第5話 埋め合わせ 中編


「いらっしゃいませ!」


 鉄と硝子でできた、店の扉を押し開けた瞬間鼻を抜けていく焙煎された豆の香り。


 最近めっきり陽が落ちるのが早くなった。

 仕事が終わり電車に乗る頃には外は真っ暗になっていた。

 半地下にある目的の店は闇の中、現実世界から切り離されたような佇まいでそこにあった。


 店内の座席はそこそこ埋まっていた。

 私は若い女性の二人連れが並んでいるレジの後ろへと並びながら、空いている席がないか……そして彼は今日出勤か確認しようと、きょろきょろ店内を見回す。

 しかしセイさんの姿は見当たらず、わずかに肩を落とした。


 ……そうだよね、店長だってお休みの日はあるよね……い、いやいや!私は別にセイさんに会いに来たわけじゃないし!珈琲を飲みながら読書するために来ただけだし!


 自分自身に心の中だけで言い訳し首を振っていると、前に並んでいたお客さんが商品受け取りカウンターへと進み、私の番になった。

 レジに立っていたのは栗色の長い髪をいつも頭の上にちょこんとお団子にしている、笑顔が可愛い女性スタッフさんだった。

 昨日の騒ぎの時もいた、顔なじみのスタッフでもある彼女がそこにいたことに、ホッとする。


「いらっしゃいま……あっ!こんばんは!」


 彼女は私の姿を見た瞬間、目を丸くしてぱあっと顔を明るくした。

 そしてメニューを広げ「ちょっと待っててくださいね!」と私に向かって笑いかける。

 彼女はそのまま後ろでドリンクを作っているスタッフを振り返り「ちょっと、セイ店長呼んで!」と声をかけた。


 文庫本の間から彼に言われた通り、セイさんの名刺を取り出そうと鞄に手を突っ込んでいた私はそのまま目を瞬かせる。


 彼女はくるっとこちらを向いて「どれにします?いつもみたいにグラニータですか?」とニコニコ笑った。


「あっ、えっ、ええと……!」


 私は焦ってメニューに視線を落とす。

 きっとセイさんを呼んでくれた、ということは彼が約束したドリンク無料目当てに来たということは伝わっているのだろう。


 ……ただ、流石にここで一番高いメニューを注文することは少し躊躇ためらわれた。


 た、タダだから一番高いもの飲みに来たと思われるのは……恥ずかしいかも。


 メニューを見つめ視線を泳がせていると、バックヤードの方からセイさんが顔を出した。彼は商品受け取りカウンターの方から私に向かって小さく手招きをする。


「あっ、ええと……?」


 女性スタッフさんを伺うと、彼女はニコッと笑って「どうぞ、お進みください」とでも言うように掌を上に向け、セイさんのいる商品受け取りカウンターを指し示した。それに頷いて、商品受け取りカウンターの方へ進む。


 受け取りカウンターで待っていたセイさんはいつも店でしている、嘘で固めたイケメンスマイルを浮かべながら私に話しかけてきた。


「いらっしゃい!……待ってたよ、杏子ちゃん。注文はグアテマラ産の豆を使った珈琲でいいかな?」


 もしかしたらセイさんは休憩していたのかもしれない。彼の吐息からはわずかに煙草の匂いが漂っていた。

 職場で嗅ぎ慣れたそれに気付いて彼を見上げると、セイさんもそれに気づいたのか、口元を掌で隠し困ったように顔を背ける。


「えっ……と、じゃあそれでお願いします」


 セイさんの方から頼みたいものを聞いてくれたんだから……いいよね?


 先ほどは顔なじみのスタッフさんに『よく思われたい』という気持ちから言えなかったその言葉が、するりと口からこぼれ出る。

 口元を隠したままセイさんは安心したように眉を下げ、その真っ黒な瞳を嬉しそうに細めた。

 予想していなかったその表情に、どうしてか胸が騒いで私はとっさに言葉を重ねる。


「あ、あと私別に煙草の匂い嫌いじゃないです」


 セイさんはその言葉に目を丸くした。

 次に口を押さえたのは私の方だった。


 な、何言ってるの私……?!これじゃまるでセイさんが私のことを好きって勘違いしてるみたいじゃない!!


 恥ずかしさに思わず俯く。でも、彼はそんな私の言葉に穏やかな声で返事をした。


「そう……よかった。やっぱり煙草の匂いが苦手な人っているから。珈琲は出来次第テーブルへ持っていくから座って待ってて」


 私はちらりと視線だけでセイさんを伺い見る。

 口元を隠すのをやめた彼は、その黒子ほくろをわずかに持ち上げ優しい笑顔で微笑んでいた。


 いつもお客さん達に向けるそれとは少しだけ違うその笑みに、私の胸はふわふわ、ざわざわ、掻き回される。


 それが落ち着かなくて、胸を押さえたまま彼の言葉に曖昧に頷いて私は店内に歩き出した。


        *****


 ゆっくりと寛げる、壁際のソファー席が空いているのを見つけた私はそこに荷物を下ろし、鞄から文庫本を取り出した。

 その間に挟んだ名刺を、落としてしまわないよう取り出して財布の中へと移す。


 ……なんでセイさんにあんなこと言っちゃったんだろう。


 表紙を開いて、そこに書かれたタイトルを眺めながらため息をついた。


 ただでさえ、今彼はストーカーになった女性客に悩まされているのだ。

 あんなことを言ったら、私もあのストーカーと同じ勘違い女だと誤解されるかもしれない。


 開いた文庫本の文字は全く心に染み込むことなく、つらつらと目の前を滑っていく。

 私の視線は何度目かの一行目をなぞり、やがてそれを解読するのを諦めカウンターの中のセイさんを盗み見た。


 一番高いあの珈琲だけは、サイフォンを使い一つ一つ丁寧に淹れられる。


 黒いエプロンをつけたセイさんは、アルコールランプとフラスコを手元へ用意した。

 水を入れたフラスコの外側の水滴を丁寧に拭い、アルコールランプへと火をつける。火加減を見ながら漏斗の先についたチェーンをその中へ落とした。

 ボコボコとフラスコの中の水が沸騰し泡立つ。一度漏斗を外し空っぽのそこへ砕かれた珈琲豆を量り入れた。

 そしてフラスコを支えるスタンドを押さえ、その漏斗を熱湯が入ったフラスコへと慎重に差し込む。

 漏斗が沸騰したお湯をフラスコから吸い上げて、彼はその中で浮かび上がる珈琲粉を竹べらで攪拌しだした。


 彼は知らないかもしれないが……セイさんはあの珈琲を作る間、ものすごく真剣な表情をする。


 店のあちこちからため息が漏れた。

 多分あの珈琲が注文されるのは、セイさんがいる時だけなのではないかと私はこっそり思っている。


 じっと珈琲を見つめていた彼は、素早くアルコールランプをフラスコの真下から退け、火を消した。

 そして再び漏斗の中に竹べらを入れぐるぐるとかき混ぜる。

 竹べらをそっと引き抜くと、珈琲がフラスコの底へと落ち始めた。

 それが落ちきったのを確認したセイさんは口元の黒子ほくろを持ち上げ嬉しそうにふっと笑う。


 珈琲に向けられているその笑顔が、まるで私に向けられているような気持ちになって、慌てて文庫本に視線を落とした。

 胸のざわざわが大きくなって、ぎゅっと瞳を閉じる。


 大好きな本と、美味しい珈琲さえあったら最高の一日が送れるはずなのに。

 どうしてそれが揃っているのに、集中できなくなってしまったんだろう。


 往生際悪く、私はまた小説の一行目に挑戦しはじめた。


「……ふうん、今日は『ひゞき 隆聖』の『泡沫うたかた』?…相変わらずいいチョイスだね」


 不意に耳元で聞こえたのは低く甘い、彼の声だった。

 思った以上に近くから聞こえたそれに、私は飛び上がりそうになって本を閉じる。


「おまたせ」


 セイさんはいつの間にやら私の目の前のテーブルへとできたばかりの珈琲を置き、私の真横から文庫本を覗き込んでいた。


「えっ、あっ、い、いつの間に?!」

「ああ、やっぱり気付いてなかったんだ。何度か声をかけたんだけど集中しているみたいだったから」

「あっ……ごめんなさい」


 せっかくセイさんが手ずから淹れてくれた珈琲を、温くして飲むなんて失礼にも程がある。

 私は文庫本を鞄にしまってカップを持ち上げた。


 その甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、そのまま一口飲む。

 口の中でわずかな酸味とふくよかな香りが広がって、私は思わずへらっと微笑んだ。


「おいしー……」


 いつも一人で来ているときのように、唇から独り言がこぼれ落ちる。

 しかしすぐ側から吐息まじりの笑い声が聞こえて、私は一人ではなかったことを思い出しハッとした。セイさんは私と視線を合わせるようにソファーのそばにしゃがみ、微笑を浮かべていた。


「……杏子ちゃんは本当に美味しそうに珈琲を飲むよね」

「えっ、そうですか?」

「うん、それに本を読んでいる時も百面相してる」

「エッ?!うそ?!」


 ぎょっとして彼を見つめると、セイさんはニヤッと人の悪い笑顔を浮かべる。


「……嘘」

「ちょっと、なんでそんなどうでもいい嘘つくんですか!!」

「杏子ちゃんって揶揄からかいがいがある、って言われたことない?」

「ありません!!」

「ふうん?そう?」

「もう、小説と珈琲に集中したいのでどっか行ってください!」


 カップを握ったまま、まるで猫の子を追いやるようにシッシッ、と手を振るとセイさんは眉を上げて肩を竦めた。そして立ち上がりながら言う。


「『ひゞき 隆聖』、いいよね。僕は『からの棺』とか好きだよ」


 その言葉に反射的に顔をあげた。


「ひ、『ひゞき 隆聖』先生の本、好きなんですか?!しかも『からの棺』?!」

「うん。最初の言葉があんな後半の展開になるとは思わなかったよね。伏線が緻密で何度読んでも面白い」

「……そうなんですよ!!先生の本は本当に本当に凄いんです!!えっ、あれは読みました?『宵闇』!」

「ああ、あれもすごくよかったね」

「うわ、あれ読んでるなんてマニアックですね!!私あれを初めて読んだ時にめちゃくちゃ泣いちゃって……!それから先生の未発表作が書籍化されたときは全部買うことにしてるんです!!」

「それはそうと、今日はこれから予定ある?」

「ないです!……エッ?」


 その勢いのまま、前回と同じようにこれからの予定をするっと彼に答えてしまった私は、慌てて口を押さえた。

 そろそろと視線を上げると、セイさんはまたその唇をうっすらと持ち上げ、皮肉げに笑った。


「きみ、本当に頭が弱いね……僕が悪徳セールスマンだったら何の効果もない高級布団を10枚は売りつけられると思うよ」


 その言葉に言い返そうと口を開いたが、悪徳セールスマンとしてセイさんが家にやってきたら『頼むからもう帰ってください!』と半泣きになりながらいくらでも判子をつきそうな自分が思い浮かんだ。


 私はぐぬぬぬぬ、と悔しさに顔を歪めながら半開きになった唇を噛む。

 セイさんはまたその瞳を面白そうに煌めかせ私を見つめた。


「昨日のお詫び、あんまり長く引っ張るのも気になるし、話したいこともあるからそれ飲み終わったら一緒にご飯に行こう。さっきはちょうど仕事終わりで帰ろうとしてたんだ……それにきみのも空いているみたいだし?」


 嫌味ったらしくそう言ったヤツはニタリと笑う。

 それを断るにも、口実が思いつかなくて奥歯をぎりぎり言わせながら拳を握りしめた。


「じゃあ、着替えてくるよ」


 セイさんは私の答えなんて聞かずに手をひらひらと振り、バックヤードへと消えた。

 その姿を見送った私はふかふかのソファーの背に凭れ掛かり、ため息をついて天井でくるくると回るシーリングファンを見上げる。


 ……でも、助かったのかもしれない。

 きっと私から、もらった名刺に書かれたセイさんの電話番号に電話をかけることなんてできなかっただろう。


 私は彼が丁寧に淹れてくれた、珈琲に再び口をつけた。

 私を包むようなその香りと味にうっとりしながら頬を緩める。


 ……きっと『ひゞき 隆聖』好きに悪い人はいない。


 彼について少しだけ詳しくなった私は、これからどんなことを話そうか、考えながらそっと顔を綻ばせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る