愚かなひとびと


 建国記念祭の最終日に、第一妃と第三妃の懐妊が発表された。

 いよいよ次代の後継者の誕生かと、帝国は沸いている。祭が幕を閉じたあとも、様々の家門や従属国から届く祝いの使者が引かないほどだ。

 当然ながら皇室に納められる進物も枚挙まいきょいとまがない。

 現在六人いる皇妃の中で、主に外交関係の政務の補佐を任じられている王女の負担は日ごと増すばかりだった。贈答品の手配や返書の作成に時間を取られ、執務室を出る頃にはとっぷりと日が暮れている。


 おかげで祭が果ててからというもの、夕餐ゆうさんは自室で取ることが多くなった。

 眠る前にほんのわずかな食事を口に運び、湯浴ゆあみを済ませたらとこに就く。

 このところ毎日その繰り返しだ。ふたりの妃が子をはらんだという知らせは気がかりだったが、今は皇帝の通いがないことが有り難い。


 皇宮では四ヶ月前のあの事件以来、後宮に余計ないさかいを招いたという理由で、皇帝の王女への寵愛はふっつりと途切れたともっぱらの噂だった。

 いっそそれが事実であってくれればどんなにいいかと思いながら、今宵もひとりきりでの食事を胃の腑に押し込んでゆく。

 皇帝は着実に計画を進めていた。例の事件のあと、彼が吐露とろした胸の内に変化も偽りもないのなら、ふたりの皇妃の懐妊はかの獅子の思惑どおりだ。


 各地の領主や従属国から届く書簡に目を通すだけで、皇妃の懐妊を知った権力ちからある者たちが続々と蠢動しゅんどうを始めていることが分かる。

 彼らの興味はもはや一時の君寵を失った小国の王女などにはなく、ふたりの妃のどちらにくみするべきか、その一点に注がれていることだろう。


 ──陛下は本当に、私を皇后に選ぶおつもりなのだろうか。


 数品の料理が並ぶ小さな食卓を前に、王女は食叉フォークを握った手を止め考える。


 ──もしあのときのお言葉が現実になるのなら、私の使命は達成される。


 昼もほとんど食事を取らなかったというのに、今宵も料理が喉を通らない。


 ──からっぽだった十八年間の人生が、やっと報われるのだ。


 燭台に灯がともっているにもかかわらず、ひとりきりの部屋は暗かった。


 ──やっと報われる。やっと……。


 まるでひとつの儀式のように、夜が来るたび自身にそう言い聞かせる。

 されど自らを喜ばせようとするごとに、頬が濡れるのはなぜだろう。

 今宵も震える唇を噛み締め、王女は食叉を手放した。

 近頃弥増いやまして白く細くなってゆく指先で涙をすくう。

 やはりもう食事をする気にはなれなかった。ゆえに片隅に置かれた硝子ガラス製の呼び鈴を鳴らし、扉の向こうに控えさせていた侍女を呼ぶ。湯浴みをする旨を伝えた。

 が、侍女は卓の上の料理にはたと目を留めて、わずか眉を曇らせたようだ。


「……姫様。差し出がましいようですが、お食事が……」

「ええ、いいの。疲れて食欲がないだけよ。もう休むから下げて頂戴」

「ですがこのところ、昼も夜もろくにお食事を召し上がっていないではありませんか。これでは姫様のお体が……」

「構わないと言っているでしょう。……湯殿ゆどのへ行くわ。寝衣を用意しておいて」

「お待ち下さい」


 一体どういう心境の変化だろう。帝国へ嫁いできてからの一年間、常に必要最低限の言葉しか交わさず、黙々と職務をまっとうするばかりだった祖国の侍女は、建国記念祭の前後から妙に口数が多くなった。祭の前には王女に近づくことも恐れている様子だったのが、なぜだかしきりと身辺をうろつくようになったのだ。


 その日も食事を終えて湯を浴びるという王女を押し留めたかと思えば、侍女は一度退出し、ある酒を携えて戻ってきた。

 美しい硝子瓶デカンタをたっぷりと満たした、見覚えのない酒である。注がれた銀杯さかずきを手に取り鼻を寄せてみると、すうっと抜けるような薬草の香りがした。

 色味も淡い若芽色で、細かく砕かれた金箔が液体の中を星のごとく漂っている。


「……これは?」

「第二王子殿下より賜った薬酒です」

「お兄様から?」

「はい。異国の地で姫様への忠勤を尽くす褒美にと、おそおおくも頂戴しました。古くから病魔を退け、疲労回復や滋養強壮といった効能を持つと伝えられている品です。ですが今はわたくしよりも、姫様に召し上がっていただくべきかと……」

「つまり其方そなたがお兄様から譲られた品だということ? であれば私が口をつけるわけにはいかないわ」

「いいえ、構いません。殿下からは今後も陰日向に姫様をお支えするよう仰せつかりましたので……姫様のお力になれるのでしたら、どのような労もいといません」


 強張こわばった顔に不慣れな笑みを貼りつけて、侍女は饒舌じょうぜつにそう言った。

 王女はそれをいかにもと感じたが、だとするとこれは兄の趣向ということだろうか。──なぜ侍女にそんなことを?

 金箔の泳ぐ水面みなもを見下ろしながら、王女はしばし思案した。

 あるいは酒に毒でも盛られているのかといぶかしんだものの、むしを宿す王女に毒殺が通用しないことは当然兄も知っている。


 ならば本当にただの善意から?


 否、そのようなはずがない。下の兄はいついかなるときも冷徹な思考を働かせ、野望のための策を巡らせるのに余念がない男だ。

 とすればわざわざ侍女にこのような真似をさせるのは、王女が皇帝の寵愛を失ったという噂を信じ焦りを覚えたためであろうか。何しろ王女がを果たせなければ、いずれ次兄のものとなる蝶の国は金獅子帝国の脅威に怯え続けることとなる。ゆえに彼は何が何でも皇帝の暗殺をと、祖国への帰路に就いた今も息巻いているはずだ。


 ……愚かなひと。


 内心そう吐き捨てながら、王女は杯に唇を寄せた。

 こんな迂遠なやり方で焚きつけずとも、王女の心は決まっている。

 己は兄の望むまま、祖国の傀儡かいらいとして一生を終えるのだと。

 たとえどんなに獅子から愛されようと、この身が彼を滅ぼす毒を帯びている以上、共に生きる未来など決して望めはしないのだから。


「……お兄様は」

「は、はい」

「お兄様は、蝶の国の未来を案じておられた?」

「は……はい……第二王子殿下はお歳を召された国王陛下と、病がちな第一王子殿下に代わって、我こそが祖国を守らねばと堅く誓っておいでですから……」

「……そう。ではその悲願のために力を尽くしたならば、お兄様は今度こそ私を愛して下さるかしら」

「え……?」

「たった一度で構わないから……父や兄に〝よくやった〟と、頭を撫でてもらいたい。幼い頃から、それだけが私の望みだったの。結局一度も叶わないまま、こうして遠い異国へ嫁いできてしまったけれど……お兄様と共に祖国を守り抜くことができれば……今度こそ、きっと……」


 叶わぬ夢だと知りながら、王女はそんなごとつむぎ、自嘲を杯で覆い隠した。

 舌の上に流し込んだ薬酒はほのかに甘く、薬草の青臭さの陰になつかしい故郷の果実の香りを感じる。酔いが回ってきたのだろうか。王女は椅子に身をもたせたまま、ありもしない夢想に心を浸した。近い将来、姫としての使命を無事に果たせたならば、そのあとは故郷へ帰る。そうして生まれ育ったあの城で、今度こそ王族の一員として父や兄に迎えられ、幸福な余生を過ごすのだ──と。


 ところが束の間王女の脳裏を飾った夢の色彩は、侍女の異変によって霧散した。

 見れば彼女は王女を凝視したまま目を見開き、なぜか肩を震わせている。

 近頃いくばくかの血色を取り戻したように見えた侍女の頬は、再び血の気を失っていた。青白く染まった面輪おもわの上を、ひと筋の涙が伝ってゆく。


「どうしたの?」


 と驚いた王女が尋ねると、彼女はたまりかねたように口もとを押さえた。

 かと思えばますます涙を溢れさせ、にわかに床へ崩れ落ちる。


「も……申し訳ございません、姫様……! わたし……わたしは……!」

「──何事だ」


 豹変した侍女の様子に、王女が惑いながらも傍らへ膝をついたときだった。

 突如低い男の声があたりに響き、燭台の火がゆらりと揺れる。

 王女はますます度を失った。

 なぜなら瞠目どうもくしてかえりみた先に、寝衣をまとった皇帝の姿があったためである。

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