第6話 見習い天使は頼りきり その3


「それ、触っちゃダメです! 早く離れてください!」


 ユアはどこから取り出したのか、スプレー缶を振り回し、ダンス部のフォーメーションから一人外れて、俺に向かって突進してきた。


「こんなとこまで出てくるなんて、許しませんよ! えーい!」


 威勢よく叫び声をあげて、俺の足元のカタツムリに勢いよくスプレーを噴射する。しかし、その気合十分の叫び声とは裏腹に、三メートルも手前で急停止して、へっぴり腰、狙いもろくに定めずにやみくもに吹き散らかしてるだけだ。


「いやいや、ユア、もう少し近づかないと。スプレー届いてないじゃん」

「わたし、こいつキラいなんです! 見るからにキモいじゃないですか! ケンはキモくないんですか? えーい、このヤロー! このヤロー! このヤロー!」


 とにかく、やたらめったらスプレーを振り回しているユア。しかし、スプレー缶からの白い霧がカタツムリに降りかかることはない。狙いが悪い以前に、そりゃもっと近づかないと届かないぜ。距離が離れすぎだろ。

 カタツムリはのんびり、我関せずといった感じでダンス部のパフォーマンスに向かって這っていく。と、思ったら、急に鋭角に曲がると、ユアの方向に角を振りかざしてスピードを上げ始めた。カタツムリにしては随分、というかありえないくらい機敏だ。その進み方はゴギブリの速さに近い。


「きゃー! いやー! こいつキライですー! 来ないでー!!」


 ユアはカタツムリの矛先にされた途端、逃げ腰になった。さっきまでの勇ましさはどこ行ったんだ。カタツムリはずいずいとユアとの間を詰める。


「まったく。ちょっと貸してみろよ。スプレー吹きかけりゃいいんだな?」


 仕方なく俺は数歩歩いてユアの手からスプレー缶をもぎ取ると、加速してユアに向かってくるカタツムリめがけてぶしゅうとボタンを押した。ユアは俺の背中に隠れてしまっている。

 目標をユアに定めた黒いカタツムリは、スプレー缶の白い霧を浴びると、推進力を失って動きを止めた。ん? なんか、少し縮んだんじゃねーか? と思った瞬間、もくもくと真っ黒な煙が立ち上る。ダンス部の女子たちが黒煙の向こうに霞んで見えなくなってしまう。


「うおっ、なんじゃこりゃあ!」


 熱さは感じないから、カタツムリ自体が燃えたわけじゃなさそうだ。しかし、もくもくと立ち上る禍々しくもドス黒い煙にはさすがにビビらざるを得ない。

 四天王を筆頭に、ダンス部の誰一人騒ぎに気付いていない。響きわたるダンスミュージックに合わせて一生懸命ステップを刻んでいる。みんなこのドス黒い煙見てびびらないのかよ。それもそれで驚きだ。


「あー、途中で止めちゃダメですよ。もっとしっかり吹きかけてください!」


 へっぴり腰で俺の背後に隠れているユアが叫ぶ。言われなくても、俺は黒煙の根元に向かってスプレーを吹き続けていた。

 結構な間、スプレーを吹きかけてるうちに、だんだん黒煙が少なくなってきた。煙が途切れた体育館のフローリングの上には、何も残っていない。俺はスプレーを吹き続けながらユアに聞く。


「もういいか? カタツムリ、消えてなくなったみたいだけど」

「うーん、もう大丈夫みたいですね。あー、キモかった」


 やっとユアが俺の背後から出てきた。手には今度は霧吹きのようなものを取り出してきている。気が付くと柊木も俺たちの側に来ていた。


「あら、また出たのね」

「ちいちゃん。ちょっとそのあたりよけといてくださいねー。悪魔退治したあとは、除魔を忘れちゃいけませんよー。大事なとこなんです、それ」


 ユアは何もいなくなったフローリングの床に向かって、霧吹きをしゅっしゅっとかなり念入りに吹きかけた。


「これで、当分大丈夫ですね。効果長持ち三ヶ月ですからねー。あ、ケンもちいちゃんも覚えておいてください。最初のスプレー缶が『めっちゃよく効く♡ 悪魔退治ころりんちょスプレー お買い得特大サイズ』です。そして、こっちのしゅっしゅっが除魔剤の『除菌で効果長持ち三ヶ月 悪魔よけぴかりんこプラス』ですー。天使は必ずこの二種類の悪魔退治アイテムを持ってるんですよー。いろんなメーカーから出てますけど、ユアはこのアリスガワ薬品のヤツがおすすめですー」


 左手にスプレー缶、右手にハンドスプレーボトルを持って、交互に持ち上げて説明してくれた。せっかく一生懸命説明してくれているが、正直わりとどうでもいい。


「まず悪魔退治スプレーで黒い煙にしちゃってから、こっちの除魔剤を吹きかけておく。これが悪魔退治のやり方の基本なんですー。天使学校に入学すると最初に習いますからねー」


 そんなことを言ってる間にダンスミュージックが終わった。ダンス部の三年生たちが後輩たちの踊りに対して細かい注意をしているのが聞こえる。


「へえ。そういうもんなのか」

「はい! そうですよー。とにかく悪魔は小さいうちに退治しとくもんなんです」


 まあ、俺には関係のない話だし、悪魔退治の仕方とか聞いてもな……。え? なんだって? 悪魔?


「ユア! 柊木も。ちょっとこっち来てくれ」


 俺は柊木とユアを、体育館の隅のみんなの目の届かないところに連れて行った。ここならダンス部員やそのギャラリーたちの目を気にせずにユアと話ができる。


「おい、ユア、今のカタツムリ、あれが、その、悪魔、なのか?」

「そうですよー。人間界のほとんどの人は勘違いしていますけど、悪魔は本来は人間界でいうカタツムリの姿なんですー。人間界の悪魔のイメージで合っているところと言えば、角があるところと色が黒いことだけですよねー。それに悪魔、しゃべったりしませんし」

「ホントかよ。なんだか信じられないけどなあ」


 得意げに話すユアはいいとして、妙に落ち着いている柊木が気になる。


「柊木はなんでへーきな顔してるんだよ。驚かねーのか?」

「私も最初は驚いたわよ。昨日の帰り、石塚と別れてから校門に行くまでの間で一回遭遇していたんだよね。その時に、ユアちゃんと私で退治したから。確かに人間の一般的な悪魔のビジュアルイメージって、角が生えてて、色が黒くて、羽があってって感じだけど、それ間違いだったみたいね」

「そうです。全然違ってますよー。おおまちがいですー。どっちかっていうと、悪魔は害虫みたいなもんなんです。わたし、気持ち悪いからめっちゃキライです。あれ、悪意のある人間に取りつくと、その人の悪意を吸い取ってどんどん大きくなるんですよー」


 へー、カタツムリがでかくなるのか。それはちょっとグロくてイヤなのも分かる気がする。


「ただ、悪魔はですねー、天使を攻撃してくる習性があるんですよ。まとわりつかれるとぬるぬるしてめっちゃキモいんです。それに、あまり大きくなるとスプレーじゃ退治できませんから。見つけたら小さいうちに即退治しなきゃいけないんです。悪魔退治は天使の大事な仕事ですー」


 なるほど。漫画とかで間違えたイメージを植え付けられていたけど、あれが本来の悪魔の姿なのか。


「ユアちゃん、あの悪魔って、他の人には見えていないの?」

「普通の人間には見えていませんー。ケンとちいちゃんには見えますよね。わたしが見えるなら、悪魔も見えて当然ですー。見えないと退治できませんからね」


 そう言うと、ユアはあごに人差し指をあてて考え始めた。


「でも、おかしいですねえ。見習い天使が実地研修に来るような場所は、天使学園が事前に除魔クリーンアップしてるんです。そうそう小さい悪魔が出ることはないはずなんですけど。昨日も出たし、今日も出ましたよねー」

「へえ、そうなのか。天使は悪魔退治済みのところで実地研修するってか。でもそれじゃあ悪魔退治の訓練にならないんじゃねーのか?」


 天使の世界には、どうやらかなりシステマティックな養成機関が存在するようだ。俺たちには普通の小学生にしか見えないユアだけど、いずれ本職の天使として働くために天使学校とやらに通っているのだろう。そう考えると、小さいのにえらいもんだ、と感心してしまう。とはいえ、見た目が人間の小学生に見えるだけで、ユアが人間の年齢で十歳とは限らない。実は人間の感覚から見ると、ものすごい年寄りだったりするのかな、とふと思った。


「実はですね、前は小さい悪魔を十匹退治したら、昇格できていたんですよ。そしたらですねー、小さい悪魔ってスプレーだけで簡単に退治できちゃうでしょ? そればっかりを退治しまくって昇格するという、せこい裏技が見習い天使の間に出回っちゃったんですよ」

「天使なのにずるするやつがいたのか」


 なんか夢も希望もない話だ。天使って、もっとこう善意とか誠意のかたまりみたいなもんだと思ってた。


「天使にもいろいろいますよ。あまりに不公平だということで、ある時から見習い天使が実地研修する場所は、あらかじめ学園が除魔クリーンアップしておいて、むやみやたらに小さい悪魔が出ないようにしておくことになったんですー。しかし、ユアはもう二匹目ですからねえ。これも訓練の一環なのかなあ。まあ、ラッキーと言えばラッキーなんですけど、教官に聞いてみなくちゃいけませんねー」


 ユアが考えている間に、ダンス部の次の練習曲が始まった。フォーメーションを組み直したダンス部のメンバーを見て、ユアの表情がぱっと明るくなった。


「とにかく、小さくても一匹は一匹ですからねー。悪魔退治稼げたんで、よしとしましょう」

「そりゃよかったな。しかし、そんなこと言ってもユアはびびってるだけでなんにも退治してなかったじゃん。スプレー吹いたの、ほとんど俺だし」


 俺が指摘するとユアは分かりやすくしまったという顔をした。


「あ、ま、そういうこともありましたね、ははは。わたし、もう少し踊ってきまーす! わたし、こう見えても、見習いですけど天使ですから、自分でてきとーに帰れますよ。ケンもちいちゃんもわたしにおかまいなく、先に帰って下さっていいですよー」


 それだけ言うと、ユアはとことこと走ってダンス部の二列目に加わって、また踊り始めた。周囲をちらっとだけ見て、それに合わせて脚と腕を振り始める。

 よーく見ると、ところどころ動きが食い違っているところもあるが、ぱっと見ではそれほど違和感はない。踊りのセンスは大したもんだ。


「ユアは見習い天使よりも、ダンサーの方が合ってるんじゃねーのかな」

「ふふふ、まあそうかもね。ちゃんと踊れてるから、私も驚いちゃった」


 目の前で繰り広げられるダンス部のパフォーマンスと、飛び入りでそれに溶け込むユア。ユア本人は単純に楽しいから踊っているだけなんだろう。そこには微塵の邪心もない。心から踊るのが好き、それも一つの才能だ。


 それと同時にユアは、自分が見習い天使であって正式な天使を目指していることに対して、ひとかけらの疑いも抱いていない。それも、天賦の才、と言えるのだろうか。天使って才能でなるもんなんだっけ? 職業とは何か、という哲学的な思考にハマってしまった俺は、まあ、本人ユアが楽しそうにしているなら、それでいいのかもな、と強引に結論を付けて再びユアのダンスに目を向けた。

 しばらくの間、俺たち二人は黙って二曲目のダンスを見つめていた。


 いかんいかん。あんまりガン見していると糸田の妹狙いだと誤解されてしまう。確かに糸田の妹はぶっちぎりでかわいいが、ダンスのうまさならやっぱり三年生のダンス部四天王が突出している。そして、ユアのダンスは四天王に負けていない。

 個人的には四天王の中では、部長よりも、左サイドの川田由乃さんの方が動きが優雅で上手いと思うが、まあそのあたりは個人の好みだろう。


 二曲目が終わり、すぐ次の曲が始まった。そろそろ潮時だろう。


「柊木、そろそろ帰ろうか」

「そうね。あんまり二人でダンス部見学してるのも、周りから見たら変かもね。実はあんたが来るちょっと前まで柴崎さんも見物してたんだよ。あんたと入れ違いで帰って行ったんだけどね。つくづく持ってないわね、石塚は」

「大きなお世話だ。それにあんまり柴崎さんと顔合わせるテンションでもなかったからな」


 俺は、床に置いたかばんを拾い上げて、ダンス部のメンバーに背を向けた。後ろに柊木が続く。糸田の妹のギャラリーたちをかいくぐって体育館の出口に向かった。


 放課後、昇降口を出た時の不安定な気分は、もうすっかり吹き飛んでいた。

 暮れかけた秋の陽射しに赤く染まった体育館を出て、心持ち軽くなった足取りで帰路についた。

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