第20話 愛は血よりも濃い

 花冷えの時季になによりも照り映える金髪ブロンド。彼女の瞳には雪にも風にも埋もれぬ花が咲いていた。

 そんなフェアリッテに話しかけられた私は、廊下の真ん中で立ちつくす。呆然とした。私たちに集まる視線にすら気づくのが遅れた。今の空気よりも緊張しているのは私自身だった。久しぶりに見た彼女は、本当に眩しく、美しく、考えておいた暴言を投げようとするのに、動揺してなにも見つからないのだ。

 どうしよう。微笑んでくれるのがあたたかくて、話しかけてくれるのが切なくて、“言うなら今なんじゃ”と思ってしまう。けれど、寸でのところで、「フェアリッテ?」と声がかかる。顔だけで振り向けば、背後にベルトラント殿下がいて、肩越しに見えたフェアリッテの名を呼んだようだった。彼は私と目が合うと、少し驚いたように目を瞠り、ぎこちない態度で「やあ、アウフムッシェル嬢」と挨拶をした。私は我に返った。

 さすがに挨拶をしなければ不敬にあたるので、「ごきげんよう」とだけ言って跪礼カーテシーをする。背中で同じく足を下げる音が聞こえたので、フェアリッテも頭を下げたのだろう。我に返ったとはいえ、のときのようにフェアリッテを詰る気持ちにはなれなかったので、彼女のことは無視をすることにした。一瞥もせず、彼女の横を通りすぎる。


「……待って、ヴィーラ」


 その声も振り払うように足を進めた。大丈夫。たとえ振り返らなくとも、後ろには殿下がいらっしゃる。きっと落胆したフェアリッテを慰めてくれる。

 しかし、予想が外れた。

 こつこつと小走りな足音が近づいてきたかと思えば、フェアリッテが私の隣に並んだのだ。短くなった髪を揺らして、私の隣を歩いている。


「春休みはどうだった?」穏やかな声調で言った。「私はね、補助言語の復習をしていたら、あっという間に終わってしまったわ。新学期からは過去完成形の文法を履修すると聞いて、きっと追いつけなくなると思ったのよ。わからないところはクシェルさまに教わったの。知ってる? クシェルさまはとっても教えるのが上手なのよ」


 平静を装っているが、なにがどうなっているかわからない。どうしてフェアリッテは私に話しかけているの。

 邸に引き籠っていると思えば勉強なんかしていたのとか、補助言語の話は耳が痛くなるからしないでとか、クシェルが私になにかを教えようとしたことがこれまであったと思うかとか、そういう感想が沸々と湧いてきて、けれどどれ一つとして口にはしなかった。

 私は足を止める。フェアリッテもそれに倣うようにして足を止めた。私は殊更ことさらに意地の悪い笑みを湛えて、自分の髪をはらって告げる。


「そういえば貴女、髪を切ったのね? なにかあったの?」


 ひく、とフェアリッテの喉が震える。瞳の花が小さくなるのを私は見た。

 誰がどのように聞いても厭味いやみだとわかるはずだ。それこそクシェルならば、お前のせいだろうと掴みかかってくるくらいの。お願いだからちゃんと傷ついて。私に話しかけようなんて気も起きないほど。突き放すようなことをしているのは私なのに、縋るような気持ちでフェアリッテを見つめる。

 彼女の花が再び膨らんだ。

 淡い唇をゆるりと吊り上げながら、両手の甲で細い顎の線をなぞる。おどけるようなしぐさのあと、白い歯を見せて破願した。


「——似合う?」


 前のめりに返されて、言葉を失う。私は取り繕うこともできず、逃げるようにその場を去った。教室に入ってもなお、彼女の笑顔が頭から離れなかった。

 それからは息もつかせぬ攻防だった。

 授業後の休み時間、移動教室、昼休み、放課後、あらゆる場面でフェアリッテは私を追った。混乱した。のときだってここまで執拗に話しかけられたことはない。その大概はすげなくあしらったり罵ってやったりすれば深追いはしてこなかった。それなのに現状、フェアリッテは折れるどころか、どんどん前向きに私にかまうのだ。これに関しては周囲も唖然としている。私のルームメイトであるパトリツィアやカトリナは“なにが起こっているの”という目をしているし、フェアリッテのルームメイトたちも正気を疑っている。雛鳥のようについてまわるフェアリッテから逃げる私を見て、ギュンターが「笑っていいのか?」とこぼしたところで、得も言われぬ妙な空気ができあがってしまった。なんだこれは、なんなのだ。


「なによこれ、なんなのよ!」


 昼休み、敷地内にある図書館にて、私はフィデリオに詰問した。

 象牙色を基調としたこの建物は、三層のフロアが吹き抜けになっており、その三階の窓の近くの席は、茶色に金粉を塗したような天鵞絨ビロードのカーテンに仕切られていて、どこも半個室になっている。多少、声を荒げたとて、それを聞きつけている者はいないはずだ。

 私が握った拳を真っ白くさせていると、テーブルを挟んで目の前に座るフィデリオが、口元を押さえながら肩を震わせていた。


「……ふ、ククッ」

「なに笑ってるの」

「あはははっ」

「ちょっと!?」

「いや、だって、しょうがないだろ……まさか、フェアリッテがここまで君を追いつめるなんて、思わなくて……っ」


 フィデリオは片方の手で自身を抱きしめるようにして体を折ったかと思えば、「無理、笑いすぎて腹痛い」とこぼした。その声すら震えていて、私は舌を打った。

 正直なところ、フェアリッテのこのおかしな行動は、フィデリオの差し金ではないかと睨んでいる。春休みの明ける前、彼女を侮るなという忠告をされ、その結果がこれなのだ。フィデリオの発言から、一枚や二枚は噛んでいると見ていい。


「いや、俺はなにもしていないよ」私の視線に気づいたフィデリオは、目尻に朱を散らせながら言った。「君の真意も計画も、なにも伝えてはいない。そりゃあ従姉妹だし、春休み中に手紙を交わしたこともあったけれど、彼女は彼女で自分のことに必死だったからね。傷ついているのを慰めたくらいだ」

「だったらなんなのよ、この状況は……」

「言ったろ、彼女は君に引けを取らないような驚くべき女の子だって」

「こんなこと、いままでになかった。前は拒めばそれで終わりだったのに」

「君、まんまと翻弄されてるね」フィデリオは頬杖をつく。「むしろ渡りに船の機会じゃないか。謝れば? 俺も見てられないし、虚勢を張るのやめにしなよ」

「嫌!」


 強く言いきれば言いきるほど、フィデリオは楽しそうに肩を震わせた。フェアリッテの振る舞いにたじろいでいる私はよほどの見物らしい。普段の落ち着きのある態度を崩してみっともないほど笑っている彼は稀だった。

 ちなみに、何故フィデリオと共に図書館に来ているのかというと、私の勉強のためだ。春休み前の学期末試験にて、私の成績はいよいよ下降した。一年次の知識だけでは到底足りないような応用問題や、積み重なる必修科目、補助言語など、二年次の勉強に遅れを取った私を危惧したのが、目の前にいるフィデリオである。乳母やアウフムッシェル夫人なんかよりもよっぽど迫る勢いで「本当に勘弁しろ」「この状況でつけいられるような隙を作るな」「嫁の貰い手もなくなる」と、自分が勉強を見るなどと言いだしたのだ。新学期が始まってからは毎日、この図書館のこの席で、これまでの復習と学年末試験に向けての勉強をおこなっている。

 けれど、フェアリッテのせいで勉強が手につかない。持っていた羽根ペン——去年の誕生日にパトリツィアからもらったリーベカケスの羽根ペンだ。鮮やかな金のペン先がついている——はとっくに投げだされていた。


「本当は嬉しいくせに」


 フィデリオは言った。きっとその蜂蜜色の目で私を見ている。それを真っ向から受けられないのは、不本意にも、彼の言っていることが正しかったからだ。

 心を乱され、煩わしいと思う反面、私は安心している——よかった、フェアリッテには嫌われていない。そんな愚かなことを考えて安堵している。自らの浅ましさには怖気がするものの、一時いっときのような苦い感情は鳴りを潜めていた。だから、虚勢を張るのが苦しいのだ。

 私は「黙って」と言って、テーブルの下でフィデリオの足を蹴った。

 ただ単に嫌われて、嫌っているほうが楽だった。相手のことなど考えなくてよいし、私が思い悩むこともなかった。それなのに、フェアリッテは私を追いかけて、私もそれに安心しているから強くは拒めなくて、それが愚かで厭わしいのに、そんな私に気を許すひともいる。

 悔しいけれど、私はフェアリッテが話しかけてくるのに逃げることしかできないのだ。そんなみっともなくて滑稽な姿を晒しているだけなのに、ギュンターなどは「二人はもう仲直りをしたのか?」と尋ねてきた。あんなことがあったのに仲直りなんてしているわけないだろう、正気か? そう言い返してやりたいのに、彼の背後では同じ選択教養の令嬢や令息がこちらを気にしていて、まさか総意ではあるまいな、と私は愕然とした。


「彼らの知る、プリマヴィーラ・アウフムッシェルは、フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットと仲のよい、腹違いの姉妹だ」フィデリオはなんでもないことのように言う。「見抜く者は見抜くよ。君が本心では彼女を愛していて、後夜祭での出来事もなにか理由があったのではないかってね」


 まあ、俺もここまで都合よく解釈されるとは思わなかったけど。君のこれまでのおこないじゃない?

 言うや否や、フィデリオは「ここ、綴りが間違ってるから」と私の手元を指差した。彼の働き者の指先は次々と私の誤りを見つけていき、私はなにも言い返せずにおとなしく従うしかないのだった。

 私とフェアリッテにまつわる噂が回ると、ボースハイトの姉弟からも声をかけられた。もちろん、表立った接触はなかったけれど、いつかのときのように手紙が入れられていたのだ。呼び出しに応じて瑠璃蝶草ロベリアの間へ向かえば、苦く笑うジギタリウスと、横柄な態度で茶を飲むガランサシャがいた。


「裏切られた気分ですわ」ガランサシャは肩を竦めながら言った。「あの緑の目をした悪女に深い慈悲を与え、手を差し伸べてさしあげたというのに、その手に噛みつかれてしまったんだもの。己の目利きを恥じることになった私のお気持ちを、貴女は一片でも考えたことはあるかしら?」


 あてつけもいいところだ。鬱陶しい。

 ガランサシャとしては、私がフェアリッテと仲を修復しかけているように見えるのかもしれないけれど、真実はそういう話ではないのだ。扱いにくい馬の手綱を握っているような態度を取るのはやめてほしい。


「そういうのはフェアリッテに言って」

「もう言いましたの」

「は?」

「シシィは遠回しを嫌いますからね。こういうことは直接尋ねるんですよ」

「“愛されたいと縋るのはみっともないのではなくて?”とね」


 私に尋ねたより数倍は厭味いやみったらしい、悪意の塊のような台詞だった。

 人のいいフェアリッテなどひとたまりもないだろう。


「そうしたら、なんて返ってきたと思う?」私の答えを待たずして、ガランサシャはフェアリッテを真似るように言った。「“彼女は縋れないと思っているはずだから、私が縋るしかないのです”」

「…………」

「愛されているのね、貴女。そして彼女も、貴女に愛されているという自負がある」


 どうして。間違ってもそのように信じないよう、じゅうぶんに痛めつけたはずだった。これまでの言葉も、時間も、なにもかも嘘であるように振る舞った。けれど、フェアリッテは、私の愛を疑わなかったらしい。そういうところが嫌いだ。生まれたときから愛されていて、愛され慣れていて、だから愛を疑わない。

 私はいつだって信じられないでいる。こんなことをしたらきっと彼女は私を嫌うのだろうなと、そう考えながら生きている。事実、それだけのことを私はした。後夜祭で彼女を傷つけて、踏みつけて、切り刻んで。彼女から憎まれる覚悟で、それだけのことをしたのだ。なのにこれでは目も当てられない。こんなところでも、貴女と私の違いを見せつけられるの?

 その日の昼休み、私一人で勉強をしていた。図書館の三階の隅にあるいつもの場所で、経営学の課題に勤しんでいる。フィデリオは来期からの監督生として推薦されているため、研修のような集まりに参加しなければならないのだ。ちなみに、ディアナとフェアリッテも監督生に推薦されている。監督生という立場も点数稼ぎになるのかもしれない。

 朝の教室でフィデリオから「今日は行けない」と告げられた私は、「一人でもできる」と返していた。実のところ、一人でもできるような課題ではなかったけれど、一人でしなければならない課題なのだ。二年の春の経営学の課題は、“隣接する他の領地との諍いとして想定される問題とその解決策”だ。

 未来の貴族夫人たりえる令嬢の修得すべき経営学は、使用人の人事や予算編成などの家内管理だが、当然、土地運用や政治について全くの不干渉とはいかない。男女一組のペアを決めて、未来の当主たりえる令息が課題の骨組みを作り、それを踏まえたうえで令嬢が計算する。アウフムッシェル領とその隣接領で想定することにしたため、私とフィデリオがペアになるのは当然だった。

 フィデリオの作った骨組みを基に、私はアウフムッシェル家においての予算編成をおこない、解決までの計画表を組み立てる。フィデリオの想定した諍いは“塩害の拡大および漁業の領域問題”というありがちで簡易なものであったが、現実味が溢れるだけに採点は厳しくなるはずだ。おまけに、状況設定と解決策を緻密に計算している。あの男の性分とはいえ、課題における比較対象がこれでは、私も手を抜けない。

 とりあえず、骨組みのとおり、問題解決までの期間として設定された七年という数字で、家内管理に必要な予算を編成していく。三年目に突入したあたりで破産した。出費を抑えるようにして一から編成し直してみると、五年目で破産した。ふざけるな。領土を治めるためとはいえ、事業投資をしすぎている。接待の程度と頻度も抑えろ。帳尻を合わせる私が大変じゃないか。

 私が一人で苛々していると、「調子はどうだ」と声がかかった。足音を聞いたときにはフィデリオが来たのかと思ったけれど、その声の主にはっとして顔を上げる。

 薔薇のような赤髪に、気高い顔立ち。クシェル・フォン・ブルーメンガルテンがそこにいた。驚いて言葉に詰まる私を、彼は静謐な面差しで見下ろしている。そのまま見つめ合っていると、「聞いているのか」と目を細められた。まさか先ほどの言葉は私にかけられたものではあるまいな。


「……変わりなく、至って健康です」

「お前の体調などどうでもいい。課題の話だ」


 私の課題こそ彼にはどうでもいい話ではないのか。

 突然話しかけられて驚いたものの、彼の高慢な態度を浴び、かえって冷静になってきた。私は笑みも作らずに「どのようなご用向きでしょうか」と尋ね返す。

 すると、彼は小さく息をつき、私の目の前の席に腰を下ろした。私の手元を覗いて「経営学か」とこぼす。本当にいったいなんなのだ。私の疑問は表情に出ていたらしく、それを読み取った彼は「フィデリオから頼まれた」と告げた。


「自分はこの時間に勉強を教えてやれないから、その代わりをしてほしい、と」

「……わざわざ引き受けられたのですか?」

「滅多にないあいつの頼みだしな。僕は来期には卒業するし、監督生の業務の引き継ぎもほとんど済ませてある。要するに手が空いていたんだ。お前のためじゃない」


 そう言って、私がまとめた資料の何枚かを勝手に確認した。フィデリオの組み立てた骨組みと見比べながら、「なるほど」と頷いている。

 私のことを嫌い、また私も同様に嫌っているクシェルという男について、唯一信用しているのは、嘘をつかないところだ。それも、相手につかないのではなく、自分につかないというのが、信用に足る点だった。彼が私のためでないというのはおそらく真実だろう。頼まれたから引き受けただけ。

 とするならば、この異様な状況を生みだした原因であるフィデリオを憎まざるを得ない。あの男は本当に碌なことをしない。ちょっと人より優れているからって、余計なお節介をお膳立てる。いくら私の成績が危うかろうが、なにもクシェルを宛がわずともよいのに。

 クシェルは資料の確認ののち、「なるほど、理解できた」とこぼした。


「内容から見るに、課題は例年どおり“隣接する他の領地との諍いとして想定される問題とその解決策”か。フィデリオは粗方済んでいるが、詰めの甘さは残るな。それは改めて本人に伝えるとして、お前のそれは……」クシェルは若干言葉に詰まる。「計算が苦手なのか?」


 何度も苦戦し、羊皮紙を無駄にしただけの計算式。それらを見つけられたことと、婉曲的な物言いで馬鹿にされたことが癪で、口元だけ微笑みながら「ブルーメンガルテン卿。私のことはお気になさらず」と返した。


「塩害の対応事業にかける出費が嵩み、邸の維持費が足りないのか。採算が取れない事業の補填は資産運用で賄うのも一つの策だぞ」

「まあ。ブルーメンガルテン卿ともなれば淑女教育も完璧ですね」

「未熟な自分は淑女でないという自虐か?」


 令嬢でもあるまいし口を挟むなと厭味いやみを言えば、それさえできないお前はなんだと返ってきた。私は微笑みの裏で奥歯を噛み締める。私の皮肉など歯牙にもかけず、クシェルは言葉を続けた。


「提出課題とは別に、学年末試験の対策も忘れるな。リーベ王国の内実と外交に関する知識はもちろんだが、いまの状況なら、絶対に時世問題が出題される……歴代の王妃がおこなった業務、王太子妃候補として名の上がっている三家にまつわる歴史など、あらゆる可能性を視野に入れておいたほうがいい」


 今の状況というのは、ベルトラント殿下の妃候補として雪月花の姫君たちが競う、王太子妃候補争いについてだろう。王家の婚姻にまつわることを試験問題に出すのは、不躾に見えて当然のことだ。社交界に参加している以上、どの家の令息令嬢も当事者であり、時勢を見守る立場にある。ただの傍観者ではいられない。私たちのいる学校は、己の見る目と政治的センスを養う場でもあるのだ。

 クシェルは淡々と、学年末試験に出題されそうな範囲を教科ごとに教えてくれた。私はそれらを聞き流し、時には書き留めていった。一頻り話し終えたのち、クシェルは私の取り組んでいた課題を再び見遣る。令嬢の経営学なんて、令息にはちっとも関係がないのに。無駄に面倒見のいい男だ。

 そういうところに、フェアリッテも懐いているのかもしれない。

 この男にとってフェアリッテを傷つけたという私は不倶戴天であるはずだ。そうでなくとも、彼は常日頃から私のことを嫌っており、対照にフェアリッテをかわいがっていた。このように対話すること、あまつさえ勉強を見てやることなど考えられないし、テーブルに置いてあるインク瓶をぶん投げられてもおかしくはない。

 それなのに、そんなそぶりをちらとも見せないのは、ジギタリウスと同様に、あの夜の私を知っているからだろう。

 最悪。どうしてよりにもよってクシェルなんかに。あんな姿を見られたせいで、きっとこの男にまで生温い目で見られている。この男が表立って私を糾弾してくれないから、フェアリッテだって調子に乗るのだ。もういやだ。なにも上手くいかない。

 突いた頬杖で口元を隠し、私は眉を顰める。そんな私に気づいたクシェルは、姿勢は美しいまま、しかし気怠げな表情で口を開く。


「言っておくが……僕ははなからお前のことなど信じてはいない。ゆえに、期待もしなければ失望もしない。だから、お前がどうなろうが知ったことではない。たとえ成績を落とそうが、身から出た錆で困り果てようが、あってないような評判を地に落としつけようが、お前のしでかしたことにどれほどの理由があろうが、どうでもいい。見苦しいが、見なければ苦にもならん。僕がいつもそうしているように」


 私は視線だけをクシェルに遣った。

 彼は怜悧な瞳を私に向けていた。


「それでも僕がこうしてお前に時間を割くのは、もう一度言うが、絶対にお前のためではない。あの夜のお前を知っていようが知っていまいが引き受けた。勝手に憤慨するな。こんなものは恥にもならない」

「……貴方はもっと私を恨むと思っていました」

「フェアリッテを傷つけたことは遺憾だが、お前を詰る時間が無駄だ。言っただろう、期待もしなければ失望もしない。それに、正妻の娘と妾の娘ならば、多かれ少なかれ、そういうことは往々にしてあると思った」


 私がブルーメンブラットの血など一滴も流れないただの賎民の娘であることを、目の前にいるクシェルは知らない。彼のような立場からしてみれば、後夜祭での出来事とそこから伝播した噂の数々は、信憑性に足るものだった。だからこそ、誰もが私を悪女だと信じた。


「とはいえ、周りがお前を“緑の目をした悪女”と罵ろうが、僕は自分の見たもの、感じたものしか信じない」クシェルは続ける。「お前は辺境伯に捨てられた私生児で、なんの責もなく、だからこそ頭が足りず、考えも足りず、なにもかもが甘い。去年の狩猟祭、ファザーンと真っ向から勝負しようとしたときなんかがそうだな。己の怒りを鎮める方法も、相手の怒りをいなす方法も知らない。無闇に行動して自滅している」一拍置いて。「どうせ、今回も。恨むまでもない」


 なにも知らないくせに、妙に見透かされているような気がして、気持ちが悪かった。見抜く者は見抜くとフィデリオは言った。クシェルも私を見抜いているのか。

 胡乱な目でクシェルを見つめていると、彼は「いいか、」と再び口を開く。


「もっと上手くやれ」

「……なんの話ですか」

「貴族の社交界においては、個人の思惑や感情など、取るに足らない。秤にかけられるのは立場だけだ。そのため、なにをせずとも敵は生まれる。プリマヴィーラ・アウフムッシェルがこの学校に入学する前から、デビュタントを迎える前から、ブルーメンブラットの私生児という理由で侮蔑の標的となった。お前の思惑や感情とは関係なしにだ。となると、自ら余計な敵を作らぬよう、波風立てぬ社交能力が必要になってくる。争いはいつも水面下だ。清らかで静かな水面の下で血は流れている」


 クシェルの言うような波風立てぬ社交能力は、の反省から、二周目いまの私が、フェアリッテをお手本に身につけようとしたものだ。

 フェアリッテが誰からも好かれるのは、徹底して自分から敵を作らないためだ。よく笑い、よく褒め、よく話し、よく聞く。気立てがよく、加えて、家柄や血には一片の瑕疵もない。それをひけらかすことも振りかざすこともしない。彼女から相手に害を及ぼすこともなければ、相手からも害を及ぼされにくいのだ。彼女がそこにいるだけで雰囲気が朗らかになる。常春のきらめきの中の完璧な令嬢。

 そんなフェアリッテとは対照的なのがガランサシャで、彼女は自ら敵を作りにいく。矢面に立って、表立って、容赦なく相手を攻撃して貶める。水面下での争いに慣れている者は、その不作法に当惑し、貶められるしかない。しかし、彼女は誰彼構わず攻撃するような狂犬ではなく、味方にするにも敵にするにも相手を選ぶ。それこそが彼女の社交の手腕だ。畢竟ひっきょう、駆け引きが上手なのだ。五大侯爵家という家柄を武装にも装甲にもする。そのため、彼女の一方的な暴力を戒めることはできず、また、その不作法を貶められない。


「ガランサシャ・フォン・ボースハイトについては、目を瞑れ」クシェルはどこか呆れたように言う。「あれは論外だ。ボースハイト家は全員漏れなく曲者だが、彼女のそれはおよそ令嬢の立ち振る舞いとは言えない。よい方向に捉えるならば、統率者としての資質はあるがな。いっそ、リーベ王妃より、海を隔てた帝国へと嫁いで、皇妃や皇后になったほうがよいのではないかとさえ思う」


 リーベ王妃の座を装飾品アクセサリーのように語ったあの女だ。帝国の皇后の玉座ならば座り心地のいい椅子くらいには思うかもしれない。


「水面下の争いにおいて、必要なのは折衷案を見つけること。無闇に攻撃する必要もやられっぱなしでいる必要もない。ただ妥協をしろ。丸儲けにする必要はないんだ。一番重要なものを手中に収めればいい。そういう意味では、去年の狩猟祭の、ファザーンとの決着については、なかなかいい策だった。お前はお行儀よくこうべを垂れることで、ファザーンにとどめを刺した」


 あのとき、目の前の男はずいぶん楽しそうにしていたっけ。

 思い出したのか、彼はほんの少しだけ口角を上げた。

 結局、なにが言いたいのかわからない。クシェルが私のしたことを一から全部知っているとは思えない。精々、後夜祭で私がフェアリッテを傷つけたことくらいだろう。だから、ディアナとの牽制やガランサシャとの協定のことを言っているのではない。おそらく私とフェアリッテについてだ。

 私は微笑を湛えた。


「……ご高説を賜りありがたいかぎりですが、なにぶん教養のないもので、ブルーメンガルテン卿のおっしゃっていることはよくわかりません。妥協をしろと言われても、私はすでに十年以上も妥協しています。折衷案を見つけられなかったからフェアリッテと離別しました。それだけです」

「教養がないこと、立場が悪いこと、持たざる者であることを笠に着るな。どれだけ重ねようと見苦しいだけだ」

「見なければよいのでは?」

「そうはいかない場合もある。それが今日だ。頼まれたからな」

「フィデリオにですか」

「いいや」クシェルが少しだけ愉快そうにしたのが不思議だった。「でも、都合はよかった。意外なことに、あいつはお前側らしい。ずっとこんなところに匿って、それを誰にも教えなかったんだからな。フェアリッテも苦労していたよ。ただ、僕はお前とフェアリッテなら当然フェアリッテの味方だ。フィデリオのようにお前を甘やかすつもりは毛頭ない」


 クシェルが席を立つ。赤髪を揺らして颯爽と去っていった。彼の意図を察するころには、私は顔を真っ青にしていて、テーブルの上に散らかった荷物を片づけようとした。しかし、そのとき、柔らかな足音が耳朶を打つ。思わず顔を上げると、淡褐色ヘーゼルの花咲く瞳と目が合う。


「ヴィーラ」


 フェアリッテが私を呼ぶ。

 荷物なんて置きっ放しにして去っていればよかったと後悔した。






 なんてことのない罠に引っかかってしまった。そういうことだろう。

 フィデリオから勉強を見てやるように頼まれたクシェルが、フェアリッテに私の居場所を告げ口したのだ。ただ、フェアリッテも監督候補生としての集まりに参加していたため、クシェルが時間稼ぎをしたという状況だろう。道理で、あのクシェルが私を前にして饒舌なわけだ。早く気づいていれば、こんなふうにフェアリッテと対面することもなかったのに。

 フェアリッテはクシェルの座っていた席にいる。私の真正面。顔が見える位置。私はどんな顔をしているのだろう。どう振る舞えばいいのだろう。下手なことを口滑らせる前に逃げだしたい。

 それを見越してか、フェアリッテはテーブルの上にある私の左手に、自分の手を乗せた。そっとと言うには力強く、押さえると言うには心許ない、そんな感触。振りほどいてしまうことだってできたけれど、私は従順に彼女の言葉を待っている。


「騙すようなことをしてしまってごめんなさい。どうしてもヴィーラと話がしたかったの」


 私はしたくなかった。彼女の言葉は柔らかく舞う花びらのようで。その馨しさに触れたくなって、手を伸ばしそうになるから。

 握られていないほうの手をぎゅっと握りしめる。大丈夫。彼女を前にすると私はいつもみじめなのだ。私は彼女のようにはなれない。それを忘れてはいない。私はまだ彼女を憎んでいる。

 努めて笑みを作り、私は首を傾げた。


「私は話なんてないわ。相変わらず自分勝手なのね」

「……そうね、ごめんなさい」

「また貴女の取るに足らない話でも聞かせようっていうの? 時間の無駄だわ。いい加減に鬱陶しいから、もう二度と話しかけてこないで」

「そうね、貴女の言うとおりよ。だから……これで最後にする」


 フェアリッテの言葉に、私は小さく息を呑んだ。

 最後。なんて真っ暗で重い、深い水底のような響き。心臓を落っことしたような衝撃が胸を突く。自分が改めて安心していたのを知った。浮かれていたことが恥ずかしくて、捨てられることが怖くて、口を噤む。

 私がなにも言い返さないことに、フェアリッテは苦く笑った。窓から差しこむ光が彼女の輪郭を綺麗に浮かびあがらせる。眩しくて網膜が焼かれそうだった。


「いつでも話していいのよって、私は貴女を信じているのよって、そういうつもりで話しかけていたんだけれど……それが貴女を困らせているんだってわかったの。クシェルさまが言っていたわ。決意した人間を覆らせるすべは少ない、と。時間をかけても無駄なら、きちんと伝えるしかないのよね。だから貴女にまとわりつくのはこれで最後にするわ。お願いだから、今だけは逃げないで、置いていかないで」


 フェアリッテのどこか切ない表情に、けれど強い眼差しに、私は真っ向から否定する考えを手放すことになる。わかった、と小さな声で告げた。それを聞きつけた彼女は、安心したように目を細める。ややあってから、おもむろに話しはじめた。


「……あのね。まったくなにも考えなかったわけではないのよ。貴女が私を憎んでいるかもだとか、疎ましく思っているかもだとか。お父様は腹違いの娘だと言った貴女の話をまるでなさらないし、お母様は悲しんだり怒ったりするどころかなにかを憐れんでらっしゃるようだったし、私と貴女の関係って、実はもっと複雑なものなのかもしれないと、考えることはあったの」


 それは、常春のきらめきの中の、ほんの小さな翳りであった。

 暢気でお幸せで完璧な彼女が、自らの完璧を疑った。

 言い訳するようにそういうこともあったのだと苦笑しながら吐露した。


「でも、はじめて貴女に会ったとき、こちらこそって貴女が笑ってくれたから、全部きれいさっぱり吹っ飛んじゃった。私は貴女と仲良くなりたかったし、貴女も私と同じ気持ちなんだって思った。私と同じものを愛して、同じだけ愛された女の子……私たちは姉妹なんだってずっと思っていたから、血が繋がってないと言われても、なにか特別なものを分け合っている気がしてた。私たちは同じなんだって思ってた」

「…………」

「でも、違うわよね。違う人間よね」


 同じなわけがない。

 貴女は愛することも愛されることも上手で、私はそのどちらも下手だ。

 その血も、立場も、名前も、運命も、なにからなにまで違う。貴女がフレーゲル・ベアを抱きしめたとき、私はそれを渇望していた。同じものを欲しがって、手に入れられるのが貴女で、手に入れられないのが私だ。

 私はいつだってその事実に打ちのめされている。


「貴女の言葉に私は傷ついたけれど、貴女が私の言葉に傷ついたことがあったかもしれない。私は信じられないだけで、貴女はずっと隠していたのかもしれない。去年の春からわかっていたことだったのに、私と貴女の関係は、本当になんでもないものなんだって。貴女の庭に咲く花が赤くて綺麗に見えるのは、きっと貴女が血を流していたからなのね。その花を愛して手折ったのは私。その棘に傷つけられても文句は言えないわ」


 傷つけたくなんてなかった。

 貴女を上手に愛したかった。

 今すぐ縋りつきたくてしょうがないのに、体は梃子でも動かない。彼女の言うとおり、私は縋ることなんてできはしないのだ。


「……話は、それだけ?」


 やっとの思いで私は言った。喉は震えていたけれど、きっと表情は崩れていない。一年かけて彼女の前で繕ってきたのだ。いまさらなにかを隠すなんて容易かった。

 フェアリッテはなにも言わなかったけれど、言葉を探しているようだった。私がテーブルの上を片づけはじめたからかもしれない。届けたい思いはあるのにそれを上手く伝えられないような、そんなもどかしい表情でいる。

 だけど、これ以上彼女の話を聞いていたら、本当にもうだめだと思った。こんなにもほだされているのに、必死に取り繕っているのに、彼女は結局、なにを伝えたかったのだろうか。

 逃げるように「じゃあね」と告げ、私は席を立つ。天鵞絨ビロードのカーテンをくぐり、階段を下りた。もう勉強なんてする気分になれない。寮に戻って気を落ち着かせたかった。一階まで下りて、人混みを掻き分けていたとき、それは降ってきた。



「——ヴィーラ! 私もよ!」



 降り注ぐ陽光のような声。それは切なくて、けれどまっすぐで、私の胸を穿つ。思わず振り返ると、吹き抜けになった三階の手摺てすりから、フェアリッテが私を見下ろしていた。突然に張り叫んだであろう彼女に、誰もが目を見開かせていた。そんな視線などおかまいなしに、彼女はもう一度私に言う。


「私だって、いつも、想ってるわ!」


 きらきらと金髪ブロンドが輝く。ほんのりと頬を赤らめた彼女が爽やかに笑う。どういうことかわからなくて私は呆けて、ややあってから、悟った。顔に火がついたような心地がする。それを見届けたフェアリッテは「次は貴女から話しかけてね」と告げた。それを聞き終わるよりも先に私は踵を返し、逃げるように駆け出す。

 やられた、やられた、やられた!

 思い出すのは後夜祭を終えた春休み。謹慎中の私をブルーメンブラット辺境伯が尋ねたとき、その帰り際だ。全身の血が湧くように熱い。もうなにもかもが馬鹿らしくて嫌になる。なにが「見送ってくれるか」だ——あの馬車の中に、フェアリッテは乗っていた!

 人気のない場所まで出て、私はその場でしゃがみこむ。地団駄をするほど節操がないわけではないが、あまりの悔しさに何度が地面を殴った。もう片方の手で顔を押さえて、不気味に唸る。どうか誰もここを通りませんように。

 フェアリッテが私の気持ちを悟っているとも知らないで、春休みが明けてからの私の振る舞いの、なんと健気で無様なことか。クシェルが見苦しいというのも頷ける。フィデリオはこのことを知っていたのだろうか、なんとしてでも聞きだして、返答次第ではなんとかしてやりたい。

 フェアリッテは、私の愛を信じて、なにを聞き糺すこともなく、待つことを選んだのだろう。

 血の繋がりなんてない赤の他人で、同じところなんて一つもなくて、ただ、想いあっているからかまわないと。嫌になる。恥ずかしくて悔しくてしかたがないほど嬉しい。私も同じ気持ちだと、貴女を愛していると言われて、無敵になったように幸せだった。いまならなんでもできる気がした。経営学の課題だって。学年末試験だって。完全無欠の月のひとを光の届かない水底に沈めてやることだって。

 きっと本当に、彼女が私に話しかけるのは今日が最後で、たとえすれ違ったとしてもそのまま去るだけなのだろう。私から声をかけるのを静かに待っているつもりなのだろう。だから、全てが片づいて、なんのしがらみもなくなったとき、私から彼女に話しかけたい。

 私の庭の花が赤いのだとしたら、愛を知ったからだと。

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