【完結】 外れスキル【観察記録】のせいで幼馴染に婚約破棄されたけど、最強能力と判明したので成りあがる

ファンタスティック小説家

アダン家の終わり


 その日、魔術協会本部にして、世界の魔術の中心地ドラゴンクラン大魔術学院の怪物学部使役科にて一人の天才が現れた。

 彼の名はエドガー・アダン。

 モンスター使役学の開拓者であり、魔術世界において多大な功績を残し、歴史に輝かしい名を刻む偉大なる魔術師のひとりだ。

 

 後の世で彼は『使役学の父』と呼ばれることとなる。

 

 ───────────

         ───────────


 ──数十年後


 手入れの行き届いた庭園をもつ、貴族の屋敷のまえに馬車がとまっていた。

 馬車の家紋はこの魔術の王国では知らない者はいない『血の一族』のものだ。


「流石はエドガー・アダンの再来、天才ですな、ははは!」


 そう大声をだすのは立派な紺色ローブに身をつつんだ、老齢の魔術師だ。

 アダン家の居間にて彼は、ただの10歳の少年を見下ろして快活に笑っている。

 理由は少年がうさぎ型モンスターのラビッテを手のひらに乗せているためだ。


 それを受けて少年の父親ワルポーロ・アダンは冷や汗をぬぐいながら「ありがとうございます、ありがとうございます」とペコペコと頭をさげていた。


 快活に笑う老齢の魔術師は、立てかけておいたステッキを手にとり「向こうで婚約についての話を詰めましょうか、アダン殿」と機嫌よくワルポーロをさそって行った。


 居間に残されたのは2人と1匹だ。


「すごいものですね。刻印【怪物使役式】をまだ継承していないのに、モンスターとこころを通わせるなんて」


 少年とおなじくらいの歳の少女が、やけに落ち着いた口調で話しかけた。

 ラビッテを手のひらに乗せる少年は彼女に向き直り、その堅いしゃべりに小さくため息をついた。


 少年は思っていた。


 この凛々しく愛らしい少女とは許嫁の仲だが、自分たちの心が通う日は来ない。

 結局のところ、俺も彼女も魔術師の家に生まれた身だ。

 彼女も自分との結婚などのぞんではいないに違いないのだ──と。


 とはいえ、


「最近は婚約の話がいよいよ本格的になって来ましたね、アイリス様」

「ですね。おたがい6歳の頃に約束はしたのでしたね。あれから4年……早いものです」

「アイリス様はどう思ってるんですか」

「? と言いますと、どういう意味でしょうか?」

「僕はこの結婚は嫌じゃないですよ」

「それはどういう意味ですか、アルバート。


 アルバートと呼ばれた少年。

 くだんのエドガー・アダンの再来とうたわれる天才児である彼のことだ。


 アルバートは幼馴染にして許嫁のアイリスのことが好きだった。

 魔術師として育てられて来たので、もちろんそんなことはおおっぴらにはしない。


 内心は大喜びしていても「僕たちは魔術師だから血は選べない」と諦めた感じで、冷めたクールボーイをよそおっておくのだ。


 なぜなら、婚約相手であるアイリスのほうはアルバートの事をこころよく思っているなんて事ありはしないのだから。


「アイリス様の家と僕の家の仲が深まるのは、個人的に……じゃなくて、家的に良いことだから。だって、アダン家はそれほど力のある魔術家ではありませんから」

「率直に言うんですね、アルバート。……まあ、わたしも嫌じゃないですよ」


 アイリスはさらさらな金色の髪を揺らして、アルバート少年の手を白いちいさな手でつつみこむ。


 彼は目を見開く。

 

 どう言うことだ?

 いったい何が狙いだ?

 俺のことを見下して、虫ケラとしか思っていないアイリスがなぜこのような事を?


 アルバートの頭脳はアイリスの行動の意味を読み取れなかった。


 それもそのはず。

 特に理由などないのだ。

 彼女がそうしたかったこと以外には。


「ふふん♪」


 アイリスは蒼瞳をちょっと嬉しそうに細めて、手乗りラビッテをするアルバートの手のひらをその下からさすさすと撫でる。


 アルバートはここで気がついた。


「なるほど。そういう事ですね」

「ん?」


 ちいさく首をかしげるアイリス。


 まん丸の蒼瞳は、確信めいた表情のアルバートを正面から見つめている。


 少年は深読みしていた。

 

 一見して自分にとって利益しかないアイリスのボディタッチは、この後に控えている勉強会にて集中力を奪うための布石なのだと。


「残念ですけど、アイリス様、その手は喰らいません」


 アルバートは体の向きをかえて、アイリスの骨抜き術からのがれる。

 彼女はアルバートをえらく賢い存在だと知っているので、自分が劣っていると思われないよう話をあわせる。


「……気がつきましたか」

「当たり前です、アイリス様」


 アルバートの得意げな顔。

 アイリスの演技くさい悔し顔。


 お互い魔術師の家の後継として立派に智略を働かせているつもりだが、結局なにもわかっていないいつもの平和な光景だった。



 ──しばらく後



 ラビッテを手のひらに乗せたまま、アルバートとアイリスは、庭を散歩する事になった。

 

「お父様はとワルポーロ様はまだ談義に花を咲かせているようですね」


 アイリスは言う。

 アルバートは無難に返事をかえして、話題を近々自分たちにとっておこる最大のイベントについて話すことにした。


「アイリス様は刻印継承のほうは大丈夫そうですか?」


 刻印の継承。

 それは、それぞれの魔術家が代々繋いできた秘術のことだ。

 たとえばアダン家ならば2代前にエドガー・アダンが見いだした秘術【怪物使役式】が刻印として継承されている。


「アイリス様のところの刻印はたしか……」

「【錬血式】。わたしの家が『血の一族』と呼ばれる所以です」

「そうでしたね」


 当然、許嫁の家の刻印くらい頭に入っていたが、アルバートは彼女と会話のキャッチボールがしたかった。


「アルバートは継承式は不安ですか?」

「そうですね。何代も続いてるならまだしも、うちはまだ僕で3代目ですからね。イレギュラーは起こりえます」


 アルバートはいい知らぬ不安を抱えて、手乗りラビッテを見下ろした。

 これまで彼は基本的教養や、魔術の勉強に時間を費やしてきた。


 記録によれば刻印は継承のさいに″変化″する可能性がある。

 それは、良い方向か、悪い方向かはわからない。


 ただ言えるのは、性質が変化した場合、これまで練習してきた、モンスターたちを上手にコントロールする訓練が、無駄になる可能性が出てくることだ。


「出来れば、なにも変わらずに父さんの、そして伝説の魔術師エドガー・アダンのたどり着いた刻印を継承したいものです」


 アルバートは10歳の少年がするには、いささか神妙すぎる顔つきでそう言った。


「大丈夫ですよ、アルバート。あなたはわたしでも及ばない才能をもってます」


 アイリスは熱にうかされてような顔で、ほほをピンク色に染めて一歩ちかづく。

 

「手をを繋ぎませんか?」

「アイリス様と? ……それは危険ですね」

「どうして? わたしたちは婚約者どうしなのに」


 アルバートは「理由を3つに分けて端的に説明いたしましょう」と、自分のへたれを隠すための言葉を重ねようとこころみる。


 しかし、アイリスの方は、ジトッとした目をむけると「とりあえず、手繋ぎますね」とことわると、彼のちいさな手と自身のをかさねた。


 2人の間をな春の心地よい風がぬけていく。


 お互いに気恥ずかしさに会話はとぎれてしまった。

 が、アルバートもアイリスも、手のひらから伝わる温かさは言葉より充実した時間を作ってくれるものなのだと知ることになった。


「……アイリス様」

「なんですか、アルバート」

「これからは婚約者としての体裁をたもつために、たくさん手を繋ぐことにしましょう」

「それは良い案ですね。流石はアルバート」


 2人は目を合わせず、綺麗な庭園を眺めながらそんな約束をするのだった。



 ──2週間後



 アダン家の継承式の日がやってきた。

 魔術家の継承の儀は、こじんまりと身内だけで済ませるものや、親睦のある貴族家だけを呼んでおこなうものなどさまざまある。


 ただし、魔術家が何代も刻印を繋いでいる力のある貴族家であるほど、あるいは将来が期待されているほどにぎやかな催しになる。


 アダン家の庭園はこの日のためにたくさんの机が用意されて立食パーティが開かれていた。


 パーティ会場には、力のある魔術家、弱小の貴族、魔術協会の副会長などが一介の魔術家の継承式のため参上していた。


「これはこれはアルバート様、こんにちは。本日はお日柄もよく貴家の使役モンスターたちも心なしか微笑んでいるように見えます」


 そんな馬鹿げた挨拶をしてくる貴族へ、アルバートはにこやかな笑顔でおうじる。


 モンスターたちに表情などない。

 庭園をとりかこむセキュリティとして、当主である父ワルポーロがモンスターたちを立たせているが、彼の実力ではそれが限界だ。


 笑顔にさせるなど出来るはずがない。


 アルバートは内心うんざりしながら、使役学の困難さを1ミリも理解してない魔術師たちに流れるように挨拶をすました。


 すべてはアダン家のためだ。

 祖父の代で繁栄し、ワルポーロの代で落ちぶれて、そして俺の代ではかえり咲く。


 アルバートは大切な父がもう二度とほかの家に馬鹿にされないために、そして、追い詰められたアダン家の再興のために、どんなことをしても成りあがらないといけない。


「それでは、これより継承の儀をはじめさせていただきます」


 その時はやってきた。

 アルバートはいつもどおり自信なさげな父親の顔をみてうなずき、魔法陣に足を踏み入れる。


 特別な魔法陣である。

 継承の儀をおこなうためにやってきた特別な魔術家クルーエルが描いたものだ。


 魔法陣に足を踏み入れると、クルーエル家の魔術師たちが詠唱を開始した。

 アルバートはあわく輝きだした円陣のそとがわに、許嫁のアイリスを見る。

 露出のおおい彼女の赤いドレスからは、その細い肩に刻まれた【錬血式】の刻印が大々的に見えている。


 アイリスが成功したんだ。

 俺にもできるはずだ。


 生を受けて10年。

 生まれてこの方、魔術と家のことだけを考えてステータスにも恵まれた。

 とりわけ魔力の値が非常にたかく、俺はまわりなら「天才」「才能の先祖返り」などと持ち上げられてきた。


 空が曇りはじめた。


 アルバートは「そろそろか」と心を決めて、瞳をとじて、深く深く呼吸をする。


 俺は今日、本当の天才になるんだ。


 目をカッと見開き、彼は一言のべる。


「──我、神秘の継承者なり」


 昨晩だけで何十回も練習した詠唱をしっかりと唱えると、まわりから拍手がおこる。


 同時に曇った空から雷が落ちてきて、アルバートが空へかかげた左手に直撃した。


「おお、あの輝き間違いなく継承の光だ!」

「やけに光が強かったが、もしや進化したのではないか?!」


 誰よりも最初に祝福しようと、アダン家よりも力のない魔術家が声をあげる。

 継承の儀の最中は静かにするのがマナーなので、所詮は三流の家と言わざるおえない。


 アルバートは雷をまとった左腕に、手の甲から袖まくりしたシャツのなかまで広がる青く光る刻印を庭園の皆へみせた。


 空から雲がさっていき、継承の魔法陣が役目をおえて光の破片となって消えていく。


 砕ける破片のなかで、どうどうと腕を掲げるアルバートの姿に再び拍手が起こった。


 継承は成功だ。


「アルバート様、ステータスの確認を」


 継承の儀で進行役をつとめるクルーエル家の魔術師が、アルバートをうながした。


 アルバートはうなずいてこの世界の人間たちが共通してもつステータスを表示する『アナザーウィンドウ』をつかう。


 指をつまんで離せば空中に表示される。


 ───────────────────



 アルバート・アダン

 スキル:【観察記録】

 体力100/100

 魔力223/223

 スタミナ100/100



 ───────────────────


 1レベルの人間は通常は前ステータスの値が100/100前後であると言われている。

 これは本人の成長によって上昇する。

 それでも、最初から数値が高いことは、非常に有利にはたらく。

 それだけの潜在能力を秘めているという認識をされるためだ。


 ゆえアルバートは天才と呼ばれてきた。


 そんな、天才たるアルバートの相変わらずの魔力量に感心するクルーエルの魔術師は、ふと顔をこわばらせた。


 言うまでもなく本来、アダン家が繋ぐはずの【怪物使役式】ではなく、【観察記録】という謎の文字が刻まれていたからだ。


 クルーエルの魔術師は動揺した。

 それ以上にアルバートは動揺していたが。


 変わったかぁ……。


 嫌な予感が当たったことで、アルバートは唇をつよく噛みしめた。


 悔しがっていたのは、アルバート自身がおよそ感覚的に自分の刻印で可能なことが把握できてしまったからだ。


 アルバートは冷や汗をかく。

 10歳の子供がするには、あまりにも切羽詰まった表情であった。


 そんなことを知らずにワルポーロは、ほかの魔術師たちへのデモンストレーションとして用意したモンスターを連れてくる。


 四足歩行の牙の鋭い獣だ。

 ファングと呼ばれる冒険者ギルドでもよく狩られている変哲の無いモンスターである。


「さあ、アルバート、我が家の秘術を見せてあげなさい」


 そう言ってワルポーロは、息子のアナザーウィンドウを見て声をあげた。

 それは、才能ある息子ならば必ずや刻印にも″良い進化″をもたらすと信じてのことだった。


「皆さま、ご覧ください、わたしの息子の刻印が変化しました!」


 涙をながさんばかりの歓喜だった。

 偉大すぎる父親のあとでなにも残せなかった男が、ここに来てやっと何かを成し遂げた──そんな背景が薄ら見えるほどの喜びだ。


 まわりの魔術師たちも「やはり天才だったか」「ワルポーロめ、何を喜んでいる。息子が凄いのだろうに」「アダン家の評価を変えるべきか」などと見直したようにうなずいている。


「ささ、アルバート、その刻印でなにができるのか見せておくれ!」


 ワルポーロはせかすように、ファングの首輪に繋がったリードを渡してくる。


 久々に見た本当の笑顔をうかべる父親。

 期待のまなざしを向けてくる貴族たち。


 アルバートはあまりの重責に泣きそうになっていた。


「さあ、アルバート、はやく!」

「……は、はい」


 アルバートは瞳をうるませながら、ファングへ手を差し伸ばす。


 頼む、頼む、奇跡よ、おこってくれ。


 そう願いながら、頭を撫でようとする。

 もしアルバートが【怪物使役式】に準じた刻印をもっているなら、ファングくらいのモンスターを簡単に操れるはずだった。

 

 しかし、


 ──ガブッ


 ファングはアルバートの手に噛みついた。


「うぁああ?!」


 鋭い牙は子供の手のひらに4つの大穴を開けてしまった。

 会場から悲鳴があがり、アルバートは慌ててファングから離れる。


「──クリテクト」


 魔術師の誰かがはなった結晶の短剣が、ファングを貫いて一撃で絶命させた。


 現場は騒然としていた。

 なにが起こったのかわかっていない者。

 そして、何が起こったのか理解した者。


 アルバートは痛みにふるえながら、クルーエルの魔術師に手助けされて立ちあがる。


 そのうち、誰かがつぶやいた。


「モンスターを使役できなくなった?」


 その一言がすべての者にわからせた。


 ワルポーロは驚いた表情でアルバートの顔をみた。


 愚かな父親もようやく理解した。

 そして、自分の勝手で息子に大怪我をおわせたことを後悔していた。

 

 その瞬間「家をなんとかしなければ」「偉大なアダンの血を再興させなければ」と気張りつづけていた緊張の糸がキレた。


 今日、すべての蓄積が失われたのだ。

 

「″悪い変化″だな」

「間違いない、退化しやがった! ハハ!」

「もったいないことを。だが、フフ、アダン家が終わってくれるのは好都合だ……フフフ」

「やれやれ、エドガー・アダンの刻印を失うなど、無能どもめ」

「ワルポーロの顔をみてやれ。たった1代の間で伝説の遺産を台無しにした男の顔だ。この醜態にどう落とし前をつけるのかな?」

「あの家はもうダメだ。貴族の面汚しどもめ」

「次の代も無能決定。もとから崖っぷちだったんだ……もってあと1ヶ月と言ったところか」

「あの家への投資は打ち切りだ。帰るぞ」

「一刻もはやくアダン家との縁を切るのが賢明、みなさま、引き上げましょうか」


 魔術師たちの軽蔑と嘲笑は、ワルポーロとアルバートの両者へなみなみ注がれていた。


 歴史が浅く、伝説の遺産である刻印だけでもっていたような魔術家だ。

 

 それが無くなれば、もう何も″旨味″が残ってはいないと判断されてしまったのだ。


 アルバートは歯噛みする。


 ふざけるな、強欲どもめ……!


 父親は息子ほど冷静じゃなかった。


「お願いします、ぁ、ぁぁぁ、あああぁ、アアアア! ま、まま、待ってください……!」


 ワルポーロは涙を流しながら懇願した。

 否、それはもう駄々をこねていたと形容するほうがよほどふさわしい醜態であった。


 アルバートは手に空いた穴の痛みにゆっくりと意識をうしないながら、騒然とする庭園と、ローブをひるがえして帰宅する魔術師たちを見つめていた。


 否、血も涙もない彼らではなかった。


 アルバートが見つめていたのは、侮蔑と嘲笑をむけてくる者たちのなかで、ひとり駆け寄ってくる赤いドレスを着た少女だ。


 なるほど、建前だけでも心配か。

 ああ、どうしてこんな事に。

 

 少年は涙をながしながら、自身の名を呼ぶ少女の腕のなかで意識をうしなっていった。

 

 ──この日、アダン家で行われた継承式は魔術世界を震撼させた。


 伝説の魔術師エドガー・アダンの刻印が消失したこと──。

 詳しい調査により、変化した刻印が【観察記録】という名であること──。

 それは生物を観察した情報を、自前で召喚できる魔導書に自動的に記録するという能力だということ──。

 そのほかには何もできない刻印だということが、魔術家のあいだにひろく知れ渡った。


 刻印の変化は、魔術師によってそれが果たして″良い″のか″悪い″のかで意見がわかれるものであるが、今回の変化は違った。


 名のある魔術家25家すべてが″悪い″変化としてこれをとらえたのだ。


 アダン家の継承の儀の数日後。

 家には2通の手紙がとどいた。


 ひとつは、長年にわたり実績を残さず、さらにはこの先も魔術世界に貢献できないと魔術協会が判断したため『退会処置』をとったという残酷な通達。

 もうひとつはサウザントラ家からのもので、その内容はアルバートとアイリスの婚約の話を白紙にもどすというものだった。


 特に後者に、アルバートは絶望した。


「アイリスに、見捨て、られた……」


 その晩、アルバートは失恋というものを知った。涙が枯れることを知った。

 そして、魔術師の世界は失敗してしまえば、積みあげた全てを失い、ただの人になってしまうことを知った──。


 二つの悲報は魔術協会を通してひろく国内に流布された。これにより、アダン家は実質的に魔術世界からすら追放されてしまった。


 積みあげる事をなによりも大切とする者たちにとって死刑宣告に等しい仕打ちだった。


 いいや、それ以上だろうか。


「アイリス、アイリス……ああ、もう、なんでこんな! 俺はただ普通に刻印を継承できればそれでよかったのに……!」


 こんな事なら貴族の仮面をかぶって「アイリス様、今日もお美しいですね」など澄ましたこと言わずに「大好きだ、世界で一番可愛いです!」くらい言っておくんだった。


 蒼瞳、金色の髪、凛々しい表情。

 忘れたくても大好きだった彼女のことだけは諦めがつかなかった。


「クソ、クソ! このままで終われるか……終われるわけがない!」


 手を考えなければならない。


 刻印にしろ、まったく新しい魔術分野の研究をするにしろ、アダン家の歴史が終わる、アイリスとの時間が無に還る──そんな最悪の結末を回避する手段を考えるんだ。


 あの日以来、衰弱しきってしまった父親にかわって俺がアダンを救わなければ。


 10歳の少年は灰色の空のした誓う。


「アダンの評価を間違えた奴らを、かならず、かならず見返してやる……っ」


 アルバートはちいさな拳をぎゅっと握り、白い包帯に真っ赤な血をにじませた。










 

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