第7話

 帰っても待っている人がいないと思うと、急ごうという気もなくなる。コンビニで買った弁当と菓子パンの入ったレジ袋を揺れるままに揺らしながら、うつむきがちに歩いていた。


 毎日コンビニ飯だと、選ぶのも面倒になってくる。いっそのこと、いちばん上の棚から順番に買っていこうかなとさえ思えてくる。優柔不断だし、好き嫌いはないし、食事はもはや作業でしかない。


 自炊もそろそろはじめなければと思いつつ、ガスコンロはまだ使っていない。まほろにいつだったか「先輩って意外とその日暮らしって感じなんですね」と言われたが、自分でも意外にそうなんだなと思う。


 大学からアパートまで徒歩十分のはずなのに、のんびり歩いていたら二十分もかかっていた。セキュリティの概念がないようなアパートだ。ひとつきりの鍵を開け、ドアを開ける。

 短い廊下と部屋を隔てる磨りガラスの戸が西陽で照らされて、細かいまだら模様の影を長く伸ばしていた。ほこりっぽい空気が揺らいでいる。


「ただいま」


 だれもいないのに、口を突いて出る。靴を脱ぎ、台所兼廊下を五歩で歩き切る。


 夕日の金色が、あまりにも綺麗で懐かしいからだろう。この戸が過去につながっていればいいのに、と恥ずかしげもなく願ってしまう。


 引き戸を開ける。願いはもちろん叶わず、そこにはフローリングの八畳間が広がっていた。


 西向きの掃き出し窓は雨戸を開けたままで、そこから夕陽が存分に差しこんでいた。線香花火みたいな太陽がじりじりとにじみながら、折り重なる家々の屋根に沈んでいく。地元では夕陽は山の向こうに沈んでいくものだったのに、街によって違うのだと今さら気づいた。


 食べものを買ってはきたものの、何だか食欲がわいてこない。とりあえず横になってしまいたい、とベッドに向かおうとし……驚きのあまり平手打ちの勢いで口をふさいでいた。

 コンビニ袋を取り落とし、廊下と部屋の小さな段差に足を取られ、べたっとへたりこんでしまう。


 ベッドに人が座っている。


 こちらに背中を向けてぺたんと座り、窓の外を眺めている。小柄なからだを包む、白いワンピース。やわらかそうな生地が夕陽に照らされ、複雑な陰影を描いている。肩の下まで隠すセミロングは、ほとんど金髪のように輝いていた。


 彼女がゆっくりと振り返る。髪の毛が揺れ、ワンピースの影の模様が変わる。色白の頬、長いまつげ。小ぶりで薄いくちびる。どれも等しく橙色に染まっていた。


 色素の薄い、琥珀のような瞳と見つめあう。


「まほろ……?」


 彼女はあいまいに首を動かした。うなずいたようにも、横に振ったようにも見えた。


 わたしは震える足で立ち上がり、まほろに歩み寄った。今日が再会の日と知っていたら、もうちょっとましな服を着ていたのに、と場違いな後悔をしている。


 うわ言のように「まほろ……まほろ」としか言えないわたしに、まほろはくすっと笑みをこぼした。そのほほえみに、こっちは涙がこぼれそうになる。


「よかったぁ。ここ、先輩のお部屋だったんだ。知らない人のお家だったらどうしようかと思いました」

「まほろ、ひとりで来たの? 言ってくれたら迎えに行ったのに……。ていうか、鍵どうしたの? あ、うちの親が合鍵貸した?」


 わたしは混乱する頭を無理やり回して言葉をつなげた。まほろは首をかしげ、視線を泳がせ、何かを探すような素振りを見せた。

 なめらかな頬は、夕陽を弾いて輝いているというより、彼女自身が光を放っているようだった。


「うーんと、先輩に会いたいって思ってたら、いつのまにかここにいたんです」


 まほろはベッドから降り、素足で跳ねるように歩み寄ってきた。ひざ下丈のワンピースが水面のように波打つ。


 まほろは少しだけ背伸びをして、わたしの首に腕を回してきた。つられて彼女の背中に手をやり……しかし、まほろのからだには触れられなかった。


 わたしの腕はまほろの背中をすり抜けた。わたしの肩を抱いているはずのまほろの腕の感触も伝わってこない。彼女の顔を見ると、半分くらいわたしの肩口にめりこんでいる。


「先輩、あたし、もう自分のからだには戻れないんです。だからこうして、半透明になって先輩のところに来たんです」


 まほろは顔をこすりつけるように頭を動かすと、そっとわたしから離れた。まほろをすり抜けた腕や肩には、あたたかい風に包まれたようなぬくもりが残っていた。


 まほろの姿をよく見ると、白いワンピースを透かしてからだが影になって見え、その向こうに部屋の様子がうかがえた。ワンピースのすそをぺたぺたと押さえる手も透けていた。


 まほろはただ、うつむきがちにほほえんでいる。

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