親愛なる友へ

【書簡①】

 今日日、私はどこにいるのか、地図も地名もない土地の癖に郵便だけは届くというから君達に手紙を送る。

 私の糞の山をどうにかしてサンタフェおじさんが取り除こうとしているものの、カットオフされたつなぎ目は整合性を持たないポン引きの女娼婦がここじゃ違和だわ、あっちのカフェで少し飲みましょうよなんて言うものだから、ヘーゲ階下のマスコッチを一瓶拝借すれば、それは俺の墓場だと乞食は言う。いいや違うね、そいつは私の糞だ。まただ、女娼婦が外套の紙幣何枚か持って消えるのが見える。

 これだからヒッピー達の怠けるに任せた薬物依存の取り巻きと旅をするのは嫌なんだ。トッティはそう言って南へ向かった。

 私はもう少しここでチャチな文献の蟠りをとく作業をしなければ。

 ナイアルラトホテップ教授! 今日のヌメヌメとした帽はどちらへ?

「ぺガーナの神々の元だよ」

 やっぱり教授はこの居住空間にも、私にも厳しい。

 先住民の秘薬も青い芋虫の集いと小サボテン街の囁きを引き連れた吐気の堆肥が新鮮さを求め喘いでいる。そのくっさいお香を焚くのはお良しよ。

 女娼婦はやはり粗暴でガサツな煙草のみばかりだ。奴らに合いたいのであればヘゲモニーを探してカフェを放浪するが最善で、時点が医者に罹る事だ。医者はいつもお決まりのセリフでこう言う。

「君の病気は肌のふれあいが少ないから。痛み止めにはモルヒネを少々、ダーフボールなんかも良いだろう。処方箋は出さないがね、はっは」

 そうして三日経てばようやく片腕の痺れも取れ始め、時と教授の小言を止めようとする誓いも必要がない。

 是非キニーネを打ってくれ、マラリヤに掛かってしまった。死んじゃうかも知れない! 慌てなさるマグダラもしっかりと部屋から追い出す、こうすることで体が冷え膂力の回復が早まり全身の細胞に力が戻ってくるのを明確に感じることが出来るだろう。

 熱病の如くうなされるナイアルラトホテップ教授が戻ってくる間、私は特にすることもなくメタドンを服用していた。

 ヘロイン中毒者は決まってメタドンから逃げられずに苦痛と無気力の間を行き来している。全て意味の無い科学的な呼び掛けなのだから、私達はその声に従って救いをサンタフェおじさんに知らせるべきだ。それも早急に。

 カイデアンという酒場で彼を見かけたのだが、懐の二十二口径リボルバーを持ったオカマで、白人の大男が今にも発砲せんとばかりに言葉にならない唸り声を上げていた。

 私はビールと腐ったような味のするザワークラウドを頼み、サンタフェおじさんがやってくるのを待った。

「ここは中産階級も等しくペルフェゴールの配下さ。一杯どうだい?」

 なんて言う小汚いsuitsを着た長髪の男が、ぎりぎりまで吸って指と同化しかけている煙草を手に、私の隣に座る。

 べっとりとした油で髪を撫で付け、主張の激しい鼻は彼の顔を数発殴ったところで許されるのではないか、私は何も言わずにビールを流し込むと、彼がラム酒を頼む。今はラムなど飲みたくはないのだ。

 彼の名前はトーソンと言い、ありもしない水蒸気を集めてはそれを豊かな力のエーテルとして売りさばくインチキ野郎だった。白人の大男は唸って一点を見つめ、左手に持ったリボルバーが小刻みに震えているのが見える。

 撃つぞ、ありゃ絶対。河岸を変えよう。

 私は待ち人があるといってトーソンの誘いを断る。そうかい、それじゃ、またどこかで、私は二度も顔も見たくはなかった。

「憤怒の墓標に僕らの貯蔵タンクを破裂させた水張試験をやったのはどこの引火性液体なんだ」

「総天然色のパパラヤマーシュを割った中身についても言及するに至るには責任が不足しているとばかりに蚕豆をえんどう豆と言って偽る商売人は聞くんだ、僕にはnoblesse obligeがあり、いつでも王侯貴族の中に存在する小さな割り箸を真っ二つだ!」

 二十二口径の豆鉄砲は店主が持っていたシェイカーを吹き飛ばし、壁に並ぶ酒瓶がドミノ倒し。もう一発は店主の目玉からどす黒い血を噴出させた。

 警察を呼ぶまでもない、私は店に入ろうとしていたサンタフェおじさんを見つけると、その場を去る。どうせ撃った白人は直にリンチに合う。二十二口径の豆鉄砲では出来ることは少ない。

 小さな割大根が真っ二つになるのが見れる程度なんだ。

 いい加減に骸骨と蛇の話はやめろ。サンタフェおじさんは仕事がなくなって酒に溺れていた。糞の山を取り除く仕事はどうにも他の奴に取られてしまったらしい、哀れなターコイズと交換にマリンブルーの石細工を作った職人が宝石商に土地を買い叩かれるのを止めることが出来ないようにまた、トーソン仕業でもあった。

 あれは駄目だ、ペルフェゴールの配下だ。私の教授もそれらに関わると碌なことがないと言っていた。それらしき影の定規は見当たらなかったのだが、腎臓を生み出すチキタを探し出すことは出来た。ナイアルラトホテップ教授は私達が話をしているうちに起きて来て、常に発破するやかまし鳥の首根っこを押さえたままサンタフェおじさんの持っていた興奮剤を奪うと、チキタ《やかまし鳥》の中に流し込んだ。

「こうすることで、幻覚作用の蔦、昏倒する葉脈、泣きを見るべき宇宙の園を開くTHE TIME,THE END,THE EARTH,THE MOTHER.THEを点けて時が進むのをじっくりと待とうじゃないか。トーソンが出入りする硝子張りの心臓も、冷え切った粘性の高いシロップを与えられただけの話なんだから、静かに待っていればそのうちまた糞の山を取り除く仕事が舞いこんで来るものだ」

 やかまし鳥が肝臓を生み出している間、ベンゼドリンの内服薬を絶えず教授は飲み込んでいた。こうしないと体内のドパミン系が正常にならない、面倒なものだよ人間は。

 小さいままでも良かったのだが、社会が教授と呼ぶことを許さないのだ。

 どうやらサンタフェおじさんの糞の山を除ける仕事は明日から取り掛かることが出来そうですし、ナイアルラトホテップ教授はここでは青い衝撃とあの救いの言葉を持つ天啓には出くわすことが出来ないそうなので、私も明日ここを経ちます。

 プロピオン酸が用意できれば完璧なのだが、と教授が言っているのでそれを買う必要があるのですが、ここの町にはそんなものはないそうです。

 なので次の町までは徒歩で行くことになりそうです。



  友へ

  ビショップホテル 中央通内臓の8-8ピカンテ6丁目

  アルバスタ・セホ・マイコニーダ


 P.S.

 傀儡くぐつなる手薬煉てゃくれんは元気でしょうか? 中には気性の荒いものも居るかもしれませんが、可愛がってあげてください。

 嫌になったら絞めて煮込み料理にすると美味しいです。ちょっとばかり幻覚が顔を出すかも知れませんが、数時間もすれば吐気と共に全部出て行くと思うのでそんなに心配する必要はないと思います。

 こちらでは食物が直に腐ってしまうため、殆ど毎日が酢漬けの何かを食べています。

 本当にこの町は我慢ならない。

 ただ、酢漬けはプロ級の腕前になったので、戻ったときに酢漬け料理をご馳走するよ。



【書簡②】

 アルバスタが定期的に手紙を送っていることもあり、習慣が途切れてしまって徒に心配させたくはないので代筆で送りますが、彼は恐らく行動する上では支障はありません。

 ただ、ぬめぬめした帽子がどうとか、ぺガーナの神々の話題について私がそのような発言をしていたことは全くないということだけはここで述べさせて頂きたい。彼は少しばかり飛んでいたのだ。

 この代筆の通り、私にはアルバスタという連れがいたのだが、昨日から姿が見えない。なんでもペヨーテボタンがなくなったから採集に行くと言っていたような気がするが、帰らないのだから理由を聞くことは出来ない。

 彼の薬物趣味はもう少し遠慮を知るべきとは思うが、わざわざ私が指摘する必要はあるまい。したいと決めたことはすべきだから。

 手紙を送ったのには訳があって、私が創り出そうとしている物の試作品の完成に思いのほか時間が掛かるらしく、私とアル(親しみを込めてそう書かせてもらう。)も、もう少し旅を続ける必要がある。

 恐らくは一年から三年は必要だ。彼がどこまで着いてくるかは定かではないが、アルが戻るまでに私はこの先の行程と計画の詳細を一度まとめ、彼がどこまで着いてくるのかを相談するつもりだ。

 ここからの道のりは人間以外の脅威も増え、過酷な道も多く存在する。

 友人である君には申し訳なく思うが、途中で彼が息絶えないとも限らない。近い内に彼からも万一に備え、手紙を送るように言っておく。

 《白壁》や《戦神の流刑地》のような涯に向かうことは無いが、それでも容易に人間は死ぬ。出来るだけ気をつけているが、終わる時は終わるのだ。

 斯く言う私も、かつては人の求める愛を欲しがっていたので、旅をするより、その場所に居つくほうが人間と関わるのには都合が良かったが、最近はそういった感情や興味を抱くことも少なくなった。

 アルはどうしてか私のことを《教授》と呼ぶが、私からはそのように名乗った試しはない。私は人間の侘しさと綻びについて知る為に旅をしている。

 詳しくは省くが、この旅に必要になものだ。

 最近は電子情報の粒として、私達の形態を人間が生み出した世界と言うものの中に存在させることも出来るが、私はあまり好まない。

 それはろくでもないチャッピー《殻を破りかけ忙しなく浮き上がる浮沈の精彩》が多く、混在する定義ブロックを浴槽に沈めて仕舞いたくなるのだ。

 私の知っていることがアルの薬物信仰に何らかの利益があると考え、彼は私にひっそりとついて回る。特に目障りとは感じないが、受容体の機能異常を表す物質のどこが良いのか、全てがつながり合うことをよしとすればアカシャの内燃機関に組み込まれて必ず気が狂ってしまう。彼は止めようとしてもそういった儀式があれば直に飛びつき、不思議と私の周囲ではそのような試みが為され、危険な薬売りなんかがうろつくこともある。

 奴らも《教授》と私のことを呼ぶが、大学で教鞭をとっていたprofessorは私のような身なりも、考え方もしていないように思う。

 服装を変えたとしても、私は《教授》と呼ばれる。人間はそれが相応しいと考えているのだから、私の名前ではないと否定することもないが。

 この手紙を読んで、アルバスタが如何に私のことを信頼し褒め称えたとしても、私はそのようなものではなく、大きな隔たりがあることを理解して頂ければ幸いだ。


 予想外に余白が出来てしまったので、特に興味はないかも知れないが、旅の中で出会った奇妙な話を一つ残しておく。特筆して面白いものではないと思うし、必要なければ破り捨てて貰って構わない。

 私が砂漠を歩いていた時、常に取り出し得る可能性を持ったタルキンソに出会った。

 彼は大事そうに風化しかけた骸骨を持っていて、それこそが彼の帰るべき肉体で、今にも朽ちようとしていることを嘆いていた。彼は涙型のポーチから乳白色のクリームを掬って口に運ぶ。

「今では黒死病も炭疽菌ありませんが、エボラがあるじゃないですか、ほら、此処にも」

 彼は蝿が集った黒人の死体を指差してそう言った。

 何故彼の十メートル先にそれらの物体が現れたのか、それこそが彼が《常に取り出し得る可能性を持った》タルキンソである所以なのであるが。

 砂漠で汗もかかず、涼しげな顔で餓えている様子もないのは様々なものを取り出しているからだが、骨を修繕する人間を呼んだりはしないのかと私が訪ねると少し悲しそうな顔をして答えた。

「沢山呼びました。骨が肉と血を持った私の体に戻るように修繕して貰おうとしました。ですが、残念なことにこの骨に触れた人はでどこかへ取り出されてしまうのです」

 彼の話によれば、自らの骨が人間だけを狙って別の場所に取り出してしまうのだが、意識の入っている入れ物にはそういった効果はないそうだ。

「自分で修繕しようと思ったことはないのか?」

「やってはみましたが、その道具や物質に僕を守る為に人間の文化そのものが含まれている時点で取り出されてしまいます。なので、僕は死ぬことを試みているんです。ですが、気づけば水や食物が体の中に存在しているし、暑さや寒さも取り出されてしまう。だから、この骸骨を朽ちさせるしかないと思っていたところです」

 私は人間とは似て非なる者であることを伝えると、彼はまた少し残念そうに頭を下げる。

「それは分かります。ですが、人間との関係性が非常に深く、取り出しかねないので止めた方がいいかと」

 丁度私が持っていた道具が役に立ちそうだった。人間のものではなく、彼の骨を修繕できる可能性を持ったものだ。その物体の大きさは通常のサイコロぐらいの大きさで、中に《格納された宇宙》と《宇宙が死ぬ音》と《浅ましき睡眠を誘う太鼓の音》が入っていることを彼に説明すると、嬉しそうにその中の《格納された宇宙》を飲み込んだ。

「ここで取り出せばこれまで恐れて来た事を考えずに済みそうだ」

 そういってタルキンソは《格納された宇宙》へと還っていった。その中で取り出された骸骨と共に、彼は格納された宇宙を取り出し続け、永遠に彷徨う檻を作り上げるに至る。

 何故なら、この宇宙こそがその格納された宇宙で、宇宙が死ぬ音と浅ましき睡眠を誘う太鼓の音は私が持っている。

 同じ様な風景が続く中、見つける者が現れるか興味が湧いたのでその二つ――これに触れればたちまちタルキンソと同じように骸骨か何かを持って彷徨うことになる――を埋めた。

 これらは三つ一組で《愚者の賽》と呼ばれるもので、別に人間が触ったからと言ってタルキンソのようなことにはならないのだが、あることをしてしまうと開いてしまう。

 あること、と書いたが決まった事物は特になく、ある意味気まぐれのようなものではあるが、荒唐無稽を地でいくようなものなのでもし誰かが見つけてもただの賽としてしか使われないだろう。

 



  親愛なる友へ

  アルバスタのホテル G.H.P.L

  代筆:"教授"



 P.S.

 先ほどアルバスタが帰ってきた。

 全てがサボテンに見える、あいつらが神の声を邪魔する。というような妄言は吐いていなかったが、ひたすらに暑い暑いと言って冷水のシャワーを浴びている。

 ここの夜は恐ろしく気温が下がる場所なので、暑い筈はないのだが……。

 幾つもの薬物をごちゃ混ぜにしたせいで一時的に神経系統に異常が起きているだけなら直に「寒い!」といって出てくるから安心だが、本当に暑いのであれば別の症状を疑った方が良さそうだ。

 あるいは‥‥馴染みのある彼らに話を聞く必要があるかも知れないが、死ぬことはないので安心して欲しい。


【書簡③】

 久しぶり。故郷はかわりないかい?

 きっと、あのカフェの爺さんもきっといつも微睡んでいることだろうね。

 前回、手紙を送った時の僕はどうかしていた。“私”なんて気難しい一人称を使って、何か偉そうな自分に酔っていたんだろう。

 《教授》が寒い寒いと言っていた僕を治してくれたことは覚えてはいるんだ。でも。その彼がどこにもいない。そもそもこの街は何時まで経っても昼が来ない。

 で、でも、Postはあったので、こうして手紙を書いているんだ。君に届いてくれるといいんだが。僕もそろそろ、そちらに戻るかもしれない。

 先ほど散策してきて、この町が非常に奇妙だということが分かったんだ。

 何故か人々は一様に顔を伏せ、僕のことを見ようともしない。どうやら泊まっている宿は教授が話を付けてくれているのか、三食分の食事が部屋に運ばれてくる。(それも僕が目を離した隙に、音も姿も無く、気付いたら置いてある。簡素なスープと黒パン。)

 この街では、ガス灯(ゼラニウムと炎をあしらったマークは無かった)が使われている。掃除夫を見かけた。それに、時折、人ではないなにか恐ろしい生き物の声がする。

 一体、僕はどこに居るのだろう。こんな奇妙な街は聞いたことが無い。

 僕は治療された時、あの安宿にいたのだろうか。薬物のせいでこの光景が見えていなかっただけなら、僕はどうやって来たのか検討も付かない。

 何しろ、部屋から町を見渡して気付いたんだ。北に大きな山脈が横たわり、南には見るからに不快な臭いを漂わせていそうな沼地が延々と続く。

 僕が酩酊状態の時にいた場所は、亜熱帯で湿度も高かった。その後砂漠地帯の町で数週間過ごし、薬物の影響のせいで意識を失った。

 馬車か人手を借りなければこんな場所まで僕を運ぶなんて無理だ。

《教授》にはお礼を言わないと。口には出さないし、どこか人間離れしたところはあるけれど、悪い人じゃないんだ。

 悪いけど、手近な紙がこれしかないから、今回はこの辺で。


       友へ

昼の無い町 宿名不明

  アルバスタ・セホ・マイコニーダ

 P.S.

 《教授》が帰ってきて、紙を貰ったのでもう少し書かせてくれ。

 Postに手紙を出しに行く、と言うと、懐中時計を見て眉を顰めた。

「この時間はよしなさい、私が届けておく」

 と言われた。外に出て住民に話しかけたことを伝えると、深い溜息を吐かれたけれど、いつものことだ。

 明日には出発と告げられ、僕は治りたてで体が少し重く感じる。

 この先の道のりは過酷で、なんでもトカゲを荷運びや自衛に使うと言っている。僕はその生き物を実際に見たことがある。

 大きな大きなトカゲだ。

 体長は僕の三倍ほども有り、獰猛な性格でよく人が犠牲になる。正式な名前は知らないけれど、どのようにすればそのような生き物を使役出来るのか《教授》に是非ともその秘密を教えて貰うつもりだ。

 そんなわけで、もしかすると手紙を送ることが出来ないかもしれない。

 最悪の事態だって想定しないといけない。(《教授》なら、生き返らせてくれる。そんな雰囲気がするけれど、そんなことは有り得ないだろうし。)


 手を煩わすけれど、僕の家族にもそのことを伝えておいて欲しい。

 もし、万が一、があったとしても、僕の手記だけでもそっちに届くようにしておくよ。

 あ、あと。君の所の女中さんは元気かい? 以前僕が会った時は、彼女に不審者として君が来るまで納屋に閉じ込められたけれど、次はそんなことは無いと信じているよ。

 それじゃあ。また。


【書簡④】

 暑い暑いと言い、氷水の中で意識を失った君が戻ったので、筆を取る。

 一時は体の異様な反応を抑える必要があったが、今は落ち着いている。しかし、私の行った方法が拙かった。

 私達は今、昼の無い町イルストの宿を借りている。

 そして君は、虚ろな目をして椅子に座っている。

 意識が消えてしまったのだ。君の数限りない薬物のお遊びを起因に、私が無理な処置を施術した為に。

 それを取り戻そうと、多少の危険は承知の上で、この昼の無い街まで連れてきたのだが、病院では彼を治せる医者も薬もないと言われてしまった。

 もとより、医療にはあまり期待はしていなかった。しかし、ここには星海の人々が住まう場所がある。彼らならば何か知っているのではないか。

 星海からやってきた娘に聞いた所、君を取り戻すには薬や医療は意味が無いそうだ。

『呼び戻すためには脳の星海を泳ぐしかないわ』

 そういって渡された丸薬は青白く光り、私の頭の中で明滅を始めている。一時的な肉体遊離状態より、アルバスタの星海に向かい、君の持つ混沌と話をしなければならない。

 君は私が行なった内容を知りたがる故、以下に記述しておく。


   ・・・

 私はアルバスタの星海の中を漂っていた。

 ここでは全て下に向く力が働いていない。中心の芯が存在しないのだから、小さな欠片を頼りに周囲を把握するより他にない。

 遥かな距離の星々が私を包み、星海の娘の靄を見つける。

『ここからアルバスタの星を探すのは非常に難しいの。彼のことを願わなければ』

 腕に刻んだ【n】より血を流し、彼の心の中にある【w】に触れるのだ。

 あの娘の靄は急速に形を成し、ぼんやりとしたアルバスタを形作った。しかし、これは彼の星ではない。

 単に彼を願った末の産物。矮小な里程標りていひょう

「僕は冒険がしたいんだ」

 彼が酔うと、子供の頃にした小さな大冒険を語り、何度もそのことを口に出していた。

 それは観念的なもので、薬物による陶酔、見知らぬ文化との触れ合い、私との会話も含まれていた。なんでも、私と話をしていると、何処までも行けるような気がすると。

 私にそこまでの豊かなものは存在しないと思うのだが、アルにとっては違ったようだ。

「だから僕も≪教授≫の探し物を探すお手伝いがしたい」

 そう言って、アルバスタの幻はゆらゆらと虚空に向かっていった。

 その方向は星海の中で、最も暗い領域だった。

 速度は一定でなく、相対的に変化する。

 それを望めば、幾らでも早く、星を遠くに追いやることも。

 アルバスタの幻に続き、最も暗い星海の領域に着いた。何も存在しないように見えるが、この領域からアルを引き上げてやらねば。

 私はそれを体系的に知ることはないが、観念的に知った。彼の幻は私を中心に一周して、何物も映しえない空間を示して消えた。これ以上は、あの星海の娘も手助けしない。

 それが、彼らのルールだ。

 特に光を吸い込む小さな黒点に触れてみると実体感がある。単なる空間状の存在に見え、指は突き抜けたが微小ながらもそれはそこに存在していた。

 これは混沌ではない。そもそもこの場、全てが混沌なのであって、これが話をする為のささやかな接点だ。


 彼の名前を呼ぶ。反応はない。

 【n】から血を垂らす。反応はない。

 一定の周期で黒点に触れる。反応はない。

 彼の好んだ煙草の煙に燻らせる。反応はない。

 

 混沌は混沌を以て、接点を築くしかあるまい。

 私の持つ核を震わせ、黒点をこの場から抽出する。

 静かに笑う私の混沌は、その黒点は、既知である。

 

 抽出の後、中心の芯が現れ、私達は急速に引き寄せられていった。

 速度は関係なく、ほとんど一瞬の内にアルバスタが目の前に立っていた。

 「どうやら、僕は多重に取り込まれていたようだ」

 アルはそう言った。

   ・・・

 その後、唐突に私は引き戻された。これでよかったのだろうか。

 理解せずとも、後ろのベッドで君は体を動かし、寝言を言っている。

 それならば、問題ないだろう。

 先ほどまでは、凍ったように動かなかったのだから。

 親愛なるアルバスタへ


   P.S.


 私は所用があり、君が目覚めるまでいてやることができない。宿の主には私が帰る迄の宿と食事の代金は渡してあるので心配はいらない。

 しかしながら、二点だけ気を付けておいて欲しいことがある。

 住民と知り合いにならないこと、時折聞こえる声に耳を貸さないこと。

 街の中を散歩するのは構わないが、これだけは守ってほしい。

 三日以内には戻るから、それまで辛抱してくれ。


【友人ミレー】

 めっきり暑くなった。這い回るミントジュレップのよう。サンバを踊っていては洞穴の氷塊を無くし、ワルツはお得意さんで?

 夏のヒヤシンス売り。時期は外れている。

 私が昔、アルバスタに送った書簡は届いていない。彼からは大量の手紙が届いている。彼は一体どこへ行ってしまったというのだろう?

《教授》に出会ったこと以外は不明だ。

 しかもこれは二年ほど前の話。私はといえば、久しぶりに自室の整理をしていたら彼が送ってきた手紙が沢山届いていたのに今頃気付く体たらくだ。

 当時の私は、家庭や仕事に忙殺されていて、全く気がつかなかった。

 しばらくすれば帰って来る。ぼんやりとそう思って、年はもうふた回りもしていた。

 月からの付和雷同がしっかりと残っている。

 これから、それらの手紙を読むつもりだ。彼は戻ってきていないから。

 山の様に溜まった封筒は様々な材質で出来ていて、彼が居場所を転々としていたことは容易に想像できた。

 元々手紙魔のようなところがあった彼は以前から、その土地特有の土や種を入れて送って来ていた。(現に手紙のいくつかは封筒が膨らんでいる。)

 しかし、残念ながら彼の両親、親戚、恋人。誰もが彼のことは心配していなかった。

「もう二年前に死んだの」元恋人はそう言って、結婚した。

 彼等にとって、既に彼は存在しない者だ。元々、放浪癖があった彼は、家柄の良さも相まって、家族に毛嫌いされていた。

 既に、彼の家族はアル+バスタのことを記憶からも消してしまった。

 もう彼らに聞いても誰かすら、分からないだろう。

 このテビでは三年経った死人に対し、その固有名詞共々、紐づけられた概念ごと消し去る事が許されている。ヒト、というものは物事や現象を言葉として概念化することで、情報を分かりやすく圧縮している。

 要は嵩の大きい情報を整理することが出来る機能が備わっている。その機能である概念がなくなれば、理解する為の手掛かりが消え、混沌に帰す。

 記憶が消えるのとは少し異なっていて、そこにあるのに手が届かない。ということ。私たちはそれにすら気付くことはない。

 この町の外れにある、何重にも重ねた凹凸グラスの屋敷に住むびっこ引きの偏屈爺に頼めば、それなりの金額で存在を無に出来る。というワケだ。

 私はそれを彼等から大切なものを奪う行為だと考えている。彼らが望もうとも、なんであろうと。そこにあるのに、手に入らないのは悲しいことだ。

 この《概念ジジイ》は私たちから奪った概念を大切に大切に、影達に守らせていた。

 月の刻に作られた影達は獣そのもので、非常に危険な存在だ。静かに忍び寄って私たちの影を喰らい、気付いた頃には死の淵に立たされてしまう。

 影のない人は半分死んだようなもので、徐々に体力は落ち、日の当たる場所では全身に激痛が襲う。肉体を守る影が無くなったのだから、当然だ。

 乙女の吐息に浸した鞭がなければ満足に操ることは不可能な生き物。老爺は鞭の扱いに非常に熟練していて殆ど隙がない。

 影ある所には光ありと言うように、影食い達はこれらの獣影を喰うが、喰われてしまうことも多い。彼等もまた、影を喰うこと以外能の無い下等生物故に、その他は瑣末時でしかない。

 粘菌以上、獣未満。その癖ヒトの形をしている。

 影食いは強い光に照らされるのを嫌う性質の概念ジジイは無数のレンズで屋敷中を照らしている。

 私も以前、大切な人の記憶を消したことがある。思い出したわけではなく、消した、と日記に書かれていた。

 行方も、生死も、性別も、人であったかすら。何もかもが分からない。分厚い日記にはただただ、消した。とだけ。

 学者の難解な理論以上に、他人事にしか感じられないのだ。


 アルバスタの話に戻そう。

 彼の親族はもう彼そのものを忘れてしまった。

 行方不明になった人に割ける時間は無限にあるわけではない。

 この町で必要なのは潔くなかったことにすること。

 しかし、《概念ジジイ》は商売上がったりだと、先日市場で会った時に話していた。わざわざ記憶を消すまでもないと、考え方が変わってきた。

 アルバスタが窮屈に感じていた町は、新しい風と共に風化してゆくのだろう。手紙の山から目に留まったものを取り出す。古ぼけた彼の手紙には、昼のない街にいることが記されている。

 日付から見ればこれは、彼が出発してから一年も経っていない時の手紙だ。その時の彼は薬物のせいで死に掛け、《教授》と呼んでいるものに助けられ、一命を取り留めた。

 奇妙な街の人々と、夜な夜な(昼が来ないからアルが眠る時間帯の事だろう)恐ろしげな化け物の声が聞こえてきた。

 といった内容の中に長々と姿を消した《教授》のせいでとても不安に感じていること、このまま帰れない、と感情が昂ぶっている様子が手紙の文章と筆運びから感じられた。

 ただ、その後の手紙が山の様にあるので、その当時、彼の身に何かあった訳ではなさそうだ。私は今でも元気にやっていると信じているが。

 次の手紙を読もうとすると、部屋に入ってきた女中が言う。

「これからご友人にお会いになられるんじゃあ、ありませんでしたか?」

 と。

 忘れていた。今日は遠方から人が来る。

「ありがとう。忘れていた」

 待ち合わせ場所に向かわなければ。

 彼女が手に持っていた外套と拳銃を受け取り、手紙を古い順に並べるように伝え、私は家を出る。

 その遠方の友人から、ラクシュミの幻題という名の本を手に入れたと先日連絡があったのだ。

 彼は奇書ばかりを集める偏屈なのだが、特に興味がある訳でもない私にわざわざ本の話をしたいと言う。『他に話す人が居ないのもご尤も。しかし、ミレーさんはご興味がおありですから、ええ。分かりますよ、言わなくとも』こんなことを言っているが、私は彼の扱う商品を偶に買うだけなのだ。

 今日、きっかり正午にカフェ【宿り木】に来てくれと手紙には書いてあった。女中も忘れてくれればいいものを。

 私は少し早めにカフェに着く。自宅からはほとんど目と鼻の先の距離だ。

 相変わらず店内は煙で溢れ、店主は無頓着にも呆けている。

 カウンターには乱雑にカップが積み重ねてあり、私は一つ手に取って椅子に座る。コーヒーで煤け薄汚れているカップは、誰も盗まないだろう。

「コーヒーを注いでくれないか!」

 そう言うと、店主は酷く億劫な様子で保温ポットを手に、私の席までやって来る。彼はいつも決まってくたびれた帽子を被り、白いステッキで左の義足を支え歩く。昔、傭兵をしていたらしく左足と鼻が削げ落ちていた。

「コインを三枚寄越せ」

 酷く訛りのある声で聞き取り難く、指を三本立てているのを見てようやく店主が支払いを求めているのが分かる。

 コインを三枚渡してやると、不満げに鼻を鳴らしてポットを置いて引っ込んだ。彼は不愛想だが、支払いさえしっかりとしていれば何も言わない。

 中にはたっぷりと薄めのコーヒー。カップに注いで、友人を待つ。

 友人の名前はヒガシという。出身地を聞いたが、胡散臭い人種が蔓延る大陸に家族が居り、行商をしているとだけ。

 それ以外は詳しく聞こうとは思えない。

 友人とは言え、彼と距離を詰めるような関係ではない。

 そんな危うさが彼にはあった。

 しばらくすると店内に背の低い黒髪の男から入って来る。ヒガシだ。

 大きな鞄に体を取られそうになりながらも、こちらを見ると手を振った。

「ようやく手に入れたんですよ、ラクシュミの幻題を。それと、ミレーさん。アルバスタさんに会いました」

 彼はニヤリと口角を吊り上げる。アルバスタはまだ生きていた。

「そのご様子ですと、その事を先にお話しした方が良さそうですね」

 ヒガシは携帯水煙草を吸いながら話した。

 本を見つける為に、山に囲まれた盆地にある村(ここから北にある大陸の広大な砂漠の東側に、このような山岳地帯がある)に滞在していた時に、アルを見かけたと言う。

「中々頑固なオヤジでしてね、本は売らない。と」

 彼は交渉に難航してその日は決着が付かなかった。次の日にもう一度話をする約束を取り付け、村を見て回っていた時に、見慣れない人物に話しかけられた。

 ここの村人が着る服とは明らかに異なる。年季の入った外套は分厚く、所々補修の跡がある。ヒガシは彼が旅人だとすぐに見抜き、話し掛けた。

 その旅人はミレーが住む町の生まれだという。

『ところで、あなたのお名前は?』

『僕はアルバスタ。ヒガシさん、お願いがあります』

 と。僕の地元とミレーを知っているなら、彼女に手紙を渡して欲しいと依頼されたそうだ。

「ミレーさん、貴方宛ですよ」

 ヒガシから彼の手紙を渡された。私はそれを丁寧に内ポケットにしまう。

「お懐かしいようで。しかしミレーさん、この本の話を……」

 ヒガシは自分が手に入れた本がどんなに貴重で、有名な装丁者と、奇特な筆者によって作られたものかを滔々と話し始める。

 私はコーヒーを飲み、彼は水煙草を吸い、本が作られた経緯、本が巡った場所、手に入れるに至った苦労話を織り交ぜながら、話がすぐに終わることは無かった。


「おっと、すみません、もうこんな時間だ」

 陽が傾きかけてきた頃、西日に照らされてヒガシは不意に立ち上がる。

「もっと話すべきことはあるのですが、ミレーさんもお忙しい事でしょうし、ここいらでお開きにさせてください」

 彼はすぐに踵を返して店から出て行く。

 私はいつも不満を言えないままだ。それほどの興味はないと。

 彼が去った後、私はアルバスタからと受け取った手紙を取り出す。

 夕刻を過ぎたカフェにほぼ人はなく、人目を気にする必要もない。常に半分眠りかけの店主は裏に引っ込んでいるのか姿は見えない。

 硬い繊維で作られた封筒には表紙に「友へ」とだけ書かれている。

 インクは蛍光性を持ち、柔らかな黄色を湛えている。

 見たことがない、異国のものだった。

 丁寧に封(これも繊維質が強い接着剤だ)を破り、中の手紙を取り出す。

 同様に文字も穏やかな光を湛えているのが、折り畳まれていても分かる。

 手紙を開くと、彼独特のふやけた文字が書かれている。

 友へ

 ふと、思い出した。しばらく手紙を送っていなかった。

 ただ、郵便を出せるような場所がなく、これが届くなら人伝になる筈だ。

 僕は今の所まだ死んじゃいない。不思議なことに。

《教授》と別れてもう数年が経つ。別れた時に帰ろうとしたけれど、未だに目的もなく旅をしている。

 初め、僕は麻薬探訪に南の大陸へ渡った。もっと凄いモノがあるんじゃないかと、そこで《教授》に会って……幾度か死に掛けたのを助けて貰った。

 あの人と一緒に旅をした一年はとても勉強になった。

 思い出話を書けばキリがない。放浪生活が僕の性に合っていた。

 今は《白壁》、聳え立つ地に向かっている。

 つまり北に進み、巨人が住む土地を越えて、その大絶壁を間近で見てやろうと思って。

 そこまで行ったら一度戻る予定だ。

 恐らく親族は覚えちゃいないだろうから、戻った時は君の家に泊めて貰えると助かる。

 あまりインク(淡く光る草が原料?)もないので、ここまで。

  アルバスタ・セホ・マイコニーダ


 P.S.

 一緒に旅をする仲間が出来た。

 小さくも優秀な彼の写真を同封しておく。

 彼の手紙に書かれていたのはそれだけだった。

 最後の記述の通り、封筒の中には写真が一枚入っている。

 小さいと言ってはいたが、そこに写っていたのはアルバスタとその隣で堂々とした様子で座っている巨大な蜥蜴だった。

 小さいドラゴンと呼んでも差し支えなさそうな生き物。

 私には蜥蜴のような姿をしていること以外は分からない。

 一緒に旅をする蜥蜴。その様な知性を持つ蜥蜴の存在は耳にした事があったが、目にするのは初めてだった。

 確か自宅の書物の中にそうした生物を記述したものがあった筈だ。

 手紙を封筒に仕舞い、私はカフェを出る。

 彼はこれまでどんな旅をしてきたのか、自宅の手紙を読むとしよう。

 カフェを出ると、忙しなく老爺がガス灯を付けて回っていた。

『儂から仕事を奪わないでくれ』

 そう言って齢七十五、彼は半世紀に亘りこの仕事を続けている。

 電灯が使われ始めて久しく、この街でもこの一区画以外は全て電灯だ。

 これは老爺の為ではなく《消え掛けた技術を愛するクラブ》が金を掛けて残したからだ。

 良く観察していれば、そのクラブの印が其処此処に有るのを見付けることが出来る。

 ゼラニウムと炎をあしらった印の由来は分からない。そもそもそのクラブの会員を見た人はいるのだろうか? 詳しいことは誰にも分からない。

 その殆どが気付かぬ内に現れた。町長も彼等が誰かを知らない。

 奇妙なクラブだ。

 そんな事を思いつつ、帰宅すると女中は夕食を用意して待っていた。

「最近、市場にはキノコと卵ばかり並んでおりますの」

 分かっている。野菜を育てても収穫時には全てキノコに変わっている。誰かが菌を持ち込んでしまった。キノコが野菜から養分を得て成長するのだ。

 キノコが飼料では養鶏くらいしか出来ない。そして、悲しいかな、行商ではあまり売れない。食い出がないと忌避されがちだ。

 そのせいでここ最近は芋とキノコと卵、時折鶏肉、という生活を送っている。地中に埋まっている芋は菌にやられないようで、これが無ければこの町はとうに生活の出来ない場所になっていただろう。

 また、野菜は十日おきに北部から届くが、大半は途中で菌にやられてしまい一見大丈夫そうでも味が無かったりと、まともな野菜は高級品だ。

 女中に外套と拳銃を預け、顔を洗って食卓に付く。

「爬虫類の本、ここに置きますわ。ふふ」

 夜になると彼女は性格が若干変わり、意識すれば他人の考えを読み取ることも容易い。昼間はあまり感情が見えず機械的で、私には別人に思えた。

 彼女は夜の自分が普段通りの姿だと言っていた。

 今は私を見て微笑み、ゆったりとした服に着替えている。その表情には艶がある。本当に同一人物? 単に眠いだけかも。

 彼女は持ってきた本を開き、少し思案を巡らせた後、紙片に何事かを書きつけている。彼女は時折こうして何か文章を書くも、自分でもはっきりとした意味が分からないことが多いそうだ。

「呪いみたいなものですわ」以前聞いた時、そう言っていた。

 私はいつものこと、と気にせず食事を終えて書斎に戻る。

 手紙の続きも読んでおきたい。きっと女中は茶を持ってやって来る。彼女は家の事となると完璧だった。私よりももっと良い雇い主だって直に見つけられるだろうに。しかしながら“女性の”という条件では難しい。

 ともあれ、私は椅子に深く座り込み目を閉じる。

 ヒガシのつまらない話を聞き、少し気が滅入っていた。アルバスタが生きているのは吉報だったが、彼は《白壁》に向かうと書いていた。

 ヒガシから聞く所によると、手紙を受け取った村に向かうには、列車で北端の港まで移動した後に船で大陸を渡る必要があり、三ヶ月の行程だ。

 そして、白壁まではそこからまた数ヶ月は掛かる。

 何せほとんど世界一周に近い距離を北上しなければいけない。南から向かったとしても、流氷や吹雪、海中で隆起している岩での沈没の危険や、遭難の可能性がある。

 過酷な南の海は、屈強な船乗り達が魔術師を連れていたとしても通らない場所だった。それゆえ、どんな大金を積んだとしても船を出す者はない。

 命知らずはそれを耳にする度に現れたが、船を出して気付くのだ。

『ここは船が出せる場所ではない。光明は何処にも見当たらない』と。

 そうして、無理なものは無理、と南の海から《北壁》に向かうのは空を飛ぶものに限られた。

 また、大陸を渡った先に住む巨人たちの手を借りられれば、彼らの土地を横断出来るのでその半分で済む。が、危険は避けるべきとのこと。

 アルバスタは既に半分以上の行程を進み、巨人達が住む土地すら越えているかも。運が良ければ大陸を渡った先で会えるかも知れない。

「手紙をお読みになって、ゆっくりと待つ。わたし達にはそれしかありませんわ。ふふ」

 私の心中を察知したのか、女中は机に茶を置いて微笑んだ。彼女はゆっくりと、一枚の紙片を手渡してくれた。

 『アルバスタは消え、あの生物を扱う法はかつて失われた』

 と書かれていた。ある種の予言めいたものを感じる。

 きっと血によるものだろう。他者の意識を読む。心を読むことが出来る人々であれば、そうした預言者に近いことも出来る筈だ。

「きっと《教授》に教わったんだろう」

 本当? といった風に女中は私を見つめている。彼女が紙を優しく引っ張るので渡してやる。すると少し書き足して、差し返す。

 『わたし達で彼を探してあげましょう』

 彼女は大きな目をパチパチとさせて、私の答えを待つ。建前と本音。それはどちらか。

「解った。行こう。確か……君の故郷が途中に在ったね。寄ろうか?」

 正直、私はこの町の生活に飽き飽きしていたのだ。アルのように気の赴くままに、興味のある儘に任せて旅をするのも悪くは無い。

 女中はゆっくりと頷いた。

「ええ。実の所、そう言ってくださるのを待っていました。故郷の音楽を聴かせたいと常々思っていましたし……」

 いたずらっぽく言うが、あながち嘘でもないと思う。時々、彼女が楽器屋や旅の音楽家と話をしているのを私は知っている。

 彼に会えればよいが。会えなくとも、久方振りの旅は面白いだろう。

「それでは明日の朝にはご出立できるよう、準備を致しますわ」

 こうして、私は女中と一緒に彼の向かったという《白壁》へと旅立つ事に決めた。

 彼に会ったら、言わなければ。

 《教授》はこの町で死んだ、と。


【書簡⑤】

 元気かい? ようやく手紙を書く暇が出来た。

 色々あったものの、巨人達の町でどうにか宿を取ることが出来た。彼らは非常に温厚で大絶壁白壁まで送ってくれるそうだ。

 物見遊山の様な気軽さで云うものだから、少し怪しい気もするけれど。

『俺は知っている。その蜥蜴は、俺達すら殺せる化物だ』

 どうやら僕がマイク(蜥蜴の名前だ)を連れているのを見て、一目置いているようだった。普通の旅人なら、この地に入ることすら出来ないと彼らは言っている。

 ヒガシという人に渡した手紙は読んでくれたかな。恐らく三月は経った筈だ(長く旅をし過ぎたせいか、月日の感覚が薄くなり始めている。)。

 蜥蜴をどうやって相棒にしたのか、その話を君にも教えてやりたいというのもあって、手紙を書いている。

 あと、ここで使われている紙は、巨人達が作るせいか非常に繊維が荒く、書きにくい。ボロボロにならずにPostに入れて、送れるのかも良くわかっていないけれど、多分大丈夫。

 実のところ僕の相棒は、教授が別れ際に手懐けてくれたものだったんだ。その時は非常に小さい蜥蜴で、僕の手の上に乗るくらいの大きさだった。

『手懐ける方法は幾つか在るが、この方法が一番簡単だ。それに、他のやり方はアルには無理だろう。此処まで手伝ってくれた礼だ』

 それから、僕はこの小さい相棒と一緒に旅をしてきた。

 教授が教えてくれた手懐ける方法は『自分の咀嚼した物を食わせてやること』ただそれだけだった。

 僕はそれを律儀に守って、今では写真の通りかなり大きくなった。

 巨人達が送ってくれることもあって、予定よりも早く帰れそうだ。問題はマイクを町に入れることが出来るか。これまで通った幾つかの町でも入れてやることが出来ず、外で待たせることになってとても心苦しかったのを覚えている。

 お願いばかりだけれど、君から町長に問題ないか聞いて貰えると嬉しい。


 P.S.

 驚いた事にマイクは人語を理解しているんだ。

『我が友よ、我等が人と生を分ち合えない事は知っているな?』

 彼女(雌だった!)は僕が先に死ぬ事を悲しんでくれている。

 早く君にも会わせてあげたいな。

   白壁

 私達の旅は無事に済み、あの《ラクシュミの幻題》が有った村に今は滞在している。久方振りに涯までの旅をしたが肉体は良く出来ているもので、すぐに旅にも慣れた。

「アルバスタさん、一体どこへ向かわれたのでしょうか」

 女中は首を傾げた。アルバスタは見つからなかった。

 この村の長にも聞いたが、蜥蜴を連れた旅人は一年近く前に《白壁》に向かった。それ以降は似たような旅人を見ていない、勿論戻ってくる姿もだ。西方の国へ向かったんじゃあないか、と。

『あんの蜥蜴喋るんだ』

『デカくてよ、ありゃ火を吐くぜきっと』

 村人が言っていたように彼の連れていた蜥蜴は非常に目立つ。この辺りは他に村もない。余程の偏屈か悪人でもない限り、食料や水を調達するにはこの村の市場を利用する。

 村とはいえ、貴重な旅人の中継地だ。アルバスタが利用しないとは考え難い。ましてや、戻るといったのに西方に行くのも道理が合わない。

 砂漠の中で目立つ景色といえば、この村を囲む山と《岩の廃都》で、後者は都市のように見えるが、長年の気流によって削り取られ穴の開いた岩壁を都市に空目したものだ。

 しかし、この場所は暴漢が身を隠すにも都合がよい。倒れている人には近づいてはいけない。遮蔽が多い内部に入ってはいけない。気さくに話しかけてきたガイドを騙る詐欺師を脅して得られた情報はそのくらいだった。

 そもそも、女中が行くのに反対したのでここから眺めるだけだ。

「私にも分からない」

 アルバスタは、私達の手の届かない場所に消えてしまったのだろうか?

 確証はないが、仮説はある。

 ・・・

 私たちは始めに女中の故郷に寄った。大陸中央の沿岸部にあり、テビからは北西に馬車を走らせること一週間。漁で生計を立てている小さな村だ。

「ここがわたしの故郷だった場所」

 焼け落ちた廃墟の名残にあるのは墓のみで、彼女の家はとうに失われた。

 過去に大火に見舞われ彼女の村は焼失。その後は世界を放浪し、色々あって今の立場に落ち着いたという。

「今は、普通の村になっているの。あら、久しぶり。残念だけど、ね」

「もう三年も待ったのにー」

 村の人間は彼女を見知っているようだった。声を掛けてきた少年たちは演奏をねだっていたが、残念そうに駆けて行った。

「ここに来たの、もう三年も前になっちゃった。ふふ、いいの」

 私が済まなそうな顔をしていたのだろう。

「本当に宿は取らなくていいんだね?」

 ここに来る前、彼女は自分の家の在った場所で眠りたいと言っていた。幸い、私も天幕を張って眠るのには抵抗がない。

 「ええ、設営してしまいましょう」

 私たちは二人で天幕を張った。適当な石と乾いた木で焚火を作り、村で売っていた川魚が今日の食事になる。

「案外すぐに準備出来るな。一人でやった時は手間取ったもの」

「ふふ、それはコツを知らないから。この旅で慣れますわ」

 私は器用ではない。研究や理論を考えることは得意だが、こうしたことはからきしだった。なので、彼女のような人が見つかって良かった。

 設営が終わって、細々とした物事を処理していたら、すぐに日が傾いた。

 「お墓に供える花を用意してきますわ」

 女中は設営を終えると早々に村に戻った。私はテントの周囲を整理した後、ここまでに掛かった日時とこれからの計画を振り返っていた。

 資金が不足する可能性と、私の体力的な懸念はどうしても払拭出来ない。

 特に、砂漠を越えてからの道のりには、町という町、村という村がほとんどない。東側の山脈を越えれば幾つか集落があるのはわかっているが、彼らは非常に排他的で、外から侵入する者に対し暴力以外は返ってこない。

 西側や北上する行程も案にあったものの、西側は砂漠の中を倍以上の距離進む必要があり、体力的な不安、越えた先にある国は情勢が不安定――幾つかの小国を統合して出来たのだが、強引な武力行使により国内の不満が高い――で、女を奴隷並みの扱いをする思想が根付く点で候補から外れた。

 北上する行程も同様にこの国の領土が近く、厳戒態勢が敷かれている。

 故に、無用な争いや問題を避け易い東部山脈沿いを進む行程に決めた。

 これらの情報は、女中から聞いた話以外に、研究の関係でやり取りをしている人や、ヒガシのような商人から聞いた話だ。現在でも様々な場所で活動している人達の話なので、情報の鮮度もそれなりにあるだろう。

 進むのが難しければ引き返せばいい。現実的な答えだ。

 しかし、それは私の納得がいかない。

「戻りました。少し、賑やかですけれど……」

 そんなことを考えていると、女中が村の人を引き連れて戻ってきた。

「ミレーさん、ちと騒がしいですが、許してくだされ」

 村長にそう言われて、女中が手に楽器を持っていることに気付いた。

 円形の円盤のような形をした鉄製の道具は、以前彼女が教えてくれた故郷の楽器だとすぐに分かった。中央の凹みを中心に、円周上に似たような凹みが付けられている。凹みの部分を手で叩き、様々な音階を組み合わせて音楽を形作る。私も聴いた事はなく、村長の申し出は快諾した。

「子供の頃に演奏したきりで、お聞き苦しいかも知れませんわ」

 彼女はそう言いながら、焚火の端に腰を下ろした。

 皆が彼女の周囲に腰を下ろしたのを確認して、演奏が始まる。

 始めは恐る恐る、小さな音で静かに音は響く。まずは一小節を繰り返し、アクセントが一歩足を進め、三歩戻ったりと徐々に音の数が増えていく。

 繰り返しは徐々に形を変え、うねりを持った川のように、ゆっくりとした速度が勢いを付けて私を飲み込んでいく。

 溺れないように、そう思う間もなく、私たちは音楽の中に引きずり込まれた。その流れに合わせて意識は変化し、感情は一体となっていく。

 私たちは彼女の演奏する姿と音だけの世界に存在している。

 そこには一族の歩んだ歴史が。使命を帯びたものの力強さ、そこに至る普遍性が表現されている。時に拍から外れ、全てがばらばらになりそうな危うさが、彼女の血に眠る一族の特質を表し、その世界を形作る。

 それはある種の執念だろう。心を読み取る術に卓越した者は人の心だけではなく、この世界の心すらも読み取ることが出来る。

 そうやって歴史の裏側で活躍してきたと聞く。

『それが失われてしまった今、徐々に世界は人中心に傾き始めている。それはとても危険なこと。わたしは放浪の涯に死んだことになっているし、何よりそうした預言者にはなりなくはないの』

 と、そんな思考が始まって、演奏が止まっていることに気付いた。

「ごめんなさい。これ以上は……っ」

 泣いていた。楽器を抱きしめて、うつむいて。

「さあさ、皆の者、静かにさせてあげよう。ミレーさん、申し訳ない」

 村長が手を叩き、困惑していた他の人たちを立ち上がらせた。

 私は突然のことで驚いていた。彼女が感情を溢れさせた所を見たことがなく、尚更どう声を掛けたものか。こういうのは不得手だ。

 私は静かに彼女が落ち着くのを待った。無理に慰めることもなく、ただただ焚火に枯れ枝を入れつつ待つ。この辺りは木に囲まれていて、風が吹く度に影は姿かたちを変え、木の葉の揺れる音、弾けた枝の音が、静けさの中で周囲の落ち着きを取り戻すかのよう。

 彼女には悪いけれど、こんな時でも空腹を感じていた。

 きっと、この後は食事をする。私は下処理を済ませた串刺しの魚を、焚火の近くに突き刺す。すると、彼女は涙を拭って顔を上げた。

「もう大丈夫。まだ、ちゃんとした演奏は見せてあげられないみたい。」

 女中は楽器を軽く鳴らし立ち上がると、既にいつもの感じに戻っていた。

「私も困惑していて。でも、その……どうして?」

「ふふ、どうしてかしらね?」

 いたずらっぽく言ってはいるが、それ以上聞くことは出来なかった。

「この楽器は、ずっとこの村に置いていますの」

 そう言って、持参していた紙片を渡してくる。

『ここにいるから、そこにあるから、目を付ける』

 今回のメモ書きは普段に輪を掛けて思考を要する。意味が分からない。

「焦げてしまいますから」

 女中は魚の刺さった串を少し火から遠ざけた。

 きっと、謎めいた言葉には特に意味がない。ふと、思い出すのは私がこの旅を決めた理由だ。アルバスタは白壁にいる。日々の生活に飽き飽きしていた。つまり、今回の旅に目を付けた。これはこじつけだ。

 女中の血に眠る価値と生きる理由は、他者にしてみれば目を付けるに値するものでもある。彼女はそれを恐れているのではないか。

 以前言っていた『預言者にはなりなくない』という言葉は、私が彼女を雇ってから二年後に、彼女が出自について話してくれた時に言った言葉だ。

 あの時、女中は休みだった。三日ほど暇が欲しいと言われたので、承諾したのを覚えている。二年間、彼女はほとんど休むことなく働いていた。私が休みを出した時ですら、彼女は私の部屋にやって来た。

 そんな彼女が休みを取りたいと申し出たものだから、こんな私でも覚えていたのだ。

 その時に彼女が突然家に現れた。やや取り乱した様子で『少し休ませて欲しい』といったようなことを言っていた気がする。

 その時に昔話をぽつりとしてくれたのだ。

「魚を食べよう。もう、火は通っただろう?」

 考えつかないものは今考えても仕方がない。

「齧ってみては。わたしはもう少し待ちますが」

 私は串を取ろうとした手を上げて伸びをする。

 それ以外に手のやり場がなかった。

「今日のは流石に分からない。君にもわからないんだろ?」

「その時が来てみるまでは、わかりませんの」

 夜は更けていく。私は考えるのを止めた。


 、、、(船に乗るシーンいる? そのまま砂漠から進めたほうが…。)

 私たちは北端の港に馬車と蒸気機関でたどり着いた。大陸を南北に殴打する列車の中で一週間、他愛もない話や、途中の駅で売られている食べ物を楽しみつつ、特に不都合もなかった。

 港に着くと、丁度船が出るところだった。汽笛が一度鳴る。

「次の船は一月先だ! 乗船するヤツは早くしろ! もう出ちまうぞ!」

 それに次いで、駅で顔を真っ赤にして叫ぶ男が一人。蒸気機関に乗っていた幾人かはそれを聞いて、急いで港へ駆けて行く。私たちもそれに習った。

 桟橋に立つ船員に銀貨を数枚払い、私たちは足早に船へと乗り込む。

「もういねえな! よし、出航だ出航!」

 威勢の良い船乗りの声がして、船はゆっくりと港から離れていく。

 慌ただしくも、ここからは一月近い船の旅となる。体を動かすことが少ないためか、船を降りた後に体が重くなることには気を付けなければ。


 私たちは船に乗り、北の大陸に着いた。

 港の酒場で船乗りたちにアルバスタに似た風貌の、蜥蜴を連れた人を見なかったかと聞いても、大きな蜥蜴を連れた者は見かけていないと言った。

 しかし、ある船乗りが、西の国の港でそのような人を見た者がいると噂に聞いたと話した。

 噂は定かではなく、竜が飛んで来たとか、船から降りたその姿は西国の王だったとか、兎に角噂になるような出来事があったのはわかった。

 しかし、どれもがこの地にやってくるもので、そこから出て行った、最近見かけた、といったような情報はなかった。

 船乗り達の噂がないとすれば、アルバスタはこの大陸から出ていないことになる。蜥蜴のマイクに乗って空でも飛ばない限りは。

「行かない方がいいぜ、特に女だけではな」

 私たちは彼に礼を言い、砂漠を渡る為のラクダ、酒場で紹介されたガイド(ヒガシの名前を出すとすぐにやって来た。『ヒガシさんから聞てます。砂漠出るまでシッカリ案内、安心安全ネ』と。)、飲食物を市場で用意して、夜まで仮眠を取ってから出発することに決めた。

 砂漠を迂回する――どんなに旅慣れた人でも砂漠を直進することは難しい。絶望的なまでに水が不足する。――為にヒガシが滞在した村(オアシス)で一度補給を行い、西側の巨大な砂漠を眺めながら高地を進む。

 これがガイドが提案する行程だった。植物の背は低く、空気は薄いとのこと。女中は以前砂漠を通ったと言い、ガイドは驚いていた。

『いいデスか。砂漠は通らないの道のりがサイコウね。この道、少し上る。でも、辛くない、我慢出来る。これが大事』

 私たちはガイドに従って、オアシスまでの道のりを進んだ。彼は砂漠での過ごし方を教えてくれた。

『あまり動かない。水は小まめに一口、夜はしっかり寝る』

 基本だけを守る。


 幸いな事に、巨人の地までは旅人達が踏み鳴らした道があり、迷うことは無い。気をつけるべきは、猿の群れの縄張りに入らないこと。下りになれば後少し。



 ・・・

 私達はようやく巨人の地までやって来た。

「俺達なら、あの絶壁まで一週間で運んでやれるぜ」

 体長五メートル程もある巨人達はそれだけで威圧的だが、旅人に気さくだった。聞いた話では、外から来る者に対しては排他的で、すぐに追いやられるか、彼らの食事になる。しかし、私達と他の旅人がこの巨人の地に足を踏み入れた時、彼らはすぐにやって来た。

「俺はハイブ。宿に泊まるンなら、後ろに乗りな」

 手押し車を牽いて来ていた巨人の一人が話し掛けて来た。私達が訝っていると、何かを察したのか彼は笑う。

「俺達はここから出て行けないから詳しくないが、巨人達への偏見はまだあるんだな」

 聞けば、過去に来た冒険家が、旅の話を面白くしようとして巨人達のことを脚色したのが始まりだそうだ。

「この記事だ。ご丁寧に、彼は二度目に俺達の記事を持ってきやがった」

 恐らくここを旅する者達への話題作りに容易してあるのだろう、その記事は駄目にならないよう小さな写真立てに入っていた。

「『狂気の巨人族、白壁に至る悪夢の行軍』冴えた表題ではありませんわね」

 だろ? と手押し車を牽く巨人は笑う。

 私は彼、アルバスタが来たかどうか訊ねた。

「デカいトカゲを連れた男を見かけたかって? いいや、そんなヤツは見なかったな」

 ここ数年はアンタ等のような旅人を見かけることも少ない。ハイブは少し落ち込んだ表情で、奇怪な病を運ぶ猿が増え始めたことで人間達が寄り付かなくなっていると言う。

 「数日前にスープにして食べたのだが、大丈夫だろうか」

 女中は弓を使った狩りも得意で、易々と動物を仕留めてくれる。何故、このような能がありながら女中という立場に甘んじているのか、私には些か不思議でならない。

 途中、彼女の故郷にも立ち寄ったが、至って普通の農耕に勤しむ村だった。

「火を通して喰う分には問題ないさ」

 ハイブは気楽に言う。奇怪な病気というのは、猿と濃厚な接触をした場合に伝染るもので、殆どありえないようなものだと。

「っま、モノズキがそうやって罹っちまうと、確実に死ぬけどな」

 全身の血管に腫瘍が出来て、真っ赤な花の如く《開いて》命を落とす。今のところ、助ける術はない。私もこの病気だけは風の噂で耳にしていた。

 巨人の地には人を確実に殺す疫病が蔓延っている。それだけで、元々過酷な道程であったこの場所に向かう者が全く居なくなった、というのは想像に難くない。

「そろそろ着くぜ。北に見える町が、俺達巨人の町だ」


 巨人たちの町の描写(遺跡を改修して使っていること)

 案内された宿の描写

 彼らの謎について。

 一泊する。女中との少しの会話。

 次のシーンは白壁から。そこまでの道のりはミレーの感想として。

 白壁も5ページくらいで場面転換。終わりに向けて走る。


・・・

 白壁は巨人達の町から一月程度の距離(巨人達から見れば一週間)にあり、なだらかな上り坂となっている。険しくは無いものの、寒さと雪に閉ざされた地を歩くのは並大抵なものではない。

 そんな中でも、凍り付いた針葉樹林帯には小動物とそれを喰らう肉食動物が何種類か生活をしている。

 私達は途中に巨人達が用意している幾つかの小屋に泊まりながら、ここまでやって来た。

「何故このような場所までの道程に小屋を?」

 答えは中に入れば自明だった。

「ここらの獣を狩る為に作った」

 雪の魔物、旅人達はそう呼んで恐れていた。雪の中を泳ぎ、四肢は熱を感知するように発達しており、その目は熱を見るように出来ている。

 体長は四メートルを超えない。私達より倍は大きく、その力は易々と肉体を破壊する。

 私はハグベアーの名で知られる似た獣を知っている。こちらは雪が降るほどではないが、気温が低く森の深部に生息している種で、同じように温度で外界を把握していた。

 その獣と異なっているのは、名前の通り発達した長い前足で獲物を押さえ付けて離さない点だ。

 雪の魔物は鋭い爪で下半身を狙う。この寒さでは血はすぐに凍ってしまうが、そんなことは些細な問題だった。攻撃された時点で、巨人ですら致命傷となり得る傷を負う。そうやって動きを鈍らせた後、獲物の胴体に抱き着いて頭から喰らおうとする。

 白壁と呼ばれる壁は天を突く程に高く、人々を拒絶している。凍りついた面を削ると、薄い石灰質の層が顔を出す。その奥には、深い藍色をした未知の強固な物質がある。

 私が知る限りの如何いかなる刃物を以てしても傷一つ付けることは適わない。

「この壁が三千三百尺の幅を持ち、大陸を分断しているのですわ」

 実際に海上から白壁に近づくことは中々出来ない。ほぼ通年氷河に覆われ、数年に一度、夏のある日、氷河が海上から姿を消すことがある。

 その時に運よく船に乗っていれば、その壁が天高く聳えるだけでなく大地の深い所にまで達していることを窺い知ることが出来る。

 勿論、反対側も今私達が居る場所と同様に酷い吹雪で覆われている。とは言え、そちら側は通年氷に覆われ、町や村は一つも存在しない。何度か探検家達がその不毛の大地足を踏み入れているが、空でも飛べない限りはその全容を掴むことは出来ないだろう。

 女中は手にしたピッケルの柄の部分で壁をこつこつとやって、感心していた。

 一帯は一年中吹雪で覆われ、頻繁に起きる水平線の蒸発現象のせいで迷い、息絶えた者の亡骸を幾つか見つけた。その中にアルバスタが居なかったのは、多少の慰めになった。

 ただ、この絶壁は単に強固な物質で巨大な楔のように埋まっているだけではない。

 壁面の幾つかの場所には、奇妙な紋様と人々の絵が掘り込まれていた。

 幾何学的な形状の重ね合わせで表現され、その中に文字が書かれ、その周辺に人が彫られている。私達には何が書かれているのか知る由もないが、その内学者達が解いてくれるだろう。

 よくよく見てみると、壁には切れ目があることが分かる。数名が通れる幅と巨人を易々と通すことの出来る高さがあり、最近作られたらしい石の看板には《未知の扉》と掘り込まれていた。

「俺達が調べてることなら、教えてやるよ」

 案内で着いてきた巨人はこの絶壁について色々な検証を行っていた。

 壁面に紋様が描かれているのを発見したのも、扉のような徴を見つけたのも彼らだ。北壁について一番詳しいのは彼ら巨人達だろう。

「これを記した事は?」

 聞いてみると、彼は嬉しそうな顔をして言った。

「俺が毎年描いてるぜ。戻ったら見せてやるよ、人が増えるんだ」

 彫られた文字と、人々は毎年変化していると彼は言う。自然と増える、そのようなことが本当にあるのだろうか。

 また、彼らの中で一番力がある者が勢い良く体をぶつけ、巨大な槌で叩こうとも壁には凹みすら付いていない。槌は柄の部分から曲がって折れた。

「兎に角丈夫で、刃物でも傷はつかねぇ。どうしようもねぇってヤツだ」

 彼は、この辺りにはただただ壊れない巨大な遺物以外に見所もないと自嘲的に言う。

「俺たちは毎月のように、旅人を案内したりしているんだ。初めて来る旅人が辿る道程なんてそう沢山無ェからな、見逃すってことはほぼねぇよ」

 そんな場所でも、大きな爬虫類を連れていれば否応なしに気付くとも。


「巨人の町にもアルバスタの痕跡は無かった」

 いや、一つだけ。俄かに信じ難いことだが、彼が居た証拠は存在した。

「あれを信じるなら、アルバスタさんはもう……いませんわ」

 信じたくは無いが、そうなのだろう。

 北壁の壁面に描かれたアルバスタとその相棒である蜥蜴(マイク)と思しき姿。巨人の町では、北壁に彫り込まれている壁画を一年毎に描き記していて、過去の絵の中にはそのような姿はなかった。

『俺たちは気付いた。あの壁画は、人を取り込んでいる』

 北壁に一緒に向かった巨人が旅人達の案内人を買って出るのは、そこの壁画を描き写す為でもある。

 実際に彼が毎年残している壁画の写しを見せて貰ったのだ。一番初めに写したものに対して、最近のものは倍以上の人々が描かれていた。

『新しく竜使いが追加されてやがる。どうしてか、あの壁に取り込まれちまう旅人がいる。まぁ、全員監視してるってわけじゃねぇから、それだけとは言い難いがな。俺はその条件ってやつを知りたいんだ』

 彼は旅人が北壁に吸い込まれ消えたのを目にしていた。すうっと、音もなく吸い込まれるようにして、消えていった。

『騙して悪いが、案内したんだ。それくらい、いいだろ?』

 アルバスタが来なかった。と言った彼を責めることは出来ない。何故、そうなるか、北壁とは何なのか。それを知りたい。それは、物見遊山の私たちよりも、大切だった。

「戻る他ないか……。少し疲れた、荷物を纏めておいて貰える?」

 私たちの旅はここで終わりだ。女中に帰り支度をするように言い、私はベッドに横になる。寝れば今のもやもやも、少しは晴れるだろう。


 自宅に戻り、何通もの手紙が届いているのに気付いた。

 それも、全てアルバスタからの手紙だった。

「ふふ」女中はまたしても紙片を私へ。

『時の音を聴き、呼びかけに応じて、生を選る』

 私は、女中が渡してくれた紙片を見て、ふと、奇妙な考えを得た。

「アルはもしかすると、私たちが住む時間とは異なる時間に」

 我ながら飛躍した考えに思えたが、彼は生きている。ここに届いている手紙がアルバスタが生きていることを証明してくれているようだ。


 私は、手紙を待っている。

 ~~終~~

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