第8話

 十一月も半ばになり、寒さが本格的になっている。貧乏学生の僕は、相変わらず自転車で大学に通っているわけだが、寒すぎて学校に行くのがためらわれる。朝、布団から出るのに一苦労。家の外に出るのがまた一苦労。その上、この寒い中、風を切って走るのかと思うと、せっかくのお天気も恨めしくなってくる。

 大学の講義は二時限目以降から取るようにしている。冬の早朝、寝坊をしていられるのは、大学生の特権かもしれない。しかし土曜日。土曜日だけは一時限目に行かなくてはならない。

 僕は第二外国語でドイツ語を取っているのだが、特にドイツ語には興味が無い。興味が無いので成績もひどい。英語だっておぼつかないのに、なんでドイツ語までやらなければならないのかと思う。しかし必修科目なので、逃れられない。大学側も、そんな落ちこぼれ生徒の存在を知っているのか、抜け道を用意してくれている。

 「ドイツ語を通して学ぶドイツの文化」という講義があって、密かな人気科目になっている。なぜなら、実際はほとんどドイツ語を使わないからだ。講義内容が、生徒の研究発表で占められている。例えば、ドイツ食文化の研究と称して、みんなでソーセージの食べ比べをやって講義が終わってしまう場合もある。先生も人格者で、面白い発表をすれば簡単にAをくれる。

 そんな、大変ありがたい講義なのに、単位を落とす生徒が後を立たない。なぜならそれは、土曜日の一時限目にあるからだ。土曜日には他の講義はほとんど無いので、このためだけに大学に行かなければならない。そもそも、ドイツ語の勉強をする気が無い、怠け者の生徒が取っている授業だ。非常に出席率が悪い。

 かく言う僕も、出席日数がぎりぎりになっている。土曜日の朝に目覚ましが鳴る。今日こそは行くぞ、と思いながら、布団の中で何度力尽きたことか。冬場になって、ますます行きたくない。インターネットで講義を受けたい。しかし、そんな仕組みはもちろん無い。ドイツ語は、今年で終わりにしたい。今あきらめたら、今年出席した分が無駄になってしまう。

 脳の中で激しくむなしい戦いが繰り広げられる。そこで、そっと僕の背中を押してくれるのが口笛教室の存在だ。

 口笛教室は、何があっても出席したい。もしかしたら今日、また誰かが昇段して、みんなで近藤酒場に行くことになるかもしれない。どうせ外に出かけるならば、大学にも行ったほうがいいじゃないか。ドイツ語の講義を受けて、学食で安い定食を食べて。そうだ、図書館で本も借りよう。その後、充実した気持ちで浅草に向かう。よりいっそう口笛教室が楽しく感じられるだろう。

 ようやく気持ちを組立てて、布団から這い出る。手間が掛かりすぎだが。


 早起きをすると、一日がとても長く感じられる。だからこれからは毎日早起きをしよう、とは思わない。いつもダラダラ過ごしているからこそ、週一回の早起きが新鮮に感じられる。これは怠け者の論理だ。しかし、そのバランスが自分には丁度よい感じがする。

 とにかく土曜日は素晴らしい。口笛教室のある週は特に。今日もみんなで練習をして、楽しい時間を過ごした。

 大輔君は復活した。この前会ったときは涙の大輔君だったし、今日は笑顔を見られて安心した。6時を過ぎても僕らはずっとおしゃべりをしていて、木戸先生に注意されてしまった。すみません、と謝った後、みんなで木戸先生の悪口を言いながら片づけを始める。

「あの、アキラ先生」

 僕は言った。

「なに? デート?」

 アキラ先生が片付けの手を止めて、笑った。

「……先に言わないで下さい。確かにデートの誘いなんですけど」

「何デートかな?」

 アキラ先生がふざけた感じで言う。

「映画です。オペラ座の怪人って言う映画なんですけど」

「ああ、アレ。わたしもう見ちゃったよ。けっこう前の映画じゃない?」

 ごめんね、と言う感じでアキラ先生が言った。大輔君とタマキ先輩が、守山さん残念でしたね、という同情に満ちた視線を僕に送る。いやいや、まだ次の一手がありますから。

「その同じ映画をミニシアターでやるんですが、今回はこれ、ドイツ語訳なんですよ。僕はまったく詳しくないんですが、大学のドイツ語の先生が熱狂してまして、ドイツ語の歌が素晴らしいのだと。レア物で、英語版より良いと言っている人もいるとか。その先生のつてで手に入れたチケットなんですが、どうでしょうか」

 その先生は、いつもミュージカルやオペラの話ばかりしている。土曜日、一時限目のドイツ語教師だ。

「その映画、どこでやるの?」

 アキラ先生が、小さな声で言った。

「池袋なんですが」

「池袋かあ……」

 アキラ先生迷ってる? 脈ありか!

「それは、いつやるの?」

 ミケンにしわを寄せて、アキラ先生が言った。

「十一月最後の土日に、二日間だけやるんですよ。自主上映に近い形らしいです」

 君は運がいいよ、とドイツ語の北島先生が恩着せがましく言っていた。僕を通さないと、もうチケットは手に入らないよ、と嬉しそうに。北島先生からチケットを買ったのは、クラスで僕だけだったが。

「……行こうかな?」

 アキラ先生が言った。

「ホントですか?」

「ドイツ語訳は聞いたことがあるの、友達の家で。サントラのCDだったけど、かなーり良かったのよね。もう一回、聞きたいんだよね〜」

 アキラ先生が、かなり迷っている。頭に手を当てて、目を瞑ってしぶい顔をしている。池袋に行くのが嫌なだけで、僕と行くのが嫌とかじゃないよな。

「行きましょう、アキラ先生。チケットも、もったいないし。八百円だったけど」

 安い……とタマキ先輩が言った。

「行くか! 行くわよ」

 半分キレたような感じでアキラ先生が言った。なんだか少し、疲れた顔をしている。結構な決断だったのだろう。しかし僕は嬉しい。ドイツ語の授業にがんばって出てよかった。北島先生に一応感謝しよう。いまだにドイツ語は、挨拶しかできないけど。グーテンモルゲン。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る