第2話

 煤けたカーテンを透かして、朝日が差し込んだ。



 時刻は六時五十分。


 仮眠開けの事務室は一晩分の呼気を含んだ重たい空気が満ちている気がして、カーテンごと窓を開けた。


 日勤のスタッフと交代する前にお湯を沸かすよう言われたのを思い出し、蛇口から電気ポットに水を入れていると、昨日の大川が入ってきた。


「あぁ、お疲れ様。どう、眠れたぁ?」

 慌ただしげに髪をまとめながら尋ねる背中に、

「はい、まぁ、何事もなく……」

 と返す。


「そう? よかったわ、酷い日だと一晩中動き回る利用者さんもいますから。あ、日報書いたら上がって大丈夫ですからね」


 三時間は寝たはずだが、急に疲労と眠気がぶり返して、目の奥が痛み出したのに耐えていると、まだ学生のような若い男が事務室のドアを開けた。



「昨日からの夜勤のひとですよね。おはようございます、介護士の田端って言います! 同いくらいのひと少ないんで嬉しいです」


 大学でスポーツでもしていたのか、大きく通る声に眼の痛みが鋭くなる。


 田端は聞いてもいないのに、ひとと関わるのが好きでこの仕事に就いたこと、大学で教員免許も取ったこと、フットサルクラブにいたことなどを話した。


 痛みから意識を逸らそうとするうちに、昨夜見た角部屋の男のことを思い出す。



「……ここ、俺以外に夜勤のスタッフいるんですか。俺と同じか少し上くらいの男性の」


 田端は一瞬目を丸くして、

「いませんよ? え、怖いな。さっそく何か見ちゃったんですか」

 と大仰に怖がってみせた。


 一ヶ月ぶりの夜勤のせいで見た幻覚だったのだろうか。


「いや、別に……」


 田端はまだ何か聞きたがったが、廊下の方から聞こえた大川の声がそれを遮った。



「駄目ですよ、辰木さん。勝手に歩いちゃ。呼んでくれれば行きますから」



 事務室を出ると、大川がひとりの利用者に肩を貸していた。老人の涙が溜まったように見える横幅の広い眼にどこか見覚えがある。


「手伝いますか」

 近づくと、大川はいいんですよと首を振る。


「いえ、大丈夫なんですけどね。二〇一の辰木さん、足が悪いから」

「二〇一室って、角部屋の」


 呟いた瞬間、老人が急に俺の手首を握った。


 そのままざらりと撫でられた手のひらに妙な感触があり、無意識に弾きそうになる。

 老人が一瞬顔をしかめた。

 俺の爪がぶつかったのか、油紙のように茶色ずんだ薄い手の皮に微かに血が滲んでいた。



 大川は気づかないらしく、

「そのひとはもうお仕事終わりなの。私と一緒に行きましょうね」

 と、そのまま老人の手を引いていった。



 老人に掴まれた方の手の中を見ると、煙草とライターが握らされている。俺が昨夜失くしたものだ。



 振り返ると、老人が大川の肩から盗み見るようにこちらを向き、ぎこちなく指を立てた手を上げる。


 煙るガラスの中で、喋るなのジェスチャーをする男の姿が残像のように浮かんで消えた。



 ***



 仕事を終えてすぐ眠る気にもなれず、明かりの消えた赤い看板の乱立する寒々しい飲屋街を歩き回った。


 生暖かい老人ホームで溜まった淀みを振り払いたかったのか、今夜の勤務でまた同じものを見たとき不眠のせいの幻覚だと言い訳にするつもりか。

 手の中に戻ってきたひしゃげた煙草の箱は、現実だった。


 学生ばかりが住む安アパートに帰ってから結局一睡もせず、街にネオンが灯り出す頃、また施設の前にいる。



 事務所に着くと、昨日より少し早く来たせいか、まだ眠る前の老人たちが食堂から出て行くところだった。

 その中に二組の老いた男女が手を繋いでいるのが見える。


「あのふたりですか、いいわよねぇ」

 大川がエプロンを外しながら朗らかな声で言う。


「夫婦で入居してるんですか」

「いいえ、違うのよ。あのお歳でもね、カップルなの」


 互いの手を握りながらゆっくりと歩く姿は背中は小さく、下校途中の少年少女のようでひどく歪だと思った。

 老いらくの恋というのもあるのだろう。



 食堂に残る人影に目をやると、小豆色の寝間着の老婆が紙ナプキンか何かを弄びながらしきりに口を動かしていた。


 その隣に、二〇一号室の老人がいた。

 辰木というその男は、身体は老婆の方に向けながら、膜の張った卵白のような眼で俺を見ている。


 騒がしい足音がして太った中年の女が入ってきた。

「あぁ、暑い暑い。暖房効きすぎよ。それでもお爺さんお婆さんは寒いらしいけど」


 面接のとき見た、菊池という介護士だ。詰問するような、まくし立てるような話し方をする女だった。


「辰木さん、っていうのはどういう方なんですか」

 俺がどちらにともなく言うと、菊池が好奇に目を歪ませて答えた。

「あの、あの女房殺しの! 」


 大川が嗜めるような声で、ちょっと、と咎める。

「女房殺しの?」


 菊池は俺に顔を近づけて、言った。

「あのひとねぇ、若い頃はずいぶんモテたらしいのよ。今じゃわからないけれど。二回か三回結婚してて、奥さん全員亡くなったり、大病してるのよ。毒でも盛ったんじゃないかって。最後の奥さんとの間に息子さんがいて、ここに入れたの。入居の手続きしたとき以外、会いに来たことは一回もないと思うけど。やっぱり若い間派手でも、お金持ってた方が最後は勝ちなのよね」


 そう言い切ると、外したエプロンと机の上のクリアファイルを一冊掴んで菊池は足早に事務所を出た。

 大川が苦笑いで俺に少し頭を下げてみせる。


 食堂を見ると辰木と老婆はまだ座っている。


 目が合った瞬間、辰木は異様に赤い唇を歪ませ微かに笑ったように見えた。

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