第五章 第三話「苦難を前にして」

「ふぅ……ふぅ……ふぅ……」


 額から頬へと汗が流れ落ち、首元を濡らしていく。

 時刻は午前十一時を過ぎてるので、気温もけっこう高くなってきた。

 山道はさっきまでの散歩コースのような整った道から、岩だらけの急な登りに変貌へんぼうしている。

 大きな岩が地面から突き出し、登る者を拒んでいるようにも思えた。


「これは……弥山の九合目と同じぐらい……かなぁ?」


「ああ。確かに……これはなかなかハードなコースだな」


 私が遥か頭上を見上げると、剱さんも真剣な表情で山道を見る。

 場所によってはよじ登らないといけないような段差もあるし、すでに二時間は歩いてるので疲労は確実にたまっていて、ザックが重く感じられる。

 この一カ月間、私なりに頑張ってトレーニングしてたけど、まだまだ足りないようだ。


 見上げるとライバルの松江国引チームの後ろ姿が見える。

 リズムよく登っていく姿を見ると、私との差を感じずにはいられない。


「ましろさん。歩幅は……小さく」


 前を歩く千景さんが、振り向いて声をかけてくれた。


「ボクの歩く場所……よく見てて」


「は……はいっ」


 そうだ。

 千景さんの歩き方や足を置く場所を真似すると、疲れが全く違うことを思い出す。


 太ももを無理に上げるのではなく、小さな歩幅で着実に足を前に出す。

 急な坂道では、靴底のグリップを生かすために、なるべく足の裏全体で地面を踏みしめる。

 そうやって登っていると、たしかにあまり疲れない。

 千景さんはすごいな、と思った。



「八重垣のみなさ~ん」


 突然、上のほうから声が聞こえた。

 見上げると、つくしさんが私たちを振り返っている。


「そのあたり、石が浮いてるので気を付けてくださ~い」


 そのアドバイスを聞いた千景さんが近くの岩を軽く踏むと、グラグラと揺れた。

 つくしさん、やっぱり親切だ……。

 まさかのライバルからのアドバイスにうれしくなる。


 私が感謝を噛みしめていると、「あ……」と可愛い声が聞こえた。

 声の主は千景さんだ。

 千景さんはつくしさんを見上げている。


「あり……ありが……」


 絞り出すように声を出してるけど、とても小さい。

 きっとお礼を言いたいけど、声を張り上げるのが恥ずかしいのだろう。

 私は千景さんの想いに自分の感謝を重ねつつ、大きく声を張り上げた。


「つくしさ~ん。教えてくれて、ありがとうございます~!」


 大きく手を振ると、つくしさんはニコリと笑って、会釈してくれる。


「……なんか、ライバルなのに助け合えるのって、いいですね」


「うん。……山では……助け合いが、大切」


 千景さんもコクリとうなづいて笑ってくれる。

 この笑顔をみて、私も嬉しくなった。



 すると、剱さんがなにかを思い出したようにつぶやく。


「声かけって言やぁ、落石を見つけた時に『ラク』って言うのもマナーなんだ」


「ラク?」


「ああ。『落石らくせき』の『ラク』。

 下にいる奴に教えないと、危ないだろ?」


「確かに……。山って思いやりにあふれてるんだね……」


 なんか、登山大会って気分いいかもしれない。

 競争なのに緊迫してなくて、うれしくなってくる。


 その時、背後から風が吹き上げてきた。

 汗ばんだ体が清められるようで、心地いい。

 後ろを振り返ると、林の切れ間からふもとのほうが一望できた。

 信じられないぐらいに高い。


「わぁ……すっごい景色!」


「……お山の景色……。何よりもごちそう」


「そっすね! こういう景色が味わえるから、疲れも吹き飛ぶんすよね」


 ふもとの建物がすごく小さく見えるのは、自分の脚で登ってきたことの証でもある。

 一歩一歩の積み重ねが、自分をここまで導いてくれたのだと思った。

 山に興味がないなんて思ってたのに、心を動かされているのが不思議になる。



「ほたか先輩もどうですか?」


 先輩ならきっと素敵な言葉をくれるに違いない。

 そう思って振り返ると、ずいぶん下のほうで立ち止まるほたか先輩の姿があった。



 トレーニングではいつも余裕のある先輩が息を切らしている。

 顔色が悪いし、地面に手をつくまいと、必死に膝をつかんでいるように見えた。


「ほたか……。まさか、バテて……?」


 そうつぶやいた千景さんの顔からは、血の気が引いている。

 バテると言えば最初は私だろうと思い込んでいたので、あまりにも意外だった。


 今の私はまだ余力が残ってるし、まさかほたか先輩が疲れるなんて思いもせず、完全にノーマークだった。

 それは千景さんも同じだったようで、手で口を覆ってうろたえている。


 しかも、ただバテてるだけではない。

 ほたか先輩は愕然がくぜんとした表情で私たちの横を見ていた。


 その視線をたどると、道の脇の樹に白い三角の筒のようなものがくくりつけてある。

 これはトイレを我慢してた時に見たのと同じ。

 なにかの目印のようで、『B』と書いてあった。


「これって……なんでしょう?」


「これは……審査用の、チェックポイントの、印」


 千景さんが説明してくれる。


「白地図の上で、地形から判断して……正確にポイントの位置を、示す」


「うん……。読図どくず……って言ってね。お姉さんが……担当……なの」


 ほたか先輩が、私たちを見上げながら声を絞り出すように言っている。


「みんな……ごめん。一つ目のチェックポイント、見落としてたみたい……」


 ほたか先輩の深刻な表情から察するに、見落としは重大なことなのかもしれない。

 でも、千景さんは首を振った。


「そんなこと、たいしたことない。……それより、ほたか……。ほたかが……」


 千景さんはおろおろしている。

 無理もない。

 私もどうすればいいのか分からない……。

 剱さんもそれは同じようで、前後を心配そうに見つめていた。


 そうこうしている間に、前を歩く松江国引チームの背中はみるみる離れていく。

 チーム同士の間が離れすぎれば減点。明らかに五メートル以上の差がついていた。


「千景ちゃん……進んでっ!」


 ほたか先輩は絞り出すように言う。


「でも……」


「お姉さんは……大丈夫だから……」


 そう言って数歩進んだが、すぐに立ち止まってしまった。

 ほたか先輩は上半身すべてを使って息をしていて、ぜんぜん大丈夫に見えない……。


「きゅ……休憩を……」


 私は言いかけて、口をつぐんだ。

 ここで休憩すれば、さらに前との距離が離れるだけ。

 さらに行動不能でリタイアとなれば、今日の体力審査は零点になるわけだ。

 ほたか先輩が進もうとしているのも、なんとか頑張ろうとしてるからに違いなかった。


「千景ちゃん……。進んで……」


 再びほたか先輩の指示が飛んでくるが、千景さんは動かない。



 その時、千景さんの目から涙がこぼれた。

 唇を震わせ、小さな声で何かをつぶやいている。


「ヒカリなら……ヒカリなら、何か、できるのに……」


 私はすぐ隣にいたので、かろうじて言葉を聞き取ることができた。

 ウェストポーチに突っ込んだ千景さんの指には銀色の繊維がつかまれている。


 ……もしかして、ヒカリさんのウィッグ?

 山にまで持ってきてるということは、ヒカリさんの力を使おうとしているのだろう。

 ヒカリさんの知識と行動力があれば、この危機を脱することもできるかもしれない。



 しかし千景さんは顔を真っ赤に染めながら、ついにウィッグが出てくることはなかった。


「ボクは……ボクは……」


 千景さんは目からこぼれる涙を見ていると、私は胸が締め付けられてしまった。


「千景さん、いいんです。……無理しないで!」


 こんな辛そうな千景さんやほたか先輩を黙って見ているなんて、できない。

 私は自分に何ができるか分からないまま、坂道を下っていった。

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