第10話 おうちにかえろう 前編
ビルとビルの間に挟まれた道から見える東の空には、冴え冴えと輝く月が出ていた。
ゆっくりとこちらへ歩いてくる男の姿を認めた、ストーカー女は私の手を離した。
私は仰向けに座り込んだまま目の前の女と、こちらに近づくセイさんを見上げる。
「僕は以前あなたに言いましたよね……これ以上詮索するな、と」
いつもと違い、事務的な言葉で話す彼の声はひどく冷たい。
女の肩越しに見たセイさんは眉一つ動かさずこちらを見下ろしていた。
その表情に焦ったのか、女はさっと立ち上がってセイさんに近づく。
「……せ、セイ?これは、その……」
「馴れ馴れしく僕の名前を呼ばないでくれますか?」
セイさんは眉を寄せ、吐き捨てるように女の言葉を遮る。
女はそれに顔を青くしたが、すぐに歪んだ笑みを浮かべてセイさんに向かって猫撫で声で話しかける。
「セイ、あなた間違ってるわ、あなたにはこんな平凡な……」
彼は再び女の言葉を遮るように「チッ」と舌打ちした。
「僕の名前を呼ぶな、と言っているのが理解できない?」
そのまま、彼は女のそばにゆっくりと歩み寄る。
彼の歩き方は、いつも店でしているような姿勢の良いものではなく、両手をポケットに突っ込んだまま背を丸め、前傾姿勢になった……今にも飛びかかってきそうな肉食獣のそれだった。
セイさんの身長はおそらく185センチ以上ある。真っ黒な瞳を冷たく光らせ、彼はその高みから女を鋭く睨みつけた。
「ち、ちが…」
女の声を遮る舌打ちが、暗い路地に再び響く。
「黙れ。誰が僕に話しかけていいって言った?」
その言葉と、店にいる時の姿とかけ離れたセイさんの雰囲気に呑まれたのか、女は口をはくはくと無意味に動かした。
セイさんは黙ってしまった女に向かって、その唇の両端を持ち上げて微笑みかける。
しかしその瞳は嗜虐的な光を帯びていた。
「
セイさんはそのふっくらとした唇から
「や、やめ……」
呆然としたままそう言った女の顔色は青色を通り越して土気色になりつつあった。
女の声に反応した舌打ちが再び落ちる。
「
女はセイさんの威圧に黙り込んだ。
そんな女を眺め下ろし、セイさんは満足げに瞳を細める。
そしてふっくらとした唇を柔らかく持ち上げて女に向かって囁いた。
「
突然微笑んだセイさんに、女は強張らせた表情を緩めた。
その顔を見つめたセイさんはふっと真顔になって、いつもより声を低くしこう告げる。
「お前にストーキングされた証拠を僕は全て持っている。これを警察に持っていけばお前は社会的に破滅する。お前を生かすも殺すも僕の気持ちひとつだ」
その豹変ぶりに女は絶望的な顔をした。
セイさんはさらに言葉の銃弾を叩き込む。
「社会的な死か、それとも黙って今すぐここから立ち去り、怯えながらいつもと同じ生活を送るか、どちらか選んでもらえますか?」
物腰穏やかなその言葉は、彼なりの最後通告なのかもしれない。
彼の瞳からは、その答えによって為すべきことをする、という覚悟だけが見て取れた。
「せ……」
「チッ」
女は顔色をなくしたまま、何かを言おうと口を開けたが、セイさんの舌打ちがすぐに響いたため口を閉じる。
そして彼女は黙り込んで俯き、セイさんの隣をゆっくりと通り過ぎて大通りへと消えた。
*****
女が姿を消した大通りを冷たい眼差しで一瞥したセイさんは、呆然としたままの私の方へと振り向く。
その視線に怯えてびくっと体を硬直させると、セイさんはその整った眉を寄せ悲しげな顔をした。彼はそっと近づいて、座り込んだ私と視線を合わせるためにしゃがむ。
「助けに来るのが遅くなって本当にごめん……杏子ちゃん、大丈夫?立てそう?」
そう言いながら私を助け起こそうとセイさんはその掌を差し出した。
その瞳には先ほど見た冷たい怒りはどこにも無く、ほっと息をついた私は差し出された手に捕まろうとして手を上げ、顔をしかめる。
「痛っ……」
驚いて自分の掌を見つめると、先ほど転んだ時にやはり怪我をしてしまったらしい。
親指の付け根の盛り上がった部分から手首の上あたりにかけて、両手ともに擦り傷ができていた。傷になった場所からはじわりと血が滲んでおり、私は先ほど同じように痛みを覚えた右膝にも視線を落とす。
割と気に入っていた黒のスラックスパンツは膝の部分が汚れ、破れていた。裂けた生地の間からはぶつけたためだろう、赤くなった膝が見えている。
セイさんもそれに気がついたらしい。「チッ」と舌打ちをした彼はその意志の強そうな片眉を跳ね上げ、眉間に皺を寄せた。
「……あの女……!」
セイさんはぎり、と奥歯を噛んで大通りの方へと体を捻り、腰を浮かしかけた。
今にも走り出していきそうな彼に向かって、私はとっさに声を上げる。
「ま……待って!!ひ、ひとりに、しないで……!」
両手、右足。
子供の頃以来、久しぶりに感じる焼けるような痛み。
先ほどまでは命の危険を感じるほどの緊張状態だったからだろう、その糸がぷつんと切れた私はみっともなくがたがたと震え出した。
セイさんはそんな私を振り返り、ぐっと眉を引き絞る。
彼はそのまま私の側へと座り込んで、そのたくましい腕を広げ、私を抱きしめた。
セイさんの体からは焙煎された豆の深く甘い香りと、わずかにほろ苦い煙草の香りがした。
「……ごめん、僕が悪かった。もっと早く動くべきだった……もう大丈夫だよ」
私を抱きしめる、彼の力は痛いほどで……それがセイさんの後悔を現しているようだった。
”もう大丈夫だよ”その言葉に、やっと助けられたのだ、という実感が湧いてきて私は唇を噛む。
先ほどの痛みと恐怖が、自分の中で処理できずぐるぐると回って、涙として瞼から溢れ出した。私はセイさんの肩に顔を埋め、必死に漏れそうになる嗚咽を殺す。
そうしていなければ、子供のように大声で泣き喚いてしまいそうだった。
「んぐ……ふ、ひっ……」
セイさんは私を抱きしめたまま、優しく頭を撫で、背中をさする。そうしながら、彼は私の耳元へ囁くように繰り返した。
「もう大丈夫……大丈夫だよ……こわかったね、ごめんね」
”こわかったね”
胸から溢れでる感情を包み込んで掬いあげるような言葉と、優しい抱擁に、私は彼の肩口に顔を押し付けるようにして何度も頷く。
しかしそのせいで彼の纏うくすんだ黒色のシャツは私の涙、そしてファンデーションで濡れそぼり、白っぽく汚れた。
それに気がついた私は慌てて彼の肩から顔を離そうとする。
セイさんはふっと吐息だけで笑って再び私の頭を撫で、そのまま自分の肩口に優しく押し付ける。
「杏子ちゃんは本当に馬鹿だね……そんなもの気にしなくて良いのに」
「で、でも……!」
「もう、強情だなあ……おいで、いったん店に戻って怪我の手当てをしてから一緒に帰ろう」
セイさんはそう言って私の鞄を自らの腕にかけ、飛んで行った靴を拾い上げて私に履かせる。
彼の言葉に頷いて立ち上がろうとしたその時、セイさんは突然私の膝裏と腰をぐっと掴んで私をそのまま抱き上げた。
「ひえぇえっ!!」
少女漫画やドラマで憧れたお姫様抱っこをされた私は、急に高くなった視界に慌ててセイさんの首根っこにしがみつく。
色気も何もない私の悲鳴に、セイさんは唇をへの字にして困ったように眉を寄せた。
「……ほんと、杏子ちゃんは見てて飽きないね」
その言葉にムッとして私はセイさんを睨みつける。
そもそもこんな怖い思いをしたのは誰のせいだと思ってるのよ!!
そう思った途端、死ぬかと思った恐怖やセイさんがマリさんと楽しそうに話していた時に感じたぐちゃぐちゃな気持ちが一気に噴き上げた。その奔流は私の口から彼への恨み言として次々に溢れ出る。
「下ろして!!だ……誰のせいでこんなことになったと思ってるのよ!!」
セイさんは私を抱き上げたまま目を丸くした。
こんなこと言っちゃいけない、といつもだったら理性がブレーキをかけるであろう言葉すらも飛び出していく。
「なんで、何であなたのために私がこんな目に合わないといけないのよ!!早く下ろしてよ!!あなたなんて嫌い!!私のことなんて何も知らないくせに!!私なんかより、ずっとずっと可愛くて、仲がいい人がいるくせに!!なんで干物女の私と結婚したのよ!!あなたなんて嫌い!大っ嫌いよ!!」
セイさんは叫ぶ私を穏やかに見下ろしてそのまま歩き始めた。
「うん、怖い思いをさせたのは僕が悪かった……ごめんね。でも今は暴れたら危ないから落ちないようにしっかり掴まってて」
「お、下ろしてっ!!なんで……なんでいつも勝手なのに、こんな時だけは優しくするのよ!!セイさんなんてきらい!!」
やけくそになって大声でそう言うと、セイさんは私をまっすぐ見つめたまま、そのふっくらとした唇を持ち上げた。
「ふぅん?そうなんだ?……僕は杏子ちゃんのこと好きだけど」
「えっ?!」
私はその言葉に呆気にとられて、彼を見つめた。
セイさんは鴉の濡羽色の瞳をそっと伏せ、瞼を下ろしながら私に整った顔を近づける。
何が起こっているのか理解できないまま硬直していると、唇に柔らかな感触が触れた。
それは苦くて甘い、わずかな煙草の香りを纏っていた。
「……ど、うして……?」
先ほど大量に造られた滴が、瞳の端に溜まって頬を伝いこぼれ落ちる。
私を抱き上げたまま、その人は少年のように顔をくしゃっとさせ笑った。
*****
呆然としている間にカフェのバックヤードへと連れて行かれた私は、ハラハラしながら私たちの帰りを待っていたマリさんの悲鳴で出迎えられた。
そこにある救急箱を慌てて用意してくれた彼女は、水で洗い流した掌の傷を消毒し、大きなパッド式の絆創膏を貼りつける。
「もう、ほんっと信じられない!店長がついていながら結婚してすぐの奥さんにこんな怪我させるなんて!」
私は彼女の言葉に思わず目を見開いた。
……マリさんは、私たちが結婚したことを知っている……?
そんな私に気づかず、頬を
「
そう言葉を続けたマリさんに、セイさんは食い気味に声をかけた。
「
その笑顔はあの、有無を言わせないもので、マリさんはあっと口を押さえて黙り込む。
……どうやら私とセイさんの婚姻届の証人はここのスタッフの人たちであったらしい。
上目遣いにこっそりセイさんを見上げたが、彼は眉を寄せ腕組みをしたまま「チッ」と舌打ちをして顔を背けてしまったので、それ以上彼の表情を伺うことはできなかった。
*****
治療を施してもらったあと、セイさんは先ほどの言葉通り仕事を切り上げ、私たちは一緒に店を後にした。
先ほど東の空に見えていた月は南の空へと移動を始めていた。
あの日見た月よりも幾分か膨らみ、明るくなったその光は私たちが行く道をぼんやりと照らしている。
街灯のほかに見えるものは、飲食店の看板や集合マンションの共用廊下に灯る電灯、そして自動販売機の明かり……そんな静かな道を、いつものコンビニに向かって2人きりで並んで歩く。
セイさんは私の指先に、その長い指をそっと絡ませた。
しかしいつものように手を握りしめはしない。
もしかしたら彼なりに、手の傷を労っているのかもしれなかった。
「……どういう、つもりなんです……?」
突然のキスに、「好き」という言葉。
私の気持ちを思うがままに振り回すセイさんが、何を考えているか分からず私は彼を見上げた。
セイさんは「ん?」といつものように底の知れない笑顔を浮かべたまま返事をする。
「どういうつもりって、何が?」
「さ、さっきのことです……!その、す、好きって……!それに……!」
先ほどの彼の笑顔と、その唇の感触を思い出した私は顔を赤くして黙り込んだ。
セイさんは立ち止まって私と向かい合い、その口元の
「……それに?」
セイさんのふっくらとした唇が私の言葉を繰り返した。
その柔らかい感触と苦い煙草の香りを思い出した私は顔を赤らめて俯く。
彼はその大きな掌を下を向いた私の耳から顎のフェイスラインにかけて上向かせた。
驚く暇もなく、そのまま彼に再び口付けられる。
彼の唇はいつも眺め思っていた通りふっくらと柔らかく、温かかった。
私は戸惑いながらも瞼を閉じる。
珈琲の香りと煙草の香りがするそれは、その弾力で私の唇を甘く苛み、優しく押し返した。
何もかも想像の斜め上をいくセイさんの行動に振り回される心臓は、痛いほど脈打っていた。
ちゅく、と唇を吸われて私は思わず顔を真っ赤にしたまま、腕で彼を押しやった。
「な、な、なにするんですかッ!!」
セイさんはそんな私を見て悪戯が成功した子供のように吹き出し、くすくすと笑う。
「遅いよ、杏子ちゃん」
彼はそのまま私の指先に、また指を絡ませ私たちの目の前へと持ち上げた。
驚いて顔を上げると彼は少し屈んでその瞳を優しく細めながら、私の指先へそっと唇を寄せる。
「……ねえ、一緒にうちに帰ろうか」
彼の吐息が、そしてその柔らかな唇の先端が私の指先を
「ど、どういう……ことですか……?」
セイさんは吐息だけで笑い、私の指先へその唇を押し当ててわずかに離した。
「一緒に帰ろう、僕の家に」
彼の真意を測りかねて私は眉を寄せた。
セイさんはわずかに首を傾げ、困り顔をしながら微笑んだ。
その笑顔に思わずどきりとして、私はセイさんが次に何を言うのかと息を詰める。
「さっき、きみがあの女に傷つけられるかもしれないって思った時……どうして僕はきみの側にいてあげなかったんだろう、って後悔したんだ……それに」
彼は目の前に持ち上げた私の左の薬指へ口づけ、少年のようにはにかんだ。
「きみは、僕の妻だろう?」
セイさんの言葉に私の心はぐらぐら揺れる。
それがなんだか苦しくて、私は瞼をぎゅっとつぶって顔を背け唇を尖らせる。
「……か、勝手に婚姻届出しといてそんな言い方はないんじゃないですか……?!そ、それに私たちは知り合ったばっかりだし……!」
彼はそう言った私の頬をその温かい両掌で包み込み、自分の方へと振り向かせる。
「好きになるのに、時間なんて関係ある?……僕は少し抜けてて、馬鹿だけど優しいきみのことが好きだよ」
彼の言葉にぼっと顔を熱くしたまま、私は悲鳴のような声を上げる。
「そ……そんなこと言ったことなかったじゃないですか!!」
「杏子ちゃんは本当に残念だね、嫌いな女と結婚するはずないでしょ?」
「ちょっ……わ、私の気持ちは?!」
「収入も安定してて将来有望な僕のことを振る女なんているはずないからね」
「こ、このナルシスト!!」
そう叫んだ私の唇に、セイさんは再び口づけを落とした。
「!!」
ちゅっ、というリップノイズをさせながら唇を離したセイさんはニヤッと唇を持ち上げ笑う。
「どうも」
その顔に一瞬見惚れてしまった私ははっと我にかえり、悔しさに奥歯を噛み締めた。
ぐ、ぐ、ぐぬぬぬぬぬぬ………!!
セイさんはまた指先を絡ませて、いつもコンビニへ向かう道とは逆方向へと私の手を引いた。
「こっち」
「えっ」
「言ったでしょ、おうちにかえろう、って」
「えっ、その……でも……!!」
戸惑う私の指を優しく引きながらその人はまた少年のように笑う。
「ほら、おいで」
それでも無理やり私を引っ張って行ったりはしない、優しいんだか優しくないんだか分からないその手を見つめる。
なんだかんだ言いながら、最初からセイさんに巻き込まれてきた私は、きっとこの手から逃れることは出来ないのだろうな、と諦めたようなため息をついた。
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