第21話

 取材旅行の当日、わたしたちは予定の始発列車に乗り、日光へと向かった。

 ゴールデンウィークの真っただ中とはいえ、早朝の車内はガラガラだった。わたしたちは贅沢に四人がけのボックス席をふたりで使い、最初の乗換までひと眠りした。


 県内で一度、栃木に入ってから二度の乗換をするうちに、ようやく人々が活動的に動き出す時間になったらしく、徐々に混雑しはじめた。

 日光線に乗り換えてからも少しうとうとしてしまい、車内のただならぬ騒々しさに目を覚ますと、乗客が外国人だらけになっていた。車窓が日本の田園風景でなければ、外国に瞬間移動したのかとパニックになっただろう。

 知らない言語にあふれる車内で、わたしとまほろは下車する今市駅まで小さく縮こまって寄り添いあっていた。


 駅のホームに降り立ったまほろは、ぐったりとベンチに座りこんだ。わたしもとなりに腰を下ろす。肩に謎の切れ目のあるお洒落なシャツを着たまほろは、リュックサックに顔を埋めてため息をついた。


「あたし、寝てるあいだに外国に飛ばされちゃったのかと思いましたよ。日本人、あたしたちだけだったんじゃないですか。ここ日本なのに!」

「ハワイに行くと日本人ばっかりいる、っていうの、ブラックジョーク的なやつかと思ってたけど、さっきやっと信じたよ」


 そこからさらに電車とバスを乗り継いで、ようやく東武ワールドスクウェアに辿り着いた。

 園内はテレビで観るスカイツリー展望台のようには混雑しておらず、わたしたちは隅の方でスケッチブックを開くことができた。

 風はなく穏やかな薄曇り。屋外スケッチするのに申し分ない天気だった。


 周りのお客が気にするだろうかと懸念していたが、心配していたほど変な目は向けられなかった。

 他の客は他の客で、ピサの斜塔を手で押さえて倒れるのを防いだり、東京ドームを睥睨する巨人になったり、凱旋門に頬づえをついたりと、おかしな写真を撮るのに夢中なのだ。

 わたしたちはフレームに入ってしまわないように気をつけるだけでよかった。


 ミニチュアだからと正直侮っていたのだが、実際に見ると意外に大きかった。いちばんのお目当てだったスカイツリーには、本物を見られたかのような感動を抱いた。

 てっぺんを見上げてばかりいたら、まほろが肩を叩いて地面を指さしてきた。視線を落とすと、ミニチュアのスカイツリーを観光する人形が人混みを作っていた。その芸の細さにさらに感動し、スケッチだけでなく写真もたくさん撮った。


 まほろがスフィンクスを描きたいと言うのでつきあったり、鉄道模型が走るのを飽きもせず眺めたり、わたしたちは園内をくまなく堪能した。

 来たときと逆回しで今市駅に戻ったのは、午後一時を回るころだった。


 日光駅まで足を伸ばし、その周辺を散策した。ネットで評判の食堂で湯葉御膳を食べ、寺社仏閣や吊り橋、温泉街をカメラに収めていく。

 歩き疲れて立ち寄った茶屋の天然水かき氷は、人生でいちばん美味しいかき氷だった。


 まほろは終始楽しそうだった。そして、わたしもときどき取材旅行と忘れるくらいに楽しんだ。帰りの電車では、夏休みはどこに行こうかと勝手に考えはじめていて、内心笑ってしまった。

 だから、まほろが肩を寄せながらこんなふうに言ってきたのでおどろいた。


「先輩、今度はどこに行きましょうか」


 車内はほどよく混んでいて、ざわついていた。わたしたちは、長い座席の隅っこに、一・七人分くらいのスペースに身を寄せあい、言葉を手渡すように小声で話をした。


「今度って、いつ?」

「うーんと……次の漫画を描く前とか?」


 昼間があたたかかったとはいえ、朝晩はまだ肌寒い。まほろは用意がよく、カーディガンを羽織っている。

 わたしは暑くなることしか想定していなかったため、今は少し寒かった。まほろと肩をくっつけているおかげで、あたたかい。


「あの……さ」


 わたしは雑音の中、小さな声で言った。まほろが聞き逃すまいと耳を大きくしたのが感じられた。


「今度描く漫画が、わたしの高校生活最後の漫画になる、と思う」


 電車がカーブに差しかかったのか、大きく揺れる。立っている乗客が傾き、わたしたちは座席の背もたれに押しつけられる。まほろと触れあう腕が擦れた。


 まほろは黙ったままだ。わたしは顔を動かさず、横目で顔色をうかがった。電車の揺れにあわせて動く髪が、まほろの表情を隠していた。


「わたしも一応受験生になるしさ。ていうか、もう受験生だけど。県のコンクールに出す絵も描かないといけないし、夏休み明けには部活も引退しなきゃいけないし」


 わたしは早口で言いながら、どうして言い訳している気分になるのだろうな、と思った。

 まほろが黙っているせいで、わたしが一方的に言葉を押しつけているように感じるからだろうか。


 各駅停車の列車は、次の駅名を告げてゆるやかに減速していく。まほろの身体がぐっと寄りかかってきた。慣性に抗わず身をゆだねる様子に、まさか眠ってしまったのかとも思った。


 停車した駅で乗客の半分ほどが降り、降りた分の三分の一くらいが乗りこんできた。車内は風通しがよくなったように見える。


 列車が走り出す。今度は進行方向と逆にからだを引っ張られ、わたしがまほろに寄りかかった。まほろがやったほど思い切りよくはなかったが、わたしにしては精いっぱい遠慮せずに肩を押しつけた。


「先輩、志望校はどこにしたんですか?」


 忘れたころに、まほろから反応があった。相変わらずうつむいたままだ。


「あー……実はまだ決まってない」


 もしまほろが一大決心をして訊ねてきたのだとしたら、申し訳ないなと思いながら答えた。

 わたしの進路希望調査は「進学」以外まだ未定なのだった。


「先輩、早く決めなきゃ困っちゃいますよ」

「そ、そうだよね。後輩に言われるとは面目ない」

「先輩、偏差値どのくらいですか。国公立に行けるレベルですか?」

「まあ……少なからず努力すればって感じ。安全圏しか狙わないつもりだし」

「すごいな、先輩は。あたしもがんばろ」


 まほろはようやく顔を上げた。目があうと、はにかんで肩をすり寄せてくる。


「まほろは進路決めたの?」

「先輩が決めたら教えてあげます」


 すっかり日が暮れて街灯や家の光が細々と照らす街を、電車は走り抜けていく。

 ときどき車内の蛍光灯は揺れ方によって一瞬明るさが変わったりした。


「先輩、夏休み中はまだ美術部員ってことで……いいんですよね」

「うん。夏休み明けまでに漫画と絵を完成させて、引退する。次の部長はまほろだね」


 なるべく明るく言ったのに、まほろは返事をしなかった。ひざに置いた手をぎゅっと握りしめている。


「先輩がいなくなっちゃったら、美術部にいる意味がないな」


 まほろの声は少し震えていた。電車の揺れのせいではないだろう。


「あたし、美術部に入ったのは気まぐれだったんです。運動はできないし、音楽も苦手だし、でも一年生はどこかしらに入部しないといけないし。美術部は正直……やる気ないまま入ったんです。絵は人並みには描けるし、一年だけやって辞めればいいやって思ってました」


 まほろの口から聞くのははじめてだったが、薄々気づいてはいた。

 入部当初のまほろは、顔を出すだけで帰ってしまうことがあったし、部員同士で言葉を交わすことはほとんどなかった。どうせこの子も一年限りの幽霊部員になるんだろうな、と思っていた。


「先輩が変えてくれたんです。先輩がいたから、あたしは今も美術部員でいるんです」

「わたしは……何もしてないよ。絵を教えてもいないし、ちゃんと部活に来いって注意したこともないし」

「何もしてなくないです。先輩は、夢中で絵を描いてたじゃないですか。あたしはその姿を見に、美術室に行ってたんです。今は先輩と漫画を作るのが楽しくて美術室に行ってるんです」


 まほろは車内を写す鏡になった窓を眺めながら言った。誰にも掴まれていない吊り革が、同じ振れ幅で揺れている。


「先輩がいない美術室は、あたしの居場所じゃないんです」

「それならさ」


 まほろの言葉に食い気味に、わたしは言った。車窓に写ったまほろが、リュックサックを抱く腕に力をこめる。


「今度はわたしが、まほろが絵を描くところを見に美術室に行くよ」

「え……でも、受験勉強は……」

「そんなのどこでもできる。わたしが絵を描いてるわきで、まほろはさんざん課題やったり本読んだりしてたでしょ。その反対になるだけだよ」

「それは……美術部が部員ゼロになってなくなるのは嫌だからですか?」


 どうしてまほろは、ときどき察しが悪いのだろう。

 わたしはわざわざ言うつもりのなかった言葉を、渋々口にした。


「まほろに会いたいからだよ」


 次の停車駅を知らせるアナウンスと重なってしまい、わたしの声がまほろに届いたのかはわからない。

 ブレーキがかかりはじめると同時に、まほろの頭がこつんとわたしのこめかみにぶつかった。柚子のようなかおりのするやわらかい髪が、首すじをくすぐってくる。


「それならあたし、美術部辞めません」


 それ以降、わたしたちは言葉少なにただいっしょに電車を乗り継いで、自宅の最寄り駅に辿り着いた。

 写真の確認も、新作のストーリー作りも、連休明けにゆっくりとやればいい。

 旅行の帰り道は、肩が触れあう程度の無言が心地いいのだと、わたしはうとうとしながら思ったのだった。


.*・.゚・*.・:*


 残暑の厳しい八月半ば。

 温泉街を舞台にした新作を完成させたわたしたちは、とある新人賞に投稿した。「若狭あかね」として、最初で最後になるかもしれない活動だった。


 それから半年後、選考結果が掲載された漫画雑誌を、わたしとまほろは美術室で開いた。二ページに渡って大賞、準大賞が大きく取り上げられていた。

 もちろん、わたしたちの投稿作ではない。


 はやる気持ちでページをめくり、右上から目を通していく。

 見覚えのある扉絵が、小さく印刷されているのを見つけたのは、ふたり同時だった。

 佳作だった。名前のある賞の中ではいちばん下だったが、ペンネームだけでなく絵が雑誌に載っていることは想像以上に嬉しかった。


「高校の思い出作り、大成功ですね」


 まほろは満面の笑みで言った。わたしも人生でいちばん笑顔になりたい気分でうなずいた。

 そうして、若狭あかねの活動は、当初からは想像もつかないほど最高のかたちで終わりを迎えた。

 そのときは、それで終わりだと思っていた。

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