第8話 その命あっての愛だものね

 それは、時を遡る前での会話だった。


「フィデリオ、貴方、なんの祝福も得られなかったという話は本当?」


 入学式を終えた聖堂からの帰り道。

 私は、寮舎へ戻るフィデリオを引き止め、高慢な態度で話しかけた。

 幼いころからアウフムッシェル邸で共に育ってきたフィデリオは、ある意味ではフェアリッテ以上に目の上のたん瘤だった。乳母は口癖のように「フィデリオさまを見習って」と私に言い聞かせてきたし、同い年である私たちを、出来のいい兄と不出来な妹のように扱っていた。学年次席と名高いアウフムッシェルの秀才は、同じアウフムッシェルの姓を共有する私にとって、私の不幸の元凶たるフェアリッテほどでなくても、鼻持ちならない相手だったのだ。

 フィデリオはフィデリオで、非常に口やかましい男であった。私が汚らしい言葉を使えば「行儀が悪い」と叱り、怒った私が拳を振るえば「蛮族め」と罵った。彼から喧嘩を吹っかけてくることこそなかったけれど、彼の気高い鼻っ柱をいつでも折ってやりたいと私は思っていた。

 だから、彼の瑕疵を見つけたのだと、そのときは意気ごんだものだ。

 《持たざる者》は稀有ではないが、目を引く存在ではあった。特にそのときの私は《除災の祝福》を受けていたので、なんの祝福も受けていないという彼が、おかしくておかしくてしょうがなかった。

 しかし、高慢な私の態度にも彼は眉一つ動かさず、「君は《除災の祝福》を受けたんだって? おめでとう」と蜂蜜色の瞳を瞬かせたのだった。

 つまらない反応。痩せ我慢なら崩してやる。

 私は目を細め、言葉を続けた。


「どこかの令息が話していたわ。祝福の光は受けたものの、なんの祝福を受けたか尋ねられた貴方は“どうだろう”とすっとぼけてみせたと。本当はなんの祝福も得られなかったくせに、恥ずかしくて言いだせなかったんでしょう。無様ね」

「どこかの令息って……ちゃんと名前は覚えるように。これからは君も淑女としてこの学校に通うんだ。相手の名前も覚えられないようでは、社交界の爪弾き者だぞ。ただでさえ君は相手を馬鹿にしがちなんだから。あと、大股で歩くのもよろしくない」

「しずしず歩くなんて馬鹿みたい。あんな速さじゃ寮に戻る前に夜明けが来るわ」そんなことはいいのよ、と私は断じる。「貴方のことよ、フィデリオ。私ですら授かった祝福を得られなかった貴方の、みじめな気持ちを聞きたいの。フェアリッテだって《持たざる者》だったわね。不出来な貴方たちと血をじえてるなんて、私も恥ずかしいったらないわ!」


 そう言いながら、私は有頂天になっていた。

 実際には私の血は一滴たりとも彼らと混じえてはいないので、私の発言こそ滑稽でかなり恥ずかしいものだったが、フィデリオの悔しい顔が見えるとあり、私は意気揚々とげんを吐いたのだ。

 しかし、フィデリオは小さく息をつくだけで、やはり、表情を変えることはなかった。艶々とした栗毛が夜風に揺れ、それに誘われるように、彼は月を見上げた。甘やかな瞳が月光を浴びる。その眼差しは清らかで、ほんの少し、フェアリッテに似ていた。

 私が顔を顰めたとき、フィデリオは「別に、」と口を開く。


「なにかを受け取ったとは思わない。人はいつだって過ちを正せるし、それが遅すぎたというのならその者の咎だ。俺は抗おうとは思わない。だから、ないのと同じだ。これはそういう祝福だったんだと思う」


 なにそれ。

 腑に落ちなかったけれど、興の削がれた私は、これ以上フィデリオの相手をするのが面倒になった。ただ「あっそう」と言って、その場を去ったのだった。

 以降、彼はやはり弁解するでもなく、また、二周目たる現在では「なんの祝福も得られなかった」という言質も取れたので、フィデリオ・アウフムッシェルは《持たざる者》だという認識でいたのだ。

 しかし。


「——《懺悔の祝福》はたった一度きりしか使えない」いま、鉄格子越しのフィデリオが、そう告げる。「人生に一度だけ、時を遡ることができる。の者の"運命の日"に戻ることで、犯した過ちをやり直せる。一度使えばそれまでだし、御使みつかいから大事に使えと言われたから、あんまり大っぴらにするのもと、公表しなかった。実際、使いかたに困った。なんなら俺自身、時を遡りたいと思えるほどの過ちを犯すはずがないと思ったし、一生かかっても使わないだろうなと考えたら、それは《持たざる者》と同じだろう? の入学式では、御使みつかいから“使ったんだね。じゃあ、もういっか”と言われて、本当になんの祝福も受けなかったわけだしね」


 つまり、フィデリオは隠していたのだ。

 本当は《懺悔の祝福》とやらを受けていたのに、言わなかった。

 そして、その一度きりの祝福を使って、時を遡らせたという。


「しかし……祝福を受けた僕に記憶があるのはまだしも、君まで記憶を持ったまま、時を遡ったとはね」

「それはこっちの台詞せりふよ」私は目を眇める。「よくもまあ、いままでぬけぬけと」

「別に、言う必要があったか? 時を遡る前とは違い、君は上手くやっていた。淑女らしい振る舞いを覚えた、フェアリッテとの仲も良好だった、君を慕う友人もいた。水を差すような真似はしたくなかった。がんばっていると、思ったんだ」


 私はかっとなった。きっと頬には朱が差しているに違いない。

 フェアリッテを嫌う私の本性を知っているフィデリオの目に、現在の私の姿はそのように映ったのだ。がんばっていると。それが無性に恥ずかしかった。フィデリオは全てを知っていながら、私を嘲っていたに違いないと思った。


「待て、勘違いをしないでおくれよ」フィデリオは私の目の前に手の平を翳す。「君を笑い者にしたわけじゃない。ただ……戸惑っていた、俺には、君の思惑がわからなくて……たしかに君はフェアリッテを嫌っていたのに、仲良くお茶なんてするから、帰りの馬車を見送るから、お揃いの刺繍なんて施すから。俺の知る君は、そうではなかった。もっと不安定で、不器用で、そのために、愚かにも死んだ」

「ええそうね、愚かにも死んだわ、とんだお笑いぐさよね」

「そうやってすぐに皮肉る。可哀想ぶる」

「結局、貴方はなにがしたかったの? 私の愚かな死をまた見届けてやろうって?」


 腕を組んで睥睨する私を、フィデリオは静謐せいひつに見つめる。

 しばらくは沈黙だけがあった。燭台の火の揺らめく音だけが耳に響いていた。

 そんななか、フィデリオはおもむろに口を開く。


「君がブルーメンブラット辺境伯の私生児でないことは知っていたよ」

「……なんですって?」

「あの噂の出どころは知れないけれど、概ね正しい。君は賎民の娘で、ブルーメンブラット辺境伯との血の繋がりはない。ただ憐れんで拾われただけの子供だ。そうしてアウフムッシェルに流れ着いただけの子供だ」

「どうして……」

「見ず知らずの子供を預けられるんだ、アウフムッシェルの人間が事情を知らされないわけがないだろう。俺だって六歳のときに父から聞いたよ、ある娼婦から引き取った娘だと」

「旦那様や、夫人も、知っていたのね。もしかして乳母も?」

「乳母は知らないと思う。さすがに使用人にまで知らせるほど無節操ではない。家の威信も、君の面目もあるしね」

「知らないで、乳母は私にあんな態度を取っていたのね。そのほうが問題だわ」

「乳母は愛情深いひとだよ。君のことをずっと気にかけていた。まあ、料理は下手なのが玉に瑕だけど」話を戻そう、とフィデリオは言った。「父や母だって、厄介事を押しつけられたと憤っていたけれど、君を見放しはしなかった。ただ、君に伝えるべきかは悩んでいた。俺も、君に本当のことを伝えるべきか迷った。絶対に迎えには来やしない父親を待つ君を見るのがたまらなくて、だけど、その夢すら壊してしまうのが惜しかった。過ちはいつだって正せるけれど、もしも遅すぎたというなら、きっとそれだと思う……君がああなるよりも前に早く、本当のことを伝えてやるべきだった」


 というのは、きっと私が死んだときのことを指すのだろう。

 フェアリッテを羨み、憎み、溺れ死んでいった。

 その死に至るまでをずっと見てきたのが、同じ邸で育ったフィデリオだった。


「なにも知らずに愛に飢えていく君が憐れだった。愚かで、醜く、見るにえず、その死に様までもが救いようがなく……救ってやりたかった」


 フィデリオは懺悔するように俯いていた。

 深い前髪の影が蜂蜜色の瞳に落ちている。

 私はそれをじっと見つめ、ややあって、「それで時を遡ったの?」と問いかけた。


「……君を軸にして時を遡ったから、君にも記憶が残ったんだろう」おもむろに顔を上げ、フィデリオは言う。「気がつけば、夏の風が激しく終わりを告げる日、君とフェアリッテが初めて会った日にまで遡っていた。あの日が、君にとっての、運命の日だったんだろうね」

「あの日の貴方、やけにしつこかったわよね。フェアリッテに無礼を働くなだとか、愛想よく受け答えをしろだとか言って」

「前と同じ轍は踏まないようにと忠告したつもりだったのに、まさか真に受けて、本当に仲良くなってくるとは思わなかった。分別を持った淑女になったかと思えば、中間試問やデビュタントではをするし、だけど時を遡る前とはまるで違うしで、それはもう、本当に、」

「混乱したでしょうね」

「君にも記憶があると、本当に確証を得たのは、ついさっき。薄々感じてはいたんだ、君にも記憶があるんじゃないかって。今回の君は上手くやれていたし、あれだけ憎んでいたフェアリッテとも親しくして」フィデリオは目を細め、言葉を続ける。「君自身が本当はなにを考えているか、ずっと不思議だったけど……でも、二人とも無事に、穏やかに誕生日を迎えて、もう二度とあんなことは起こらないんじゃないかって……そう期待していたのに、それなのに、どうしてこんなことに……」


 そこで、フィデリオと二人して、現状を思い出した。

 私はフェアリッテを殺そうとした罪で牢に幽閉されているのだ。

 明日の朝には裁判がおこなわれるだろう。時を遡る前と違い、いまのフェアリッテはまだ殿下と婚約していない。私が死刑となったのは、次期王妃の殺害を企てたことにある。一介の令嬢の、それも人の死んでいない事件で、死刑になるようなことはないだろうが、そもそも私はやっていないのだ。


「やってもないのに疑われて、周りに勘違いされたまま罪を被るなんて、絶対に嫌。どうして誰も私を信じてくれないの?」

「君はたしかにフェアリッテと親しかった。けれど、世論に煽られている」

「世論って?」

「先々月から吹聴された、君の出自についての秘密うわさだよ。ブルーメンブラットやアウフムッシェルがなんとか抑えこもうとしているが、口に税はかからない、抹消しきれていないのが現状だ。結果、話が膨らんだんだ」


 フィデリオが言うには、校内での噂がそのまま尾を引いているのだとか。それこそ、賎民の娘である私がフェアリッテに嫉妬して湖へ突き落としたのだと、まことしやかに囁かれているらしい。噂は噂だと断じてきたブルーメンブラットやアウフムッシェルも、その噂が真であると知っているだけに、かえって今回の事件での私の処遇を決めかねているのだと、そのように語った。


「この部屋にぶちこんでおいて“決めかねている”ですって?」

「裁判所の直轄する牢に入れていないだけだろう。あくまでも君を庇おうとしているんだよ。だからこそ、その張本人が潔白である必要がある。本当に君は突き落としてないんだね?」

「やってないって言ってるでしょう!」

「思うところはあるけれど、信じよう。だが、それを証明しなくてはならない」


 証明と聞いて、私は真っ先に彼女が思い浮かんだ。


「……クラウディアはどうかしら? 彼女なら、私の無実を証明できるわ。事故当時を《真実の祝福》で映しだしてもらうの。そうしたら、誰の目にも明らかになるはずよ。私はフェアリッテを突き落としたりなんかしてないって」


 フィデリオは「なるほど」と呟いた。異論はないようだった。


「裁判で証言してもらえるよう、俺から頼んでみるよ。他にも、君とフェアリッテの交友を知る者をあたろう。万が一にでも、君を罪人にしたりはしないさ」


 そう言って、彼はしかと頷いた。

 普段なら鼻持ちならない彼が、こんなにも心強い。それがなんだか新鮮で、そんな彼を、私はじっと見つめた。彼は「なんだい、急に黙りこくって」と首を傾げた。


「貴方、私を嫌ってると思ってたわ。こんな事態なら見捨てると思ってた」

「君を憐れんでたった一度きりの祝福を使ったような人間が?」

「それが一番の不思議なのよ。私のために使うだなんてどうかしてるわ。私は貴方とは血の繋がりもない、賎民の娘でしょう? ずっと一緒にいた貴方が一番に理解しているはずだわ」


 私を救う理由がないのだ。私を救って、それが彼の利になるとは思わない。

 私が彼ならまっぴらごめんだ。誰かのために自分が割を食うような真似などしたくはなかった。そうやって誰かに心を傾けるのも、砕くのも、差しだすのも。


「そうだよ、俺が一番理解しているんだ。俺にとって、プリマヴィーラ・アウフムッシェルは、ブルーメンブラットの私生児でも妹でもなんでもない。面倒を見なきゃいけない、手のかかる女の子だよ」

「…………」

「君もそろそろ理解するといい」


 フィデリオはそう言って、踵を返す。もう戻っていくようだった。

 なにも返さない私は彼の後ろ姿を見つめ、しかし、彼が階段を上る前に立ち止ったことに目を瞬かせる。彼の背中はどこか迷っているようだった。けれど、私が「なによ」と呟くと、思いきったように口を開く。


「……俺じゃなくたって、フェアリッテだってそうしたと思う」フィデリオは半身で振り向いた。「君が死ぬ間際も泣いていた。夏の風が激しく終わりを告げる日に、君に紅茶を浴びせられてから、彼女が何度君のために涙を流したのかわからない。時を遡る前も、いまも、彼女の想いはなにひとつ変わっちゃいないよ」


 その言葉を残し、今度こそフィデリオは去っていった。階段を上る足音が聞こえなくなってからも、私はその薄暗闇を見つめていた。しばらくのあいだ立ちつくしていると、フィデリオと入れ違いになるように、別の足音が聞こえてきた。そういえば騎士は二組の面会があると言っていた。フィデリオと、もう一人。誰が面会に来たのだろう。そう思って階段のほうを眺めていると、ゆらりと明るい火が見えた。

 そこには、蝋の溶けかけた燭台を持つ——クラウディアの姿があった。


「クラウディア……来てくれたのね」


 その僥倖に、私はぱっと顔を綻ばせた。クラウディアは「目が覚めたと聞いて」と首を傾げる。そんな彼女に私は薄く笑んで、それから「お願いがあるの」と告げた。


「お願い?」

「ええ。貴女の《真実の祝福》で、私の無実を証明してほしいの」私の目の前まで歩み寄ったクラウディアに、囁くように言う。「貴女も聞いているでしょう? 私がフェアリッテを突き落としたと疑われているの。だけど、私はやってないわ。無実よ」

「やってない? 誕生日の前日、彼女を殺すって言っていたじゃない」

「……実行しなかったの。けれど、事故でフェアリッテが湖に落ちてしまって、このままでは私が犯人になってしまうわ。だから、クラウディアに助けてほしいの」


 フィデリオと入れ違いだったということは、クラウディアと彼とは話していないはずだ。彼がクラウディアに話しかけるよりも私から話したほうが早かろうと、この場で頼むことにした。

 しかし、クラウディアは困ったように眉を垂れ下げた。


「……プリマヴィーラ、言ったはずよ。手を貸したりはできないって」

「違うの、それは、私がフェアリッテを殺したときの話で、今回のことは、」

「それに無駄。これを見ても、人々は貴女を無罪にするかしら?」


 えっ、と声にならない吐息が私の口からこぼれる。

 クラウディアはそれを気にも留めずに「《真実の祝福》よ、」と顎を上げる。


「映したまえ——プリマヴィーラ・アウフムッシェルの計画を」


 クラウディアが唱えると、牢の天井に、きらきらとした真実のヴェールが映しだされる。そこには、私の誕生日の前日、誰もいない空き教室に並ぶ、私とクラウディアの姿があった。


『明日はアウフムッシェル領の、湖のある庭園へ行くわ。水中花を見るために遊覧船に乗る予定だから、そのときにフェアリッテを湖へ突き落すのよ。万が一にでも、岸辺まで泳いで助かったりしないよう、彼女には脱ぎにくいドレスを着てもらうわ。フェアリッテの誕生日に、紅茶と一緒にドレスも贈ったの。着つけに時間のかかって、脱ぐのにも手惑うような。フェアリッテにも当日はあれを着てきてって伝えてあるから、上手くいくと思う。でも、そうね、ただフェアリッテを突き落したんじゃ私も疑われかねないから、一緒に落ちてしまおうかしら』


 それは、真実、クラウディアに計画を語ったあの日の私の姿だった。

 ヴェールに映された私は、フェアリッテに向けたたしかな殺意を、ありありと晒していた。引き換えて、相槌を打つクラウディアの表情は強張っている。あのときは真剣に聞いてくれていると感じていた彼女の様子が、途端に意味合いを変え、まるで私の禍々しい有様ありさまに慄いているようにも見えた。


『本当に、やるのね?』


 厳かに尋ねたクラウディアの言葉に、私は嫉妬深い瞳を爛々とさせて微笑んだ。

 こんなものを見せられたら、誰だって私を疑う。湖へ突き落したと思う。罪に問う。私を罪人へと追いやるだけの証明だった。

 ヴェールがやんだ。見上げた首を下ろすことも忘れ、私は呆然と漏らした。そんな私をくすくすと笑うクラウディア。その笑い声にやっと正気を取り戻した私は、「どういうこと、クラウディア」と彼女を見遣る。


「どういうこともなにも、貴女が言ったことよ、プリマヴィーラ。私は真実を映しだしてあげただけ。とんでもない計画よね。ブルーメンブラットの令嬢を殺してやろうだなんて。私も彼女のことは気に食わなかったけれど、さすがに命を奪うことまでは考えなかったわ……ああ、実行はしなかったんだっけ? どうでもいいわ。これを裁判で見せれば、どっちにしろ貴女は終わりでしょうから」


 いつものように涼しげな笑みを浮かべて、クラウディアはそう告げた。

 そのことに愕然とする。

 彼女の清涼な振る舞いは、用のものだ。己の本音を晒さない、晒す価値のない、取るに足らない相手を前にしたときの態度。その態度を私の前で崩してくれるところが好きだった。けれど、今の彼女は、完全無欠の涼しい笑みを浮かべている。だから、彼女が本気だということを悟ることができた——彼女は本気で私を陥れようとしている。

 私は「どうして……」と擦り切れた声を漏らす。

 クラウディアだけは、本当の友達だと思っていた。嫌いなもののほうが多い私にとって、唯一と言っていい、信頼のおける好ましい存在だった。彼女にとっても私は本当の友達だと、そう思っていた。こんなふうに裏切られるなんて思いもしなかった。

 そんな私の様子に、クラウディアは涼しげな表情を削ぎ落とす。

 笑みも怒りも滲まない、なんの色もない虚無の表情。

 しかし、闇に溶けこむような黒髪ブルネットの隙間から覗く目は、氷のように冷たく、つるぎのように鋭利だった。


「……ねえ、ヴィーラ。監視の騎士から聞いたわ。私の前に、フィデリオが面会に来たんでしょう?」クラウディアは淡々と言葉を続ける。「彼とどんな話をしたの? 彼は貴女を心配していたの? いいご身分よね。ずっと一緒にいたからって、それだけで彼の気を惹けて。本当は、私生児ですらない、卑しい賎民のくせに」


 彼女の口から“卑しい賎民”という言葉が出たことがつらかった。

 しかし、それと同じくらいの衝撃が私に走った。


「……フィデリオ? まさか、クラウディアは、フィデリオのことが好きなの?」


 時を遡る前も、現在でも、そんなそぶりを見せたことはあっただろうか。ないと思う。クラウディアがフィデリオのことを好きだなんて、そんなこと微塵も知らなかった。もしかしたら、あったとしても気づかなかっただけなのかも。私の反応を見て、クラウディアは苛立つように眉を顰めたから。


「そういう女よね、貴女って」クラウディアは吐き捨てるように言った。「当たり前のように彼に庇われて、なんでもないような顔で彼とデビュタントを踊って、狩猟祭でも誕生日でもそう。貴女のことがずっと気に食わなかった。貴女にブルーメンブラットの血が流れてないって噂を流したのも私。《真実の祝福》で知ったの。そんな秘密も教えてくれるのよ。《持たざる者》の貴女にはわからないでしょうけれど」

「じゃあ……フィデリオといる私が気に入らなくて、私を貶めようとしたってこと? 私もフィデリオも、別にお互い好きでもなくて、ただこれまで同じ邸で育ってきたってだけなのに? そんなことで?」

? “愛されたい”や“嫉妬”は一番の殺意になるって、それだけは、私たち、同じ考えだと思っていたわ」


 クラウディアの涼しげな瞳は冷たく、けれど、青い炎のように燃えていた。

 それだけで、私とクラウディアは決別したのだと理解した。

 本当はもっとずっと前に、クラウディアは私とわかつことを決していたのかもしれない。けれど、それを悟らせなかった。私を騙してそばにいた。信用させて、その裏で謀ってやろうとしていた。私がフェアリッテにしていたことを、クラウディアは私にしていたのだ。

 これまでの彼女との日々が目まぐるしく脳裏を駆け巡る。一つ一つを掻き集めようとして、でも、裏切られた衝撃に全てが割られていくようだった。

 私は拳を握り締め、歯噛みした。


「……私たち、なんて理不尽で、愚かで醜くて、救いようがないのかしらね」


 私がそう言うと、クラウディアは「本当よね」と肩を竦めた。

 かすかに笑ったように見えたのは、私の感傷だろうけれど。


「でもね、クラウディア、私は、今度こそ本当に、フェアリッテを殺そうとなんてしなかったわ……思い直したのよ」

「あれだけ彼女を憎んでいたくせに? あの日の貴女を見せられて、誰がそんな言葉を信じると言うの? 突き落としたかしてないかなんて関係ないのよ。貴女は罪を被って追放されるだけ」

「フェアリッテがいるわ。彼女が証言してくれるはずよ、私は突き落としたりなんかしてないって。今日にでも殿下が彼女のもとへ駆けつけると聞いたわ。彼女が目覚めればすぐにわかることよ」

「お馬鹿さん。そんなの、目覚めなければいいのよ」


 クラウディアの言葉に私は眉を顰める。彼女の言っている意味がわからなくて、けれど、嫌な予感だけはしたのだ。彼女は頬に手を遣って、ゆらりと首を傾げる。


「貴女が教えてくれたんじゃない、《除災の祝福》の欠点。昏睡している彼女を水の中へ突き落とすなんて容易いことだわ」


 私は息を呑んだ——クラウディアはフェアリッテを殺す気なのだ。

 鉄格子に掴みかかり、「やめて、クラウディア!」と彼女に訴えた。深い夜に染まる石畳の牢に、私の声が切なく反響する。しかし、彼女はくすくすと微笑むだけだった。月光に染まった彼女のかんばせは、必死な私を嘲る色を浮かべた。


「残念ね、真相は泡沫のように消えてなくなるわ。殺害未遂なら貴女の刑罰も軽かったでしょうけど、相手が死んでしまえば、それは立派な殺害よ。ブルーメンブラットは死刑を要求するはず。大嫌いなフェアリッテごと、貴女を葬ってあげるわ」クラウディアは踵を返す間際、片目を閉じて告げた。「上手くやるってこういうことよ? プリマヴィーラ」


 私の「待って!」という声も振り切って、クラウディアは牢の階段を上っていった。このまま去って、フェアリッテを殺す気なのだと悟った。

 クラウディアと入れ違いに下りてくるだろう監視の騎士にこのことを告げるか、いや、私の言葉などまともに取り合ってはくれないだろう。下手をすると、友人に罪をなすりつけようとしたと見られて、さらに立場が悪くなるはずだ。クラウディアがフェアリッテを殺そうとしていると知っているのは、私一人。

 覚悟を決めた。

 私はベッドのシーツを剥がし、束ねるように括る。一本の太い縄のようになったそれを、高窓に嵌った鉄格子へと縛りつけた。思いっきり引っ張ると、鉄格子のうちの一本が簡単に抜ける。散々馬で駆けた浜辺と同じくらい、この地下牢は私の庭だ。どの部屋のどこが脆く、どうやって抜けだすべきかは熟知している。ベッドを横倒しにすれば高窓までの足掛かりとなった。

 私は横倒したベッドへ登り、高窓の外へ手を伸ばす。すぐに地表の感触がした。地下の上部が突出しているため、高窓を出てすぐが地面になっているのだ。騎士の下りてくる足音が聞こえたので、すぐさま体を滑りこませる。這い蹲うように前進し、浮かせていた足まで牢を脱したときには、足元で「逃げたぞ! 外へ出ろ!」「旦那様に知らせるんだ!」という騎士の声が聞こえた。私は寝間着についた砂埃を払うことなく駆けだした。

 先を急ぐ裸足で、夜露に濡れた草や土を踏みつけていく。邸のほうを見遣ると、灯りを持って私を探す人影が見える。騒がしい足音も聞こえた。騎士も使用人も、きっと旦那様や夫人や乳母さえも、脱走した私を探しているに違いない。けれど、見つかるわけにはいかない。厩まで走れば、私の愛馬と目が合った。どこか眠そうな鼻筋を撫でて、「お願い、私を手伝って」と囁いた。そのまま愛馬に跨り、私は走りだす。

 邸を出て、高台の林を駆け抜けていると、下の車道を走る馬車が見えた。おそらくクラウディアが乗っている馬車だった。私よりもずいぶんと先を行っている。追いつけるだろうか。私は目を細める。

 クラウディアはブルーメンブラット邸へと向かっているのだろう。

 フェアリッテはそこにいるはずだから。

 落ちた湖はアウフムッシェル領、そこから保護され、治療ののち動かしたとしても、事を大きくしたくないブルーメンブラットなら、学校や病院のベッドには寝かさないだろう。容疑のかかった私がアウフムッシェル邸にいる以上、アウフムッシェルにも預けないはずだし、かと言って、いまだ殿下と婚約に至っていないならば王宮に匿われている可能性も低い。そうなると、彼女の生家で安静にしているのが妥当だ。

 私は裸足のまま蹴って、愛馬へ拍車をかける。振り落とされそうな速さにしがみつきながら月光と風を浴びた。耳のそばを冷たい風の囁きが通る。靡く髪が汗に濡れて首や額に張りつく。

 闇夜に紛れて馬を走らせているのが馬鹿みたい。こんなに必死になって、フェアリッテが殺されるのを止めようとしている。自分だって彼女を殺そうとしたくせに。

 時を遡る前の、フェアリッテと初めて会った日、紅茶をぶちまけた私に彼女がどう言葉を返したのか、もう覚えていない。

 私とフェアリッテの関係はひどく一方的なものだった。私ばかりが彼女を憎んで、いたぶって、そのくせ苦しんでゆくような、救いようのないものだった。本心を騙ったいまよりも、あのときのほうが、彼女への強い感情を持て余していたのかもしれない。際限のないその心を燃やして消費するのに必死で、彼女が私をどのように思っているかなんて、関心がなかった。

 けれど。

 《持たざる者》だと嘲笑した私を、彼女は「貴女は素敵な祝福をいただいたのね」と言って称えた。入学したてのころも、たしか彼女は少し怯えながら、同じ選択教養を受けないかと、私を誘ったはずだ。中間試問では、上手く受け答えのできなかった私を彼女は励まそうとしていた。デビュタントでシャンパンにまみれた私に、唯一手を差しのべようとしたのが彼女だった。長期休みに入ると必ず私宛ての手紙が届いた。どんなに罵ろうと、私に心を砕くのをやめなかった。狩猟祭で追い回した私に、彼女は泣きながら、どうしたらいいのと問うてきた。

 どうしたらいいのだろう。

 貴女を憎まずにはいられない気持ちを、私はどうしたらよかったのだろう。

 ずっと染みついていた感情は本物で、私が彼女を蔑ろにした過去が変わらないように、どれだけ死んでも消えることはない。どうしようもないのだ。いまだって、彼女が憎くてしかたがない。貴女のようにはなれないと、私には絶対手に入らないのだと、妬ましくて羨ましくて途方もない。こうして私は一生かけて、彼女を恨んでゆくのだ思う。

 けれど、きっと同じだけ、彼女がくれたものを大事にして生きてゆく。

 死を想起させる地獄の水上で、私なんかでは程遠い楽園の光のもと、あのとき彼女のくれただけが、これまでの私を報わせてくれた。あの瞬間を忘れられなくて、憎むこともやめられなくて、きっとこれからも苦しむのだろうけれど、彼女がずっと私へ向けてくれていたものを知った。私はそれを抱きしめたい。


「……——やるのが下手ね、クラウディア」


 そう言って、フェアリッテの部屋のバルコニーに降り立った私を、ベッドの上のフェアリッテに跨るクラウディアが振り返った。

 クラウディアは驚愕の表情で「プリマヴィーラ、どうして」と漏らす。フェアリッテは穏やかな表情で眠っていた。まだ死んでいない、間に合ったようだ。ブルーメンブラット邸に忍びこみ、木を伝ってここまで登ってきた甲斐があった。

 邸の外にはいくつか馬車がつけてあったが、その中にはクラウディアの乗ってきたものもあった。おそらく、友人としての見舞いのていでここまで来たのだろう。おかげでこの部屋には眠るフェアリッテとクラウディアしかいなかった。あと少しでも遅れていたら、きっと殺りおおせていた。


「だめよ。殺そうとしてることを知られては。計画が水の泡になってしまうから」

「……皮肉のつもり?」クラウディアは目を細めた。「むしろ好都合よ。ここでフェアリッテを殺せば、貴女のせいにできるもの」

「私に罪を着せるほど、罪人として殺したいほど、私が憎いのね」

「そうね。だから、ずっと機を伺って、企てていたの」


 私を傷つけ、陥れ、罪を被せて殺すという計画。

 私の暗殺計画。


「それももう終わりよ。クラウディア」


 切らした息を整えながら、私はクラウディアへと近づく。

 彼女の目の前に立つと、その涼しげな顔が大きく歪んだのが見えた。

 嫌な予感がした。


「っきゃあああああああ————!!」


 あられもない、絹を裂くような悲鳴を上げるクラウディア。

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。

 クラウディアの悲鳴を聞きつけて、部屋の外にいた使用人が「どうしました!?」と入ってくる。私の姿を見て目を見張った。使用人だけでなく、ブルーメンブラットの騎士たちもいた。私がアウフムッシェル邸から逃げだしたという知らせを聞きつけていたのだろう。口々に「見つけたぞ!」と言って、私を包囲する。クラウディアは騎士に庇われるようにして、両腕を掴まえられる私を嗤っていた。私は腕を振りほどこうと、必死に「離して!」と身を捩る。


「違うわ! 私はクラウディアを止めようと、」

「あの子がバルコニーから侵入してきたの!」クラウディアは私に言い被さる。「ブルーメンブラット嬢を殺そうとしていたわ! 彼女は危険よ!」


 クラウディアはとことん私を嵌めるつもりらしい。

 一切の容赦のない声で私に罪を着せようとしている。

 言い争っていると、廊下から「プリマヴィーラ、」という囁きが聞こえた。顔を向けると、息を呑んだ顔のあのひとが——ブルーメンブラット辺境伯がいた。もう父でないと理解しているのに、彼の前で無様な姿を晒すのが嫌で、私は咄嗟に閉口してしまう。

 彼のもとへ厳かに歩み寄った騎士が、「アウフムッシェル邸から早馬がありました」と囁くように告げた。


「プリマヴィーラ・アウフムッシェルが邸から抜けだしたという知らせが届いております。わざわざフェアリッテさまのもとに現れたということは、そういうことでしょう」

「私も友人として信じたくはありませんでしたが、これは事実です。彼女はブルーメンブラット嬢を湖に突き落として、死んでいないとわかるや否や、こうして息の根を止めに来たのです」クラウディアはしかと言い切った。「証拠なら、裁判の場ではなく、いまここでお見せします」


 そう言ったクラウディアは、私にしたときと同じように、「《真実の祝福》よ、映したまえ」と告げ、部屋の天井にヴェールを広げた。

 深い湖底のような薄暗闇に、残酷なまでに煌びやかな星がまぶされる。さざ波のように揺れたと思えば、そこに私の姿が浮かびあがった。必ずフェアリッテを殺してやると、そのために生きてきたような顔をして、嫉妬深い瞳を光らせる私が。

 騎士に押さえられたまま、私は「やめて」とゆるゆると首を振る。


『ドレスに足を取られて溺れ死ぬのはフェアリッテ一人。一緒に溺れて命からがら助かった私を、疑うひとなんていないでしょうね』

「違うの、私は、突き落としはしなかった」

『……だから、この日のために、彼女と仲のいい姉妹のように見せていたのね。まさか貴女が殺しただなんて、誰にも思わせないために』

「違う……」


 そう漏らしながらも、違わないことは、私が一番よく知っている。

 私はずっとフェアリッテが嫌いだった。

 彼女の暢気な幸せ面が大嫌いだった。

 これが本当の私だ。醜い自分自身を晒されて、磔にでもされた気分だった。このまま私は死んでしまうのだろう。その絶望よりも、フェアリッテが目を覚ましたとき、私をどう思うかのほうが怖かった。せっかく仲良くなりたいと言ってくれたのに、少しくらいは、私だってと、そう思えたのに——きっともう彼女だって微笑んではくれないんだろうなと思った。

 真実を見せられた周囲は絶句していた。俯く私へ、クラウディアが「これでもまだ言い逃れをするつもり?」と挑発するように言った。

 逃れられない。《真実の祝福》を持つクラウディアを前にして、罪を免れることなんてできやしない。ずっと染みついていた感情は本物だから、どれだけ死んでも消えることはない。だけど。


「だけど、」


 ゴンドラの上での奇跡のような瞬間も、きっと永遠に消えることはないのだ——ぬいぐるみの柔らかさが、日差しの温かさが、私に触れた手の優しさが、あの一瞬の甘さが、なによりも強く私を抱きしめたのを、忘れられない。

 一筋の涙が私の頬を伝った。


「彼女が、くれたの」わななく唇が無心で紡ぐ。「愛だと思った」


 これまで、私の胸に渦巻く感情で、憎しみに勝るものなんてなかった。胸の大半は空虚に支配されていたから。残った場所で必死に憎しみを育てて、または空虚を埋めようと躍起になった。だけど、やっと満たされた気がして、するとそこには別の感情が芽生えたのだ。

 まだ小さくて、なんの確証もない。

 人生で一度として持ったことがないからわからない。

 だけど、きっと、そうなのだ。

 私は、彼女のことを、


「愛してるの……」


 はらりと肩口からこぼれ落ちる髪の音が聞き取れるほどの静寂。どれだけか細い私の声でも、全員が息を潜めるようにして聞き入っていた。それを打ち破ったのは、私を陥れようと舌なめずりをしていたクラウディアでも、私を拘束する騎士の硬い声でもなかった。

 

「それは本当かい?」


 品のある穏やかな少年の声に、私はおもむろに顔を上げる。

 この部屋の、開け放った扉の前に、黒真珠のように艶やかな髪をした彼がいた。

 ベルトラント・エーヴィヒ・アン・リーべ——この国の第一王子だ。

 ブルーメンブラット辺境伯も、その場にいた騎士も、使用人も、驚愕した顔で「殿下」と漏らし、こうべを垂れる。ああ、そうか。フェアリッテのために駆けつけたのか。そうぼんやりと思いながらも、私は礼を欠き、殿下を見つめることしかしなかった。そんな私に、殿下は「プリマヴィーラ・アウフムッシェル。君がフェアリッテを湖に突き落としたと聞いたけれど……さっき君の言ったことは本当かい?」と尋ねる。そこでやっと、先ほどの彼の言葉が私への問いかけだったのだと気づいた。


「本当です、殿下……私は彼女を突き落としていません」

「いいえ、殿下!」劣勢を悟ったクラウディアは強く反論する。「嘘です。彼女はフェアリッテを殺そうとしました。そして、それを隠すため、自分から湖に飛びこんだのです!」

「どうぞフェアリッテに聞いてください。彼女なら全てわかっています」


 私はクラウディアではなく、殿下に伝えた。

 その目を見てしかと告げれば、彼は私を見つめ返し、問いかける。


「誓えるかい?」


 命に懸けてと私は答えようとして、とうに懸け終えていることを思い出した。

 私の命はフィデリオへの証明として差しだしていたのだ。だとしたら、他になにが懸けられるだろう。アウフムッシェルの名も、ましてやブルーメンブラットの名も、私のものではない。ただのプリマヴィーラには、クシェルの言うところのはない。私は持たざる者だからなにも懸けられないのだ。たった一つ、これ以外には。


「誓います。愛に懸けて」


 私の言葉に、殿下は少しだけ微笑んで、「わかった」と答えた。

 それから静かに部屋へと入り、フェアリッテの枕元へと近づく。

 こんな騒ぎにおいても、フェアリッテは目を覚まさない。それだけ深い眠りについている。寝息を立てる彼女の顔はあどけなかった。その柔らかな頬を殿下は優しく撫でる。そしてそのまま、そっと唇を寄せ、フェアリッテへと口づけた。

 まるで物語のクライマックス、挿絵で見るようなワンシーンだった。殿下がそっと唇を離すと、固く閉ざされていたフェアリッテの瞼が震えた。ややあってから、まるで蕾が綻ぶように、彼女はゆっくりと目を開く。その花咲く瞳が、己に口づけた王子様の姿を捉えた。王子様のキスなんて馬鹿げているけれど、目を覚ましたフェアリッテは本当にお姫様みたいで、やっぱり、誰もが羨み憧れる女の子だった。

 

「《覚醒の祝福》……」


 誰とも知れず、そう漏らす。

 殿下の受けた祝福の名だ。

 目を覚ましたフェアリッテは「あら、殿下。どうなさったの?」と暢気に言った。

 殿下はなんでもないように微笑むと、「どうなさったもなにもないさ」と囁く。


「君はずっと眠っていたんだよ、フェアリッテ。湖に落ちたんだ」

「……ああ、そうだわ! ヴィーラの誕生日会で!」フェアリッテは心配そうに殿下を見上げる。「彼女は無事なの? 彼女も私と一緒に湖へ落ちてしまったの」

「彼女なら大丈夫。ただ、そのことについて、君に聞きたいことがあるんだ」


 クラウディアは人知れず息を呑んだけれど、この場にいる誰もが、そう尋ねた殿下へのフェアリッテの返答に気持ちを迫らせた。私を取り押さえる騎士などは神妙な顔つきで、二人の会話に耳をそばだてている。


「君の言う彼女、プリマヴィーラ・アウフムッシェル嬢は、あの日、君を湖へ突き落としたのかい?」

「まさか! 私が湖に落ちたのは、飛んできた鳥に驚いて、バランスを崩してしまったから。むしろ、彼女は私を助けようとしてくれたのよ。溺れた私のために、自ら湖に飛びこんだの」

「彼女が君を助けようとするのかい? 君たち二人に血の繋がりはなく、異母姉妹でもなんでもない、赤の他人だという噂も聞いたけれど」

「そうかもしれない」なんでもないように微笑んで、フェアリッテは言う。「でも、私たちはとっても仲がいいのよ。彼女を愛しているの」


——本当に、暢気な幸せ面だ。

 フェアリッテの微笑みに、場は一瞬で弛緩した。私を拘束していた騎士の手も緩む。私もそのまま床へとへたりこんで、静かにフェアリッテを見上げた。

 ふわふわきらきらと笑う彼女は、これほど緊張した部屋の中で、一人、春のように朗らかでいた。生死を彷徨さまよっただなんて、誰かに殺されかけただなんて考えもしない、あまりにも幸せそうな表情。

 心底嫌いで、敵わない、と思った。

 フェアリッテの髪を撫でていた殿下は、たちまちクラウディアへと視線を移し、「では、フォルトナー嬢。事件当時の真実を映してくれるかい?」と告げる。


「え……?」

「命を落としかけたフェアリッテ自身が、アウフムッシェル嬢を弁護している。僕も、それが真実だと信じたい。君の《真実の祝福》ならば証明できるだろう」

「っそれは、」

「そして、二人の言うことが本当だったとしたら、君もどうかをおこないを改めてほしい」殿下はクラウディアの目を見て言葉を続ける。「君がたばかったとは思っていないよ。だけど……たとえそこにどんな感情があったとしても、誰かが傷つけられたり、陥れられたりすることは、とても悲しいことだから」


 殿下は本気でそう言っているように見えた。このまま本当に私を殺してしまおうとクラウディアが企んでいたなんて考えもしない、その善性に呆れかえってしまう。なるほど、この第一王子もフェアリッテと同じ、暢気でお幸せな人種のようだ——お似合いの二人じゃないか。

 その後、フェアリッテの証言をもとに、私の潔白は証明され、裁判も取りやめとなった。王室の力添えと、ブルーメンブラットおよびアウフムッシェルの努力の末、私にまつわる噂の全てがまったくのでたらめであると広められた。

 私とフェアリッテ、どちらも命を落とすことなく、春の蝶の月は閉じていった。






 春の音の月を越えた、夏の草の月。

 私たちの学校は終業式を迎えた。

 学年末試験も無事に終えることができ、私は経営学と馬術で最優秀評価アインスを獲得した。フィデリオはほとんどの科目で最優秀評価アインスを獲得しており、名実ともに学年次席の地位を保持した。フェアリッテも経営学と語学、縫術の科目で最優秀評価アインスを獲得していて、その数は私よりも一つ多い。小癪だと思う反面、やはりとも思わされる。もう前ほどの苛烈な感情を抱くことはなかった。

 終業式のあとは、いよいよ夏休みだった。

 私たちは部屋の荷物をまとめ、帰省の準備をしていた。

 この一年間のことを振り返りながら手を動かしていると、洗面台の掃除をしていたコースフェルトが「ねえ、」と誰へとなく話した。


「また秋の芽の月には会えると言っても、やっぱりなんだか寂しいわ。きっと手紙を出しあいましょうね。きっと、きっとよ?」

「カトリナったら寂しがりやね。きっとどこかの夜会でも会えるでしょうに」

「だとしてもよ! この一年ほぼ毎日顔を合わせていたのに、そうでなくなるなんて寂しいもの。アウフムッシェル嬢も手紙を送ってくださるわよね?」

「もちろんよ。とっておきの便箋で送りますわ」


 私が答えると、コースフェルトは嬉しそうに手を重ねた。リンケは「大袈裟ね、夏休みのあいだは王宮での夜会もあるのに」と肩を竦める。リンケの言うとおりだ。感傷的すぎると、私も内心では呆れていた。

 いまではこうして普通の会話をできているものの、春の蝶の月の一件で私がフェアリッテを殺そうとしているという噂を広めたのは、リンケとコースフェルトだった。

 彼女たちは私の誕生日よりも前に、クラウディアから、私との会話のことを聞かせられたらしい。二人は「本気かどうかは確証が持てないため、貴女たちも注意していてほしい」とクラウディアから相談されたようで、その様子が切実だったために信じてしまった、と申し訳なさそうに私へ語った。リンケとコースフェルトが私への態度を変えたのも、それが原因だったのだ。おそらくだけれど、きっとこのときから、クラウディアは私を殺す算段で種を撒いていたのだろうと思う。ずっと秘密裏に私への印象操作を周囲へおこなっていたようだし、私が知らないだけで、クラウディアの暗躍はまだまだあるのかもしれない。

 私はクラウディアのものだったベッドを見つめる。

 そこは、春の蝶の月の事件後から、ずっと空になっていた。

 フェアリッテの言葉と殿下の指揮のもと、あの一連の事件は“事故と誤解”で片づけられた。フェアリッテが湖に落ちたのはただの不運で、私への疑いはクラウディアの杞憂だったのだと処理された。もちろん、《真実の祝福》で映しだされた会話は、あの場にいた者たちも記憶しているだろうが、みんなブルーメンブラットの人間なのだ。彼らが一斉に口を噤めば丸く収まる。ブルーメンブラット辺境伯もこれ以上のゴシップを望まない。私への疑心は完全には晴れないが、それが社交界に広まるようなことはなかった。

 そうなってくると、不利な立場になるのはクラウディアのほうだった。

 事件が事故として片づけられて以降、クラウディアのは、軽率な行動だったと糾弾された。他家の貴族を貶め、濡れ衣を着せたのだと、学校中で囁かれたのだ。いくら殿下がクラウディアを信じ、彼女を咎めない方向で対処したとはいえ、それを周囲が鵜呑みにできるわけがない。

 立場のなくなったクラウディアは、自主的な無期休学として、フォルトナー邸へと戻っていった。

 私が空のベッドを見つめていると、リンケも「お元気かしら、フォルトナー嬢は」としみじみとして言った。


「パトリツィアはフォルトナー嬢が心配?」コースフェルトは顔を顰める。「彼女、アウフムッシェル嬢は賎民の娘だから癇癪を起こすと手がつけられないだとか、根も葉もない陰口を言っていたのよ? いい気味だと思うわ」

「それを信じてしまった私たちも悪いわ。彼女を責められるのはアウフムッシェル嬢だけよ」リンケは私を見遣る。「アウフムッシェル嬢は、フォルトナー嬢にずっと裏切られていたと知って、どうお思いになったの?」


 リンケは気まずそうに尋ねてきた。コースフェルトも私を見つめる。

 二人の視線を受けながら、私はクラウディアのくれた刺繍入りのハンカチを思い出した。冬休みのあいだに彼女が贈ってくれたもの。誕生日でもなんでもないのに、きっと手間だってかかったろうに、私のために、わざわざ刺繍を入れてくれたのだ。それだけじゃない。私にしか見せない素の顔。初めて会ったとき、私を庇ってくれた言葉。


「……ではないと思うの。その関係が続かなかっただけで、私たちにも、本当に仲良しだったときがあると思うの」


 クラウディアに裏切られ、殿下からも見逃され、よっぽど彼女の悪事を吹聴してやろうと思ったけれど、これまでの思い出を振り返って、私はそうするのをやめた。

 私とクラウディアが本当の友達だったときの記憶は消えない。

 どれだけ砕け散ったとしても、そこにあるのだから。


「……だけど、次は、」


 と、私が言葉を続けようとしたとき、部屋の扉をノックする音が聞こえた。三人で扉へと振り返ると、「もしもし、ヴィーラ? 私よ、フェアリッテよ。いる?」という声が聞こえた。私は立ちあがり、扉を開け、フェアリッテを出迎える。


「ヴィーラ」フェアリッテは顔を合わせるなり微笑んだ。「よかったわ。まだ部屋にいたのね。もう出てしまったんじゃないかとひやひやしたわ」

「式の終えたついさっきで、そんなに早くは出ないわよ。ちょうど荷物を詰め終えたところ」

「でも、窓からアウフムッシェルの馬車が迎えに着いているのが見えたわ。きっとフィデリオも乗りこんでいると思うの。その前に貴女に会いたくて」

「あら。なあに?」


 私が首を傾げたのと、フェアリッテが私に抱きついたのは、同時のことだった。

 目を見開いたまま、私は固まる。

 フェアリッテは私の髪に頬をうずめて「この一年、貴女とここで学べて、とても楽しかったわ」と囁いた。その声はひどく感傷的だった。


「本当に、夢のようだった。ブルーメンブラットとアウフムッシェルの邸は離れているから、いままでのように顔を合わせる機会は減るのでしょうね」フェアリッテを私を抱きしめる腕の力を強くする。「手紙、書いてね。私もきっと送るわ」


 フェアリッテもコースフェルトと同じで感傷的になっているらしい。

 呆れたのに、笑えてしまった。

 私は彼女の背中にそっと手を遣った。


「……うん。フィデリオにも、不精にならないよう言っておくから。私たちからの手紙を楽しみにしていてね」


 そうしてフェアリッテと別れた私は、荷物を持って、アウフムッシェルの遣わした馬車へと乗った。フェアリッテの言うとおり、中にはすでにフィデリオが座っていて、私をじっと見て「遅い」と文句を言った。


「しょうがないじゃない。まとめるものが多かったのよ」

「式の始まる前には準備を終えているものだろう」

「淑女には持つべきものが多いのよ。ルームメイトの中じゃ、私が一番に荷造りを終えたわよ」私は首を傾げる。「いえ、クラウディアの次だったわね」


 私の冗談に、フィデリオは目を眇めた。不謹慎だと思ったのだろう。それが非常に愉快だった。貴女の名前を出すだけでフィデリオはこんな顔をするのよって、クラウディアに見せつけてやりたいほどだった。

 そんな私を見て、フィデリオは表情を解く。


「なにかいいことでもあったの?」

「別にないわ」

「嘘だよ。機嫌がいい」

「別にないったら」

「そういえば、寮舎を出たとき、君を探すフェアリッテに会ったな……彼女に会ったのか? なにか言われた?」

「ないない」

「そうやって君が二度言葉を重ねるときは大抵嘘をついている」

「変な勘ぐりはやめてくださる?」私は目を眇めた。「しばらくフェアリッテと顔を合わせなくて済むから清々してただけ。でも、貴方の顔を見ていたら台なしになったわ」

「夏休みが始まれば、これから毎日顔を合わせることになるんだぞ」

「奥様ともね。いくら他人とはいえ、あの振る舞いは最悪だわ。次に腹が立ったら久々に唾でも飛ばしてやろうかしら」


 なんの親戚関係もないと知って以降、私がフィデリオや奥様へ開き直るのに、そう時間はかからなかった。むしろ、痛いところを突かれたような顔をするのは相手のほうだった。なにかにつけてこやかましいフィデリオに「そりゃあ賎民の娘ですもの、教養がなくて当然よね」なんて言えば、苦しそうな顔で口を噤むのだ。使いどころを弁えなくては長続きはしない一過性の作用だろうが、彼がなにがしかの責を感じているあいだは、いつでも切れる手札だった。

 私の無遠慮な物言いに「たくましいね、君は」とフィデリオはため息をついた。


「そうでなくては、これまでしぶとく生きてなどいないわ」私は窓枠に頬杖をつき、外の景色を眺める。「きっと親譲りなのよ。その片親がどんなひとかは知れないけどね」

「君のその命があるのは、君の母親の愛だものね」


 歴史として名高い恐慌、飢饉の最中さなか、貧困により痩せ細り、死すら感じ取った局面で、せめて娘だけでもと泣きついたらしい女性に、私は思いを馳せる。

 物心つく前には生き別れ、私はブルーメンブラットからアウフムッシェルへと身を寄せたけれど、そこからの生活で私は愛を欲したけれど、人生で初めて与えられた愛は、そのひとからだったかもしれない。


「私の母は……まだ生きていると思う?」

「……どうかな」フィデリオは同じように窓の外へと視線を遣った。「平民層ですら大量の死者が出たんだ。貧困層の人間が、あの恐慌を耐えうることはできなかっただろうね」

「私を捨てて、自分だけ助かればよかったのに。暢気よね。私ならそうはしない」

「辛辣だな。君を救おうとしたんだぞ?」

「それで死んでちゃあ世話ないわ。何事も、上手くやらないと」


 ブルーメンブラット邸での夜。クラウディアと完璧に別ったあの去り際に、クラウディアはそっと、私に耳打ちした——次は上手く殺る、と。

 クラウディアは私を貶めることを、私を殺すことを、諦めていないらしい。愛は人を狂わせるのだろう。我が身を以てよく理解しているので、それに別段驚きはしなかった。私だって、結局のところ——フェアリッテを殺すことこそしなかったけれど——殺したいほど憎んだ相手を許すなんて無理だ。それはクラウディアも同じだろう。

 けれど、貶められて、煮え湯を飲まされて、命を狙われて、なにもやり返さない私ではないのだ。たとえ心を傾けた相手であっても——次は、容赦しないから。


「私ならもっと上手くやれるわ。これからもね」


 フィデリオは「をしないように」と半眼で私を窘めた。

 再び生きはじめてから初めての夏を迎える。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る