23

「キミっ、キミというやつは……っ、本当に……っ!」


「すすすす、すみませんすみません! つい!」


「あーもう!」


「わぷっ!?」


 人外の膂力で以て私に大波をかけ、彼女……もとい彼は同じく有り得ない速度でお風呂場を出ていったらしい。ピシャン! と鋭い音が拒絶を示す。


 豪快に押し流されながら「あー見た目を取り繕っただけだからあんなに細いのに力持ちなのかー」なんてどうでもいいことを考えた。



「けほっ……いや、だって、そんな、分からないですって 」


 誰に聞かせるでもなく弁明する。

 波が収まるまでの間たっぷりと惚けてみたが、やっぱり信じられない。しかし事実は事実。父との記憶がない私には記憶の欠けなどなくとも見覚えがないが、アレの存在くらいは知っている。


 あんなに綺麗な人が、男。半分近くが虚構とはいえ、顔や胴は自前だというのだから、世の不平等さを嘆かずにはいられない。


「うう、この記憶こそ消えて欲しいですよう」


 水風呂が無いことを恨みたい。お湯ではどんなに顔を沈めても、火照りを冷ましてはくれないのだ。


「はあ」


 悩んでいても仕方がない。のぼせる前に出ることにする。何でもいいから行動しなくては、気まずくてこの先どんな顔で会えばいいのか分からない。




 お手伝いさんに聞いたところ、鴟蛇さんは私室にいるらしい。あの怪しい臙脂色の襖の部屋だ。


「鴟蛇さーん?」


 返事はない。しかしここで逃げ帰る訳にもいくまい。


「お邪魔します」


 おずおずと入ると黄金の瞳に射抜かれた。例の巨獅子だ。反射的にビクついてしまうが霊異だと分かれば落ち着ける。そう思える自分の変化を嬉しく思うが、ヘラヘラしている場合ではない。


 鴟蛇さんは獅子の首に抱きつくようにして鬣に埋まっていた。ピクリとも動かず、断固として私を見ようとしない。


「あのう」


「何も言うな」


 取り付く島もない。さもあらん。

 何も言うなと言われたので黙る。数分ほどしてからもぞもぞと動き出した彼に謝罪しようとしたが、機先を制された。


 鴟蛇さんは顔半分だけで私を睨んでこう言う。


「痴女」


「はっ……はぁああ!?」


 あんまりな言い分に流石にカチンときた。こうまで怒ったのはいつぶりだったか。気分は蒸気機関車である。


「私だけが悪いみたいな言い方やめてくれますぅ!? そもそも最初に入っていたの私だったんですけど!」


「人の家の風呂に入っておいてなんだその言い草は! 一緒に入ろうと言ったのはそっちだろ!? 大体キミはデリカシーってもんがないんだ、見るなと言ったら見るんじゃない!」


「被害者ヅラばっかりして! 私だってしっかり見られてるじゃないですか!」


「だから極力見ないようにしていたじゃないか! キミがさっさと上がっておけば良かったのに!」


「長風呂なんですう! というか良かったって何がですか! ずっと女の子だと思われてたかったって事ですか!? それで私に何する気だったんですか、このすけべ!」


「キミの身体になんか興味あるか! このまな板女!」


「い、言ってはならないことを……! 女装癖の変態のクセに!」


「女の格好して何が悪い!!」


「確かに!」


 ごめんなさい!

 私の懇親の謝罪が鴟蛇さんに叩きつけられる。瞬間、これまで間髪入れずに言葉を返してきていた彼が酷く困惑した顔で固まった。何が起こったのか理解出来ないとでも言いたげだ。

 なんだか自分でも何を言っているのか分からなくなってきて、興奮しながらも首を傾げる。


 数瞬そのまま睨み合っていた私達だったが、それも鴟蛇さんが仰向けに倒れ込んだことで終わりを迎えた。分厚い獅子の身体が彼を受け止める。


 吐息混じりの声は酷く疲れて聞こえた。


「なんでいきなり謝るかな……バカみたいじゃないか」


「あ、そうですね。喧嘩中に謝ったらおかしいですね……?」


 なにぶん喧嘩なんて久しぶりなもので。

 首をひねり続ける私をちらりと見てから、彼はまた鬣の中に顔を埋めた。


「思慮も品も足りない奴」


「私のどこが下品だって言うんですか!」


「何が式神だよ」


「その節は本当に……」


「どうせ放っておいたら『ブラブラして邪魔だからそれもブラジャーですか?』とか言い出すんでしょ」


「どの口が私に品を説きますかー!!」


 両手を振り上げるも暖簾に腕押し。もう彼はまともに取り合う気がないようだった。

 鬣に顔を埋めたままのろのろと腕を上げて何かを手招く。その先を見ると、何やらビニール袋を咥えた黒猫がいた。あれは、薬局のロゴマークだったろうか。


「それ、あげる」


 猫ちゃんはトタトタと歩いてきてビニール袋を私の目の前に置いた。中は薬とスポーツドリンクだ。


「なんですか? バカにつける薬が遂に完成したので?」


「開発中だったみたいに言うな」


 いや、何しろ私はこの通り健康体なもので。


「良いから持っていきなよ。絶対役に立つから」


「はあ。じゃあまあ貰っていきますね? 」


 絶対とまで言うなら。特に荷物になる訳でもなし、遠慮以外に断る理由もない。

 「話は終わり」とでも言うように、以降彼はなんのアクションも起こさなかった。考えてみれば依頼が終わった段階で別れるのが普通なのだから、この辺りが頃合だろうか。


「では、鴟蛇さん。私、そろそろ帰ります」


 立ち上がって踵を返す。私としては返事を期待していたのだが、鬣から顔を出す気配はない。


「仕方ないですね」


 ひとりごちる。


 お手伝いさんにも一言挨拶していこう。さっきまでは台所にいたが、今もいるだろうか。夕食の支度をしていたようだし、済んでいたら鴟蛇さんを呼びに来そうなもの。まあ、いなければいないで探せば……いや、余り不躾に人の家を歩き回るべきではないか。いなければ大人しく帰ろう。


 あれこれと考えながら、相も変わらず不気味な色の襖を開く。


「まって」


 一歩踏み出そうとした私の裾を、細いのに力強い指が掴んだ。


「おっとと……鴟蛇さん?」


 振り返ると、彼は俯いていた。神妙な様子に緊張しつつ言葉を待ったが、彼は時が止まったかのように動かない。


 耐えきれずに顔を覗き込もうとすると、パッと顔を上げられた。表情は晴れやかだ。


「気を付けてね」


「え? ええ、はい」


 にこやかに手を振る鴟蛇さんにそれ以上何か言うことも出来ず、結局私はそのまま屋敷を辞した。


 手を振る彼の足元には、黒い犬が侍っていた。

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