二人目 栞Ⅰ
目を覚ましても周囲は暗く、微かな光さえ感じられない。重い頭と鈍い思考で、最悪の寝起きだった。
加えて腰と首がひどく痛む。特に首は動かそうとするだけで悲鳴を上げそうになるくらいだ。
その首をさすろうとして気付いた。
自分が今椅子に座っていて、身動きが一切取れなかった。丁寧なことに、椅子背凭れに腕を回され、ガムテープで巻かれている。腕が痺れているように感じるのはそのためだ。
どう考えたっておかしな状況。
まるでどこぞの映画のようで、椅子に縛られることなんて人生でそうそうないだろう。
暗闇の正体も理解できた。アイマスクのようなもので目隠しをされているのだ。どうりで一向に目が慣れないはずで、おまけに口にもテープが貼られている、叫ぼうにも呻き声しか上げられそうになかった。
誰かの悪戯にしては性質が悪い。頭はずきずきと痛むし、これは立派な犯罪だ。
そもそも一体誰がこんなことを、と思考している中、唯一自由な耳がかすかな足音を捉えた。
忍び寄る気はないけれど、荒々しく音を立てないるつもりはないそれ。大きくなるにつれ、恐怖心が湧き上る。もし足音の主が変態で、これから暴行を加えられるのだとしたらと考えただけで、全身に感じたことのない悪寒が走った。
少なくとも女子高校生を攫って縛り付けるような相手なのだ。まともなはずがない。
園田 美香はパニック寸前になりながらも、何とか喉を震わせた。
「んーーっ!んんん!」
「ふふ、そのままじゃ何言ってるかわかりませんよ」
女性の声。高く透き通っていて、やけに通りがいい。てっきり男だと思っていたものだから、拍子抜けしてしまった。
あまりにも場にそぐわない、上品で無邪気な笑い声だ。鼻歌まで聞こえてきて、美香はさらに困惑した。
冷静さは失いながらも、呻き声で抗議する。何を言っているかはわからないだろうが、少なくとも抵抗の意思は表せる。相手が男でなかったため、乱暴される心配もなくなった。それが彼女の反抗心を煽った。
それが面白く映って、女はくすくすと笑った。子犬が必死で芸をしているような感覚だ。
「もう、仕方ないですねぇ……これ外してあげますから、大声出したらダメですよ?」
大声出したとしても問題ないような場所なのか、余裕の表れなのかは分からない。
どちらにせよ、口が利けるようになるのは美香にとって好都合だ。もがもが言うしかできないよりはよっぽど良かった。
女は美香の口からガムテープを剥がした。躊躇なく剥がされたので、美香は痛みに顔を顰めた。ひりひりする頬が頭を覚醒させる。
「……っぷは」
「いい子ですね。そのまま、黙って私のお話を聞いてくれますか?」
無言で頷く美香に、女は満足そうに頷いた。
優しげな手付きで頭を撫で、少女がびくりと反応する。それを見てまたくすくすと笑った。
「あなたにお願いしたいことがあるんです。言う事聞いてくれるなら、すぐに解放してあげます。如何です?」
一瞬考えて、また頷く。
「……お願いって何」
答えを聞いて深まった笑い声が耳障りだった。
嬉しそうな声も、時折混じる鼻歌も、触れる手も全てが不快だ。
「簡単ですよ」
一呼吸置いて、女が言う。鼻歌がなくなっていた。
撫でる手に熱が篭る。感情が高ぶっている証拠だ。
「あなたの行きつけのカフェがありますよね。そこで働いてる男の子に近づかないで欲しいんですよ」
頭に激痛が走る。髪を鷲掴みにされ、思い切り引っ張られた。ぶちぶちと髪が千切れていく音が恐怖と危機感を再燃させる。
返事をする前に、喉から悲鳴が溢れ出た。女はそれが癇に障ったようで、髪を掴んだまま力任せに振り回した。
「どうです?約束してくれるなら、お家に帰してあげますよ?」
「やめっ……痛い痛い!お願いやめてッ!」
「うーん、お返事が聞こえませんね。分かったんですか?分からないんですか?」
「分かった!分かったから、離してッ!」
にやりと口元を歪める。
多少投げやりな返答ではあったが、言質が取れたことの方が大切なのだ。
催促のつもりで振り回していた手を止めた。
「いい子ですね。今の言葉と痛み、忘れちゃダメですよ?」
投げ捨てるようにして、女が髪を離した。その勢いで美香が椅子ごと地面へ倒れる。
がつんと顔に衝撃が走った。両手足を椅子に縛られていて受身が取れず、顔から倒れてしまった。地面はざらついたコンクリートのようで、小石が頬を突き刺した。
美香を倒した張本人は、その様子を見て楽しそうにけらけらと笑った。どことなく保たれていた上品さが剥がれ掛けている。これが本性なのだと、美香は直感した。
「あははは、痛いですか?自業自得なんですから、泣いちゃダメですよう」
アイマスクで泣いてるかわからないですけど、とまた笑う。心底楽しそうな嘲笑だった。
美香は悔しさに歯を食い縛った。ぎりぎりと奥歯が鳴らしても、その悔しさを口にすることはしない。感情のままに毒を吐けば、ただじゃ済まないだろう。
頭に最悪の状況が乱舞する。暴力、陵辱、果てはゴミのように捨てられ、事切れている自分。そんな目に遭うくらいなら、屈辱など飲み込むくらい安いものだ。
「あー、楽しいですねぇ。そういえば、あなた今日楽しそうに悠一さんと話してましたよね」
「……それが、何よ」
「どんなお話をしてたんです?聞かせてくれませんか?……あ、助かりたいからって嘘はだめですよ?ちゃんと本当のこと、話してください」
嬉々とした声だが、恐らく女の腹の中は違うだろう。
悠一に好意を持っている女として、考えていることは同じはずだ。特にこういったタイプの人間は、自分以外の女と楽しく談笑する姿なんて見たい訳がない。ここまでするような女なのだからなおさらだ。
美香は少し逡巡してから、静かに話し出した。あまり刺激しないよう、誇張など持っての外だ。
「学校のこととか、そんな程度の話よ。アンタが思ってるようなことじゃない」
「でしょうね。悠一さん、笑ってはいましたけど、迷惑そうでしたから」
小馬鹿にされている。
きっと見下したような顔をしているのだろう。隠す気もない嘲笑が血を沸騰させた。また耳障りな鼻歌が流れ始めるのだから、それがまた美香を苛々させた。
続きを促す女に、美香は努めて感情を込めないよう、淡々と言葉を続けた。
「後は単なる世間話。好きなお菓子とか、テストの話とかくらい。これで満足?」
女は鼻歌を止めて、わざと大きくため息を吐いた。目隠しをされた美香に、自分の感情を伝えるための所作だった。
二歩程の足音。これもわざと大きく音を立てた。コンクリートを摺るような、ざらついた音。
ゆっくりと近づいて、倒れている美香の耳元へ口を寄せる。息遣いが良く聞こえるよう深呼吸気味のそれ。びくりとする美香に女の加虐心が擽られた。
触れるか触れないかの距離で、耳に直接語りかける。
「なんで嘘、吐くんですか?」
この一言だけは、全く感情が篭っていなかった。
言い訳をする前に、女は美香の髪を再度鷲掴みにする。そのまま持ち上げて、小石まみれの地面に叩き付けた。
「あっ……、がッ!い、いだぁあっ!」
「嘘吐きはいけませんよー?私、ちゃあんと言いましたよね。嘘は吐かないでくださいって」
ごん、ごん、ごり。
頭が何度も地面を跳ねる。
まず最初は鼻だった。ぱき、と何か木の枝が折れるような音が頭の中に響いて、鼻の感覚が鈍くなった。口に入り込んだ鉄の味とどろりとした液体に吐き気を催す。
次は額と頬。地面のあちこちに散らばっていた小石が皮膚に突き刺さり、顔全体が細かな傷で覆われた。
叩きつけられる毎に食い込んでいく小石。激痛で気が狂いそうだった。
数十分に渡り、女はひたすらに美香の頭を地面に叩き付けた。
女は嘘を吐かれたことに対しては、別段なんとも思っていなかった。自分だって嘘を吐くときくらいあるし、こんな状況であれば保身に走ることくらいあるだろう。それが悪いことだと思ってもいない。
はっきり言ってしまえば、ただの憂さ晴らしで八つ当たりだ。
愛しの少年と楽しく話したから。
自分以外に笑顔を向けさせたから。
彼を困らせたから。
彼女は隠すつもりだったようだが、彼の連絡先を知っていたから。
それでも自分の前で笑う少年と少女に嫉妬して、ストレスが溜まっていたから。
理由を挙げればキリがない。
(私って、こんなに独占欲強かったんでしょうか)
灰色の天井を見上げて、女は物思いに耽った。その間も手は止まることなく地面を赤く染めていく。
(前はこんな気持ちになることは無かったんですけどねー。最近は悠一さんのことばかり考えてしまって……)
頬が赤くなる。顔が熱くなって、空いた手で顔を扇いだ。それでも熱は収まらず、自然とにやにやしてしまった。
脳裏には愛しい少年の姿。一生懸命オーダーを取って、にこにこと笑顔を振り撒く彼。それが自分に向けられた瞬間を思い出して、臍の下が強く疼く。
(仕方ないですよね。悠一さん可愛いですし、何より優しくていい子ですし。あんな可愛い男の子、私が守ってあげなきゃ悪い人に食べられちゃいますから)
この女のように。
いつの間にか声も出さなくなった少女を見た。
顔は真っ赤に染まり、原型は留めていない。息があるのかすら分からず、少しやり過ぎてしまったと反省した。
手を離すと、美香は地面に突っ伏した。起き上がろうとする気配もない。
「あれ?おーい、大丈夫ですかー?」
肩を揺すってみる。全く反応が無く、地面に伏したままだ。
強く蹴ってみても、踏みつけてみても同じことだった。ピクリともせず、ただ血を流すだけ。女は不思議そうに眺めていた。
「意外と脆いんですね。ちょっと虐めただけじゃないですか。まぁ、自業自得です」
私の悠一さんを取ろうとしたんですから、と呟いた。
表情はにこやかな笑顔のままだったが、視線だけは氷のように冷たかった。その分、口元に張り付いた笑みが違和感を加速させていた。
しばらく少女を眺めていた女は、ふと興味を失ったように立ち去っていった。一瞥もせず、何事も無かったかのように歩いた。
腕時計を見れば、夜の十一時を過ぎた頃。夜空は大きな月が浮かんでていて、星もきらきらと光っている。
「良い夜ですねぇ……」
心の底からそう思う。なんて素晴らしい夜なのだ。
頭がすっきりとしていて、生まれ変わったように感じる。今までの自分とは全く別物になったかのような感覚に、女は笑い声を上げた。
「あははは……凄いです。こんな気分、今まで初めて」
今なら何でも出来る気がする。ただ年上ぶるだけで精一杯だった自分が嘘みたいだ。
笑い声が夜空に響く。月明かりが自分を祝福しているようで、さらに高々と笑った。
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