第7話 裏切り
少し冷えた風が吹いていた。
とっぷりと暮れた夜空には、先ほど眺めた上弦の月が引っかかっている。
「……セイさん……?い、いま、なんて?」
先ほど聞いた言葉が信じられずに呆然としたまま、私は目の前の男に向かってそう尋ねた。
セイさんはふっくらした唇の両端を上げ、その真っ黒な瞳を細める。
「うん?『うっかり目的を忘れるとこだった』?」
「違います!!わ、わかってるでしょう?!け、結婚!?」
「うん、結婚したから」
「な、なんで?!どうやって!?」
混乱して言い募る私を見下ろし、セイさんは首を傾げ不思議そうな顔をする。
「どうやって、って……普通に区役所に婚姻届を出して」
「いや、方法じゃなくて!!なんで?!」
また『なんで』を繰り返してハッとした。
前回、チェックだけして提出しなかった
「まさか……?」
顔をさあっと青くしてそう言うと、セイさんはお店にいるときのような顔で笑って見せた。
「あ、アレは出せなかったはずじゃないですか!!」
「杏子ちゃんは本当に残念だね。言ったでしょう?アレは証人欄を埋めなきゃ出せないって。逆に言えば、証人欄さえ埋めればそのまま提出できるんだ」
「まさか……て、提出したんですか?!」
「うん。手続きしてくれたのはあの時チェックしてくれた女性でね、そういえば『おめでとうございます、と奥様にもお伝えください』って言ってたよ」
「は、はあ?!な、なんで?!なんでそんなことをしたんです?!」
思わず彼の着ている薄手のチェスターコートを握りしめた。
セイさんそんな私を見下ろし、私の掌にそっと大きな手を重ねる。
そして少し背を屈めて、煙草の匂いが残る吐息が触れそうなほど顔を近づけてきた。
彼の表情は、まるで悪戯した仔猫を眺めるようなそれで。
掌に重ねられた熱すら急に恐ろしく感じられて、私は
セイさんはそれでもその微笑みを崩さなかった。
ニッコリと底の知れない笑顔を浮かべたまま、彼は私に向かって尋ねる。
「この前も聞いたけど、きみには今、彼氏がいるの?」
「い、いません……けど……」
それとこれと何の関係が?
信じられないようなことが起こると、人間は思考が停止するらしい。
何も考えられないまま、そう答えるとセイさんの姿をした、まるで言葉の通じない宇宙人はその口元の
「そうだよね。実は僕も今、たまたま彼女がいないんだ」
「……は?」
「だから、僕たちが結婚しても誰にも迷惑はかからないと思わない?」
彼のいかにも『素晴らしいアイデアだろう』と言わんばかりの笑みに、目眩がしてきて額に手をやった。
何をどこから話していいかわからず、それでも何か言わなくては、という気力だけで言葉を捻り出す。
「え……?ちょ、ちょっと待ってください、セイさん、頭おかしくなったんですか?何言ってるかわかってます?それにこの前の届けはフリで書いたんですよね?!」
「フリで書くつもりだったけど、書いてる途中で気が変わったんだ。そもそもフリじゃなく結婚してしまえばああいう手合いはもう近づいてこないなって」
その言葉を聞いて、最初に感じたのは寒さだった。
そして次に湧き上がってきたのは、腹の底から煮えたぎるような怒り。
それじゃあ……私は、ストーカー対策のために入籍させられたってこと?!
「は……はああああああああああ?!」
目を剥いて拳を握り、セイさんに向かって大声を出した。
コンビニに入ろうとしていた仕事帰りのサラリーマンが、その声にギョッとして振り向く。
露骨に迷惑そうな顔をされたものの、私の怒りは収まらなかった。
「な、何考えてるんです?!勝手に婚姻届を完成させて出すなんて!!」
「きみもいつかは結婚するつもりなんでしょう?手間が省けていいじゃないか」
「は……はあ?!」
「きみさえ頷けば、全部
「な、な、な!?自分が何言ってるかわかってます?!」
「僕は十分冷静だよ?……むしろ杏子ちゃんはどうして興奮しているの?僕は結婚相手としてはかなりいいと思うけど」
「そういうことじゃないでしょう!!」
セイさんの言葉を遮るように声を上げた。
さっきまでの、穏やかな
私がこんなに怒り狂っているというのに涼しげな顔をする彼が、全く理解できなかった。
なんでこんなヤツのこと、少しでもいい人かも、なんて思ったんだろう!!
私は鞄に入れた財布を取り出し、そこに入れてあった有り金と彼の名刺を鷲掴んでヤツの目の前に突き出した。
「……これ!!返します!!それから今日の分のお金!さっきの代金には足りないかもしれないけど!!」
セイさんは……いや、ヤツは私の行動に目を丸くした。
「どうして怒っているの?……それに言ったでしょう、あれは「お礼」だって。そのことについてはきみだって納得していたじゃないか」
「その時は結婚の話なんてしてなかったじゃないですか!!」
「……分からないな、すでに終わった話の報告を先にするのも後にするのも変わらないでしょう?」
「……あのね、そういうところです!!私の意思はどうなるんですか!?とにかく、もう顔も見たくないです!!ドリンク無料とか、そういうのも要りませんから!!」
私はヤツの胸に、それをまとめて押し付け、振り返って早足で歩き出した。
少し歩き、もしかしたら自分の行動を少しは反省して、彼が追いかけてくれるんじゃないか、と期待した私は背後をちらりと振り返る。
しかし、小さくなっていくセイさんはコンビニの前で私に向かってひらひらと手を振っていた。振り返った私を見た彼は嬉しそうに笑って、口元に掌を当てて声をかけてくる。
「それじゃあ、また!明日も僕は店にいるから!」
その言葉に、一瞬冷えた頭がカッと熱くなった。
「本当、信じられない!!最低!!」
いい人だって思ったのに!!
私はヤツに向かってそう叫び、暗闇の中自宅に向かってどうしようもない怒りを持て余しながら走り出した。
*****
息を切らし帰り着いた一人暮らしの家。
バン、と大きな音を立て玄関扉を閉めた。
チェーンをかけようと振り向くと、隣からドン、と壁を叩かれる。
築四年の比較的新しい建物とはいえ、一人暮らしのアパートの壁は薄い。
いつもだったらただ怯えて小さくなるところだが、怒りに任せて私も壁を殴り返した。
向こうから、もう一度壁を叩かれることはなかった。
私はため息をついて、怒りに固めた拳をゆるゆると開く。初めて壁を殴りつけたその部分は擦れて赤くなっていた。
その痛みと、落胆。そしてどこにも吐き出せない怒りに涙が滲んだ。
パンプスを脱ぎそのまま、まるで迷子の子供みたいに玄関口にしゃがみ込む。
どうして。
その言葉だけが頭の中をぐるぐると回った。
「……とりあえず、メイク落とさなきゃ……それに、シャワー……」
そう言いながらのろのろと立ち上がる。
鞄を下ろしてカーディガンを脱ぎ、トイレの扉を隔てた向こうにあるお風呂に入るための準備を始めた。
ふと見下ろすと、鞄からは大好きな『ひゞき 隆聖』先生の本がのぞいていた。
……それが今日あの男と見た上弦の月を連想させて、顔を歪める。
「……サイアク」
舌打ちしたい気持ちだったが、それすらもアイツを連想させる行為で。
私はぎりっと奥歯を噛んで、鞄に脱いだばかりのカーディガンをかける。
そのカーディガンからはいつの間に移ったのか、苦い煙草の匂いが漂っていた。
*****
シャワーを浴びて人心地つくと、だんだん冷静になってきた。
ベッドにうつ伏せになって、枕を抱え込んだ私はスマホのブラウザを立ち上げる。
「……よく考えたら同じようなことされた人がいるかもしれない!……きっとなにか、なにか方法があるはず……!」
『婚姻届 無効 手続き』
『婚姻届 勝手に出された』
そんな言葉で検索をかけていくと、弁護士が見解をのべた記事などがちらほら出てきた。
「……なになに、婚姻届が偽造のとき……?いや、あれは区役所の正式なものだし。婚姻の意思がない場合……?少なくともあの人に動機はあるわけだし。当事者が提出していない場合……?いや、少なくともあの人は当事者だし……」
私はブツブツ独り言を言いながら画面をスクロールしていく。そして最後の行を読んで思わず枕に突っ伏した。
”ーーそもそも、婚姻届という大切なものを軽々しく書いてはいけません”
枕に顔を埋めたまま、私は奥歯を噛みしめる。
ぐぬぬぬぬぬぬぬ!!言われなくても分かってるよ、そんなこと!!
でも、突然巻き込まれて人生で初めてストーカーに追いかけられた上に焦らされて『アイツを諦めさせるためにこれを書け』って言われて断れる人がどれだけいるって言うの?!
私はガバッと顔を上げてまた検索結果に視線を落とす。
「……相手に無断で婚姻届を提出した場合は当然、無効ですが……こ、これだ!!」
いくつか弁護士事務所のブログを訪問して、目的のものを見つけた私は拳を握って小さくガッツポーズをした。
そして再び画面を読み上げる。
「えーと……婚姻の無効を主張する場合……まずは調停を申し立てなければなりません?」
『調停』ってなんだろう?
不思議に思って、次にその言葉を調べてみると『訴訟ではなく話し合いをして解決すること』ということが書かれていた。
……話し合い?セイさんと?
もしそうであれば、彼に私が調停を起こすつもりだ、ということは言っておいた方がいいのかもしれない。
それに、もしかしたら『婚姻届を出した』というのはセイさんなりのブラックジョーク……かも、しれないし……
一瞬そうだったらいいな、と思ったが、彼はそういう冗談を言うタイプにはどう考えても見えなかった。
「連絡……」
そうだ、名刺!アレにはヤツの電話番号が……!
そう思って財布を開けた私は、目的のものを見つけられずハッとした。
……そうだ、私……!あまりのことに腹を立てて、あの時お金と一緒に名刺を突き返したんだった!!
しかも、セイさんの電話番号をスマホに登録するのも後回しにしていたため、ヤツの連絡先もわからない。
「ぐ、ぐぬぬぬぬぬぅ!!」
私は浅はかな自分に、そして別れ際「明日も店にいる」と声をかけてきたセイさんの笑顔を思い出して怒りに打ち震えた。
アイツ……まさかあの時、ここまで予想してた?!
「く、くっそーーーーー!!」
思わず叫び、しかしもう今はどうにもできず、悔しさに歯噛みしながら電気を消し布団をかぶる。
眠ってしまおうとベッドに横にはなったものの、うまくヤツに転がされているような現実に目が冴えて何度も寝返りを打つ。
闇の中、目を閉じたまま私は決めた。
明日、またあの店に行き……「婚姻無効の調停を起こしてやる!」とヤツにビシッと言ってやろうと。
……腹黒二重人格男であるヤツが、お店で私にビシッと言われて慌てふためく様を想像してやろうと思ったのに、私の瞼の裏にいるセイさんはその唇を妖しげに持ち上げ笑っていた。
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