神聖院へと入っていく。ガランサシャは扇子を口元に当てて「盛況ね」と呟いた。


「謝肉祭も、春の花が蕾から芽吹く日も終えたというのに、敬虔な方々」

「王太子妃を決める日も近いと考えているのでしょう。そういう者は足繫く通っていると聞くわ」

「いまさら祈ったところでどうにもなりませんのにね。あの方々はいったいなにを祈りたいのかしら。国の未来? それとも己の未来?」

「その両方じゃないかしら」

「お祭り気分や慣習で祈られるほうがよっぽどというものだわ」


 貴族だけではない。リーベに住まう民はみんな、次の王太子妃が誰になるのか、注目している。わざわざ市井に下りることの少ない貴族令嬢をお目にかかれることはほとんどなく、あるとするならば、聖女として神聖院に出入りしているディアナくらいのものだ。物珍しさで足を運ぶこともあるだろうし、王太子妃候補を一目拝もうと祈祷に来る者もいるだろう。

 私たちは神聖院に入り、周歩廊を歩いていく。大きな祭壇のある聖障が見えた。一般の信徒席ではなく、階段を上った先にある二階席へと行く。貴族が祈祷をするための場所だ。祭壇が一望できる造りになっていて、いくつかの席を開けながら他の参拝者たちも座っている。

 やがて、祭壇に司祭が立った。少し遅れて、神聖ないでたちをしたディアナが現れる。繊細な刺繍を施した純白の外套ガウンに、黄金に煌めく絹の肩衣ヒューメラルを羽織っている。珍しくその月光色の髪を下ろしており、白金の装飾品と共に、彼女が歩くたびに麗しく揺れた。頭からすっぽりと被った真珠光沢のある半透明のヴェールには、外套ガウンと同じように繊細な刺繡が施されていて、ステンドグラスから降り注ぐ光の下、ディアナの玉容に緻密な影を落としている。

 艶やかな瞼に隠されていた虹彩異色症ヘテロクロミアの瞳が、羽箒のような睫毛の隙間からそっと覗く——その刹那、一般の信徒席から、息を呑む音が響いた。私の隣に座るガランサシャがくつくつと喉を鳴らしたのが聞こえる。ここまで神聖視されているとなると、いっそ笑えてくるのもわかる。運命なんて信じてないくせに、その瞳を見ただけで、過去も未来も見透かされたような気になって、全てはこの聖女の掌の上にあるような気さえしてしまうのだ。馬鹿げていて、馬鹿にできない。

 司祭は聖書を開き、意味があるんだかないんがかわからない言葉をのたまっている。そのあいだも、ディアナは物言わぬ偶像のように、ただ静かに佇んでいた。人々は月の光に魅入られたようにディアナを見つめ、祈りを捧げている。ややあってから、憐れみの賛歌、希望の賛歌、適齢になった者が洗礼を受け、最後にようやっとディアナが口を開く。


「隣人に慈悲を。日々に感謝を。祈れば救われます。信じた道の先に《運命ファタリテート》のご加護がありますように」


 人々は「運命ファタリテートのご加護がありますよう」と言葉を重ねた。

 このような流れを日に何度かやって、別の神聖院でも同じことをして、そうしてディアナの休日は終わるらしい。長いあいだ祈りを捧げて、ディアナがしゃべるのがたった一度きり。本当にただの偶像イコンだ。ディアナ本人が出向くまでもないけれど、わざわざ出向くことに価値があるらしい。

 祭壇の上のディアナが私たちに気づいているとは思えない。できれば直接話しかけて、適当な言いがかりでもつけてやりたいところだ——私もガランサシャもそういうことは得意な性質たちである——けれど、さて、どうしたものかしら。


「行きましょう」


 すると、ガランサシャが立ちあがった。周りを見ると、他の者も席を立っている。


「どこへ」

「貴女、まともに祈祷したことがないの?」


 ない。


「ミットライト嬢のところへよ」

「……“聖女”と対面できるの?」

「貴族の特権とでも言えばよいかしら。それに足る寄付をすれば可能よ。信心深い貴族ならばなおのこと、神聖院へ訪れた都度、じかに話しているはず。ミットライトあるいはシックザールとしても、参拝した貴族が知る相手であることは珍しくもないでしょうし、今後の社交を鑑みて、無下にすることはできませんからね」

「ボースハイトも神聖院に寄付を?」

「王太子妃候補争いが始まってからは。票集めは大事でしょう」


 気づけばディアナも祭壇から姿を消している。

 私はガランサシャに先導されるようにして信徒席から出た。

 黒い絨毯の敷かれた廊下を歩き、金のノブの光る扉を開ければ、先ほどのものよりも小ぶりな聖障のある部屋へと辿り着く。雅やかな天井画に金塗りの祭壇が華美で、貴族専用の部屋だということは一目でわかった。その中にはディアナがいて、周りには似たような祭服を身に纏った枢機卿と、ノイモンド・フォン・シックザールの姿もあった。彼は私たちに気づくなり目を見開かせたものの、小さくお辞儀をした。

 シックザール小侯爵がお辞儀をしたことで、部屋にいた貴族の何人かが私たちに気づく。私よりもガランサシャの姿を見て瞠目した。当然だ。ガランサシャ・フォン・ボースハイトがディアナ・フォン・ミットライトのもとへわざわざ訪れるなんて、なにかよからぬことを企んでいるのではないかと、私だって思う。特にこの神聖院はミットライト側の人間が多くいたため、ぴりっとした鋭い視線が飛んできた。そんなものは一寸も感じないかのように、ガランサシャは扇子を煽いでいる。


「エルマン伯爵夫妻に、ベルナー子爵夫人、奥でミットライト嬢と話してらっしゃるのはグレッシェル伯爵ではありませんか。その後ろで控えているのはコースフェルト家の者ね。皆さま相変わらず篤い信仰心をお持ちだわ」


 敵派閥の人間をよく覚えているものだ。私はなかなか他人の顔と名前が覚えられず、フィデリオから“社交界の爪弾き者にされるぞ”と口うるさくされていた。になってからは覚える努力をしたものの、いまだにパッと出てこない相手は多い。

 私はガランサシャの話を聞き流しながら、ディアナたちの会話に注意を向けた。


「先日のパーティーではありがとうございました。ミットライト嬢が来てくださったおかげで、娘の誕生日は華やかなものになりました」

「改めて、おめでとうございます。グレッシェル嬢のように聡明なお方ならばよい淑女になることでしょう。年が入れ違いになるのは残念ですが、私としても、グレッシェル嬢の入学は楽しみにしております」

「なんと光栄なお言葉でしょう。娘も喜ぶと思います。これまでも家庭教師を見つけてくださったりと、たいへんお世話になりました」

「ギレンセン子爵令嬢も教えるのを楽しんでいらっしゃるようでした。両家は巡り合う運命にあり、私はそこへ導いたまでのこと」

「ギレンセン子爵令嬢といえば、コースフェルト家のカトリナ嬢の家庭教師もしていましたね?」

「たしかそうです。シックザール小侯爵もご存じでしたか」

「コースフェルト卿から伺いました。子を産めないからと離縁され、実家へと戻らされた令嬢だそうですが、刺繍の腕前は素晴らしく、算術も得意だそうですね。一時はコースフェルト家の手伝いもしていたそうですよ」

「なんと! そのように優れた方だったのですね」

「ミットライト嬢の見る目はたしかですな。他者の美点を見抜ける慧眼、誠に恐れ入ります」


 そんな和やかな会話を弾ませていたとき、切羽詰まったような足音が廊下から響いてくる。次の瞬間、勢いよく扉が開き、前髪を乱した紳士が部屋へと入ってきた。足取りは重々しく、表情も暗い。彼はそのまま突き進み、ディアナと話す貴族たちの輪に割って入った。


「ディアナさま。私をお救いください」


 そう吐きだした男の声が震えていたので、奇異なものを避けるように目を逸らしていた者も、一斉にそちらへと振り向いた。

 ただならぬ様子に枢機卿は身を強ばらせ、ディアナを庇うように身を乗り出した者もいたけれど、ディアナが片手をすっと遣ると、すぐに一歩下がった。


「私は金属加工業を営んでおりますが、半年ほど前、とある条例が新たに施行されたことによって、経営が傾いてしまいました。家族や従業員の生活は苦しくなるばかりです。ディアナさま、どうか私たちをお救いください。どうか……」


 男はディアナの足下に縋りつきそうな勢いだった。それだけ経営が苦しいのだろう。ディアナも眉根を寄せて、心を痛めたような顔をしている。

 そんな中、ガランサシャは「ベーテル男爵だわ」と呟いた。


「誰? 聞いたことのない名前だけれど」

「新興貴族ね。ここにいる誰も知らないと思うわ。私もたまたま知っていただけですし」

「ふうん」彼女を褒めるのも癪だけれど、そんな相手すら覚えているなんて、さすがと言う他ない。「なにかご縁でも?」

「あの方の経営が傾いたのは私が原因ですもの」


 ガランサシャは広げた扇子の内側で、耳打ちするように私に告げた。白けた私が顔を顰めるのもかまわずに、ガランサシャは言葉を続ける。


「彼のおっしゃる条例とは、私が提案したものですわ。本来はボースハイトとマイヤーの仲を取り持つためのものでしたけれど。鉱害問題を抱えていたから、マイヤー領に近い鉱山での採掘の時季を限定したのよ。代わりにそれ以外の期間、ボースハイトはマイヤーの農作物を破格で買うことができる。また、ボースハイトは採掘の期間、採れた鉱物の研磨や加工をマイヤーの業者に委託する。マイヤーは割安で買うこともできるので、お互いに利になる提案でした」

「……割りを食っている方がいらっしゃるようだけれど?」

「ええ。織り込み済みですわ」ガランサシャは微笑む。「加工を委託すると言っても相手は選ぶに決まっているでしょう。技術と人員と権威のある加工師にのみ依頼しているの。まだ歴史の浅いところは除外したけれど……それだけなら大した損にはならないでしょうね。しかし、金銀宝石において比肩するところのないボースハイトから箔を押されたと、委託先の加工師は周知され、ボースハイト以外からの案件もそちらへ流れる。ベーテルのような新興事業のいくつかが顧客を失うことになるのは予想できていたことです。だからって、いくつかの新興貴族の未来と、リーベを支える二つの侯爵家の未来、どちらのほうが価値があると思って?」


 つまり、ガランサシャは、ベーテル男爵家のような金属加工事業が傾くことさえも見越したうえで、条例の内容を取り決め、制定にまで取りつけたのだ。その手腕には恐れ入るが、目の前に被害者がいる以上、絶対的に加害者である。


「あら。むしろ対策を取らなかった者が悪いとは思わない? 条例が公布されて実際に施行されるまでには、きちんと猶予を設けたというのに。我が身を憂うならば、救いようがないまでの才覚のなさを嘆かれたほうがよいわね。運で成り上がっただけの無能に巻きこまれて、彼のご家族たちもお可哀想に」


 清々しいまでの悪びれのなさだ。

 一周回って好感を持ててくる。

 そのあいだも、ベーテル男爵は「お願いします、お願いします」と必死に訴えつづけている。次第に擦り切れるような涙声へと変わっていった。

 ディアナは眉を下げたまま、優麗に微笑み、「大丈夫ですよ」と落ち着かせるような声で告げる。


「その辛苦の全てを計り知ることはできませんが、きっと愛おしき隣人のために今日まで耐え忍ばれてきたのでしょうね。そのように心を傷ませないで。貴方の運命には光が差しています。宵闇を歩きながら、今はただ待ちましょう」


 月光が差しこむような声調に、淡い引力を感じる眼差し。ヴェール越しの美顔が眩く、なにを取ってもこの世のものとは思えない風格で、そのように宥められては、急く息も止まろうというもの。

 しかし、ベーテル男爵はそうではなかった。本当に切羽詰まった人間にはそんな言葉など、表情など、無意味である。欲しいのは実利的な救い。真実の救済。ベーテル男爵はぐしゃりと顔を歪めて、「いつまで待てばよいのですか」とこぼした。


「時が来るまで」

「それはいつですか。時が来たら、私の事業は安定するのですか。どうやって。教えてください、ディアナさま。そうすれば私たちは助かりますか」

「控えよ」ディアナに詰め寄るベーテル男爵に、枢機卿の一人が険しい声で言う。「このお方は猊下である。貴殿の経営顧問ではない」

「顧問ではなく聖女としてのディアナさまにお尋ねしているのです!」ついにベーテル男爵は声を張りあげた。「貴女さまの全能で! 未来を見据える瞳で! 救いをください、ディアナさま!」


 身を震わせながらそうのたまうベーテル男爵を、ディアナは微笑を浮かべながら見つめる。琥珀色アンバー青灰色ブルーグレーの瞳を柔和に細めた、清廉で慈愛のある聖女の姿。先日、フェアリッテと対峙したときのような、ぞっとするほどの隙のない笑み。


「珍しいこともあるものね。ミットライト嬢がお困りのようよ」


 すると、ガランサシャが口を開いた。扇子の内側でそう言ったために、ガランサシャの言葉を聞きつけたのは、すぐそばにいた私くらいのものだっただろう。相変わらず周囲の者はディアナの一挙手を見守っているし、シックザール小侯爵と枢機卿はベーテル男爵を警戒している。渦中にいるディアナは完全無欠の笑まいを浮かべたまま。この異様な雰囲気には覚えがある。

 私が「困っている? 彼女が?」と問いかけると、ガランサシャは「ええ」ときっぱり答えた。意外そうに目を瞬かせながらも、その表情にはどこか愉悦があった。


「私、見る目はありますのよ。どうにもならないことを理不尽に言いつけられて、途方に暮れている」


 私は再びディアナを見つめた。

 安らかとも言える表情でベーテル男爵を見つめる様子は、到底困っているようには見えない。むしろ余裕の様子だ。

 しかし、そもそも余裕があるほうがおかしいのだ。目の前にあれだけ哀れな者がいて、眉を顰めることも、目を逸らすことも、唇を硬くすることも、なにもしない。ただ静かにそこにあるる——偶像イコンのように。


「面白いものが見れたものね」ガランサシャは顎を突きだした。「アウフムッシェル嬢のおっしゃっていたことは正しかった。私のに感謝しなくてはね、信じる者は救われるとはまさにこのこと。よろしくてよ。あの聖女が人にまで落ちぶれてくれるのなら、お望みどおり、つついてさしあげますわ」


 ガランサシャが靴音を鳴らして前へと出た。ディアナとベーテル男爵は顔を上げる。大きく扇子を閉じたのち、尊大な態度で腕を組むガランサシャに、二人は目を見開かせていた。


「ミットライト嬢は意地の悪いお方ですのね……私、失望しましたわ! ここまで無様に救いを乞うていらっしゃるのだから、その全能と瞳でこのお方を導いてさしあげればよいのに」


 呆れるように肩を竦めるガランサシャに、ディアナはわずかに目を細めた。しかし、それも一瞬で、すぐに隙のない顔になる。


「ボースハイト嬢も祈祷にいらっしゃったのですか。貴女にそのような信心があったとは、喜ばしいことですね」

「あら、今は私の話をしている場合ではないでしょう? グレッシェル伯爵家やギレンセン子爵家には救いの手を差し伸べてさしあげたのに、ベーテル男爵にはずいぶんと冷たくされているようなので、気になって声をかけましたの。もしかして、ベーテル男爵の寄付金が足りなかったからかしら。もし、グレッシェル伯爵。聖女の手を借りるためにいくら寄付なさったのか、ベーテル男爵に教えてさしあげて?」


 考え得る限りで最悪の台詞だ。どの方位にも満遍なく無礼という点で完成度が高い。ついさっきまで混沌としていたこの空間で、爛漫の悪意が降り注ぐ。ガランサシャの規律により制圧される。

 グレッシェル伯爵は当然機嫌を損ね、険しい眼差しでガランサシャを見つめた。侯爵家の者とはいえ、一介の令嬢が伯爵を侮辱したのだ。グレッシェル伯爵は「令嬢、そのような未熟な憶測で物を言うべきではありませんよ。撤回するならばいまのうちです」と痛烈に批判した。

 しかし、ガランサシャは怯むことなく突っ返す。


「この部屋に入っている時点で、グレッシェル伯爵が神聖院に決して少なくない寄付をしているのは紛れもない事実ではありませんか。私のその認識が未熟な憶測であり、誤解だというのならば、グレッシェル伯爵もお帰りになる出口を誤解していらっしゃるようですわね。ここは大した寄付金も払えない一般庶民の入れる部屋ではありませんの。貴族のふりをした文無しはお帰りいただけますこと?」


 ヒッ、と短く悲鳴を上げたのはベルナー子爵夫人だ。まともな精神を持っている者ならこのような反応をするに違いない。枢機卿やシックザール小侯爵も絶句していた。私ですら目眩がしたほどだ。

 挙げ句の果てに、ガランサシャは「そんなことより、」と言葉を続けた。敵派閥とはいえ、令嬢が伯爵を侮辱したことを、そんなことなんて。この女にはきっと怖いものなんてないのだろう。


「ミットライト嬢はいつまでも黙ってらっしゃるのね。なるほど、沈黙は金と言いますもの。最も襤褸を出さないやりかたをご存知なんだわ。口にせずとも言い習わしの奥深さを教えてくださるなんて、さすがは聖女さま」

「……貴女のようにすぐれたお方がこのように無体を働くのが信じられないのです」ガランサシャは目を細めて告げる。「たしかにボースハイト嬢は誤解してらっしゃるようですね。たしかにここにいる方々は、世のためや他人ひとのためを思い、神聖院に寄付してくださった方々です。しかし、そこに優劣や正否はありません。先のお言葉は皆の善意だけでなく、貴女の名誉にも傷をつけるものですよ」


 ディアナはこの場を収めるための言葉を重ねていく。誰もが頷く正当な言い分だ。


「ええ、優劣や正否はございませんわ」ガランサシャはディアナの言葉に乗る。「なればこそ、やはり私はベーテル男爵を見捨ててはおけませんわ。それが人間というものですから。天下の聖女さまが人の心をお持ちでないようなので、私はそれがとてもつらいのです」

「そのようなことは、」

「この方の運命だとでもおっしゃるの? 未来ある伯爵令嬢には教養を施せても、離縁された石女うまずめには立場を回復する好機を与えられても、新興貴族の事業には手を差し伸べられないのが運命ファタリテートの思し召しだとでも?」


 暴論だ。ガランサシャの言い分はちっとも正当ではない。そもそも、伯爵令嬢に家庭教師を紹介すること、子爵令嬢に仕事を斡旋すること——これらの二つと、新興とはいえ貴族の当主が経営する事業を立て直すことは、到底釣り合わない。後者のほうが圧倒的に難しく、ただの侯爵令嬢の手に負えるものではない。差し伸べた手を掴まれた途端に泥沼に沈みこむような重荷である。

 けれど、ディアナはただの侯爵令嬢ではないから。聖女だから。ベーテル男爵が縋るように手を伸ばしたから。人々は完全無欠の聖女に期待した。

 息を呑むほどの間を置いて、ディアナは緩やかに口を開く。


「いいえ、こんな運命があってよいものですか」ディアナは瞳を引き締める。「私の為すべきことを改めて理解いたしました。いまの私にできることは限られていますが……貴方のような人々を救うために、私は王太子妃になります」


 この場における最善の回答だった。揚げ足を取るようなガランサシャの悪辣な指摘に対して、真っ向から立ち向かい、それでいて聖女の風格を崩さなかった、完全無欠の答えだと思われた。

 私は深く息をつく。嫌になるほど、この女はどこまでも隙がない。どれだけ煽っても、つついても、人々から崇められる聖女として振る舞いつづける。

 あと少しでも待てば誰かしらが拍手を打ちそうだったけれど、そこへガランサシャは皮肉るように言い返す。


「そう。私ならば、補助金制度を利用することをベーテル男爵に勧めるけれどね」


 誰もが呆気に取られたはずだ。ややあってから、ベーテル男爵は「補助金?」と反芻し、ガランサシャを見遣った。ガランサシャはにっこりと微笑んでから告げる。


くだんの条例で皺寄せを受ける事業には、条件次第で支援してくださいますわ。申請すれば従業員の給料くらいは払えるのではないかしら。あとはベーテル男爵の努力次第ではありますが、明日をも知れぬ現状よりは、よっぽどよいのではなくて?」

「そ、それは、本当ですか?」

「もちろんです。条例の改正による不利益については王家から支援をいただける。ベーテル男爵は貴族の学び舎で修業されていないでしょうし、知らぬのも無理はありませんが……これは、きちんと経営学の課題に取り組んでいれば第二学年の春ごろに自ずと知ることになる、さして珍しくもない制度ですのよ」けれど、とガランサシャは目を伏せる。「ミットライト嬢はご存知でなかったのね。道理で、綺麗事ばかりで解決策を提示してくださらないと思いましたわ。意地の悪い方だなんて言ってしまってごめんなさい。私、やはり誤解しておりましたわ」


 私だって聞き馴染みのない制度だ。もしかしたらそんなものあったかもな、くらいの。知識として習得するべきものではなく、ガランサシャの言うとおり、調べているうちに自然と習得するような知識なのだろう。ディアナが知らないのも無理はない。

 わけがない。

 他の誰が聞いたことがなくとも、知らなくとも、覚えていなくとも、ディアナだけは覚えているべきだった。何故ならば、完全無欠の聖女、運命の化身、全能と謳われ崇められる月のひと。その期待を、彼女はその身に背負っている。

 聖女という偶像が崩れる。剥がれ落ちていく。ぎの隙間から、なんでもは知らないしなんでもはできない、完全無欠でない、ただの侯爵令嬢が覗く。幻想が潰えて、我に返る。


「仕方ありませんわね。ミットライト嬢はお忙しい方だもの。大事な学年末試験を前にして、このように大事な休日を返上し、人々のために手を差し伸べていらっしゃるんだもの。しかし、目の前のことを疎かにしては、大事な民を救うことなどできませんね。王太子妃になってから、なんて悠長なことを言うくらいなら、いますぐ勉強に励んだほうがよいのではないかしら。また成績を落としたらどうするの? 落第評価ゼクスにでもなっておしまい、目も当てられませんわ!」


 ガランサシャ以外の音が止む。誰もが押し黙るしかなかった。吹雪ふぶいたわけでも凍ったわけでもなく、しんしんと降り積もって言葉を奪ってしまった。雪のひと。

 永遠に続くかと思われた間を置いて、ディアナは息をついた。真珠色のヴェールが揺れる。ディアナがしかとガランサシャを見つめたときには、清らかな笑みを浮かべて——ただ、琥珀色アンバー青灰色ブルーグレーの瞳だけは、獣のように獰猛に、化け物のように静謐に、怨念のような光で爛々と輝いていた。


「ボースハイト嬢のお言葉、痛み入ります」


 その声は少しだけ擦り切れているように聞こえた。でも、気のせいかもしれなかった。それほどまでに、雄弁な瞳以外は、なにもかもが聖女として欠けがなかった。


「私もまだまだ精進すべきですね。己の未熟さを恥ずかしく思います。ボースハイト嬢のおかげで気づくことができましたわ。私を信じてくださる人々のためにも、よりいっそう己を磨き、習熟に励んでいくと誓います」


 ガランサシャはふっと笑った。畳んでいた扇子を広げ、「それがよくってよ」と答える。

 シックザール小侯爵が枢機卿らに視線を遣る。彼らは正気に返ったように肩を震わせて、その場にいる者たちに終会を告げる。次の祈祷の時間が近づいているからなどと言っていたけれど、その場を取り繕うための方便であることは明白だった。ディアナは幾人かの枢機卿に連れられ、別室へと連れてゆかれる。他の者は追い立てるように人々を帰らせた。

 そんななか、シックザール小侯爵がこちらへと近づく。筆舌に尽くしがたい複雑そうな表情で、「珍しい組み合わせですね」と口を開いた。


「ボースハイト嬢とは先月のパーティー、アウフムッシェル嬢とはディアナの誕生日以来でしょうか」

「まあ。あの方に誕生日なんてあったのね」

「春の花が蕾から芽吹く日です」

「そういえばそうでした。プレゼントの一つでも贈ればよかったかしら」

「いえ。ボースハイト嬢からの贈り物とあっては、ディアナも警戒して、開けようはずがありませんし」


 それもそうね、とガランサシャは言った。

 シックザール小侯爵は私を見遣る。


「……まさかとも思いますが、貴女がボースハイト嬢を連れてきたのですか? こうなることを見越して?」

「私が連れてきましたが、ここまでは見越していませんでした」

「たしかに僕は貴女に協力をお願いしましたが、このような方法はあまりに……」シックザール小侯爵は深く目を瞑る。「ディアナを追い詰めます」


 むしろ、追い詰めるためのガランサシャだ。その遣り口はあまりに悪辣で冷酷で、私がディアナの立場なら金切り声で言い返しているような、いっそ、真っ白い顔が血濡れるまで殴り殺しているような、惨憺たるものだったけれど。あくまでも理性を持ちつづけ、人々の前で聖女に徹したディアナの胆力には、驚愕を通り越して恐怖すら覚える。なにがそこまで彼女を戒めるのか。


「彼女を解放してあげたいとは言いました。しかし、彼女につらい思いをしてほしいわけではありません。心病むことがないように、自由になってほしいのです」

「話に乗りはしました。しかし、私はディアナの味方をしたいわけではありません。彼女がつらい思いをしようが、心を病もうが、知ったことではないわ」


 シックザール小侯爵は頭痛にでも襲われたかのように額に手を遣る。そのまま重く肩を落とすのを見て、ガランサシャは「なにやら面白い約束事をしているようね」と暢気に呟いた。


「もしかして、小侯爵の《調停の祝福》によるものかしら?」

「いいえ。これは僕の個人的なお願いです」シックザール小侯爵は顔を上げる。「ボースハイト嬢、貴女も人が悪いですね。補助金制度は第四学年の冬の履修範囲でしょう」


 その発言に、私はぎょっとした。

 ガランサシャは「あら、そうでしたかしら」と扇子を煽ぐだけだったが、明らかに煙に巻こうとしている態度だ。

 道理で聞いたことがないと思った。予習のレベルを遥かに超える、先の知識ではないか。なにが自ずと知ることになるさして珍しくもない制度だ。あれだけディアナをずたずたに嬲っておいて、散々に煽り立てておいて、なんと卑劣極まりない。

 私が眇めた目でガランサシャを見つめていると、ガランサシャはつんとして言った。


「けれど、貴女だって思ったでしょう? 聖女のくせに上級生の令嬢に言い負かされるような情けない人間なんだ、って」


 そりゃあ思った。

 そうなるように目論んだ私ですら思ったのだから、ディアナを崇めていた者はそれ以上に思ったはずだ。

 見事に瑕疵をつけてみせたガランサシャは、けれど、誇らしい様子もなく、淡々と続ける。


「憐れなひと。誰かよりもたった一つ未熟なだけで、こうも簡単に見放されてしまうのね。私ならば恐ろしくて生きてゆけません」


 取れ高はじゅうぶんにあった。この場にはコースフェルトやエルマンの者もいた。今日の話は学校中に広まり、社交界でも囁かれるだろう。経営学の課題発表のこともあるのだから、ディアナへの聖女としての信頼は地に落ちる。

 強いて言うならば、手負いのディアナがなにかしでかさないかが心配だった。釘を刺しておこうと、私はディアナの連れてゆかれたほうへ行く。

 後ろのガランサシャは「まだなにか?」と呆れ、私たちについてきたシックザール小侯爵は苦い表情でいる。しばらく行くと、いくつかの仕切りの向こうで、あの場にいた枢機卿の声がした。私たちが近づくにつれて、その声は大きくなる。


「困ります、ディアナさま」


 足を止めた。

 たった数枚の仕切りの向こう。窓から差しこんだ光によって、床には幾人かの影が伸びている。その中の一つには、ヴェールの薄さだけ光を通した淡い影があった。ディアナだ。さきほどの言葉は間違いなくディアナに向けられたものだった。


「聖女としての自覚を持っていただかなくては。去年の冬といい、今回といい、貴女さまにがあってはいけないのですよ。信頼と信憑性を失います。どれだけ多くの者が貴女さまを崇め、神聖院に足繁く通い、寄付してくださっているとお思いですか」

「貴女さまは聖女であり、王太子妃になるべきお方なのです。今回はシックザール小侯爵の機転もあり、なんとか収めることができましたが、いつまでもあの方に頼ることはできません」


 虫の羽音のようにか細い、「肝に銘じます」という声が落ちる。それがディアナのものであると、すぐには理解できなかった。


「大丈夫です。貴女さまは、春の花が蕾から芽吹く日に生まれた、運命の化身。過去と未来の両方を見据える目を持つ者。リーベの誇る聖女です。王妃となり、この国の人々を導く運命にあるのです。それさえ忘れなければ万事上手くゆくでしょう」


 シックザール小侯爵が前へ出た。仕切りを超え、彼らのもとへ向かう。

 彼は硬い声で「時間がない。次の準備に取りかかってください」と声をかけた。指示を受けた枢機卿らは、小走りにその場を去っていく。どんどん足音が遠くなっていくのを聞きながら、残された淡い影と、シックザール小侯爵を見ていた。


「……気にしなくていい。ディアナ、君はよくやっている」

「いいえ、ノイモンド。もっと完璧でなくては」

「疲れているだろう。試験勉強に時間を割くのが難しいから、夜更かしだってしているはずだ。顔が窶れているよ、僕にはわかる」

「いいえ、ノイモンド。私は疲れてなどいません」ディアナは続ける。「それよりも、そこにいる二人を出口までご案内してさしあげて。迷子になってしまったようなので」


 私たちがいることにも気づいているらしい。大して驚きはしなかったけれど、いい気分というわけにもいかない。私が口を噤んでいると、ガランサシャはつかつかと靴音を鳴らし、仕切りの奥へ突き進んでいく。私もその後を追い、ディアナを前にした。

 ディアナは青白い顔で微笑んでいた。どれだけ日の光を受けても、頬を緩めても、そこに花咲くような色は乗らない。慈悲をかたどっただけの虚無。ディアナが後生大事にしがみついて離さない、聖女の仮面があった。そんな肩書き、本当は頓着していないくせに。

 ガランサシャは他人事のように「災難でしたわね」と声をかけた。


「今日のことは忘れてなどあげません」ディアナは微笑んだまま告げる。「元よりアウフムッシェル嬢についてはこれ以上黙って見過ごすつもりもありませんでした。私の邪魔ばかりする貴女をいい加減始末しなくてはと、ずっと考えていましたから。フレーゲル・ベアなんて、くだらない。とっとと引き裂いて豚の餌にでもしてしまって、今度は貴女自身を甚振ってさしあげます」


 清廉で透き通った声が紡ぐとは思えない、非情で冷たい台詞。夜闇を従える魔物のようにおぞましく、その双眸はあやかしく研ぎ澄まされているというのに、ディアナはどこまでも笑う。不気味な聖女。そんな肩書き、本当は頓着していないくせに、本当は聖女なんかとは程遠い人間のくせに、どれだけ貶められても、あんなやつらに追い詰められても、目の前の彼女は徹底的な無私を貫き、完全無欠であろうとする。


「貴女はちっとも怒らないのね」


 気づけば、そうこぼしていた。

 それは、経営学の課題発表で、パトリツィアがフェアリッテに問うたときと、少しだけ似ていた。目の前の理解不能を見て、呆然としたときの純粋な疑問。

 私は貴女がつらい目に遭おうが心を病もうが、失望されようが、見放されようが、地に落ちようが、泥沼に沈もうが、王太子妃に選ばれなかろうが、どうでもいい。

 けれど、私なら、金切り声で言い返して、胸倉を引っ掴んで罵倒して、真っ白い顔が血濡れるまで殴り殺して、それでもきっと腹の虫が治まらない。かわいい我が身を切って、差しだして、ここまで尽くしてなお、求められる手が呪わしい。


「怒っていないように見えますか?」

「声を荒げることも、肩で息をすることも、拳を握り締めることもしないから」

「私がみっともなく取り乱したりするわけがないでしょう」


 この世界の真理や法則を説くように、あるいは、言い聞かせるように、ディアナは整然と告げた。

——月は、光を反射して煌々と照るけれど、光の当たらない不可視の部分は、塗りつぶされたような暗闇だ。どこまでも冷たい海が、波音も立たずにそこにある。

 まぼろしい細波が、囁くみたいに響いた。


「私は怒ってはいけないのです。公正さを失うから」


 透き通った嫋やかな声なのに、まるで悲鳴を上げているみたいだ。その響きは一つずつ、鎖のように連なっていく。


「笑っていなくてはいけないのです。慈悲深さの象徴だから」


 それはあくまで先駆けだった。

 上辺だけは綺麗なまま、ディアナは辟易と諳んじる。


「誰にでも心を傾けなくてはだめ、優しく人を許さなくてはだめ、聞き分けよく相手を理解しなくてはだめ、悲しみは分かち合わなくてはだめ、驕ってはだめ、間違ってはだめ、欲張ってはだめ、疲れてはだめ、怪我をしてはだめ、好き嫌いをしてはだめ、あくびやくしゃみをしてはだめ、痒いところを掻いてはだめ、大きな足音を立ててはだめ、全てにおいて一番に秀でていないとだめ、他者を正しい方向へ導かなければだめ、民衆のために祈りを捧げなければだめ、微塵の隙も欠けもない存在でなくてはだめ、いつなんどきでも、どこででも」


 形のよい唇がひくりと引き攣る。最後に吐きだした言葉は、自嘲のリズムだった。


「……でないと、“困ります、ディアナさま”」


 その言葉がどれだけディアナを縛りつけてきたかは、きっとこの場にいる誰もが悟ったはずだ。

 貴族の社交界においては、個人の思惑や感情など、取るに足らない。秤にかけられるのは立場だけ。ディアナに与えられた聖女という立場は、彼女自身の思惑や感情とは関係なしに、その責を負わせる。あらかじめ定められた宿命だった。

 シックザール小侯爵は悲痛な表情で唇を噛む。顰めた眉は悩ましく、震えてすらいた。


「もう聖女になんてならなくていい」シックザール小侯爵はディアナの肩を抱く。「無理に笑わなくたって、嫌なときは嫌って言って、休みたいときは休んで、できないことがあったっていい。ごめんよ、ディアナ。僕が間違ってた。どれだけ難しくても、いますぐにでも君を解放してやるべきだったんだ」


 ディアナは自分の肩を抱く彼の手に自らの手を添えた。石膏のように硬く笑んだまま、色違いの双眸で彼を見上げる。


「もう自由になろう。生まれてからずっと君は縛られてきた。聖女なんて重荷を押しつけられて、次は王妃なんて望まれて……これ以上、他人勝手な人生を歩む必要なんてないんだよ。僕だって、できる限りのことはする。君の力になるよ。だから、もう、王太子妃候補を降りよう」

「いいえ」

「ディアナ」

「いいえ、ノイモンド。私は王太子妃になります」

「なる必要なんてない」

「でないと、困るの」

「ディアナ!」


 頑ななディアナに、シックザール小侯爵は声を張りあげる。

 すると、ディアナは首を振り、はっきりとした声で告げた。


「でないと、私が困るの」


 シックザール小侯爵が目を瞠る。

 その隙に、ディアナは、己の重ねていた手で彼の手を握り、指を絡めた。嫣然と微笑みを深くして、「ねえ、ノイモンド」と囁く。


「私がただ彼らの言いなりだから、ずっと首席を取りつづけて、功績を上げて、聖女として信頼を得て、そんな煩わしいことを続けていると、本気で思っているの?」


 思い出すのは、あの夜の異形。

 一目で竦み上がってしまった、この世のものとは思えない、血も凍るような化け物。

 聖女の皮を突き破って出てきたのは、ただの貴族の娘ではなく、である気がした。


「ミットライトはただの侯爵家。その一人娘に大した力なんてない。聖女だって神聖院の作ったお人形。どれだけ崇められたところでできることは限られてる」ディアナは瞳を見開かせた。「でも、王妃は違う」

「…………」

「その座に就けば、もう誰の言いなりにもならなくていい。無理に笑ったり許したりしなくていい。私のことを聖女扱いした彼らよりも地位があって、無欠であることを求めた彼らよりも偉い。やっと私はなんでもできるようになるの。私になにも与えてくれなかったくせに私を奪いつづけてきた、世界で一番憎い《運命ファタリテート》ですら、意のままにできる」


 ディアナが無垢にそう言ったのを見て、私は確信した——あの夜、月下で、王太子妃になると言い放ったのは、貴女だったのね。

 瞬く間に笑みを落としたディアナは、どろりと顔を歪め、積年の恨み辛みの籠った声で、吐き捨てるように告げる。


「復讐するの。信じる者はみんな滅びる。運命なんて忌々しいもの、この世界から消してやるのよ」


 シックザール小侯爵は息さえ止めたように押し黙る。ガランサシャが呆けたように唇を緩める。散々に聖女として持て囃された娘が、リーベに根づく運命信仰の撲滅を謳ったのだ。冗談を抜きにして戦争になりかねないほどの話だった。

 ディアナが完全無欠でありつづけた理由がやっとわかった。聖女という立場に頓着なんてしない。けれど、その先にある王妃という地位は欲しい。だからディアナは黙って利用されてやることにした。騙して、信用させて、その裏で謀ってやろうとしていたのだ。

 上手くやったものね。

 私は笑った。唇から乾いた笑みが漏れる。そのまま一つ息を落として、やっぱり、声を上げて笑ってしまいそうになる。吊り上がる口角は痛いほどで、愉快で愉快で仕方がなかった。


「へーえ? 運命への復讐?」私は頬に手を遣る。「もし、そんなたいそうなことを貴女が企んでいるって知ったら、支持者どころかミットライト家だって、貴女を候補者から外してしまうかもしれないわね?」


——このときの私の顔は、まるで鬼の首を取った悪魔、沼底へ引きずりこむ水妖、緑の目をした悪女だったと、のちにガランサシャは語る。

 ようやっと見つけたディアナの弱みに、切るべき手札カードに、私の歓喜は止まらなかった。


「……私を脅そうと?」


 あの日の夜に私がディアナに言ったことを、ディアナはそのまま私に返した。

 しかし、私は「いいえ」と答える。

 あのいけすかないクシェルが言っていた。水面下の争いにおいて必要なのは、折衷案を見つけることだと。丸儲けにする必要はないから、大事なものを守り抜けと。

 私は目を細めてディアナへと告げる。


「取引をしましょう。今日までのことを、全て白紙にするのよ。貴女が笑えない私の冗談みたいに」






 《調停の祝福》——ノイモンド・フォン・シックザールが受け取った祝福で、端的に説明すると、絶対の約束事を交わすことができる。

 貴族の名にかけて誓う行為にはそれだけの責が付随するものだが、彼の名の下に取り決められたことは、それ以上の重みがある。交わした約束を強制的に遂行させるのだ。一度決めれば二度と違えられない。誓ったことはどれだけ足掻いても絶対に破れない。

 両者の合意の上で成り立つ、不可侵条約。


「——プリマヴィーラ・アウフムッシェルは、ディアナ・フォン・ミットライトが前夜祭のタピスリを引き裂いたこと、所有物の盗犯を指示したこと、王太子妃を望む理由、これら三点を他者に口外しないと誓いますか」

「誓います」

「ディアナ・フォン・ミットライトは、プリマヴィーラ・アウフムッシェルが冬の学期末試験の答案用紙を改竄したことを他者に口外しないと誓いますか」

「……誓います」

「よろしい。では、ノイモンド・フォン・シックザールの名において、ここに締結する」


 シック小侯爵が《調停の祝福》で取り決めを保証した。これで、私もディアナも、互いの弱みを暴露される心配はなくなった。

 しかし、こうして振り返ると、握っている数で言うならば、私のほうが圧倒的に有利だったはずだ。先手した時点で後手が来るのが決まっているから、お互いに膠着していただけ。ディアナの本懐を知れたからこそ、盤上を動かすことができた。益を得ない代わりに、損を被ることもなくなった。息の詰まるようなカードゲームから、二人揃ってあがったのだ。

 私は清々しい気分でいたけれど、ディアナは不服そのものの顔をしている。と言っても、ほとんど無表情に近い。ディアナの表情筋は笑みに特化しているため、他の表情は下手くそなのだ。このように拗ねているのには理由があって、私が白紙協定を提案した際、「貴女の言うことなど誰が信じるでしょう」と逃れようとしたディアナを、シックザール小侯爵が「なら、僕が後押しするよ」と追い詰めたのだ。そのときのディアナの間抜けな様子と言ったらなかった。聖女を続ける道を選ぶ以上、残念だけれど、その男は貴女の一番の敵よ。

 協定を結んでいるあいだ部屋の外で待機していたガランサシャが、「もういいかしら」と顔を覗かせる。偶然知れたディアナの本懐はともかく、私たちが互いに握っていた弱みを、政敵のガランサシャに知られるわけにはいかなかったのだ。


「ええ。もう済んだから」

「まったく、酷い方たち」ガランサシャはわざとらしくため息をつく。「さぞかし興味深い話があったでしょうに私を除け者にして。そうして二人で楽しんでらっしゃったのね」

「一寸も楽しくありません」

「ボースハイト嬢は協定を結べるだけの材料がありませんが……どうか、今日のことは内密にしていただけませんか? 同じ王太子妃候補のよしみとして」


 シックザール小侯爵は縋るように言ったが、その懇願には無理がある。喉から手が出るほど欲しかったディアナの弱みを、あのガランサシャが見逃すはずがない。

 しかし、ガランサシャは私の予想を反した。否、上回った。


「そもそも吹聴するほどのことでもありませんわ。せっかく王妃になるんだもの。意のままにしてやりたいことの一つや二つはあるものでしょう」ガランサシャはあっけらかんと言う。「運命殺しとは驚きましたけれどね。代わりに教えてさしあげます。私はね、王妃になったら、王領伯を解体して、外戚で固めて、権力をこちらに集中させることで、リーベにおける実質の君主になってしまおうかしらと考えていたのよ。よくある話で面白味に欠けますでしょう。笑えない冗談みたいに」

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