第6話

 東の門の外は、春の園だった。梅や桜がそこかしこに乱れ咲き、花々の色の鮮やかさに染められた薄紅の霞が、白む光のなか紫の細い雲がたなびく空の下に漂っていた。萌え出づる草花のあまやかな香を含んだ風が、鮮やかな新緑の柳の葉をなびかせる。声高く鶯のさえずりが響きわたり、その歌声の出所を探してみると、けぶるほどの桃色に彩りを添えるかのように花枝に小さな鳥がとまっていた。そして一瞬見分けられないほどに溶けこんだ、春色をまとったオトヒメがすぐそばの枝に座り、鶯と声を重ねて歌っていた。

 彼は樹上を見上げて、その歌を聴いていた。オトヒメはときおり彼の方に眼差しを向けたが、そのたび長く見つめることはできずに、すぐ目をそらしてしまっていた。彼にとってはそれすら微笑ましく、心満たされる眺めだった。

 南の門が開かれると、真夏の陽射しが彼を射た。春の庭と隔てる垣根に沿って卯の花が咲いており、その白が吹き付ける風までも熱を帯びているなかで涼しげに見えた。木々の梢は天幕のように葉を茂らせ、その下を共に歩く二人の顔に木漏れ日が映った。姿は見えないが、さかんに鳴きたてる蝉の声であたりは満たされており、その合間をくぐってときおりほととぎすの声も聞こえた。木立を抜け出た庭の中央には大きな遣り水が贅沢に作られており、水が溜まって池になったところには蓮の花が露を宿す青々とした葉に包まれながら花弁を開いており、流れ流れた水の汀では水鳥の群れが遊んでいた。

 彼らが近づくと、水鳥は場所を譲るようにすばやく飛び立った。海育ちのせいか、彼は水を見て無性に泳ぎたくなった。泳ぎに親しんだ者でなくとも、水に体を浸したいと思うほどの真上の太陽が灼熱で地を焼く暑さでもあった。彼がいちおう尋ねてみると、オトヒメは驚いたが咎めはせず、すぐに微笑んで頷いたので、彼は帯をほどき、衣を脱ぎすべらせて下履きだけになると、勢いよく飛び込んで水を掻いた。水は冷たく心地よかった。潮水とはまた違った、しんと染み透る水のよさがあった。しばらく体を浸していたが、水面に浮かび上がって濡れそぼる顔を手で拭ったときに、ほとりに座り込んで一羽を撫でているオトヒメの背中を見つけた。姫がなぜ背を向けているのかを考えてまた笑みがこみ上げて来た。そのついでにふと悪戯心を忘れた。このときばかりは、彼女が竜宮の姫だということを忘れており、からかって気を引いて振り向かせてみたい女の子として見ていた。

 彼はなるべく音を立てないように泳いでいって、出し抜けにオトヒメの手を掴むと水の中へ引きずり込んだ。甲高い乙女の悲鳴と、水音があがる。思った通りに事が運んで彼は笑ったが、いきなり水に引き込まれた驚きで体が強張り、また身につけた衣が水を含んで重くなったせいで、オトヒメは水の中でもがいた。そのただならない様子に彼も気付き、これはどうやら笑っている場合ではないらしいと咄嗟にオトヒメを横抱きに抱きかかえた。息苦しさからは逃れたが、ふと目をあげたときに、思いがけず間近に彼の顔を見て、オトヒメは激しく狼狽えた。彼が、あっと思ったときにはもう、オトヒメは岸に上がっていた。彼もいそいで水からあがり、たいそう心配しながらオトヒメに近づいた。自分の無体が姫を傷つけ、怒らせたのではないかと恐れたのである。嫌われてあの微笑みがもう二度と自分に向けられることはないかもしれないと考えただけで、ひどく彼は動揺した。謝りながらオトヒメの肩に手をかけようとしたところで、弾かれたように身を引かれてしまったので気落ちしかけたが、どうも様子がおかしいことに気が付いた。海神の庭であるからこそ成せる業か、彼の体もオトヒメの衣もすっかり乾いていたが、オトヒメは袖に顔を埋め、小さな耳が真っ赤に染まっていたのである。浜の女で半裸の男への恥じらいなど持ち合わせているものはいなかった。彼は安堵とオトヒメのいとけなさに、水面を震わせるほどの爽快な笑い声を響かせた。

 西の門をくぐり抜ければ、見事な綾錦と見まごうばかりの紅葉の彩りの尽くしい秋の庭だった。白菊や萩が先、遠方を望めばすすき野で生い茂るすすきを分けてゆく四足がいると思って目を凝らしてみれば、どこか胸をうつ声で鳴く鹿の群れだった。

 周囲の木々からは雨のようにもみじ葉が降り注いだ。降れども降れども尽きることなく、樹の枝があたたかな色をまとっているのが不思議であったが、オトヒメが平然をしているところを見ると、竜宮の庭ではこれもまた当然のことであるらしい。めくるめく火の色の葉が目の前を舞い行く景色のなかに、オトヒメを見失いそうだった。彼がつと手を差し伸ばすと、オトヒメはすぐに離れた。しかし微笑んでいるところを見ると、さきほどの気恥ずかしさがいくぶん尾を引いているにしろ、わだかまりを残しているわけではないようだった。姫は指に絡げて裳裾を上げると、笑いながら駆け出した。彼はもちろんその後を追いかけた。斜陽の金色が舞い散る緋の葉の合間に光り、一瞬彼の目をくらませた。そのわずかな間に、彼はオトヒメを見失った。右に左に振り返りながら探していると、とある樹の影からあの領布が覗いているのを見つけた。彼は歩み寄って手を伸ばしたが、姫はすばやく樹をまわりこんだ。あと少しで顔が見えるところで逃れるということを二、三度繰り返したところで、まどろっこしくなった彼が樹の両側から腕を伸ばして姫を捕らえた。彼の腕の長さにすれば、わけもないことだったが、オトヒメは少なからず驚いたらしく、小さな声が樹の向こう側からした。彼は樹の周囲に沿ってオトヒメを引き寄せた。姫はまた樹の裏側に逃げ込もうとしたが、姫の手を掴んだ彼の手がそれを許さなかった。オトヒメは戸惑う瞳で彼を見上げたが、微笑みかけられるとつと瞳を伏せて、手を離そうと試みなかった。それで彼は気をよくして、繋いだ手と手をそのままにしておいた。

 北の門を開けば、鋭い北風に乗って粉雪が吹き込んできた。木々の梢には雪が降り積り、枯葉は霜を帯びて、遠くにかすむ山はまったく白妙であった。生けるものすべてを眠らせる、冷たき雪は西つ方のわずかな残照を受けて純白の光を放つ。吐き出す息は白く、ひとすじの靄となり風に流されていった。

空は紫から藍色への移り変わりが高貴な女人の衣の重ねに見え、そこにひとつ金に輝く星が浮かんでいた。彼の隣に立つオトヒメは、顎をあげてその輝きを見つめていた。彼は雪でもなく星でもなく、その横顔を見ていた。オトヒメの肩はなだらかにまろみを帯びていたが、か細くもあり、この寒さがこたえるように見えてならなかった。彼は繋いだままの手を引いてその肩を抱くと、「竜宮のお姫さまは凍えたりはしないのかな」とささやいた。オトヒメの返事はなかったが、引き寄せられるままになっていた。それからしばらくのち、彼の胸に頬を当てて「あたたかい」と、空気に漂う息の白よりもあわい声音でつぶやいた。

 やがて西の地平から細々と漏れていた光も潰えた。その頃になると、どちらからともなく宮の方へと歩き始めた、寄り添い合ったそのままで。彼は目の端に、ふと影がよぎったように思った。気になってそちらに目を向けると、凍てつき氷を張った池があった。その分厚く、白く濁った氷の向こうで漆黒の甲羅を持つ影が体を返したのを見た気がしたが、たしかなものとは思えず幻めいていて、いかがなさいました、とのオトヒメの問いに、彼は黙って首を横に振った。それから、思いついてひとつ打ち明け話をした。

「ここに来る前の夜、ずいぶん不思議な夢を見たんだ。たいそうな美人が海から上がってくる夢だった。いま思うと、あれはあんただったんだな。俺はきっと、あんたに会うためにここまで来たんだ」

 言い終えて彼はオトヒメの様子を覗ったが、恥ずかしげに微笑んでくれるかと思えば、俯いて黙り込んでいた。なにか悪いことを言っただろうかと彼が不安になりかけたときに、オトヒメは彼を見上げて微笑んだ。それで彼は安心した。

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