第32話

 まほろの通夜、葬儀はひっそりと執り行われた。

 轢き逃げ事故の被害者が、約三ヶ月に渡って意識不明がつづいた末の死亡ということで、地方新聞や地方テレビ局の取材が数件あった。あまり騒がしく突っこんできたりせず、淡々としていた。


 一泊二日のつもりだった帰省は、一週間にまで長引いた。まほろが出かける前日、冷蔵庫の中身をなるべく消費するように言っていたのは、これを見越してのことだったのだろうか。


 葬儀が終わって三日経ってもまだ現実を受け止めきれず、自室から出ることができなかった。荷物はほとんどアパートに移してしまったため、着替えもそれほどないし、漫画も本もない。テレビはアパートにだってないが、リビングに下りていって見たいほどでもない。

 わたしは母が引っ張り出してきてくれた、少し湿っぽいにおいの布団の中でうずくまって、一日の大半をやり過ごしていた。


 まぶたを閉じれば、まほろの柔らかな髪や、本物の宝石は見たことがないけど、それよりも綺麗だと断言できる琥珀色の瞳が浮かんでくる。

 いつまでも思い出に浸っていたいのに、それらはすぐに消え、三日前に見た白い骨に取って変わる。


 夕暮れの美術室。夕日が透かす白いシャツに映る、薄っぺらい腹の影。頬づえをつく腕も、しなやかで長い首も、とても華奢だった。その骨は箸で触れることすら許されないと感じるほど細くて、煙になって消えてしまいそうだった。


 まほろの姿を思い浮かべていると、どうしてもさいごには骨の記憶に辿り着いてしまう。それから逃げるように、慌ててまぶたを開く。すると、意識がからだのかたちを取った、半透明のまほろを探してしまう。いないとわかっていても、壁のどこかからにゅっと出てきそうな気がして、まばたきも忘れてしまう。からからに乾いた目がしみるように痛み、涙がぼろぼろとあふれてくる。カーテンすら開けられなかった。


 そろそろ大学に戻らなければ、単位を落としかねない。自分でもわかっていたし、両親に心配されているのも感じていた。

 祖母は毎日毎食後、まるで薬を飲むようなタイミングで、部屋のドアをノックしてきた。散歩に行かないかとか、刑事ドラマをいっしょに観ないかとか、パターンはいろいろあったが、わたしはすべて短い返事で断った。食事もまともにとれないのに、衣食住以外のことに気が回る訳がなかった。


 そんな、枯れかけた植物に水もやらずに、かさかさになっていくのを眺めているような日々がつづく中、ついこの前完成させた原稿のことを思い出した。まほろが天国から戻ってきた目的である、漫画だ。まほろはあのうさぎのぬいぐるみを着て、不自由ながらも一生懸命アシスタントをしてくれた。


 若狭あかねとして、あたしの存在を残してください。


 まほろは別れの場所となった病室に入る前、そう言った。目を閉じると、振り返ってほほえむまほろの姿が浮かんでくる。その生き生きとした顔が骨になる前にまぶたを開き、その勢いのままわたしは布団から這い出した。

 三日ぶりにカーテンを開ける。今年は空梅雨なのだろうか。六月末だというのに、さいごに病院を訪れたあの日から、ずっと晴れの日がつづいている。


 天国がどんなところかよくわからない。だけど、きっと空の上にあるのだろう。出窓のガラスを開け、窓枠から乗り出した。

 背伸びをしたくなるような青色の空。太陽は薄い雲をかぶっており、木漏れ日がぼやけて影ににじんでいる。この青空は大きな傘の内側の模様で、傘の向こう側では大雨が降っていると思わせるような、少し影のある晴れ空だった。


 もしかしたら、連日の晴れはまほろが企んでいることではないか、と想像してみる。まほろは天国の門をくぐり、あの白いワンピースをはためかせて、雨雲を蹴散らしているのではないか。

 わたしがちゃんと、まほろのさいごの願いを叶えているか、覗き見るために。


 強い風が吹き、近所の花木が音を立てた。小鳥は飛んでいるのか飛ばされているのかわからない状態でも、甲高いさえずりを響かせている。目で見てわかるほど雲は速く動き、かたちを崩し、影の濃さが少し変わった。


 夏の到来を感じさせる、あたたかい風に全身を包みこまれる。身体の内側まで撫でるように、くすぐるように風が吹き抜けていく。

 自然と、新鮮な空気が胸に入ってくる。呼吸をしたのが久しぶりのような気がした。ずっと溺れていたかのように、何度も深呼吸をする。空気中に散らばった何かをかき集めるように、必死に息を吸いこんだ。


 ひと粒、透明であたたかい涙が、ぽろっと押し出される。頬を流れた跡は、風を受けて冷たかった。


 わたしはまほろと過ごしたさいごの日以来、ずっと放置していた紙袋に目をやった。さっきまでは薄暗かった部屋の隅にも、明るい陽光が差している。

 窓を開けたまま紙袋に歩み寄り、そっと中身を取り出す。使いこんだ小さなケトルと、並び慣れたふたつのマグカップ。一年半も使ったのに、少しも茶渋はついていなかった。


 コーヒーと紅茶を淹れよう。


 かおりが空の果てまでのぼっていくように、出窓をテーブルにして。

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