06

 アオイはコウの事が割と好きである。

 彼は教養が豊富なのもあって話していて楽しいし、小さな事でも心配りをしてくれるタイプなので兎に角不快感がない。顔だって見ていて『良い』と思えるし、素行も良好。好きにならない方がおかしいだろう。

 姉であるアカネは悪態やら棘のある言葉やらを向けてばかりだが、アレは単純にコウの恋愛観が気に入らないだけ。毛嫌いしている訳ではないし、むしろ友人としては好んでいるだろう。とはいえ、マイナス要素がある分、アオイの方が好感度が高いのは確かだ。

 では、アオイはコウに恋愛感情を抱いているのか?

 そう問われたなら、答えは否である。何しろアオイはアカネと違い、恋愛感情というものがよく分からないのだから。いや、或いはアカネも単に憧れを述べているだけで、本当の恋など分かっていないかも知れない。何しろ「ごはんを毎日食べさせてくれる」が結婚理由一位になるご時世だ。普通の恋愛というのは、心に余裕があるから出来るものなのだ。

 そういう訳でアオイ的には、コウと是非とも結婚したいと思っている訳ではない。むしろ今この瞬間に結婚を申し込まれたら、間違いなく断る。昨日の姉にはジョークで受けると答えたが、アオイはまだまだアカネと一緒に暮らしたいのだ。アカネ>コウの好感度不等号が成り立つ限り、コウに気持ちが靡く事はありえない。

 つまり。

 コウの第一妻であるミス・パープルが自分を喫茶店に呼び出す理由など、アオイにはとんと思い付かなかった。


「ごめんなさいね、お仕事で忙しい中来てもらって」


「あ、いえ、だ、大丈夫です。その、ひ、ひ、人と会う仕事は、主に姉がしてくれてますので、み、港に着いてからは、私は暇ですし……」


 ミス・パープルの謝罪に、アオイは慌てて問題ない事を伝えようとする。ただしどもりまくりで、顔も引き攣っていたが。

 アオイは基本的に人見知り気質だ。

 双子の姉であるアカネは初対面の人とも適度な会話が出来、打ち解けられるが、アオイにはそれが全く出来ない。今日も仕事 ― ニホンレットウから運んできた荷物をインドネシアショトウへと届ける事 ― で取引相手と対面するのは、姉であるアカネがやってくれている。

 一応ある程度親しい相手ならば普通に話せるが、そうでないとガチガチに緊張してしまう。コウとは交流があるため普通に話せるのだが、今日自分を呼び出したミス・パープルと面と向かって、おまけに二人きりで話をするのはこれが初めて。アオイの頭は緊張で真っ白になっていた。

 対するミス・パープルは、アオイの挙動不審ぶりを見ても嫋やかさを崩さない。浮かべている微笑みは母親を彷彿とさせる柔らかさがあり、腰まで伸びた紫の髪 ―色合いからして染めたものだろう。それだけで彼女の生活の豊かさが窺い知れる ― はふわふわと膨らんでいて、顔を埋めたらどれほど気持ち良いのかとちょっぴり危ない感情が心に芽生える。コウの第一夫人……正妻らしく出で立ちは可愛らしい姫君のようなドレス姿だが、コウのような気障ったらしさや、或いは痛々しさもない。自分達より一回り年上との話だが、どう見ても同年代に見える愛くるしい顔立ちの所為だろうか。


「注文はお決まりですか?」


 桁違いの存在感にアオイがわたわたしていると、店員が声を掛けてくる。アオイが我に返った時、ミス・パープルはメニューを開いて既に飲み物を頼んでいた。アオイも慌ててメニューを開き、一番安いものを頼む。

 注文を受けた店員はそそくさと立ち去り、再びアオイはミス・パープルの二人きりに。一瞬弛んだ緊張が段々と戻ってきて、またそわそわしてしまう。


「取って食べたりしませんから、そんなに緊張しないで大丈夫ですよ」


 そうしているとミス・パープルに優しく声を掛けられてしまい、アオイは赤くした顔を俯かせる事になった。

 ただ、先程の一言が上品な貴族のような見た目をしているミス・パープルの『小粋なギャグ』だと気付くと、一瞬ポカンとしてから、アオイは笑いが腹から込み上がるのを感じた。

 未だ緊張はしているが、先程よりは幾分マシになった。

 これなら多少はお話も出来そうだと、アオイはミス・パープルと顔を向き合わせる。ようやく目を見てくれた事を喜ぶように、ミス・パープルは優しい微笑みを浮かべた。

 やがて店員が注文した飲み物を持ってくる。鼻を近付ければ、薄らとだが『アルコール』の臭いが感じられた。

 店員が持ってきた飲み物はお酒だった。しかしこれは嗜好品の類ではない。

 海生物の影響や戦争により荒廃した地上では、水が豊富だとされていた『ニホンレットウ』ですら真水が殆ど入手出来ない状態にある。上下水道のインフラが機能していない事もあり、手に入るのは不衛生で、味も悪い泥水ばかり。これをそのまま飲むのは味覚的にも難しいし、下手をすれば下痢などの感染症により死に至る。

 こうした水の浄化に、お酒のアルコールが活躍する。アルコールには殺菌作用があるため、発酵させる事で雑菌が死滅。細菌塗れの泥水でも飲めるようになるのだ。味も泥水よりはマシ。実際中世ヨーロッパのように真水が貴重な場所では、アルコール飲料が生きるために欠かせなかった。全盛期の人類にとって酒は嗜好品だが、大昔や現代では必需品なのである。

 アルコール発酵には糖が必要であり、三百年前の人類は果実や穀物を用いていた。現代では果実も穀物も殆ど手に入らないが、代用品ならたくさん手に入る。それは海生物の血液。大抵の海生物の血液には大量の糖が存在しているのだ。電磁フィールドを展開している細菌が脂質を分解して合成しているとの説が有力だが、詳しい事は兎も角、糖があればアルコール発酵が行える。

 かくして海生物の血液を投じて大量の水を発酵させたのが、現代の主流な飲料水だった。一般市民ではこれが普通の飲み物で、赤ん坊にも(汚水を飲ませるよりはマシなので)飲まされている。貧乏漁師であるアオイも飲料の主体はこの海生物酒。口に含んだ瞬間広がる慣れ親しんだ味に安堵を覚えた……正直美味しいものではないのが。ミス・パープルも同じ気持ちなのか、ちょっとだけ眉を顰めながら、ホッと息を吐いていた。

 ミス・パープルは一口付けたコップをテーブルに置き、一呼吸置く。


「訊きたいのは、あなたの姉であるアカネさんがどうしてコウを嫌うのか、なの」


 それからついに、本題を切り出した。

 尤もアオイには何故そのような問い掛けをされるのか分からず、こてんと首を傾げてしまうのだが。


「……お姉ちゃん、コウさんの事嫌ってはいませんよ?」


「あら、そうなの? 結婚の誘いを何度も断っているから、てっきり」


「うちのお姉ちゃん、今時珍しい恋愛結婚主義なんですよ。だから愛がない結婚はしないんだーって」


「成程ね。それじゃあコウと結婚は出来ないわね」


 アオイが説明すると、ミス・パープルは納得したようにこくこくと頷く。妻であっても彼の軽薄さはよく知っているのかと、ちょっと吹き出しそうになった。


「あの人、愛しているのは私だけだから」


 ただしミス・パープルが続けた言葉で、その笑いも引っ込んでしまったが。


「……え?」


「これでも第一夫人、つまり最初の妻よ? 心から愛する人は、私が最初で最後。プロポーズの時、そう言ってくれたんだから」


「は、はぁ……え、恋愛結婚しているのなら、どうしてコウさんは色んな人を妻にしているのですか?」


 ミス・パープルの話に、思わずアオイは訊き返す。愛がなくても結婚は出来ると考えるアオイであるが、恋愛結婚をするような男性が周りに他の女を侍らせるというのは流石に矛盾していると思う。ましてや恋愛結婚をしたというミス・パープルが、他の女が次々に夫人となる中で、夫は自分だけを愛してくれているとどうして信じられるのかさっぱり分からない。

 そんなアオイの気持ちを読んだのだろうか。ミス・パープルはくすくすと、イタズラが成功した子供のように楽しげに笑う。


「あの人、面倒見が良いから。苦労している女の人を見過ごせないのよ。男は自分でなんとかしろって言うけど。きっと、地球で最後のフェミニストね」


「はぁ……つまり、可哀想な女の人を自分の保護下に入れてるって事ですか? それはまぁ、優しい事だとは思いますけど、ならなんでお姉ちゃんに求婚するのですか?」


 確かに、アオイ達姉妹の生活は決して裕福ではない。漁師という仕事の危険性を思えば、何時までも続けられるものではないだろう。

 しかし漁師という仕事柄食べ物には困っていないし、何時死ぬかも分からない生活なんてのはこのご時世珍しくもない。アオイには自分達が特段不幸だとは思えず、コウが姉を『保護』したい理由が分からなかった。


「ああ、ごめんなさい。勘違いさせちゃったわね……コウは可哀想な女性じゃなくて、何かを背負っているような、ほっといたら潰れそうな女の子を保護している、というべきね」


 尤もミス・パープルが説明を訂正した途端、一気に合点が行ったが。

 そしてその気持ちはアオイの顔に現れていたらしい。


「心当たりがある、って顔ね」


「……これでも妹ですので」


「話せる内容?」


「私から聞いたってお姉ちゃんに言わないなら」


「だったら是非教えてほしいわ」


 ミス・パープルの予想通りな答えに、アオイは少し眉を顰める。小さな深呼吸をして、気持ちを落ち着かせて……ゆっくりと口を開く。


「うち、五年前に両親が死にまして」


 その口から、自分達の境遇を語った。


「……そうなの」


「まぁ、別に珍しい話でもないですけどね。今って平均寿命五十代未満らしいですから、孤児なんてそりゃ幾らでもいますし」


「原因を聞いても大丈夫?」


「むしろ今からそれを話そうと思っていまして」


 アオイは一度話を区切り、お酒を一杯口に含む。唾液で粘ついていた口内が、水気でスッキリした。


「うちの両親は、まぁ、漁師でして。私達が今使っている船も、両親から譲り受けたものです」


「そう……大事な遺品なのね」


「割と酷使しているから申し訳ないとも思いますけどね。昨日もスクリュー壊しちゃったし……そろそろ交換時だったから、結果的に丁度良かったとは思いますけど」


 少し話題が逸れましたか。そう言って、アオイは話を元に戻す。


「ともあれ、昔は両親と一緒に私達も漁に出まして。贔屓目だとは思いますけど、腕の良い漁師だったと思います。少なくとも今の私達よりはずっと上手かった。危険な海生物も次々獲って、村のみんなに食事と水を届けて、幼い頃の私にとっては正にヒーローでした」


「それはお姉さんにとっても?」


「勿論。むしろお姉ちゃんの方がパパとママが大好きな感じ……あ」


 『昔』の両親の呼び方を出してしまい、慌ててアオイは口を閉じる。ちらりと見たミス・パープルは今までと変わらない笑顔で、なのにやたらと微笑ましそうに見えるのは何故か。自然と顔が熱くなってきて、アオイは誤魔化すようにお茶を飲む。


「……お、お父さんとお母さんの事、お姉ちゃん大好きでしたから」


 それからしっかりと言い直してから、話を続けた。


「だからお父さんとお母さんが、海生物との戦いで死んだ時、お姉ちゃん凄くショックを受けてて。私は、まぁ、所謂『今風』の性格なんで、悲しくはありましたけどすぐに立ち直れました。でもお姉ちゃんは……」


「……あの、少し脇道に逸れるような、というより重箱の隅を突くような質問をしても良いかしら?」


「あ、はい。大丈夫です。どうぞ」


「さっき海生物との戦いでって言ったけど、漁で、じゃないの?」


 ミス・パープルからの質問に、アオイは自分が無意識に言っていた言葉に今更ながら気付く。

 隠すような事ではない。話の内容が、予定よりも少し深くなるだけで。


「……奴を倒せたなら、村まで持っていったという意味では、漁です。でも、アイツは、そんな事を考えられる相手じゃなかった」


 目を瞑り、意識を過去へと向ければ、何時だって思い出せる。

 五年前のあの日。新調した船に両親が乗り、自分達姉妹はお古である『わだつみ』に乗って、何度目かの漁に出ていた。目的の海生物は『サンマ』。海生物の中では数が多く、小型で、戦闘能力も低い、けれども『わだつみ』にとっては苦手な相手……つまりは未熟な自分達の練習相手にピッタリな海生物だった。そのまま『サンマ』に出会えていれば、失敗したにしろ成功したにしろ、両親はまだしばらく生きていてくれただろう。

 だが、突如訪れた嵐と共にやってきたのは、『サンマ』ではなかった。

 具体的な姿は見ていない。けれども嵐の中で煌々と光り輝く電磁フィールドの強さはそれまでに、否、今までに見てきたどんな海生物よりも強大だった。速力も『わだつみ』どころか両親の乗っていた当時最新鋭の船さえも凌駕していた。

 今でも、あの海生物がなんなのかは分からない。未だ頭の中に残る、あの鳴き声……まるで金属を引き裂くような、地獄から吹き鳴らされたラッパのような、おぞましい……だけが唯一の手掛かりだ。

 あの海生物の実力がどんなものだったかは分からない。しかし嵐の中でも見える輝きの強さから、当時の『わだつみ』の武装では ― 目的にしていた『サンマ』が小型種という事もあり ― その海生物の電磁フィールドを破れそうにはなかった。逃げようにも振り切る事は出来ない。

 だから、誰かが海生物の気を引く囮になる必要があった。


「その囮を両親がやった。私達はその間に逃げ出して丘まで戻り、両親は何時までも帰ってこなかった……漁師の家族としては、珍しくない話ですね」


 長々とした昔話を終え、お酒を一口。アオイは一息吐いた。

 実際、アオイ達のような境遇は珍しいものではない。

 海生物との戦いは、何時だって命懸けなのだ。漁師の最期というのは大概にして海生物との闘争に敗北する事であり、それは漁師やその家族の若さなど関係なく訪れる。漁師は結婚相手に恵まれる反面、孤児となる漁師の子も少なくはない。むしろ未熟とはいえ漁に参加出来るまで一緒に暮らせた自分達姉妹は比較的幸福な方だと、アオイ自身は思っている。

 こんなのは、今の時勢を生きる人々にとっては有り触れた話。当事者からすれば語る事すら小っ恥ずかしい。

 されど聞かされた側としては、少なからず神妙な気持ちになってしまうらしい。


「……ごめんなさい。辛い事、思い出させちゃって」


「あ、いえ。私は平気なんです。さっきも言いましたけど、私は割と今風の考えなんで。ただお姉ちゃんは、多分まだ割り切れていなくて……一夫一妻って家族の形に拘るのも、うちの両親が恋愛結婚だったからだと思うし」


 それに……

 喉元まで来ていた言葉を、アオイは飲み込む。これをミス・パープルに言う必要はない。あくまで妹の目から見た憶測であり、何より『家庭の問題』なのだから。


「事情は分かったわ。そういう事なら、コウの求婚を受けないのも納得ね。いえ、むしろコウの求婚で、不快な想いをしているんじゃ……」


「あ、いえ。そこまで気を使わなくても大丈夫です。割り切れてないって言いましたけど、所謂トラウマとかじゃないですし、お姉ちゃんだって自分の考えが古い事は自覚してますから。それにいきなり求婚が止んだら、それはそれで勘繰られそうで」


 心から同情したような顔を見せるミス・パープルに、アオイは慌ててフォローを入れる。ミス・パープルはアオイの言葉が気遣いの類でない事を察してくれたのか、こくりと頷いた。

 本当に気にしていない身としては、気遣いそのものが煩わしい。なんだかどっと疲れが出てきて、アオイはコップの中身を一気に飲み干す。空っぽになったコップを見たミス・パープルは、立てかけていたメニューを手に取った。


「どうする? おかわりを注文しましょうか?」


 ミス・パープルの言葉に、アオイは少し、ほんの少しだけ考え込んだ。ほんの少し考えれば、答えはすぐに出せた。

 親切にしてくれたのは嬉しい。が、やっぱり人付き合いは苦手だ。苦手な事はしたくない。

 アオイはにっこりと、出来るだけ頑張って朗らかな笑みを作る。


「すみません。そろそろ姉の仕事も終わりそうなので、ここで失礼します」


 なるだけ丁寧に、ミス・パープルに話を打ち切りたい旨を伝えるのだった。 

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