第2話 初めての出会い

 ひんやりとした感触とイグサの香り。

 その懐かしい感覚に歩向が目を覚ましたとき、そこは見知らぬ部屋だった。違和感を感じて頬に手を遣れば、畳みの跡に加えて、涙が伝っているのがわかる。


 なんだかとてもイヤな夢を見ていたような気がする。


 誰もいないんだろうか。頭の中に靄がかかったように、ひどくぼんやりとする。しかし余計なものが頭からすっかり抜け落ちてしまったような、感じたこともない爽快感がある。歩向はぼーとしながら部屋の中を見渡した。


 ここ……どこだろ?


 部屋は広くこざっぱりとしており、田舎にある祖父母の家を思い出させた。3方を襖で仕切られているために、ますますここがどこかわからない。どこかでぱたぱたと人が動いている音がする。好奇心に駆られた歩向は手でごしごしと涙を拭うと冒険だとばかりに正面の襖へと向かい、思い切りよく開けた。


「おや、目が覚めたかい」


「うわっ」思わず悲鳴を上げて尻もちをつく歩向。襖を開けてすぐ目の前にいたのは、一人の老婆と歩向と同じくらいの少女だった。お祭りでもあるのだろうか、どちらも着物を着ている。老婆は、腰を抜かす歩向のことを背を折り曲げるようにて覗き込んできた。歩向はそんな老婆に驚きつつも、視界の端に少し奥にいる少女を捉えていた。少女は顔を伏せて正座をしたまま顔までは見えない。


「おやおや、驚かせてしまったようだね。

 ここはオオカミ様のおわすカズイシ村。坊やは南の森に倒れていたところを運ばれたってわけさ。坊や、お前は誰で、どこから来たんだい?」


「ぼ、僕は中村歩向です。10歳です。家は山梨県の笛吹市、○○です。えっと……ここはどこですか?」


 老婆の迫力に圧倒されつつ、歩向は何とか絞り出すようにして答えた。

 老婆はそれを目を細めながら聞いていたかと思うと、深く息を吐いた。


「そうかい、そうかい。まさかこの村に稀人(まれびと)が来ようとはね」


 老婆はそう独白し、しばらく何も語ろうとしなかった。

 このままでは埒が明かない。「あ、あの」たまらず歩向は声をかけた。


「おぉすまんかった。儂の名前はルジア。この村の村長を務めておる。何かわからないことなどあれば、何でも聞くとええ。

 ゆっくりと話でも聞きたいところじゃが、生憎今日は立て込んでおっての。これ、サリナ、こっちにおいで」


 声に応え、奥にいた少女がそそと立ち上がる。長い髪がさらりと流れ、現れた瞳が歩向をじっと見つめていた。


「初めまして。サリナと申します」


 どこかつまらなそうに少女は答えた。にこりともせず、やや冷たい印象さえ抱かせるその表情に、歩向は思わず声を失った。


 目が惹きつけられて離せない。


 これが歩向とサリナの初めての出会いだった。



「ねぇ、今日って何があるの? カズイシ村って何市? お母さんはどこにいるのか知ってる?」


 あの後、すぐにルジアは席を離れてしまった。気まずい雰囲気が続く中、そっぽを向いて座るサリナに矢継ぎ早に質問していると、堪りかねたようにしてサリナが言った。


「ねぇ、ちょっと静かにしてくれる? うちは今日とっても忙しいの。本当だったら私もお手伝いしなきゃいけないんだから」


 やっと反応してくれたことに安堵しつつ、あんまりな言い草に歩向はむっと顔をしかめると「だから何があるんだよ」とぼやくように言ったきり黙り込んだ。その様子をちらりと横目で見たサリナはため息をつくと、しぶしぶといった様子で歩向の方を向いた。


「本当に稀人って何にも知らないのね。今日はタカナシさんちのお葬式があるの。だからうちは昨日から大忙しなんだから」


 そう言うサリナは自慢げだ。そんなものかと飲み込む歩向だったが、それから出た言葉は信じられないものだった。


 彼女は言った。「稀人に母親なんているわけないじゃない」と。


 一体何を言っているんだろう。歩向の頭は一瞬真っ白になった。聞き違いかとも思ったが、サリナは当たり前のことのように続けた。


「稀人に家族なんているわけないじゃない。ヤマナシっていったかしら? そんな場所、聞いたこともないわ。

 いい? よく聞きなさい、コバヤシ=アユム。普通の人に家名はないわ。なのにあなたはさも当たり前のようにその名を告げる。どこから来たかもわからず、ある日ふと独り訪れ、私たちが知らない世界のことを告げる。私たちはそんなあなたたちのことを、稀人と呼ぶわ」


 そんな馬鹿なことがあるものか。あまりのことに歩向は目を見開いた。ここが違う世界だなんて、もうお母さんやお父さん、熊五郎に会えないなんて。そんなことが信じられるわけがない。からかっているんじゃないか。歩向は上目遣いにサリナを見るが、「じゃなければあの森で独り、生きていられるわけがないじゃない」と当たり前のことをつまらないように語るその顔に、嘘偽りは読み取れなかった。

 サリナは本当のことを言っているのかもしれない。しかしその事実は歩向には重すぎた。だからサリナが、バケモノのように見えたのだった。


「嘘だ嘘だ、嘘ばっかり」


 歩向は叫ぶようにそう言うと、サリナが何か言おうとするのを振り切って駆けだした。途中ぱたぱたと忙しなく行き来する人とすれ違い声を掛けられたが、歩向は耳を手で強く塞ぎ、逃げるようにすり抜けていく。ここはバケモノ屋敷だ。こんなことがある筈がない。

 救いを求めるようにして門をくぐり抜けた。


 そこには、見覚えのない景色が広がっていた。一見すると祖母が住む田園地帯のように見える。しかし見たこともないような粗末な家々が散逸し、ちらほらと見える人の顔も彫りが深く、様々な髪色をしているところが大きな違和感として目に刺さった。さらにゆっくりと後ろを振り返り見れば、サリナの家の裏には、鬱蒼とした森が見えたのだった。


 思わず大きな叫び声をあげて、歩向は走り出した。どこに行くつもりがあったわけでもない。ただただこの場にいたくなかったのだ。

 どれだけ走ったのだろう。息は切れ、脇腹や足がひどく痛む。脇腹を押さえながら荒れた息を整えながら足元を見れば、靴も履いていない足からは血が出ていた。

 いつのまにか北の森のほとりまで来ていたようだ。人気はない。歩向はへたへたとその場に座り込んでしまった。

 

 そのままどれほどの時が経っただろう。頭の中には先程のサリナの言葉がふつふつと浮かび、その度にそんなわけがないと必死になって自分を励ました。

 すぐにお母さんやお父さんが、いやその前に熊五郎が迎えに来てくれるはずだ。歩向は何度も言い聞かせるのだった。

 熊五郎は中村家で飼っている犬だ。下校途中に勝手についてきた母犬が産んだ犬で、母犬が亡くなった後も歩向は誰よりも可愛がり続けていた。楽しいときも寂しいときも、二人はいつも一緒だったのだ。目を閉じればありありとその姿が思い浮かび、すぐ傍に熊五郎がいるような気さえした。


「熊五郎」


 思わずつぶやいた。そのとき、耳元で熊五郎の鳴き声がたしかに聞こえたのだった。

 アユムはぱっと目を開けてきょときょとと周りを見渡した。しかし周りには熊五郎はおろか、誰一人として姿はない。それどころか、徐々に日も暮れ辺りはすっかり暗くなっているようだった。


「助けてよ熊五郎」

 その声は空しく響くばかりだった。


 するとそこに、どこからともなく、「リーン」と、今度は澄んだ鈴の音が聞こえてきた。頭だけ動かして見れば、そこには薄闇から浮かび上がるようにして、見たこともない光景が広がっていた。 


 白装束を着た集団が白木でできた長い箱のようなものを持ち、ゆっくりと歩いている。その顔は伏せられ、表情は見えない。ただ袖口に着けられた鈴だけが、ゆっくりとした歩調に合わせるように涼やかに鳴り響いている。何が辺りを照らしているのかとまじまじ見れば、火の玉が集団へついてくるようにして浮かんでいるのがわかった。

 狐火だ。歩向はかつて、祖母から昔語りとして闇夜に浮かぶその火の玉について聞いたことがあった。夜毎徘徊する狐の行列。見れば生きては帰れないという。


 ではこいつらは人間ではないに違いない。


 その異様な光景に思わず悲鳴を上げようとした歩向の口を、誰かが手で塞ぎ、さっと道の脇に引っ張り込んだ。


 じたばたと力の限り暴れるが、その手はビクともしない。大きく、硬い手が鳴けばんとする口を、暴れる手を、しっかりと抑え込んで離してくれない。その手からは生臭い獣の匂いがした。


「大丈夫だ」


 暴れる歩向の耳元で、知らない誰かの声がした。落ち着いた、大人の男の声だった。どうやらバケモノではないらしい。アユムが観念して力を抜くと、その人はやっと歩向を解放してくれた。肩を持ち、向かい合うようにして体を反転させてくる。どうやら逃げ出せそうにはないらしい。

 金髪に彫りの深い土塗れの顔に、銀の瞳が鈍く光っていた。彼は言う。


「静かに。大切な葬儀の邪魔をしてはいけない」


 落ち着いたことを確認すると、その人は歩向の肩に手を乗せたまま集団が通り過ぎていくのをじっと見ていた。歩向はその間その人に近寄り、ぎゅっと服を掴んで離さなかった。

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