第15話

 さっきまで喧騒に包まれていた室内は水を打ったかのように、しん、とした。

 僕は背もたれをぐっと倒した。ここのシートはいつ来ても座り心地が良い。

 学芸員による投影中の禁止事項の案内が終わると辺りはさらに暗くなった。首を曲げて正面を見るとドームの縁に大阪の街が映し出されている。これから今夜の星空解説が始まるのだ。

 学芸員の心地よい声が今日の夜空の見どころ、豆知識などを教えてくれる。都会は街の明かりが眩しすぎて星がよく見えない。だけどよく目を凝らせば一等星のような光の強い星は街の明かりに負けず輝いているのだ。

 解説が進むと、学芸員は「今度は街の明かりを消して見よう」と言った。

『私が十数えるので、それまで目を閉じていてくださいね』

 指示の通り目を瞑る。

『一、二、三、四』

 カウントはまだ続く。

『五、六、七、八、九』

 そして、

『十』

 目を開けてください、と言う合図と共にゆっくりまぶたを持ち上げた。


 星、星、星。


 そこには数えきれないほどたくさんの星々が視界いっぱいに輝いていた。

 客席のいたるところで感嘆の声が聞こえてくる。それは僕の隣からも。

 横目でそっと野宮を見ると、彼女はうっとりとした表情で星空を見上げていた。

 ちらちらと瞬く点は、まるで本物の星のような美しさを放っている。

 ふと夜空にほんの一瞬何かが動いた。目をよく凝らすと白い雫が星々の間を飛び交っている。

 ──流れ星!

 どこかの子供がはしゃぐ声が聞こえた。

 それから細い流れ星の筋が一つ二つと輝きはじめて、やがて幾筋もの輝きになった。星が降ってくるようだった。

 真上をすうっと流れる流れ星のその神秘的な美しさに、所詮は作りもの、と思いながらも僕は、願い事を唱えずにはいられなかった。僕の願いはただ一つ──。

 特別な人間になりたい。それこそ街明かりでも消えない「一等星」のような人間に。

 しかし願い事を言い終わる前に流れ星は消えてしまった。

 やっぱり普通にも当たり前にもなれなかった僕がそんな願いをするなんて許されないのだ。


 科学館を出た時には、夕日が西の空を赤く染め始めていた。

 帰りがけに僕は野宮に本屋に寄っていいか尋ねた。プラネタリウムのおかげで星空の写真集が欲しくなったのだ。

「いいですよ」と彼女は快諾してくれた。

「でも、この辺に本屋さんあるんですか? オフィスっぽいビルばっかですけど」

「少し歩くけど、ひと駅隣に大きな本屋がいくつかある」

「へぇー。詳しいですね」と目を大きく開けた。

「まあ、地元だからな」

 僕たちは科学館から一番近い場所にある本屋を目指した。

 その本屋は十分ほど歩いた先にあるオフィスビルの二階にあった。中はワンフロア全部が売り場になっていて、そこに並べられた棚は店の奥まで続いている。雑誌から専門書までなんでも取り揃えていそうな雰囲気だ。

 店内に入ると本屋独特の新しい紙の匂いが鼻腔を突いた。

 僕は棚の一つひとつを眺めながら店の奥へ進んだ。売り場が雑誌から漫画、小説へと変わっていく。そして写真集の棚の前で足を止めてた。

 棚には人気の芸能人のものから自動車や鉄道、愛玩動物のものまでいろんな種類の写真集が並んでいる。

 僕はその中から有名な写真家が撮影したという星景の写真集を手に取った。試しにページを開くと、富士山から南極に至るまでさまざまな場所から見た星空が掲載されていた。

 プラネタリウムでは純粋に星だけを見ていたが、それに景色が加わるとまた違った印象を受ける。

 山や海に行ったときに、ふと見上げた夜空に感動するような、まるで自分がそこにいるような気分にさせてくれる。

 他の写真家の写真集もあったが僕はこの本を買うことに決めた。

 会計を終えるとレジ近くで雑誌を立ち読みしていた野宮に声をかけて店を出た。

「何を買ったんですか?」

 駅までの帰り道、野宮が書店のロゴが入ったレジ袋を指した。

「星空の写真集。プラネタリウムで感動しちゃって」

「楽しんでもらえたみたいでよかったです。今度は本物を見にいきましょう」

「本物を見るならずっと山奥に行かないとな。プラネタリウムでも言ってたけど、この辺りだと街の明かりが眩しすぎるから一等星ぐらいしか見えないよ」

「それならしばらくは一等星だけで我慢ですね」

「そうだな」と僕たちはビルに切り取られた夜空を見上げた。

 駅に着くと星空ともお別れだ。地下に続く階段を降りる。地下通路は帰宅を急ぐサラリーマンや学生、これから夜の街に遊びに行く若い男女の集団で構成された人波で埋まっていた。

 改札口が見える距離に来た時、背後から「天原?」という声が響いた。

 突然、名前を呼ばれたことに驚きつつ、振り返るとそこには髪を明るく染めた、少しチャラさのある青年が立っていた。後ろには連れらしき若い男女の姿もある。

「どなた?」

 僕にはこんな男女で出かけるようなリア充の知り合いはいない。人間違いだろうか。いや、さっき「天原」っていた。よくある名字でもないし、僕を知っている人かもしれない。

 僕が頭をフル回転するのを見て青年は吹き出した。

「オレだよ。石山だ」

 そういわれて青年の顔をじっくり見た。髪の色を黒にして眼鏡をかけさせると……。

「えっ! 石山? どうしたの、その格好」

 石山は「あー、これ?」としたり顔でいった。

「大学デビューってやつだ。天原は相変わらずだな、すぐわかったよ!」

「そうかな……。今日はどうしたの? 後ろのは友達?」

「ああ。サークルのメンバーで遊んでたとこ。天原は? 確か向こうに下宿してるんだよな?」

「そうだよ。今日は用事で大阪に……」

 そのとき、「元基、知り合い?」と後ろの集団から女が一人やってきた。

 石山は女の方を向いて「中学時代の友達の天原だ」と僕を紹介した。僕は女に向かって会釈した。

 女も「どうも」と頭を下げると、元いた集団へ戻って行った。

「今のオレの彼女なんだ。可愛いだろ」

 僕は、羨ましいよ、と笑う表情とはうらはらに内心では大地が割れんばかりのショックを受けていた。

 メールのやり取りで、石山の大学生活が充実していそうなのは感じとっていたが、さすがにここまでとは……。

 もう僕の知っている石山はいないと悲しく思う一方で自分にないものばかり手に入れた彼に嫉妬していた。

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