第10話 策に溺れよ

 フィデリオの部屋は、西海岸の浜辺のような淡黄色と海底に似た紺色の調度品によって彩られている。びっしりと詰まった本棚が白い壁の端から端までを埋めつくしていて、彼の博識の所以ゆえんを感じさせた。そのうちの一冊の背表紙をギュンターが撫でた。部屋の主であるフィデリオへ半身で振り向き、「ルードルフ・アルペンハイムの『社会分業の機能性』? 第三学年の履修内容じゃないか」とこぼす。


「そうなの? よく知っているね、ギュンター」

「内容は知らないが……君はもうこれを習ったのか?」

「家庭教師が面白がって教えるんだよ。そこに並んであるものは粗方教わった」

「……僕の祖父も教育熱心なほうだとは思っていたけれど、ここまでは……」

「王族に仕えていたようなきちんとした方ではないよ。あっちこっちに興味を持って教え子も道連れにするような、滅茶苦茶な先生だったんだ」


 フィデリオは肩を竦め、ギュンターの祖父を気遣うように唱えたけれど、ギュンターは唖然としたままフィデリオを見つめていた。学年次席の秀才を前に、恐れをなしているようにも見えた。しかし、クシェルは毅然とした態度で「僕も去年、学校で習ったが、」と言う。


「経営学の延長のような学問だった。第二学年で手を抜かなければ、そう難しくはないさ。習得の早い遅いは関係ないだろう」

「ブルーメンガルテン卿は、選択教養で馬術を履修されていましたよね?」ギュンターはクシェルへと尋ねる。「第三学年からは、騎射だけでなく騎槍もおこなうと聞きましたが、どのようなものを?」

「武術教養のそれに比べれば、馬術教養の騎槍は大したことない。貴殿の腕前なら、順当にいけば最優秀評価アインスは得られるだろう。極めたいならば、武術の選択をお勧めする」


 金鋲の煌めくソファーに腰掛け、三人の会話を傍観する私。

 目の前のカップを手に取った。テーブルに置かれていたのは花模様のティーポットだったけれど、私の目の前のカップには、紅茶ではなく珈琲コーヒーが注がれていた。わかっているじゃない、と口に含む。

 すると、部屋の扉がノックされる。使用人が「フェアリッテさまがいらっしゃいました」と声をかけた。フィデリオが「どうぞ」と声をかけると扉が開く。若草色の涼しげなドレスを着たフェアリッテが「ごめんなさい、待たせてしまったかしら」と申し訳なさそうに入ってきた。


「いいや。僕もアーノルド卿も、ついさきほど来たところだ」答えたのはクシェルだった。「急な呼びかけだったろうに、みんな、都合が合ってよかった。諸事情あってアウフムッシェル邸に呼ばせてもらったが、集めたのは僕だしな」


 これで揃った、とクシェルは言った。彼に召集をかけられ、今日、アウフムッシェル邸に、私とフィデリオ、フェアリッテ、そしてギュンターが会していた。

 クシェルが一人掛けの席に着くと、それまで立っていたフィデリオやギュンターも対面のソファーに腰掛けた。私の隣には、やや緊張した面持ちのフェアリッテが腰を落ち着かせる。それを見届けたのち、クシェルは再び口を開いた。


「僕がなんのためにここにいる者を集めたかは、全員が察していることと思う」


 もちろん察している。私だけでなくフィデリオも、そしてギュンターも理解している様子だった。フェアリッテも、膝に置いた手をぎゅっと握りしめる。なにを思ったのか、息を潜めるようにして俯いた。

 ここに集まった顔ぶれは、王太子妃候補者争いにおける、所謂いわゆる、ブルーメンブラット派閥の面々だった。

 先の王太子の誕生日パーティーで、王太子妃候補として名が挙がったのが、ボースハイト、ミットライト、そしてブルーメンブラットの三家。今後は、その三家による王太子妃候補争いが繰り広げられることになるだろう。娘が次期王妃となれば政治においての立場も向上するのだから、候補者の家は躍起になって、這い上がろうとしたり、蹴落とそうとしたりする。それはまさにはかりごとのようなものだ。国王陛下や王室に取り入ること、そのために、己の派閥を広げること、あるいは、敵の派閥から引き剥がすこと。そういった熾烈な派閥争いを勝ち抜いた家の令嬢が、王太子妃として選ばれるのだ。

 クシェルは神妙な面持ちで告げた。


「先に言っておく。今回の王太子妃候補争いにおいて、ブルーメンガルテンは中立の立場を取ることになるはずだ。ブルーメンガルテンだけじゃない、他の七家の王領伯すべてが、おそらく中立の立場を取るだろう。僕たちの家は貴族派というよりかは王族派だからな。夏が明けたら、僕も争いには一切干渉しないものと思ってくれ。だから……その前に、伝えるべきことは全て伝えておこうと思う」


 その言葉からも、ブルーメンガルテンの人間であるクシェルがフェアリッテを勝たせようと目論んでいることが読み取れる。普段ならば捨ておくだろう私まで頭数に入れているのだから、彼の熱量は相当のものなのだろう——内心で冷めている私は火傷を負いそうだ。


「王太子妃候補に必要なものは実績だ」クシェルは言い聞かせるように告げた。「功績、成績、なんでもいい。その名声が支持となり勢力となる。わかりやすいところで言うなら学業だな。ちょうど第二学年からは実務的な経営学を修得することになるだろうし。まず第一関門は、第二学年の試験で優秀な成績を収めることだ」


 成績と聞いて、そういえば、と危機感を抱いたのは、むしろ私のほうだった。

 時を遡る前の記憶から、第一学年での試験対策は容易におこなえた。一度受けた試験ということもあり、学年末試験でもまずまずの成績を修めることができた。現在の私の学年順位は優秀と言って差し支えない程度のもので、しかし、それは決して実力ではなかった。第二学年の教養課程など知るよしもない私にとって、ここからが鬼門だ。いきなり成績が落ちればさすがに不審がられるし、この状況では妙な揚げ足だって取られかねない。落ちぶれたなんてわらわれるのは絶対に嫌だった。第一学年の成績を維持するとなると、相当の努力が必要になってくる。

 思い耽る私をよそに、クシェルは話を続けていく。


「王太子妃候補の中でもボースハイト嬢は学年が違うから、明確な序列が出ないぶん、彼女については一旦忘れていいだろう。争うべきは、ミットライト嬢だ」

「……ミットライト嬢か」


 ギュンターが苦々しく呟くと、隣にいるフィデリオも表情を重くさせた。

 二人の様子を訝しんだクシェルが「フィデリオは学年次席だろう? お前がフェアリッテに勉強を教えれば、勝たせられるかと思ったんだが……」と首を傾げる。的外れなクシェルがまぬけで笑いを堪えるのに苦労した。私は口元を覆う両手に失笑を忍ばせて、クシェルへと告げてやる。


「ミットライト嬢が、私たちの学年の首席です」


 クシェルは驚いたように「なに?」と漏らす。

 私の言葉に続いたのは、重く息をついたフィデリオだった。


「第一学年の中間試問から一廉ひとかどの人物だった。以降の試験でも常に一番の成績で、学期末試験では全ての科目で最優秀評価アインスを叩きだした才媛だ」


 もっと言うなら、冬の狩猟祭で最も素晴らしい供物を捧げたのもミットライトだった。ファザーン卿の銀ギツネや私の首輪雉などでは足元にも及ばない、『月輪の子熊』を提出している。狩猟難易度の高さから、誰もが絶賛した品だ。


「なるほど……相当の才女のようだな」クシェルは気高い眉を顰める。「フェアリッテの成績も悪くはないが、その主席に勝つのは至難の業だろう」

「アウフムッシェルはどうだ?」ギュンターはフィデリオを見遣った。「ブルーメンブラット嬢が勝てずとも、次席の君ならば望みがあると思うんだが……君は彼女に勝てるか?」


 当人ではなく派閥単位での勝負に持ちこみたいのだろう。主席だった才女を下したフィデリオが、フェアリッテを応援している。その構図が攻め口になるのではと、ギュンターは提案した。


「正直、無理だと思ってる」しかし、フィデリオは断じた。「彼女の成績はじゃないし、俺はたとえまぐれでも全科目で最優秀評価アインスを獲得する自信なんてないよ」

「……別の手立てを考えよう。なにも成績だけが全てではない」クシェルはそう切り替えた。「ただ、知識は武器になる。学問もそうだが、リーベ王国の内実と外交に関する知識は、いまのうちからつけておくべきだな。学年を縦断することになるだろうから自主学習には限りがあるが……じゅうぶんな教養と指導に長けた上級生を見繕っておく。そこは僕に任せてくれ」

「フェアリッテは刺繍が得意だし、最近は織物も始めたと言っていたね」

「その趣味は強みになる。狩猟祭の前夜祭、後夜祭が腕の見せ所だな」


 三人の会話を聞きながら、私は珈琲コーヒーを啜った。手持無沙汰だった私は、喉を潤したり味わいを楽しんだりするしかなかったのだ。あんまり暇で仕方なかったので視線を落としていると、フェアリッテのカップの中身が全然減っていないことに気がついた。話題の中心ともなればお茶を味わう暇のないのだろうとも思われたけれど、さきほどからフェアリッテは一言も話していない。それが少し不思議だった。


「あとは……夜会での振る舞いにも気をつけたほうがいいな」クシェルはフェアリッテへと尋ねた。「今後、どこかのパーティーに参加する予定はあるか?」

「えっと、そうですね。トラウト子爵家の主催するパーティーへ、父と母の付き添いで」

「トラウトは辺境に近い土地を持ち、かねてよりブルーメンブラットに恩義を感じている家の一つだ。支持固めのための出席だろう。お前も動けるようにしておいたほうがいい。フィデリオ。フェアリッテのエスコートを頼めるか?」

「ああ」

「その日に限らず、今後のパーティーで、フェアリッテが殿下以外の男性と踊るのは避けたほうがいい。僕も含めてだ。フィデリオは従兄弟同士だし問題ないだろうから、今後はフェアリッテのパートナーを務めてくれ」


 今後、フィデリオがフェアリッテのパートナーを務めるとしたら、誰が私をエスコートするのかしら。ずっとフィデリオという身近で手頃な相手がいたから、エスコートの手に不自由はなかったけれど、彼がフェアリッテに伴うなら、これから私は、私の手を取ってくれる相手を探さなくてはならない。

——やっぱり、王太子妃候補争いなんかに巻きこまれては、碌なことにならないな。

 そんな私の心情を悟ったわけでもあるまいに、ギュンターは「その間のアウフムッシェル嬢のエスコートには僕が名乗りを上げても?」と私の顔を覗きこんだ。すぐさま私は取り繕って「喜んで」と微笑み返す。

 結局、「支持を固めるため、各々、招待を受けたパーティーには積極的に参加するように」ということでまとめ、話は終わった。私とフィデリオは邸を出るフェアリッテたちを見送り、互いに部屋へと戻ることにした。


「トラウト子爵家のパーティーの招待状は、アウフムッシェルにも届いている。君もパーティーへ参加するといい」部屋に戻る途中、フィデリオは私に言った。「トラウト子爵家以外の家も、多く参加するはずだ。俺たちには、当主の考えを覆すだけの力はないが、その令息令嬢と接触することくらいはできる。俺たちのすべきことは、ひずみを作ることだ……たとえブルーメンブラットを支持しない家の令息令嬢であっても、多少なりともこちら側へついておいてもらえれば、相手が一枚岩となるのを防げるからね」


 階段を上りながら、フィデリオの話をぼんやりと聞く。踊り場の窓から差しこむ光。手すりをするすると撫でていく手の音。一つ一つ段差を下りては鳴る踵。自然と身に染みこんでいくそれらを感じていると、先を行くフィデリオが「ねえ、」と私を振り返った。私は「なによ」と視線を遣る。彼の甘い瞳が薄く細められているのが見えた。


「俺の話、聞いてる?」

「聞いてるわよ、なに、返事が欲しかったの?」

「相槌は対話の基本だよ。クシェルたちと話しているときも君は上の空だった。そんな調子だと、パーティーに出席しても、かえって敵を作るだけだ」

「打つべき場所では打つわ。すべき相手にもそうする。けれど、私たちがなにもせずとも、なにをしようとも、ベルトラント殿下はフェアリッテを選ぶと思うわ」私はフィデリオに眇める。「貴方も知っているでしょう?」


 私は暗に時を遡る前のことをほのめかした。

 フィデリオは《懺悔の祝福》を用いて、自身と私の時を遡らせた。当時の記憶——フェアリッテが殿下と正式な婚約を結んだのを、私と彼だけが知っている。


「周りがどれだけ騒ごうと結果は同じよ。あのときと一緒。フェアリッテはきっと王太子妃になるわ」

「どうだろう……」フィデリオは腕を組んで言葉を続ける。「において、フェアリッテと殿下が親しくなったのは、君のせい、いや、君のおかげだ。君がフェアリッテを傷つけ、それを殿下が慰めたことで、二人の仲が深まった。君という障害が、あの二人の愛を育んだんだよ」

「まあ、自覚はあるわ」

「なら結構。しかし、今回はそれがない。君とフェアリッテの仲は至って良好だ。フェアリッテと殿下の関係も、友人の域を出ない……まあ、他の令嬢たちと比べれば、少しは親しいんだろうな、とは感じるけれど」


 たしかに、去年のデビュタントではフェアリッテは殿下と踊ったものの、シャンパンを浴びたせいで退場せざるを得ず、ラストダンスを共にはしていない。狩猟祭でも同じ班で行動していたが、あれはクシェルの付き添いという形だ。時を遡る前と比べると、フェアリッテと殿下の関わりは希薄だった。そもそも、いまのフェアリッテと殿下が互いを好いているのかもわからない。


「正直に言うけど、」私は白状する。「どうでもいいわ」

「……君ねえ」

「ブルーメンブラットから王妃が出ようと、それを他の家に掠め取られようと、私にはなんの関係もないんだもの。なるようになるでしょうよ」

「過去にあれだけフェアリッテと殿下の婚約をやっかんでた君がそれを言う?」

「彼女が幸せになるのが嫌だっただけで、いまは本当にどうでもいいわ」

「そこは彼女の幸せを願うべきだろう」

「邪魔はしない、ましてや殺したりなんてしない。けれど、助けてあげようとも思わないわ。助ける謂れがないんだもの。なんの関係もない争いに巻きこまれるなんてまっぴらごめん」


 フィデリオは目を回して呆れた。彼のその態度が癪に障った私はいっそう決意を固めたのだが、彼はふっと俯いて、「君は、」と口を開く。


「春の蝶の月の事件で、ベルトラント殿下に問われて、愛に懸けてと、誓ったようだけれど、」

「…………」

「君はそれほどフェアリッテを愛してはいないんだろう?」


 私は目を細め、うっそりと首を傾げた。

 フィデリオはもう一つため息をついて、歩みを再開した。






 私が本当にフェアリッテを殺そうとしていたことは、実のところ、クラウディアしか知らない。春の一件は殿下とブルーメンブラットの力で有耶無耶となったし、私の処遇に関してもなにも問われなかった。唯一、時を遡る前の記憶を持つフィデリオも、溺死刑に処されたことを境に私が改心した、という認識でいるらしかった。その日、その直前まで、私が彼女を殺そうとしていたことを、彼は知るよしもないのだ。そんな大事なことを彼なんかに知らせるつもりはもちろんなかったし、それは、私が真に信頼したのはクラウディアだけだということの証でもあるのだけれど——つまるところ、いまの周囲の私の人物像は、この一年間、私が取り繕いつづけたプリマヴィーラ・アウフムッシェルそのものだということだ。

 プリマヴィーラ・アウフムッシェル。

 ブルーメンブラット辺境伯の私生児。

 異母姉妹であるフェアリッテと仲がよく、品行方正で成績も良好、ゴシップはあれど誠実な振る舞いをしつづけた——社交界に消費され、利用されてしまうような、非力で哀れな娘。

 きっと私はそのように、周囲の目には映っていることだろう。


「——ブルーメンブラット嬢、お久しぶりですね」

「終業式以来かしら、お元気そうでなによりですわ」フェアリッテは歓待したトラウト卿とその両親に挨拶をする。「お初にお目にかかります。フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットです。こちらは従兄弟のフィデリオです」

「フィデリオ・アウフムッシェルです。お招きいただきありがとうございます、トラウト子爵」


 ブルーメンブラット辺境伯やフェアリッテに付き添うフィデリオも、愛想のいい笑みで告げた。二人に恭しく礼をされ、たいへん喜ばしそうにしたトラウト一家は、ブルメーンブラット辺境伯に「素敵なお嬢さんですね」と話しかけた。掴みは上々。上手くゆけば、このままトラウトはブルーメンブラットを支持するはずだ——このトラウト子爵家のパーティーでは、よい収穫を得られるに違いない。

 その様子を遠巻きに眺めながら、私はリヒト・シャンパインに口をつけた。

 私の隣に侍るギュンターは「今日のブルーメンブラット嬢は、まさにだな」と呟いた。

 蜂蜜のように蕩ける金髪ブロンドは一つに結いあげられ、ほっそりと清々しい首筋や肩を惜しげもなく晒している。薄紫のふわふわとしたドレスは大輪の花をそのまま穿いたよう。鳴らす靴まで淑やかで可憐で、この場で一番かぐわしかった。

 たしかにあのドレスは上等だ。そして、彼女によく似合っている。淡い色味の似合わない私が着ても、あのようには着こなせないはず。

 私が「そうね」と返すと、ギュンターは「しかし、」と私を見下ろした。


「君も綺麗だよ、アウフムッシェル嬢。そのドレス、よく似合っている。君は自分に似合いのものを見つけるのが上手なんだね」


 今晩の私が着ているのは、濡れるような黒のドレスだ。首元から肩口、袖までを肌の透けるレースで覆い、胸開きになった前見頃からは繻子織サテンが広がっている。私の亜麻色の髪に映えるヘッドドレスも同じく黒だ。そのドレスに負けないよう、施した化粧も深い色のものを選んだ。紅く差した唇で弧を描く。

 フェアリッテので褒められても全然嬉しくないわ。

 このあとマナーとして彼を褒め返さなくちゃいけないのも嫌。

 ギュンターは髪を撫でつけ、深い赤に銀装飾の施した装いでいた。右肩から胸にかけての飾緒には、ギュンターの家紋である双頭の鷲の印章インタリオ。侯爵家の令息として不足のないいでたちだった。

 あくまでもその格好だけを讃えるように、「アーノルド卿も今日は華やかですね」と私は返した。しかし、それに満足してくれたらしいギュンターは「そうだろう、この印章は、」と聞いてもいないことをしゃべりはじめた。聞く気もなかったので、私は「ところで、」と話をすり替える。


「ギュンター侯爵はいらっしゃらないのですね」

「父や母は招待を受けていないからな。そもそもトラウト子爵は父に招待状を送れるような身分でもないし」

「ですが、あれは、」私は一瞥する。「ボースハイト侯爵家でしょう?」


 今日のトラウト子爵家のパーティーには、ボースハイト伯爵家も招かれていたのだ。私の一瞥した先には、相も変わらず豪奢なドレスで笑う、ガランサシャ・フォン・ボースハイトもいた。ボースハイトが招かれていてギュンターが招かれていないのでは道理に合わないのでは、と濁せば、ギュンターは「ああ、」と返した。


「ボースハイトやミットライトはむしろ招かざるを得なかったのだろう。いまトラウトがブルーメンブラットのみを招けば、自分たちが誰を支持しているかが明らかになってしまうからな。どっちつかずの態度でいれば、不利になったときにいつでも寝返ることができる。多くの子爵家はそういう考えのはずだ」

「ミットライトの姿が見えないのは?」

「断ったのかもしれない。下位の貴族をかまうより、上位の貴族を丸めこむほうが、直接的な支援を得られる」

「それはボースハイトも同じなのでは? これまでの関係上、トラウトがブルーメンブラットにつくのは道理ですし、わざわざ出席する意味がわかりません」

「それは……」

「——ごめんなさい! 今日、私は誰とも踊らないと決めていますの!」


 ギュンターがなにか言おうとしたとき、どこか高慢な声が響いた。

 ガランサシャ・フォン・ボースハイトだった。

 彼女は目の前にいた男性の誘いを断ったようだった。それにしてはわざとらしく、誰かに聞かせるようにして発したような、大きな声だ。彼女はプラム色の婀娜あだっぽい唇で「だって、」と言葉を続ける。


「私は殿下と並ばせていただく身ですもの。たとえ家門の者や親しい方であっても、殿下以外の方の手を取るなんて、私にはとてもできませんわ!」


 それが、従兄弟のフィデリオと参じたフェアリッテをなじるものであると、わからない者はいなかった。

 フェアリッテを責めるように声を張りあげる彼女は、次の瞬間にはなんでもない話に笑っていた。フェアリッテは相変わらずトラウト伯爵家と歓談している。けれど、さきほどの台詞が耳に入らなかったわけがない。

 ギュンターは肩を竦め、「……そういうことだ」と漏らした。

 私は「なるほどね」と苦笑をこぼす。


「雪のひとはその名にふさわしく冷酷だ。君も知っているだろうが」

「そうですね……彼女には、私も、痛い目に遭わされたから」私はリヒト・シャンパインのグラスをギュンターに見せつける。「もうぶちまけたりなんてしませんけれど」

「さすがに疑ってないさ。前の一件も、たしかに君は平静を欠いていたが、根本的にボースハイト嬢が悪かったわけだし。でも……あのときの君はわりと本当に怖くて、子供のころに見た悪夢みたいだった、魔物じみていた」

「まあ酷い」


 私はくすくすと笑ったが、ギュンターは「いや、本当に」と苦い顔をした。

 ふと手元のグラスを見遣ると、口の紅が縁についていた。私は口元を片手で押さえる。もしかしたら取れてきているのかもしれない。ギュンターに「化粧を直しに行ってきます」と告げる。ギュンターはすんなりと送りだしてくれた。化粧室へと向かうすがら、「ヴィーラ」と声をかけられる。


「あら、リッテ」その呼び声ですぐにわかった。「どうしたの?」

「えっと、その」フェアリッテは少し言い淀んでから告げた。「ヴィーラがどこかへ行くのが見えて」

「化粧を直しに行くのよ」

「そうなの? 実は、私も、外の空気が吸いたくて……一緒に行きましょう?」


 そう言って、フェアリッテは私をバルコニーのほうへ導く。

 私は「鏡がないから化粧室に行きたいのだけれど」と漏らす。すると、フェアリッテは「私が差してあげるから」と強情に足を進める。ドレープの大きなカーテンの向こう、シャンデリアの眩さから離れたバルコニーまで来れば、クッションの敷かれたソファーが夜風に晒されていた。そのうちの一つにフェアリッテは腰かけた。私がその隣に座ると、私たちの肩はぴったりとくっついた。


「今日は涼しいわね」


 フェアリッテは息をついて言った。


「いつもはもう少し暑いものね」私は自分の唇に触れる。「今日の涼しさなら化粧も落ちないかと思ったのだけれど、さすがに甘かったわ」

「素敵な色よね。ハイビスカスの紅茶みたい。私には似合わない色だわ」

「そう? 貴女のオペラ色の頬にはちょうどよくてよ。差してあげましょうか?」

「うふふ、遠慮しておくわ。私よりもまずヴィーラが先。ほら、貸してみて」


 私の紅を受け取ったフェアリッテは、私の頬をそっと取った。私は紅を差そうとするフェアリッテをじっと見つめる。すると、フェアリッテははにかむように笑って「恥ずかしいわ」と漏らした。私は「どうして?」と首を傾げる。


「貴女に見つめられるとそわそわしちゃう」

「仕方ないじゃない。リッテが差すって言ったのだし」

「でもね、なんだか、照れてしまうんだもの」


 なんだそれ。そう思いながら、早く終わるよう、「わかった、目を瞑っておくから」と私は瞼を閉じる。フェアリッテは仕切りなおして、私の唇にそっと紅を差した。唇から離れたのを感じたので、私は目を開ける。フェアリッテは「完璧ね」と微笑んだ。


「本当? 変に差してない?」

「当たり前じゃない!」

「よかった。なら、もう戻るわ」私は席を立とうとする。「リッテはもう少しここにいてもいいわよ。フィデリオにも言っておくから」


 すると、フェアリッテは「待って!」と言って、私の腕を抱きしめた。

 ソファーに戻された私は「え、ちょっと、なに」とフェアリッテを見遣る。


「お願い、ヴィーラもここにいて」

「どうしたの? リッテ」

「戻りたくないの……居心地が悪くて」


 私はガランサシャ・フォン・ボースハイトの嫌がらせを思い出した。他人からの悪意に慣れていないフェアリッテにはこたえる仕打ちだったのかもしれない。思えばフェアリッテは彼女を苦手にしていた。

 そう推察していたのに、フェアリッテの続けた言葉に、私はたちまち困惑した。


「お父様もお母様も、フィデリオも……みんな、話を先に進めてしまって、置いてけぼりにされた気分なの。お願い、ヴィーラ。貴女だけは、私を置いていかないと言って」


 思い悩むように告げられた言葉が不思議で、私は目を瞬かせる。

 どうやら、彼女の悪意に打ちのめされたわけではないらしい。


「……どうしたの? リッテ」


 もう一度尋ねると、フェアリッテはおもむろに口を開く。


「私……私ね、」

「うん」

「殿下と踊ったのよ」

「うん」

「嬉しかったし、どきどきしたわ。でも、殿下もそうかは、わからないでしょう?」

「…………」

「なのに、王太子妃ですって。これまできちんとお話したこともないひとと仲良くして、ボースハイト嬢やミットライト嬢と争わなくてはならないのですって。困ってしまうわ」


 清廉な横顔を見つめると、心底憂いている様子だった。フェアリッテの眉毛は力なく垂れていて、彼女の心細さを表しているようだった。

 私は目を瞬かせる。


「……フェアリッテは王太子妃になりたくないの?」

「ううん、そういうのではなくて……私なんかが、なっていいのか……」フェアリッテは自分の髪をくるくると弄った。「だって、私、ミットライト嬢のように賢くはないわ。ボースハイト嬢のように華があるわけでもない。それに、ボースハイト嬢はこれまで、私よりもずっと多く、殿下と踊られてきたに違いないわ。殿下が私を選んでくださるとは思えないの……」


 フェアリッテは真剣に悩んでいたが、私からすればそんな馬鹿なという話だ。

 少なくともフェアリッテは時を遡る前に殿下を射止めている。ボースハイトもミットライトも名前さえ上がらぬほど、たった一人、殿下が見初め、将来を誓った令嬢だ。

 地位も名声も手中に収めた女が、こんなに痛ましい表情で思い悩む意味がわからなかった。

 しょうもない理由で私を引き止めないでほしい。


「そんなことないわよ」私はフェアリッテを宥めた。「殿下はフェアリッテの刺繍の腕も知っていらっしゃるのだから」

「ボースハイト嬢の腕前も素晴らしいと聞くわ。上級生であるぶん、私よりもずっと修練していらっしゃるはずよ」

「だけど、ボースハイト嬢は上級生よ? 同じ学年であるリッテのほうが有利だわ」

「それを言うならミットライト嬢も同じよ。なんでもできる並外れたお方だもの……殿下が惹かれても無理はないわ」


 ああ言えばこう言われるのが面倒になって、私は「だけど、他の令嬢の知らないことを、貴女は知っているわ」と片づける。


「知らないこと? なあに?」

「殿下の唇よ」

「く!?」フェアリッテは一オクターブも声を跳ねあげた。「どっ、どういうことっ? なんの話をしているのっ?」

「どういうこともなにも」私は説明する。「この春の話よ。貴女が湖に落ちたとき。いつまで経っても目を覚まさない貴女のために、殿下が《覚醒の祝福》をお使いになったのよ。殿下がリッテに口づけられたの」


 そう告げた途端、フェアリッテは顔を真っ赤にした。その眩い鼻筋や首までも紅潮する。いまにも泣きそうなほど潤んだ瞳はふるふると震えていた。竦みながら両手で頬を覆うフェアリッテを見て、私は、砂を噛んだような気持ちになった。


「し、知らなかったわ」そんな私に気づかずにフェアリッテはこぼす。「殿下が、私に……なんて。そんなこと、一言もおっしゃらなかったもの……」

「そりゃあ、状況が状況だったからね」


 フェアリッテの目覚めの傍ら、私は生きるか死ぬかの瀬戸際だった。


「そっ、そうよね、仕方のない状況だったんだものね。私が昏睡したまま目覚めなくて、だったら、殿下が祝福を使ってくださるのも当たり前だわ……お優しい方だもの」


 顔を赤らめたまま、フェアリッテは泣きそうな顔で俯く。心の内を整理するのに必死であまりに無防備な横顔。花咲く瞳が睫毛に伏せられるさまが実に可憐だ。きっとフェアリッテは殿下を好きなんだろうなと思った。私の言葉に翻弄されて、自信を失くして、パーティーの会場にすら戻れないでいる、そのいじらしさ。こんな姿を見たら、きっと殿下だって彼女を愛してやまなくなるだろうに。それこそ、隣で白けている私の気持ちだってわかるだろうに。けれど、彼女は本心から、自らの愛する相手に選ばれるか不安でいる。

 さあ。どうしてくれよう。

 私はフェアリッテの肩を撫で、「飲み物を取ってくるわね」と囁いた。ソファーから立った私を、フェアリッテは引き止めなかった。私はカーテンを抜けて舞踏会場ボールルームへと戻る。とりあえずフェアリッテと共にいることをギュンターにも話しておいたほうがいいだろうと、飲み物を求めながら、彼の姿も探した。


「こんばんは。よい夜ですね」


 すると、一人の令息に話しかけられた。

 その声には覚えがあった。振り返ると、やはり、思ったとおりの顔。

 どこかあどけなさの残る甘い顔立ちに、切り揃えられた黒髪。新雪のような純白な装いをした、ジギタリウス・フォン・ボースハイトだった。

 私が目を眇めると、彼は「お会いできて光栄です」と微笑んだ。


「こんばんは、ジギタリウス卿」

「乾いた笑顔も素敵ですね、プリマヴィーラ嬢」

「貴方の顔をどこかで見たことがあると思ったら、思い出しましたの。貴方はガランサシャ・フォン・ボースハイト嬢の弟御でしたわね。貴方の姉君には、この春、たいへんお世話になったのよ。本当にね」


 私が厭味いやみったらしく言えば、ジギタリウスはどこか観念したような表情をした。


「その節はご迷惑をおかけしたようで……」

「お詫びのために貴方がいらっしゃったの?」

「シシィはあのときのことを反省しているんですよ。よろしければご挨拶をさせてやってくれませんか?」

「結構よ」私は適当なグラスを持って、踵を返す。「それではよい夜を」


 そのままこの場から立ち去ってやろうと思っていたのに、目の前に別の人影が立ちはだかった。その者の顔を見上げて、私はぎょっとする。


「まあ、アウフムッシェル嬢。お久しぶりね」


 絵画でそのまま仕立てたような鮮やかなドレスを着た、ガランサシャ・フォン・ボースハイトだった。彼女は私と目が合うなり、どこか煽るように微笑んで、「ジギィとお話していたのかしら」と尋ねた。


「ええ、そうなんです」ジギタリウスは穏やかに微笑む。「ちょうどプリマヴィーラ嬢にも話していたところなんですよ。姉さんが春でのことを悔やんでいると」

「あら! だけど、そうなんですのよ、アウフムッシェル嬢。一時期は、私も心ないことを言ってしまったわ。本当にごめんなさい。誤解していたのよ」目を伏せて小首を傾げるガランサシャ。「貴女と仲のいいフォルトナー嬢からあの噂を伺ったものだから、私も信じてしまったの」


 クラウディアの名前を出したことに、私は苛立ちを覚えた。

 その話の真偽はともかくとして、私と親しかった彼女の言葉だから自分に咎はないのだと、そう主張したいのだろうけれど、私は覚えている——食堂で私を攻撃したとき、ガランサシャは彼女をに使っていた。《真実の祝福》で証明してみればよい、とそう嘯いていた。その際のクラウディアは私の味方をしてくれていると思っていたけれど、あの噂の発端である彼女は、証明をしないことでかえって不透明性を作ったとも取れる。となると、ガランサシャは、クラウディアがどういう返答をするかも見越して吹っ掛けてきたのではないだろうか。初めから終わりまで私をなじる意図しかなかった。その証明をされて、私が許すとでも思っているのか。

 もちろん、体裁を考えれば、このように表立って謝罪をする相手を、許すわけにはいかないのだけれど。

 ちらちらとこちらを見る周囲の目が気になって、私は咄嗟に笑みを浮かべる。


「そうだったのですね。でしたら、仕方ありませんわ。ボースハイト侯爵令嬢もきっと戸惑われたことでしょうし」

「理解してくださってありがとう。この際だもの、私も、紅茶をぶちまけたことは、文字どおり、水に流して差しあげます。今後、社交界でも顔を合わせる身として、お互いに禍根は残したくないでしょう」


 どさくさに紛れて、ガランサシャは私の咎を公にした。あのとき食堂にいた者はもちろん、学校に通う者で、私の行動を知らない人間はいないだろうが、それを外部の社交場で話題に出されるとは思ってもみなかった。ガランサシャの言葉を聞きつけた者たちが顔色を変えたのを見て、「そうですね。あのときは申し訳ありませんでした」と一度冷静に詫びることにした。


「……ですが、私がなにを言ってもボースハイト嬢の誤解を招いてしまうようだったので、私や父の名誉のためにも、」

「あらあら、禍根を残したくないと言ったそばから!」私が言い終える前に、ガランサシャは声を上げた。「お互いに心苦しいことだったので、無理にとは言わないけれど、これ以上は無作法ではなくて? そうやって私を悪者にしなくともかまわないじゃないの……私は貴女と仲良くなりたいと思っていてよ? プリマヴィーラ嬢」


 仲良くなりたいと言って、私の名を呼びながら、有無を言わせぬガランサシャ。フェアリッテが苦手としていたのも納得だ。握手だと思って手を差しだせばナイフで斬りつけてくるのだから。フェアリッテの愛想で乗り切れるような相手ではない。

 私たちが話している間に、別の家の者も近づいてきた。その顔ぶれは軒並みボースハイト派閥で、まさしく四面楚歌であった。寄って集って私をいたぶりにきたのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。

 ガランサシャとジギタリウスは「こちらはバルヒェット伯爵家の、」「こちらはフレーミヒ子爵家の、」と私に紹介し、紹介された者も好意的な態度で私に近づいてくる。異様な状況に戸惑いながら、私は動揺を隠し、彼らに挨拶をした。


「アウフムッシェル嬢のお召しになっているドレス、本当に素敵で、よくお似合いですわ。どこのブティックで購入されたものですか?」

「ジギタリウス卿の話されていたとおり、お美しい方ですね」

「例の噂も、アウフムッシェル嬢を一目見れば、嘘だとわかります」

「ブルーメンブラット辺境伯が愛情を注いだ貴女の母親も、きっと貴女のようにお美しかったことでしょう」


 あのひとが母に注いだのは愛情ではなく同情だ。そんなことを告白するつもりもないけれど、見当違いな賛辞には苛々する。そもそも、どうして彼らは私に甘言を囁くのだろう。彼らの目論見がわからなくて、私はただ頷くことしかできない。

 けれど、次に続いたガランサシャの言葉に、私ははっとなった。


「プリマヴィーラ嬢もお可哀想……いくらブルーメンブラット嬢が正妻の娘とはいっても、彼女の言いなりにならなくともかまわないのよ?」


 その言葉に、周りの者たちはそうだそうだと頷く。思い出したように「例の噂が流れたときも、ブルーメンブラット嬢はのらりくらりとかわすだけで……」「もっと強く否定すれば、あれほど広まることはなかったでしょうに」とフェアリッテを責めたて、私を被害者のように扱った。そして、ガランサシャが「みなさんの言うことももっともですわ、」と告げる。


「貴女だってブルーメンブラット辺境伯の娘ですもの。彼女ばかりがもてはやされて、不公平だとは思わない?」


——ああ、そういうことか。

 ジギタリウスが、ガランサシャが、私につきまとう理由を、やっと確信する。

 私を篭絡したいのだ。

 フェアリッテとも親しい私を、フェアリッテへの攻撃手段として利用しようとしているのだろう。いよいよ王太子妃候補争いの渦中に投げこまれた気分だった。たしかに、私ほど御しやすく、つ大穴を開けられるだろう者はいない。ブルメーンブラット辺境伯の私生児、プリマヴィーラ。フェアリッテへの憎悪を煽り、甘い言葉で惑わせば、容易く手に落ちそうな、非力で哀れな娘。

 きっと私はそのように、周囲の目には映っているのだ。


「……ふふっ」


 思わず漏れたのは、笑み。

 片手で押さえ、噛み殺しながらも、私の肩は震えつづけた。

 ああ、思ったよりも、私は上手くやれていたのね——この一年間の己の努力を思えば、手を叩いて褒めてやりたくなった。だって、そうでしょう。そんな見え透いた甘言に騙されるほどの、聞きわけのよい、か弱い娘だと、そう思われていたんだもの。実際の私は、あのひとの娘ですらなかったのに、噂どおりの賎民であったのに、身の丈に合わない憎悪にフェアリッテを殺そうとまでしていたのに。こんなにも私を哀れんで、私を騙そうと策を弄するひとたちがいるなんて!

 私は目を細めてガランサシャを見つめた。彼女は私の様子に戸惑った様子だ。私がグラスの中身を傾けると、わずかに肩を震わせた。またぶちまけられるとでも思ったのかしら。その無様な姿と心境が愉快で、私はさらに笑まいを深める。

 ここ最近はお行儀よくしていたからって、舐めてもらっては困る。

 私の性根は腐ったままだ。


「……ボースハイト嬢は本当に、私たちのことに対して関心がおありなのね」


 私はグラスを掲げながら腕を組む。

 ガランサシャは気を取り直すように「私は心配しているのよ」と返した。


「心配ですか?」

「ええ、そうよ」あらゆる含みを持たせた反芻であることにも気づいていただろうに、ガランサシャは怯まずに続ける。「例の噂についてだって、親しくしていた友人によるものだったわけだし……きっと心を痛めていらっしゃるんじゃないかと思ったの。それがどうかなさって?」

「そこまで私を哀れんでくだる方が、このような場で私にまつわることを誰彼かまわず触れ回っていることだけが、ただただつらく、情けないのです」私は目を瞑って、しみじみと言う。「挙げ句、私がフェアリッテの言いなりだなんて……ボースハイト嬢はそこまで私を卑しく見ていらっしゃるのですね」


 言い返した私に、周囲は瞠目し、押し黙った。そのなかで一人、ガランサシャだけは毅然とした態度でいる。さきほどまで頷くことしかできなかった私の変わり身にも柔軟に対応し、私を落ち着かせるように囁く。


「そんな……私はただ貴女が心配だっただけだわ」

「あら、そうなんですか」私は小さく首を傾げる。「そういえば、大勢の生徒のいる前で私を貶めたときも、ボースハイト嬢はフェアリッテを心配していただけだとおっしゃっていましたものね。フェアリッテの次は私まで心配してくださるなんて、ボースハイト嬢は本当に心配性な方なんですね」


 誰が聞いても厭味いやみだとわかるほどの、まっすぐな皮肉だった。

 そばのジギタリウスはどこか苦味の混じった顔で、ガランサシャを見守っている。

 しかし、ガランサシャはしたたかだった。いつもの白々しいしなを作って「まあ、酷いですわ」と顔色を変える。


「きっとプリマヴィーラ嬢はあのときのことを恨んでらっしゃるのよね。だから私にこんな仕打ちができるんだわ。そうよね、私が許したからと言って、貴女が許せるかは別ですもの。私の誠意が足りなかったんだわ」

「ボースハイト嬢に足りないのは、誠意ではなく、分別ですよ」私は淀みもなく言った。「他家について吹聴したり、口を挟んだりと、ボースハイト嬢のおこないはとてもとは思えませんもの」


 私は、私への嘲蔑ちょうべつをいつまでも覚えているし、相手がどれだけ空惚そらとぼけようと、記憶の彼方へ追いやろうと、絶対に水には流さない。根に持っている。禍根を残しつづける。

 ガランサシャの顔が引き攣ったのを見て、取り巻き周囲の一人が「あんまりです。ボースハイト侯爵令嬢はただアウフムッシェル嬢を気遣っただけですのに」と口を挟んだが、私がにっこりと微笑めばその続きを噤んだ。


「まあ。節度と責任のある振る舞いをしてこそ一人前の紳士淑女であると私は考えていたのですが、みなさんは違うのですね。みなさんはそれほど多くのひとと心配事を分かち合うのですね」私は頬に手を添えた。「普段からそのように軽々しく口を滑らせていないかと思うと、私はみなさんが心配ですわ……もちろん、それを誰かに相談するようなことはしませんけれど」


 煽るように言えば、拳がぎゅっと握り締められるのが見えた。少しでも振りあげればそれを散々にあげつらってやるつもりだったけれど、その前に「プリマヴィーラ」と私たちに割って入る者が現れた。


「フィデリオ」

「フェアリッテを知らないかい?」そう言いながら、フィデリオは私を彼らから匿うように立ち塞がった。「少し前から戻らないんだけれど」


 フィデリオは私の手を取った。

 私ごとこの場を去ってしまいたいらしい。

 ちょうどいいから離脱してしまおうと、私は「ああ、そうだった、フェアリッテに飲み物を取りに来ていたのよ。貴方も一緒にどう?」と誘う。


「それでは、みなさん、よい夜を」


 私はガランサシャやジギタリウスにお辞儀をして、フィデリオと共にその場を去った。彼らの姿がすっかり見えなくなったとき、フィデリオは「またをしたね」と私に囁く。


「そんな。私たちを心配してくださった親切な方々と楽しくお話をしていただけよ」

「あんなに悪い顔をしておいてよく言うよ」フィデリオはため息をつく。「君がボースハイト嬢やジギタリウス・フォン・ボースハイトと共にいるのを見つけて、俺がどれほどびっくりしたかわかる?」

「どうせ心配したのでしょう? 私があちらへ寝返るかもって」


 その心配ならわかるわ。

 ガランサシャに比べればフィデリオはよっぽど分別がある。

 私の指摘に言葉を詰まらせる誠実さも持ち合わせている。

 視線の先に、相変わらずバルコニーのソファーに腰かけるフェアリッテがいるのが見えて、私は静かに鼻で笑った。


「興が乗ったわ。協力してあげる。フェアリッテが王太子妃に選ばれるように」


 ボースハイトもミットライトも蹴散らして、引きずり下ろして、フェアリッテを次期王妃にする。殿下がフェアリッテを選ぶように仕向ける。

 フィデリオは私の顔を見下ろした。


「それは……愛ゆえに?」


 そう言って、訝しむように目を細めるフィデリオに、私は突っ返す。


「愛を理由になにかを与えられるほど、私は豊かではないわよ」

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