#8
全体がカオスフィールドと化し、歪みに覆われたこの場所では、カオス濃度が場所によって乱高下する。即ち、濃度の濃い方へ向かえば形骸に辿り着くという手法が使いづらい。そのため、形骸の発見には目視を頼るしか無かった。
菌糸のように床一面を覆う毛細血管の絨毯が、部屋の中央――頭上から差し込む光で円形に照らされたその部分だけ、出来たばかりの皮腫のように僅かに膨らんでいた。当初、ヴィクトリアを包む毛細血管の塊が、海綿動物のようになって鎮座していた場所だ。
僕達は初め、塊の中に形骸があると見込んでいた。でもその中から現れたのがヴィクトリアだったから、あそこにはもう何も無いと思い込んでいたんだ。
けれども、ヴィクトリアのこれまでの動きは、全て部屋の中心から僕達を遠ざけようとするものだった。毛細血管の壁となって現れた時も、沼となって僕達を取り囲んでいる今も、どの方向からでも僕達を攻撃出来たはずなのに、彼女はずっと部屋の中心に背を向け続けていたんだ。
やはりそうだ。彼女は僕達をこの部屋の中央、光に照らされたあの膨らみがある場所へ行かせないようにしているに違いない。
「くそッ……! きりがねえ!」
アメツチがデルタストリングスから光の矢を放つ度に、ヴィクトリアの身体の一部がドーナツの型抜きのように丸く抉り取られて行く。少女はその都度悲鳴を上げながらも、破壊された部位を毛細血管で再生させ、決して攻撃の手を緩めようとしない。
デルタストリングスの和音に交じり、アナライザーのアラートが鳴り響く。侵襲率20%、タイムリミットは間近に迫っていた。
このままではまずい。
「アメツチッ! 援護してくれ! イチかバチか……突破する!」
「ご主人様ッ!」
ヴィクトリアが横薙ぎに繰り出した槍をスティンガーベルで払い落とし、彼女の方へ駆け出す。だが目的は目の前で泣きながら武器を振り回す異形の少女ではない。距離を詰め、スティンガーベルを身体の正面に垂直に構える。
「エフェクト発動!
〝きゃああああああぁッ!!〟
爆ぜるようにして広がった浄化の音が、ヴィクトリアの皮膚を果実の皮のように剥ぐ。皮の下からさくらんぼ色の肉が覗いた。彼女が怯んだ隙に、その傍らを走り抜ける。スティンガーベルの浄化の音が毛細血管の沼を枯らし、進行方向に半円の道を作っていく。
音が続くのは約十秒――その間に部屋の中央、床を覆う毛細血管が僅かに膨らんだその場所に辿り着ければ……。
倒れ込むように身を低くし、灰を巻き上げながら床を蹴る。
〝あああッ!! ダメッ! ダメェエエエ!!〟
背後でヴィクトリアの叫び声が聞こえた。やはり焦っている。けれども、彼女の妨害は入らなかった。幸い、アメツチが援護してくれているようだ。数秒の内に部屋の中央にある毛細血管の膨らみがすぐそこまで迫る。スティンガーベルを前方に繰り出しながら、灰の上を数メートル滑り、僕は膨らみの手前で停止した。
浄化の音色は辛うじて余韻を引きずっている。
スティンガーベルを振りかざすと、その膨らみが枯れていき、間を置かずして灰になった。すかさず刃を垂直にして横薙ぎに払い、団扇の要領でそれを吹き飛ばす。宙に舞い上がった灰塵の下から現れたのは、ヴィクトリアの記憶の中で目にしたあのベッドだった。
「やっぱり……! アメツチは正解だったんだ」
キングサイズ程もある、フレームに飾り彫りの入ったアンティーク調のベッドだ。女児用にしては大きすぎるけれど、その上に被せられたシーツの柄や、ハート型のクッション、枕元に置かれた西洋人形、そして沢山のぬいぐるみは、その主の年齢と性別を察するに何の不都合も無い。
問題はその傍らにある物だ。
それは真っ黒な人の形をした物体だった。ベッドの傍らで祈るように跪き、頭を抱えながらシーツの上に突っ伏している。
「形骸だ……!」
道理で見つからなかったわけだ。形骸を覆っていた毛細血管の歪みが、常にカオスを取り込み続ける事で、大気中へのカオスの流出を抑え込んでいたんだ。それがカムフラージュとなり、視認出来ないばかりか、アナライザーでの観測もしにくくなっていたのだろう。
カオスフィールドの淵源である形骸――その周囲のカオス濃度は他とは比べ物にならない。
刃を形骸に向け、スティンガーベルを振り上げる。僅かに
形骸目掛け、スティンガーベルを一気に振り下ろしたその刹那――
〝――――うううっ……!〟
石を突いたような手ごたえと、小さな呻き声に、僕は目を見開いた。
「ヴィクトリアッ……!」
異形の少女が僕の前に立ち、その小さな手で刃を受け止めていたんだ。
ヴィクトリアは部屋中から毛細血管を補充し、刃に溶かされる両手を、再生し続けている。肉を焼くような音を立てながら、細かい灰が蒸気のようにそこから立ち上っていた。きっと想像を絶する苦痛を感じているはずだ。
「やめろヴィクトリア! もういい! もういい……!」
〝ううう……ママぁ……!!〟
「もう君がこれ以上苦しむ必要なんてない! 手を離せヴィクトリア……!」
〝や、やだぁ……! パパの身体……護らなきゃ……パパが戻ってくるまでヴィクトリアが護らなきゃ……!〟
やはりそう言う事だったのか……。彼女は、形骸と化した父親の身体を護ろうとしていたんだ。記憶に走っていたノイズは、父親が自分を殺そうとした事実を忘れるためだろう。
どうして『偽物』と否定されたにも拘らず、君は彼を護ろうとする……?
「ヴィクトリア……! 手を……離すんだ!」
〝やだ……! 絶対離さないもん……!〟
無情にもそこで
引き抜こうとするも、凄まじい力で固定されていてびくともしない。
「くそッ……!」
既に足元にも、毛細血管の波が迫っていた。けたたましく鳴り響くアナライザーのアラート――侵襲率は一気に上昇し、30%に達していた。
柄に絡みついた毛細血管が支柱を探し回るアサガオの蔓ように、フラフラと立ち上がる。僕は早くも幻覚を見ているのだろうか。その蔓はあっという間に、僕の鼻先に刃を突きつけるような形で、虚空に毛細血管のスティンガーベルを形成し始めた。
「まずいッ……!」
咄嗟に攻器を手放そうとしたその時――
「ヴィッキー……?」
背後で聞き覚えのある声が響き、毛細血管がスティンガーベルの形成を中断した。異形の少女はまるで何かを思い出したかのような表情で動きを止め、毛細血管の蠢く眼窩を数度瞬かせた。
〝ママ……? ママぁ……!!〟
その瞬間、ヴィクトリアの眼窩に、潤いに波打つつぶらな瞳が現れた。でも後から考えてみると、それはカオスの侵襲が見せた幻覚だったのかもしれない。
侵襲による僅かな目眩と籠り始めた聴覚に酔いながら、少女の瞳を追い、ゆっくりと振り返る。そこにはエハウィと、ヴィクトリアの母、アリーが立っていた。
どうしてエハウィが彼女を……? 一瞬疑問に思いかけたが、以前エハウィが話していた事を思い出した。主人格の死後、タルパを管理する代理権の話だ。彼女の仕事は虚構を管理する事――恐らく、管理契約の中にその代理権が盛り込まれていたのだろう。
まさか……異形と化したタルパを……ヴィクトリアを救う手段が見つかったのか……? それで母親のタルパを……?
逡巡していると、アリーが水色のワンピースを揺らしながらベッドの方へ駆け寄ってきた。
「ヴィッキー!」
「ママぁ!」
ヴィクトリアが目の前で跪いたアリーに抱き着く。スティンガーベルに巻き付いていた毛細血管はいつの間にか消え失せていた。
ああ、やっぱり……エハウィには何か秘策が有るんだ。それで……アリーを……。
「ママぁ……会いたかった!」
「私もよ、ヴィッキー……」
母娘が強く抱きしめ合う。エハウィのシールドはアメツチのそれよりも強力だ。アリーにもそれをかけているのだろう。でも異形に直接触れれば侵襲は避けられないはず……。
視線をアリーの左腕に着けられたアナライザーに移した次の瞬間、僕は思わず目を見開いた。
「そんな……どうして……」
侵襲率47%――文字盤には確かにそう表示されていた。
エハウィは……彼女にシールドをかけていない……!
視界がふらつく。どうして……! エハウィ……君は一体何を……?
僕にはもう、どこからどこまでが幻覚なのかわからなくなっていた。
「ママおかえりなさい! あのね……! わたし……! 良い子でお留守番出来たよ!」
「ただいまヴィッキー。よく頑張ったわね」
アリーがヴィクトリアの頭を撫でる。まるで草花が芽吹くように、その手の上に毛細血管の蔓が伸び、緩やかに包み込んで行く。
「ママぁ……わたし……。わたし……頑張ったんだよ……。痛くて、悲しかったけど、我慢した」
ヴィクトリアの目尻に溜まっていた玉のような涙が頬を伝い落ちる。蔓はアリーの足元からも伸び始め、彼女の水色のワンピースを這い上がるようにして下から覆い始めた。
ああ……これじゃ……これじゃ彼女はもう……。
「偉かったね、ヴィッキー……。でももういいのよ。もう頑張らなくてもいいの」
アリーが涙交じりに告げる。
エハウィ……どうして……これはアリーが……彼女が望んだことなのか……?
僕はどうしたらいいかわからなくなり、その光景を見ながらただ呆然と立ち尽くしていた。
「クモキリ……」
エハウィが僕の肩に手を置き、淡々と名を呼んだ。ハッと息を飲む。それが何を意味しているのか、僕はすぐに悟ってしまったんだ。
フラつきながらスティンガーベルを握り締め、僕は母娘の傍らにあるホストの形骸に刃を向けた。
――手が、震えている。
僕には……僕にはやっぱり無理だ。僕には出来ない……!
すると、アメツチが背後から僕の横に現れ、スティンガーベルを持つ僕の手に、白い指先を重ねた。
「ア、アメツチ……」
僕が視線を向けると、彼女はただ一度、無言で頷いた。ただそれだけだった。でもその沈黙は、何よりも力強く、僕の心に響いた。
柄を握る手に力を込める。明確な答えなど無い。だけど、アリーが見せたのは本物の愛情だった。
アメツチは……それでも僕に、やり遂げろと言っている。
「エフェクト発動……」
静かに告げる。カオスの淵源である形骸が浄化されれば、供給を断たれた歪みは全て枯れる。歪みによって作られた異形も同様に……。
二つの刃は音も立てずに、何の抵抗も無く、懺悔するようにベッドへ突っ伏した黒い塊の中へ、深々と突き刺さった。
「……ママ……。わたし……怖い」
「アリー……大丈夫よ。ママが一緒だもの」
「……うん。パパに……パパに会いたかったな……」
「ヴィッキー……私達はいつも一緒よ。家族三人、ずっと一緒……」
「うん! ずっと……ずっと……」
アリーの身体を、毛細血管が覆い尽くした。僅かに見える隙間から、彼女のアナライザーがアラートを響かせながら鈍い光を放っていた。
侵襲率100%。
――――僕は強く瞼を閉じた。
「ずっと……一緒」
「……
浄化の音は眩い光となって、瞬く間に僕達を包み込んだ。
ホワイトアウトする視界。耳鳴りのような
混濁する虚実の境界で、僕は手を繋いで歩き去る母娘の後ろ姿を見た。
スティンガーベルを介して混ざり合う深層意識。
彼方には、逆光の中で手を振る人影。
彼女達は一度だけ、顔を見合わせて微笑み合った。
それが、カオスの侵襲の見せた幻だったのか、僕は未だにその答えを出せないでいる。
巨大な卵の中、全ては灰と化し、やがて僕達の頬に乾いた雨が降り注いだ。
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