ウォールはやれやれと肩を落としてうつむき、ほのかは一体誰の声なのかと辺りを見回す。スピーカーのようなものも見当たらないし人影も無い。

「W、さっさと面倒なことを済ませてこっちにつれて来い。サボろうとしても無駄だ。こうしている間にお前の仕事は増えていく一方だからな」

「はぁ、了解」

 姿も見えない、どこから聞こえてくるのか分からない声の主にウォールは仕方が無いと了承の返事をし、乱暴にテーブルの上にあった食器を隅にのけ、真ん中に折り目があるだけで先ほどの様な皺などない紙を契約書と並べるようにしておいた。

「さて、僕は別に君を馬鹿にしたわけじゃない。君の適正を見せてもらったに過ぎない」

「適正、ですか」

「そう、僕たちの部署はただ外敵を防ぎ守るための戦闘部隊とは違う。言葉を正確に理解し、的確な態度と疑問に対しての解答を示せることが最も重要となる。つまりだ、はじめに見せた偽の契約書、その内容と言葉をよく理解せず、トラスパレンツァ図書館の図書館員となるという一文のみに目を奪われ、また、僕がサインしろと言ったからと契約書にサインをしてしまっていれば君はすぐにでもこの場所から放り出されただろうね。しかし、君はあろうことか自分から辞退しようとまで言い出した。間違いなく合格、こっちが本物の契約説明書だよ」

 一体何がどうなっているのか、だまされた後では不信感しかなく本物だといわれた書類も疑いの眼差しでほのかは目を通し始める。だがその内容は先ほどと大差なく、違う所と言えばサインする空欄が無いぐらいだった。

「さっきと変わらない気がするんですけど」

「そうだよ。だってそれは契約説明書、契約書じゃないからね。僕はその契約説明書に基づいて契約してここに居る。どういうことか君なら分かるだろう?」

「権限が無いということですか?」

「正解。僕はあくまで君を部署に連れて行くための案内役なんだよ。さて、それじゃ行こうか」

 そういって立ち上がったウォールはほのかの荷物を全て軽々と抱えて、先ほど入ってきた壁のほうへは向かわず、反対側の壁の方へ歩き始める。行こうかといいながら壁に向かって歩いていくウォールを訝しげに眺めていると突然ウォールが壁に向かって、

「やっぱり肉まんは蓬莱庵ほうらいあんだ」

 と怒鳴り、ほのかはやっぱりこの人は変人なのだとますます怪しむような視線を送る。

「まぁ、それが正しい反応だと思うけど、僕だって言いたくて言ってるわけじゃないんだからね」

 ウォールの溜息と同時に壁から聞こえてきたのは受付のドールと同じ機械音声。

「暗号、声紋を認証。続いて網膜認証を行います」

 真っ白な何もないように見える壁から赤いレーザーのようなものがウォールの瞳に向かって走った。

「認証終了、Wと確認しました。全てのロックを解除します道が出来るまで暫くお待ちください」

 静まり返った部屋の中でほのかは、やれやれと一息吐き出しているウォールに近寄って下から見上げるようにして聞く。

「まさかとは思いますが、さっきのあれが暗号なのですか?」

「正解。この部屋から僕たちが働く場所に行くために暗号。別の部屋には別の暗号が存在するけど似たり寄ったり。全く千珠咲長ちずさちょうはいい加減に決めすぎなんだ。ちなみにこの部屋の暗号は決めるその時に蓬莱庵ほうらいあんの肉まんを食べていたからって理由らしいよ」

「それは、なかなか無い理由ですね」

「暗号と言う性質を考えれば行き当たりばったりでつけるほうがいいんだろうけどね。それらを覚えて毎回言うほうの身になって欲しいよ」

 契約説明書にも出てきたが先ほどからウォールが言う「千珠咲長ちずさちょう」という人は一体何者でどんな人なんだろうとほのかが考えていれば、モーターが回るような大きな機械音が聞こえ、目の前の壁に下へと続く入り口が開いた。

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