TR-07 - There's a Kind of Hush

 ショッピングバッグ片手に車から降りると、ジェシはボストンタイプの眼鏡をかけたその愛嬌のある丸顔に笑みを浮かべ、振り返った。

 名前が示すとおり小振りなその車体を眺め、そのまま一歩下がって、首を傾げながら少し左へ移動する。そうしてショッピングバッグを左手に引っ掛け、右手にはキーを持ったまま、ジェシは親指と人差指でファインダーを作り、そこから愛車を覗いた。

 間もなく夜の訪れを聞く、淡いブルーのソーダにオレンジシロップを沈ませたような空の下。白、辛子色、小豆色とカラフルに並ぶ建物を背景に、街灯に照らされた黒い車体が映える。カシャ、と頭のなかで音がして、ジェシは満足そうな表情でファインダーから顔を上げると、仔犬のような軽い足取りで舗道を渡った。


 ジェシがミニ・クーパーを買ったのはジー・デヴィールがブレイクし、初めて自分たちが音楽で成功したのだと実感するに足る報酬を得てすぐのことだった。ジェシは先ずローズピアノやシンセサイザーなど楽器を、その次にデジタル一眼レフカメラとズームレンズを買った。車を購入したのは予定外のことで、それまでには想像もしたことのなかった高額な買い物に浮かれた勢いのようなものだった。

 その衝動買いが失敗だったわけではないが、今乗っているこのミニは二代目だ。一九九八年式ミニ・クーパー、BSCCリミテッド。ミニが総合、各クラスともにタイトルを総なめにした、一九六八年のブリティッシュサルーンカーチャンピオンシップの、三十周年を記念したモデルである。

 七百五十台しか存在しないこの限定車は、色もブラックとブルックランズグリーンの二色しかなく、ジェシが乗っているのはごく僅かしか造られなかった、希少なブラックのほうだ。ルーフはミニ・クーパーらしいホワイトで、ボンネットにはスポーティなクーパーラインも入っている。ワイドなオーバーフェンダーに8本スポークのアルミホイール、4速のスティックシフトMT、レトロなメーターパネルに深みのあるグリーンレザーのシートなど、クラシックで渋い魅力のこのモデルはまだローバーが手掛けていた頃のミニということもあり、マニアにも人気がある。

 コンディションの良い状態だったこの車をミニの専門店から薦められたとき、ジェシは即断即決で購入手続きの書類にサインした。価格的にはドリューのアルファロメオ・スパイダーに及ばないが、イギリスの伝統漂う趣味の良さでメンバーたちにも好評だった。VOXコンチネンタルやフェンダー・ローズなど、ノスタルジックなテイストを好むジェシらしい、楽器とカメラの次に大切にしている愛車だ。


 夕飯を買いに寄っていたら遅くなってしまった……と腕時計を見ながら、ジェシはプラハのほぼ中心に位置するヴルショヴィツェにある、白い建物へと入っていった。長期滞在の旅行者などにも利用されている、ツーベッドルームのこのアパートメントがジェシの住まいだ。この辺りは十九世紀の佇まいをところどころに残したまま、コンビニエンスストアやレストラン、ホスポダなどが多くある、便利な地区である。

 近くのスーパーマーケットで今から食べる夕食の惣菜と、飲み物やスナック菓子などを買いこんだジェシは、帰宅すると真っ直ぐキッチンへと向かった。ピルスナーの好まれるチェコではめずらしいペルモンのインディア・ペールエールはストッカーの中に、ソーセージや惣菜などは冷蔵庫にしまうと、ジェシはテーブルを廻りこんでリビングへと続くドアを開けた。

 独り暮らしには充分な広さの部屋の一角には、大きなL字型デスクと天井まであるシェルフがある。シェルフにはいろいろな機材とカメラのコレクションが置いてあり、デスクの上には黒い筐体のPCと大きなモニター、MIDIキーボード、シンセサイザーなどが設置されている。両側にはモニタースピーカー、スタンドに掛けられたヘッドフォン。そのヘッドフォンスタンドの脇に置かれたラップトップコンピューターを手に取ると、ジェシは部屋を横切ってソファセットの前にあるテーブルに置き、開いて電源を入れた。

 そうしておいて、ジェシはまたキッチンへと戻った。

 マグに半分ほどの水を量って小鍋に移す。シンク上の棚からビューリーズのアイリッシュ・ブレックファストの缶を出し、ティースプーンに三杯とたっぷりの茶葉をそこに入れる。沸騰するとすぐに火を消し、茶葉ごとマグに移すと今度はその小鍋にミルクを入れて温める。そうして軽くミルクが温まったら、マグの中の濃く出した紅茶をまた小鍋に戻す。そこに角砂糖を溶かし、茶漉しを使ってマグに注げば、幼い頃から飲み慣れたオブライエン家のミルクティーのできあがりだ。

 ランカシャーホットポットもカンバーランドソーセージもそれほど恋しくはなかったが、このミルクティーばかりは何処で暮らしていたって欠かせなかった。





 傍らに、買ってきたコブリハKoblihaという粉砂糖をまぶしたドーナツのような菓子パンと、ミルクティーのマグを置き、さて、とラップトップに向かうとジェシはメッセンジャーのアカウントにログインした。

 ずらりと並んだ仲間たちのアカウントはほとんどがオフライン、ロニーとルカは退席中になっていた。自分が呼びかけるのを待っているはずのそのアカウントをクリックし、ジェシは早速会話ウィンドウを開くと文字をタイプし始めた。



Jesseジェシ :おつかれさまです! お待たせしました』

Eliskaエリシュカ :ずっとログインはしっぱなしだけど、待ってたというわけじゃない。おつかれさま』

『 Jesse :えっ、ということはまだ事務所ですか?』

『 Eliska :自宅』

『 Jesse :え、でもずっとログインしっぱなしって』

『 Eliska :移動中はスマートフォン、帰宅してすぐPCでログイン』

『 Jesse :ああ、なるほど……。ほんとに一日中ネットしてるんですね』

『 Eliska :仕事だから』

『 Jesse :ええ、わかってます。じゃあえっと、話してた画像ですけど……どうやって送りましょう?』

『 Eliska :使ってるオンラインストレージは? Dropboxドロップボックス とか』

『 Jesse :Dropbox ですか、なるほどー。じゃ、今あげますね。ちょっと待っててください』

『 Eliska :たくさんある?』

『 Jesse :うん。けっこうありますけど……オフィシャルサイトのあのフォトページに載せるんなら、やっぱり新しい写真のほうがいいですよね? 最近撮ったのから何枚か選びますね』

『 Eliska :……どのくらいある?』

『 Jesse :どのくらいかなあ、フォルダの容量はもうすごいことになってるんですよ、ずっと昔から撮りためてるんで……。いちおういつ何処で撮ったやつかはわかるようにして分けてあるんですけど、うまく撮れてないのを削除したりとかまではしてなくて。だから今、いいのをいくつか選んでまとめるんで、ちょっと待ってくださいね』

『 Eliska :ずっと昔……古いのだといつの?』

『 Jesse :古いの? 昔の写真ですか? えっと、学生の頃に撮ったのがいちばん昔のですけど、ルカとテディしか写ってないので』

『 Eliska :学生の頃……ロンドンの学校の』

『 Jesse :ええ、ご存知のとおり僕、彼らの後輩でハウスが同じだったので』

『 Eliska :じゃあ、制服?』

『 Jesse :部屋で撮ったのは寝間着のズボンにTシャツみたいな恰好もありますけど、ほとんど制服ですね』

『 Eliska :寝間着、と制服』

『 Jesse :はい』

『 Eliska :何歳、十六歳くらい?』

『 Jesse :そうですね。ルカとテディが十五、六歳頃の写真です』

『 Jesse :……エリー? どうかしましたか?』

『 Jesse :あれ? 落ちちゃったのかな』

『 Eliska :……全部』

『 Jesse :あ、いた :-D』

『 Eliska :

『 Jesse :全部って lol(笑)

『 Jesse :……え、ほんとに? 全部見たいって、え、全部って僕の撮った写真を全部……ってことじゃなくて、ひょっとして』

  ―― Eliska が退席しました

『 Jesse :ええええっ』



 退席、というのは会話ウィンドウを閉じたか、接続状況が悪くなったりして切れてしまったということだが――見ると、エリーのアカウントはまだオンラインになっていた。つまり、エリーが自分でウィンドウを閉じたのだ。

 急な来客など、離席する場合はちゃんとそれを知らせるはずだし、それがないということは――仕事でもプライベートでも、一日中ウェブの世界に住んでいると云われているエリーの、あまりにもらしくないこの反応がなにを意味するのか、ジェシにもすぐにぴんときた。

 どっちだろう? ルカか、それともテディだろうか。ただの憧れなのかもしれないが、エリーはどちらかのことが好きだったのに違いない。――どっちにしても不毛だが。

 マグに手を伸ばし、ジェシはミルクティーをひとくち飲み、ふぅと息をついた。

 世界中にファンのいる美形な彼らである。そのふたりの十代の頃の写真となれば、女性なら誰だって見たいに違いない。ロニーだってきっと可愛い! と声をあげ、嬉々として見るだろう。ちょっとエリーのイメージとは違って驚きはするかもしれないが、そんな写真があるなら見たい、全部見せて! と云われることは別に不思議でもなんでもないのだ。

 しかし、『全部見たい』というのがまるで失言であったかのように慌ててウィンドウを閉じてしまうというのは――やはり、恋心がばれてしまったと隠れているようにしか思えない。

「……まじかぁ……、他の人なら応援しますけど、あのふたりは無理ですよ……」

 自分は知っている。ふたりがどれだけのことを乗り越えて、今も一緒にいるのかを。

 まあ、そうは云っても、テディはひょっとしたらルカじゃなく他の誰かでも大丈夫なのじゃないかと感じたことはあるが――たとえそうであっても、彼は女性にはまったく興味のないゲイだ。だからもし彼がフリーに――否、彼は普段からけっこうフリーダムだが、そうじゃなく独り身に――なったとしても、エリーにチャンスはない。

 ルカのほうはバイセクシュアルらしいが、彼をテディから引き離すことができるとしたら、死神くらいなものだろう。一晩だけの付き合いとかならわからないが、テディ以外の誰かに真剣な想いを向けるルカなど、想像すらできない。そのくらい、彼のテディへの想いは特別だ。きっとルカは、なにがあってもテディから離れることはできない――そんなことが可能なら、ふたりはもうとっくの昔に別離わかれていたはずなのだから。

 そんなことを考えていると、ぽーんと新たな会話ウィンドウが開いたことを知らせるアラートが出た。エリーが話しかけてきたのだ。ジェシはなんとなくほっとしながら、すぐにレスポンスを返した。



『 Eliska :ごめん。ただいま』

『 Jesse :おかえりなさい』

『 Jesse :えっと、写真、やっぱりすごくたくさんあるんで……いつ撮ったのがいいか云ってもらえば、そのフォルダだけ送るとかしますよ?』

『 Jesse :最近のだとリハーサルルームで撮ったやつとか、昔のなら音楽室で撮った制服のとかがありますけど、なにがいいですか』



 ジェシはなにも気がついていないふりをして、続けてそう送信した。が、そのまましばらく待ってみても、エリーからはなんの反応もなかった。なにをどう返せばいいか困っているのだろうか……これは、思った以上に重症なのかもしれない。

 不意にジェシは思いだした。あの、ザ・ロウ・フィルムの試写のとき――エリーはめずらしく顔色を変え、部屋を出ていってしまった。

 あのときは皆とんでもない映像に驚き、混乱していたので気にする余裕もなかったが、今考えれば、アンダーグラウンドな部分を含めたウェブの世界に精通しているエリーらしからぬ反応だったと云えなくもない。しかし、自分が憧れている相手の恋人とのキスシーンや、ドラッグをやっているシーンなどを見せられたのなら、とても居た堪れなかったとしても無理はない。


 どうしよう……どうしてあげたらいいのだろう。自分にはまだ恋愛経験などないに等しいのだから、これは難題だ。ジェシは古い記憶を思い起こした――それっぽい経験で思いつくのは、四歳のときに招待された近所に住む女の子のバースデイパーティで、その子とキスしたことくらいだ。

 子供の頃は、好きとか思うより前に、ただ一緒にいて心地好い相手と話したり遊んだりできれば、それで満足だった。好みのタイプとか理想とか、そんなことは考えもしなかった。年頃になると誰か決まった人くらい作らなきゃとか、もう童貞棄てないと恥ずかしいだなんて、いったいいつ、誰がそんなことを云いだしたのだろう。

 ジェシは漠然とだが、憧れていた――いつか波長が合う、一緒にいたいと思える相手と出逢って、自然に足並みを揃えておとなになっていけるといいな、と。

 同級生のなかにはGCSE試験のあと、童貞卒業パーティと称して娼婦を買いにパディントン地区まで行ったりした者たちもいたが、ジェシはそれに付き合おうという気にはなれなかった。そんなふうに行為だけしたって、なんの意味もないように思えた。かといって、そのとき一緒に寮に残っていたグリフィスが云っていたように、人生を共にすると決めた相手と神の御前みまえで永遠の愛を誓うまでは清らかでいなければならない、などと考えているわけでもない。

 なんのことはない――ジェシはなかなかこれで、恋に夢をみているロマンティストなのだった。そう、やはり最初は一緒にお茶を飲んだり、食事をしたりしてなんでもない会話を楽しんで、そうしているうちに気が合って。悩みがあるなら相談にのってあげたり、落ちこんでいるなら元気づけてあげたり、そうしているうちに距離が縮まって、互いが大事な存在になって――



『 Eliska :ごめん。じゃあ、それで』



 ようやく返ってきた言葉に、しかしジェシははい、わかりましたとタイプする気がせず、キーボードにかざした手を一瞬止めた。

 ――これで会話を終えて、この先も気づいてないふりを続けようとは思わなかった。自分になにかできるのならしてあげたい。写真が全部見たいというのなら見せてあげたい、と思った。もしも、それで気が済むのなら――



『 Jesse :エリー、大丈夫ですか?』

『 Eliska :うん』

『 Jesse :……あの、お腹空きませんか? 食事って済ませました?』

『 Eliska :食事? まだ』

『 Jesse :僕もまだなんです』

『 Eliska :じゃ、また明日』

『 Jesse :ああああ違います!』

『 Jesse :あのですね、写真、本当にものすごくいっぱいあるんですよ! だから、もう、その、あれです。送るより、直接見たほうが早いです』

『 Eliska :意味不明』

『 Jesse :だから、エリー、今からどこかで一緒に食事しませんか、ってことです。僕、PC持っていきますから。画像を管理してるPCを』

『 Eliska :今から食事に』

『 Jesse :ええ。どこかで待ち合わせしましょう』

『 Eliska :ジェシと私が、一緒に?』

『 Jesse :そうです。なにが好きですか? 僕はなんでもいいですよ』

『 Eliska :お店に、PCを持って』

『 Jesse :はい。持っていきます』

『 Eliska :PCで画像を』

『 Jesse :ええ、全部見せてあげます。十五歳のときのルカとテディの制服姿も、寝間着姿も』

『 Eliska :行く』



 こうして思いがけずエリーと夕食を共にすることになり、ジェシはデジタルカメラから抜いたSDカードとラップトップをバッグに入れ、キーホルダーを引っ掴むと慌ただしく部屋を出た。




       * * *




「……あの、なんかすみません。僕あんまりレストランとか知らなくって……、ほんとにここでよかったですか?」

「うん。一度来てみたいと思ってたし」

 ジェシとエリーは旧市街広場で待ち合わせたあと、そこから直ぐのところにあるハードロックカフェに来ていた。



 中世の雰囲気漂うプラハの街にハードロックカフェ? と想像するとちょっと違和感を覚えるかもしれないが、二〇〇九年にオープンしたこの欧州最大級のハードロックカフェは、ロット館Dům U Rottaと呼ばれる美しいフレスコ画が施された、ネオルネッサンス様式の建物の中にある。店内に一歩入り、四階まで吹き抜けているアトリウムを見上げれば、その中心から吊るされている巨大なギター型のシャンデリアに目を奪われること必至だ。

 ハードロックカフェ名物である偉大なロックスターたちのコレクションももちろん展示されていて、二階にはライヴステージもあり、カフェの他にはバーや、グッズを扱うロックショップもある。



 席に着き、エリーはクラシックナチョスにワカモレトッピングとグリルドチキン、ジェシはヒッコリーバーベキューベーコンチーズバーガーとクリスピーオニオンリングタワーを注文した。そして早速バッグからラップトップを出し、画像フォルダを開くと、そこに読みこませたSDカードのデータを移動する。

「はい、どうぞ! サブフォルダのタイトルを見ればいつ何処で撮った写真かわかるんで、お好きに開いて見てください」

「ありがとう……」

 くるりとラップトップの向きを変えると、エリーは仕事をしているときのような真剣な表情で見始めた。その様子を、ジェシはなんとなくじっと見つめていた。

 少し驚いたのだが、エリーは事務所にいるときとはまったく違う、パンキッシュなカジュアルスタイルで待ち合わせ場所に現れた。スタッズの付いた黒いデニムのジャケットに肩の部分がカットアウトされた派手なプリントのトップス、黒いスキニーパンツ、厚底のアンクルブーツ。トップスの裾から覗いている赤いタータンチェックは、ミニスカートなのか、それともただの飾りなのかジェシにはわからなかったが、いつも見ている地味なオフィススタイルと違って、小柄でほっそりとしたショートヘアのエリーにとても似合っていると思った。

 注文したナチョスが来ても、エリーは黙ったままずっとラップトップの画面に向かっていた。リンハルツカー通りまで車で来たためにコーラを飲んでいるジェシは、エリーが食事を始めるまでチーズバーガーには手をつけず待っていた。

 店内には八〇年代から九〇年代頃のハードロックが流れている。HR / HMハードロック ヘヴィメタル と括られるあたりだとジェシが聴くのはディープパープルやリッチー・ブラックモアズ・レインボー、シン・リジィ、ドリームシアターくらいのもので、それ以外にあまり知っているバンドはない。今流れているのも聴いたことがない曲だった。が、ハーモニーの美しいその壮大なバラッドに、ジェシは自分が知らないだけできっと有名な、ものすごいバンドの曲なんだろうなあ、などと思いながら聴き入っていた。間奏のテクニカルなギターソロも、泣きが入って完璧だ。

 誰だろう、なんていうバンドだろう……と、頬杖をついていた手をコーラのグラスに伸ばし、ジェシは何気無くエリーのほうを見た。

「――え、エリー!? ど、どうしたんですか……」

 ラップトップの向こうに覗くその瞳が、涙で濡れていた。

 ジェシは動揺して慌てふためき、自分の着ているジャケットやバッグの中を探ってハンカチーフをみつけると、それをエリーに差しだした。差しだしてから、その下にサーヴィエットがあったことに気づいて「あっ」とつい声がでる。ハンカチーフは受け取られないまま、ジェシはその手を引っこめた。

「あ、あの……大丈夫ですか。どうしたんですか、その……なんていうか、泣かないで。落ち着いて」

 エリーはぽろぽろと零れ落ちる涙をトップスの袖で拭い、コーラをひとくち飲むと肩で深呼吸をするようにして頷いた。

「うん、ごめん……大丈夫。――あんまり綺麗だったから」

「綺麗?」

「制服で、煙草持って笑いあってる写真……本当に綺麗。映画の中みたい。ルカはなんだか屈託が無いっていうか……今より純粋な感じがする。テディも……初めて見たかも。こんなに楽しそうに笑ってる顔……」

 そう独り言のように呟きながら、エリーはまた瞳を潤ませた。だがその表情はつらそうでも、哀しそうなのでもなく、笑みが浮かんでいた。店内の灯りがまるで星のように涙の粒に映りこみ、その笑みをきらきらと輝かせる。

「この写真も……なんだか意外。テディって、こんなふうにふざけたりしたんだね」

 それを聞いてジェシはラップトップの向きを少し変え、横から覗きこむようにしてその写真を見た。画面には、こちらに向かって襲いかかる怪獣のようなポーズをしているルカとテディが映っている。

「ああ、これですか……ええ、僕がカメラを向けてるのに気づくとこうやって、けっこうふざけたりしてましたね。僕は意識されずに自然なシーンを撮りたいほうなんですけど、いつもこんな感じで変なポーズとられちゃって……ほら、これも」

 ジェシはそう云って方向キーを何度か押し、表示されている画像を切り替えた。

 口先を尖らせ、悪ぶった表情で中指を立てた手をこちらへ伸ばしている十五歳のルカとテディが、画面いっぱいに映しだされる。それを見て、エリーはおかしそうにぷっと吹きだし、目尻を指で拭った。

「……本当に、昔から仲が良かったんだ」

「……ええ。最高のふたりです」

 そしてエリーは黙りこくったまま、また写真を見続けていたが――かかっていたバラッドがフェイドアウトし、アコースティックな曲に変わった頃、なにかがふっきれたようなその顔を上げてジェシを見た。

「冷めちゃったね。食べよう」





 食事を済ませ、ハードロックカフェを後にすると、ふたりは旧市街広場のほうへ向かって歩いた。旧市街広場はオレンジ色の灯りに照らされていて、その中世の佇まいを幻想的に見せている。

 途中、『一分の家Dům U Minuty』というズグラッフィートの装飾が美しい建物の前に差し掛かるとジェシはなんとなく足を止め、白く浮き上がって見えるサテュロスやディオニューソス、ヘラクレースなど、ギリシア神話をモチーフにした繊細なその装飾に暫し見蕩れた。



 『一分の家』は作家のフランツ・カフカが子供の頃、両親と共に暮らした家でもあり、プラハへやって来たら是非とも見るべき建造物のひとつである。さらにしばらく歩いて旧市街広場を進むと、正面にはライトアップされた二連尖塔が一際目立つゴシック様式のティーン教会、左手には天文時計が見える。他にもバロック様式の聖ミクラーシュ教会やロココ様式のキンスキー宮殿、『石の鐘の家Dům U Kamenného zvonu』など、旧市街広場は歴史的な価値の高い、プラハで最も見どころの多い観光スポットだ。



 もう夕食時も過ぎ、ホテルへと戻る頃合いなのか観光客らしい人影は疎らだった。これからどうするという相談もなにもなく、ジェシは店を出てじゃあまた明日、という気分になれず歩きだしたのだったが、エリーもなにも云わずずっとついてきていて、それが不思議としっくりくる感じがしていた。なんというか、まるで――

「――なんだか、こうして一緒に歩くのが初めてじゃないみたい」

 不意に自分が感じていたことをエリーが云うのを聞いて、ジェシは驚いて振り返った。

「えっ……奇遇ですね! 僕も今、そんなことを考えてたんですよ。っていうか、僕、黙ってここまで歩いてきちゃいましたけど……もうそろそろ帰りますか? なんなら送りますよ、車はあっちのほうなんですけど」

 そう云うと、エリーは少し考えこむように小首を傾げた。

 ――あ、今の仕種テディっぽい。とジェシが見つめていると、エリーが云った。

「車、乗せてほしいけど、帰るんじゃなくて……もっと、話を聞かせてほしい。学生の頃の、いろんな話」

「え、学生の頃のですか? いいですけど……その、実はあんまり微笑ましい話ばかりでもないし、イメージが壊れるかもしれませんよ」

「うん、いい。もう、わかってるから」

「そっか。……大丈夫ですか」

「うん。最初からいろいろわかってた。彼はルカ以外の手に負える人じゃない。仕事でサポートできるだけで充分、私は恵まれてる」

 ――テディのほうだったか。ジェシは慈しむような笑みを浮かべ、すっと差しだした手でその頬を撫でた。

 エリーが驚いたように目を瞠ってジェシの顔を見る。と、ジェシ自身も驚き、慌ててその手を引っこめた。

「わっ、ご、ご、ごめんなさい……! つ、つい僕っ、妹にするような調子で……!」

 するとエリーは、むっとしたように唇を尖らせた。

「妹? 私、ジェシより四つも歳上だけど」

「えっ!? そ、そうなんですか? 全然見えないです……」

「それに……せっかくデートみたいだと思ってたのに、妹……」

「で、で、で、デートっ!?」

 突然そんなことを云われ、ジェシは動揺し、顔に熱が集まるのを感じた。

「で、デートって……こういう感じなんですかね?」

「したことない?」

「ないんです……」

「そう。……私も、初めて」

「えっ? そうなんですか? っていうか、これが初デートでいいんですか?」

「……ジェシは?」

「僕っ、僕は……いいです、いいに決まってます! でも、その……え、いいのかなあ……」

 ぐるりと旧市街広場を一周したあと、ふたりは来た道を戻り、リンハルツカー通りへと出た。ジェシが愛車の助手席を開け、どうぞとエリーを促すと、彼女はなんだか嬉しそうに微笑んだ。

「やっぱり可愛い。この車、大好き」

 ジェシの顔が真っ赤に染まったのは、愛車を褒められた歓びからだったのか、それともその笑顔の所為だったのか――。エリーが車に乗りこむと、ジェシはビールを飲んだわけでもないのに顔が熱いのを感じながら、ふわふわと浮き立つ気分を引き締めようと一度深呼吸をし、運転席に坐った。

「えと、どこへ行きましょう? エリー、行きたいところとかありますか?」

「ペトシーンの丘へ行って夜景見る?」

「夜景ですか、ほんとにデートみたいですね。寒くないかな」

「温かい飲み物を買って持っていこう。ミルクティーがいい」

 左足でクラッチを、右足でブレーキペダルを踏みながら、ジェシは思わずエリーの横顔を見た。

 ――可愛い。

 小さくてちょっと低めな鼻も、尖った顎も――こんなに可愛かったのか、今までどうして気づかなかったのだろうと不思議に思う。

「……ミルクティーなら、僕、美味しいの知ってますよ」

「そうなの、どこの?」

 自然に頬が緩む。エリーを見つめる。返事を待つエリーも、自分を見つめている。

 挿し込んだキーを回してエンジンをかけながら、ジェシは云った。

「――今度、教えてあげますね。とっておきのミルクティーの、美味しい淹れ方」

 ハンドブレーキを解除し、ギアを1速に入れる。クラッチをゆっくりと戻して、アクセルペダルを徐々に踏み込んでいく。

 小振りで派手さもない、どことなく愛嬌のある見た目のわりには力強いエンジン音を響かせて、ふたりを乗せたミニは快調に走りだした。









"𝖳𝖧𝖤 𝖣𝖤𝖵𝖨𝖫 [𝖤𝗑𝗍𝗋𝖺 𝖾𝖽𝗂𝗍𝗂𝗈𝗇]"

◎𝖡𝖮𝖭𝖴𝖲 𝖣𝖨𝖲𝖢/ 𝖳𝖱-𝟢𝟩 - 𝖳𝗁𝖾𝗋𝖾'𝗌 𝖺 𝖪𝗂𝗇𝖽 𝗈𝖿 𝖧𝗎𝗌𝗁

© 𝟤𝟢𝟤𝟢 𝖪𝖠𝖱𝖠𝖲𝖴𝖬𝖠 𝖢𝗁𝗂𝗓𝗎𝗋𝗎


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