第6話

 アキラ先生を誘うきっかけをつかめない。でも口笛教室はしっかりと出席している。今度は「威風堂々」と「トルコ行進曲」をやっている。アキラ先生のお勧めだ。先生はクラシック音楽のCDと楽譜をたくさん持っていて、次から次へと課題曲を提案してくれる。どれもこれも素晴らしい曲なので、かたっぱしからマスターして行きたいと思う。

 僕が言うのもなんだけど、クラシックは口笛で吹いて楽しい曲が多い。自分なりに工夫をして、吹き方をアレンジしてみたりする。そして練習の成果を口笛教室で披露する。そのつど褒められたり、ダメ出しを食らったりして、充実した口笛ライフを送っている。

 十月第五週の土曜日。長い残暑がようやく終わったと思っていたら、急に肌寒くなってきた。寒いのは苦手だけれど、自転車で走るのには最高の季節だ。冷たい空気に、汗が蒸発していく感覚が心地よい。自宅から浅草まで快調に飛ばして、中華料理店の前に自転車を止めた。

 お店の自動ドアが、ガタガタ言いながら開く。中に入ると、いつものように店内は真っ暗。エレベーターを目指して、ゆっくりと歩く。

 大輔君に案内をしてもらって、裏口から入ったことを思い出す。あれは口笛教室に入るための、秘密の儀式のようだった。あれ以来僕は裏口を使っていない。裏口は、大輔君がいないと使ってはいけないような気もする。

 口笛教室が始まるのは午後三時だが、ほとんどの生徒の方々は、かなり早くから来ている。時間ギリギリに来るのは、アキラ先生と僕ぐらいのものだ。遅刻するのは、たぶんアキラ先生だけだろう。タマキ先輩と大輔君は、学校が引けてから直接来るらしく、僕が来る頃には必ず顔を揃えている。

 しかし今日は大輔君がお休みだった。前回も風邪でお休みだったので、一ヶ月以上大輔君に会っていないことになる。

「まだ風邪引いてる……ってことはないですよね。ぶり返したとか?」

「微熱が続いているみたい。学校も行けてないの。大輔君は、けっこう体が弱いのよ。今はだいぶ丈夫になったんだけど、小さい頃は風邪を引いて入院とか、しょっちゅうだったから」

 アキラ先生が浮かない顔で言った。

「今回は入院しているわけではないんですよね」

「うん。微熱だから。本人も安静にしているだけで、辛くは無いみたい」

「お見舞いに行きたいです」

 タマキ先輩が暗い表情のまま言った。

「あっそれはいいね! 今から行きましょう。みんなが来たら、きっと大輔君喜ぶよ」

 アキラ先生が小躍りして言った。

「じゃあ、今日は早めに切り上げて……って早!」 

 アキラ先生が自分の荷物をまとめ出している。

「そんなに急がなくてもいいじゃないですか。大輔君の家にも、連絡してからの方が……」

「大丈夫。わたし鍵持ってるから。大輔君ち、フリーパス。お隣同士。ほら早く早く! 思い立ったら何とやら。病は気から! ね?」

 怒涛のアキラ先生。仕方なく僕とタマキ先輩も荷物をまとめる。ね? と言われてもなあ。喜びは伝わってくるが。 

 部屋を出ようとすると、また木戸先生に視線を向けられる。またアキラ先生が、「逃げろ!」とやりかねないので、僕が木戸先生に説明をしに行く。

「すいません木戸先生。大輔君のお見舞いに行こうという事になりまして。ここのところ大輔君、調子が悪いみたいなので」

 言い訳するみたいに僕は言った。

「そうですか! 彼によろしくお伝えください。大輔君はこの口笛教室のホープですからね。そう伝えてください! 大輔君と会話するのを楽しみにして、教室にやってくるご老人も、多いのですから!」

 木戸先生が相変わらずのテンションで話す。入り口の方を見ると、アキラ先生が早くしろ! と全身を使ってアピールしている。

「木戸先生、すみません。じゃあ、ちょっと失礼します」

 木戸先生は話足りない感じだが、僕は無理矢理言葉を挟みこんだ。

「では彼に、よろしくお伝えください!」

 勢いがあるので、一瞬怒らせたんじゃないかと心配になる。しかし声がでかいだけだ。木戸先生の、にこやかな表情を確認して、頭を下げてからみんなの元に向かう。

 部屋を出て歩きながら、アキラ先生がしかめっ面をして言った。

「守山さん遅い! いいのよ、木戸先生なんてほっといて」

 そういうわけには行かないだろう……。

「ビブラー」

 タマキ先輩が暗い表情のまま言った。

「そうよ。ビブラーなんだから」

 アキラ先生が舌打ちして言った。ビブラーって、そんなに憎まれる存在なのか……。


 大輔君の家は、口笛教室が開催されている中華料理店から、歩いて十五分ほどのところにあった。

 商店街を抜けて、浅草寺と隅田川を後ろに見て、大通りをひとつ渡る。河童橋通りの方に向かってぶらぶら歩く。近藤酒場とは方角が違うけれど、同じ浅草の下町だ。かなりごちゃごちゃしている。建物は全体的に古い。大昔の看板を出したまま、営業を続けているようなお店がたくさんある。こぎれいなビルもちょこちょこ建っている。高さ制限があるのか、ビルといってもそんなに高くない。それで、景観が保たれているような気がする。でっかいマンションもあることにはあるが。

 先頭を歩いていたアキラ先生が、急に立ち止まった。

「はい、つきました。ここが大輔君の家」

 アキラ先生が手を上げて、指し示した先には、景観を乱すようなでっかいマンションが建っている。

「じゃあ、入りまーす」

 アキラ先生が言って、カードキーのようなものを玄関の機械にかざした。大きな自動ドアがスイーと開く。高級マンションだ。こういうマンションに入るのは初めてだ。

 ホテルのロビーのようなところを抜けて、エレベーターホールに向かう。それにしても豪華な作りだ。さっきまでの下町とだいぶ雰囲気が違う。

「すごい建物ですね。素敵だけどなんだか、下町には似つかわしくない感じかなあ」

 僕は言った。

「そうでしょう? だから建てる時、揉めに揉めたわよ。反対運動とかあって。今でも恨まれてるわね、大輔君のおじいちゃん」

 アキラ先生が言った。

「え。じゃあこのマンション、全部大輔君の家なんですか?」

「賃貸してるけどね。鎌倉家の親戚も何人か住んでるみたい」

 やっぱり大輔君、お金持ちの家の子だったか……。

 エレベーターが最上階で止まる。小さなホールに出ると、両サイドにドアが二つ付いている。各々のドアには表札が付いていて、どちらにも「鎌倉」と書いてある。

「最上階はすべて、鎌倉家となっておりまーす。二世帯住宅だから、入り口は二つに分かれおります」

 そう言って、右側のドアの前で、アキラ先生がカードキーを機械にかざした。カチッと音がして、鍵が開錠されたのが分かる。

「そのカードキー無くしたら、大変なことになりそうですね」

「ちなみにわたくしは、二回ほどカードを無くして、鎌倉家に多大なるご迷惑をおかけしておりまーす」

 歌うようにアキラ先生が言った。

 玄関で靴を脱いで、広いリビングに通される。でっかいテレビに、ゆったりとしたソファー。間違いなくお金持ちの家だ。

 アキラ先生がキッチンの冷蔵庫からオレンジジュースを持ってきた。棚からコップを出してジュースを注いでくれる。

「アキラ先生慣れてますね。まるで自分の家みたい」

 僕は言った。

「そうなの。わたしの部屋もあるよ。歌の練習が出来るように、防音になってるの」

 マジですか。

「まあ、家族みたいなもんなのよ。本当に。ほらちょっと来て」

 そう言って、アキラ先生が僕らを手招きする。連れられてベランダに出る。周りに高い建物が無いので、とても見晴らしがいい。アキラ先生が、ほら、あそこよ、と下のほうを指差す。マンションの隣に平屋の大きな家が見える。

「あれがわたしの家。お隣なの。マンションが建つ前は、夕飯とかも一緒に食べてたんだけどね」

 アキラ先生が言った。

「思いっきりマンションの日陰になってるじゃないですか。アキラ先生の家は、反対運動しなかったんですか?」

「しなかったの。家同士仲がいいから。そのせいで、反対運動も盛り下がっちゃってね。ウチのおじいちゃんも、地域の人に結構恨まれてるかな」

 アキラ先生がガハハと笑った。

「あの、お見舞いは……」

 タマキ先輩が小声で言った。

「そうだそうだ。うっかり忘れてた。じゃ、ちょっと大輔君の様子を見てくるね」

 うっかりうっかり〜と歌いながら、アキラ先生が姿を消した。

 うっかりすぎる。当初の熱意はどこへ行ったんだ。しかし僕も人のことは言えない。豪華なマンションに面食らって、僕も割りとお見舞いのことを忘れていた。タマキ先輩、すみません……。

 少しして、アキラ先生が戻ってきた。その後ろから大輔君も現れた。

「お見舞いありがとうございます。まさか、みなさんが来てくださるとは思いませんでした」

 大輔君が嬉しそうな顔をして言った。パジャマを着てるけど、思いのほか血色がいい。

「寝てなくて大丈夫? 顔色はいいみたいだけど」

 僕は言った。

「はい。さすがに外に出て遊ぶわけには行かないんですが、熱も下がってますし大丈夫です」

 大輔君が言った。

 それでみんなで口笛教室の続きをリビングでやった。風邪で休んでいた間も、大輔君は練習を続けていたようで、だいぶ上手くなっている。アキラ先生が喜んで、大輔君を口笛八段に昇段させた。

「おめでとう! 大輔君」

 僕は言った。タマキ先輩も拍手している。

「ありがとうございます。嬉しいです。いつものようにみんなで、近藤酒場でお祝いしたかったなあ」

「そう言われたら、モツ煮込みが急に食べたくなってきちゃったな。わたし、買ってくるわ」

 アキラ先生がそう言って、財布を掴んで、さっさと買いに行ってしまった。思い立ったらすぐ行動。他の人が口を挟む隙を与えない。

「お見舞いに行こうって話になったときも、アキラ先生、ものすごい勢いだったからね。弟想いだよね」

 僕は笑って言った。大輔君はなぜか困ったような顔をしている。

「一応、宴会場みたいのがあるんですけど。守山さんカラオケ好きですか?」

「大好きです」

 そういうわけで、さんざん口笛を練習した後なのに、カラオケを歌う。大輔君の家にはカラオケ専用の部屋があり、バーのようなものも備え付けられている。モツ煮込みが来たら、お酒も出しますからと大輔君にそそのかされる。なんだか盛り上がってきて、カラオケを熱唱してしまう。そこは僕も大学生なので、受け狙いの選曲をして、タマキ先輩と大輔君を大いに笑わせた。大学生の実力を初めて発揮できたような気がする。

 タマキ先輩が難しいラップの曲をパーフェクトに歌い上げたころ、ようやくアキラ先生が戻ってきた。両手に下げた大きめのなべに、たっぷりとモツ煮込みが入っている。

「なんだかみんな盛り上がってるわね。大輔君気をつけてよ。風邪がぶり返すよ」

 アキラ先生の言葉に頷きながら、大輔君がバーでウィスキーのソーダ割りを作っている。とても手馴れている。いつも大人に作ってあげているのだろうか。

 飲み物の準備が出来て、みんなで乾杯をする。近藤酒場もいいけれど、落ち着いた部屋で食べるモツ煮込みも、なかなか悪くない。それに、ソーダ割のウィスキーが恐ろしく高級な味がする。これ、かなり高い酒だと思われるが。

「ウチはおじいちゃんと、アキラ先生しか飲まないんですよ。両親は仕事が忙しくて、あんまり帰ってこないし。だから気にせず、守山さん、どんどん飲んでください」

 大輔君が笑顔で、高そうなウィスキーのボトルを傾ける。どんどん飲むわけにはいかないのだが……すごくおいしい。もう安いハイボールに帰れない。 

「アキラ先生、歌いませんか? アキラ先生の歌、聞いてみたいなあ」

 僕は言った。

「ダメよ。ダメダメ。わたし、カラオケ苦手だから。絶対ダメ」

 ダメダメ言われると、振られた時の事を思い出してしまう。

「アキラ先生の歌、久しぶりに聞きたいな。マイクなしで、是非オペラの曲をお願いします」

 大輔君が言った。

「……ダメよ。最近練習してないし……ごめんね」

 アキラ先生がすまなそうに言った。こりゃ無理だな。

「……アキラ先生!」

 タマキ先輩が妙に真剣な声で言った。

「ハイ」

 アキラ先生も釣られて真剣に答える。

「わたし、『わたしのお父さん』が聞きたい」

 タマキ先輩が口笛で練習していた曲だ。

「あの、ごめんね……」

「アキラ先生!」

 アキラ先生の声を掻き消すように、タマキ先輩が大きな声を出す。

「わたし、アキラ先生の歌が聞きたい!」

 タマキ先輩の目が据わっている。

「タマキちゃん、お酒飲んでる? 守山さん飲ませたの?」

 飲ませたのは大輔君です。

「聞きたい!」

 タマキ先輩が必死の形相でアキラ先生に迫っている。なんという迫力。

「わかったわかった。じゃあ、一曲だけね。タマキちゃん、もう飲んじゃダメだよ」

 困り果てたアキラ先生がついに折れた。タマキ先輩は満面の笑み。笑った顔も迫力がある。

 アキラ先生が「わたしのお父さん」を歌う。腹の底から、透き通った声を出すアキラ先生。透き通っているけれど、音の圧力で耳がビリビリする。これは、本当に防音設備が必要だ。マイク無しなのに、ものすごい声量。

 カラオケとかライブとか、上手い人の歌というのは、聞いていて気持ちがいい。アキラ先生はもちろん上手いのだけれど、普通の歌とはちょっと違う。気持ちがいいとか言っている場合じゃない。圧倒的な歌声が、聞いている人の魂を揺り動かす感じ。ミケンにしわを寄せて、切ない表情で歌うアキラ先生は、ぞっとするほど美しい。体全体を使って、大きな音の流れをコントロールしているように見える。視線をタマキ先輩と大輔君、そして僕に移動させながら、語りかけるように歌った。

 僕とタマキ先輩は、手が痛くなるほど拍手をした。ほんとにすごかったのだ。いつものおちゃらけた姿からは想像がつかない、アキラ先生の本気だった。

「久々にしては、よく出来た方かな。ほら大輔。拍手が足りないぞ」

 照れ隠しのようにしてアキラ先生が言った。大輔君は妙に真剣な顔をしている。

「アキラ先生……やっぱり歌ったほうがいいですよ。歌をやめないで。もったいないです。僕は大丈夫だから、また、歌の練習をしてください」

 顔を真っ赤にさせて、大輔君が言った。みんなが驚いて、場がシーンとなる。

「そうだね。考えておく。それより大輔君、また熱が出てきてない? ちょっと興奮させちゃったかな」

 アキラ先生が笑って言った。

「僕のせいで、アキラ先生……歌を……。ごめんなさい」

 大輔君の真っ赤なほっぺたに、涙がぽろっとこぼれた。 

「だからそれは違うんだって。大輔君のせいじゃないよ。わたしはやりたいことやってるし、毎日楽しいし。ね、今日も楽しかったじゃない」

 アキラ先生が慰めるように言った。

「アキラ先生、歌をやめないで……」

 大輔君が肩を震わせて泣いている。タマキ先輩も顔を真っ赤にしてもらい泣きしている。アキラ先生が大輔君の額に手を当てた。

「ほら、やっぱり熱が出てる。まいったな。もうベッドに行きましょう。だから歌うの嫌だって言ったのに〜」

 アキラ先生が明るく振舞うけれど、大輔君の涙は止まらない。アキラ先生が、ちょっと待っててね、と言って、大輔君の手を引いてカラオケルームを出て行った。僕は呆然として、カラオケルームの豪華な天井を見詰めてしまう。あの冷静な大輔君が、あそこまで熱くなるとは。

 タマキ先輩は座ったまま、体を横に倒して目をつむっている。

「タマキ先輩、大丈夫ですか」

 タマキ先輩が目をつむったまま、小さく頷く。

「気持ち悪かったら、吐いちゃったほうが楽ですよ」

 ちょっとおすすめしてみる。

 目をカッと見開いて、タマキ先輩が僕の顔をじろりと見た。しかしすぐに力尽きて、目をつむってハアハア言っている。

 ……びっくりした。下手なことは言う物ではない。

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