第二章

第一話 歪み

 自分ってなんだ。


 この身体のことだろうか。それとも、心だろうか。


 心ってなんだ。脳? 心臓? それとも、それ以外の別の物?


 魂ってなんだ、存在ってなんだ。生きるってなんだ。


 あたしがあたしをあたしと呼んだときに返事をするのはいったいどこなのだろう。


 あたしがあたしを失ったときに冷たくなっていくものはなんなのだろう。


 考えたって分からない。


「あ・・・・・・」


 玄関先で、ちょうど目的の人物をみかけた。花に水をあげているところだった。慈しみすら感じる表情は、きっと太陽よりも花を美しく咲かせるのだろう。


 あちらも気付いたらしく、小さな頭でお辞儀をすると揃った前髪が幕のように光を閉ざした。


蜜葉みつはちゃん」


 あたしの声に顔をあげて、彼女は笑う。その綻び具合に、血の繋がりを見た。けどそれが苦しくてすぐに目を逸らす。


「いい天気でよかったです」

「・・・・・・そうだね」


 雲一つない快晴は、良くも悪くも自分勝手だ。


 眩しさに背中を押される人もいれば、瞳を焦がされ立ち止まってしまう人もいる。その無神経な光に憎しみさえ抱く者もいるかもしれない。あたしは、どうなのだろう。


 強いて言えば、羨ましい、のかもしれない。


「お姉ちゃんのことですか?」


 あたしが何も言わずとも、蜜葉ちゃんは察してくれたようだった。気配りの良さか、それともあたしの極端な顔色か。自分の顔を、窓ガラスに見てみると、ひどく歪んでいた。


「また、忘れちゃったみたいです。ごめんなさい」

「そんな、蜜葉ちゃんが謝ることなんて・・・・・・ないよ」

「けど」


 善悪を問われたら、きっと悪なんてどこにもない。周りはずべて善人ばかりで、それでも事態は悪化するばかりだ。その原因となるのはあたしなのだから、謝るべきなのはきっとあたしだ。


「タマちゃんは、元気?」

「はい。今日もかおる先輩と一緒に映画に見に行っているようで、朝からそれはもううるさいくらいでした」

「それは、うん。さっき見かけたよ」

「・・・・・・・・・・・・あ」

「やっぱり、あたしがダメなんだね」

「そんなことないです。きっと、それくらい好きなんだと思います」


 好き。


 その単語が、胸を貫く。


 人の脳は、様々な感情に呼応して脳波を変える。それはまるで、ぐにゃぐにゃに曲げた針金のようになだらかであったり、激しく波打ったりするものだ。


 一度曲がった針金は二度と真っ直ぐにならない。どんな圧力をかけようと、大きなプレス機で潰したとしても、僅かな歪みが邪魔をする。


 ただ、例外はある。


 たとえばそう。切り落とす、とか。それならきっと上手くいく。


 捻れた部分を切り落とし、また繋げれば、ほら元通り。真っ直ぐだ。


  歪んだ箇所などひとつもない。脳波は再び沈黙を取り戻し、新たに活動をはじめる。


 問題なのは、その脳がいったい何を『歪み』と判断するかだ。


 喜び、悲しみ、それらは少し大雑把すぎる。もっと心を震わすように動かすもの。


「好きなんですよ。本当に」

「・・・・・・・・・・・・」


 好きという感情が、彼女の記憶を蝕んでいく。


 発覚したのは中学の頃だった。公園でずっと待っていたのに、タマちゃんはいつまでも現れることはなく、あたしが直接家に出向いた時。あたしを見つめる大きな瞳は、大きな虚像を抱えていた。


 ――誰?


 膝から崩れ落ちそうになる言葉だった。小学校の頃から仲が良くて、毎日のように遊んで、お泊まりもした。手を繋いで、一緒に寝て、お風呂だって入って。一緒に過ごした思い出があたしだけのものになった瞬間、世界がまるごとひっくり返ったように足下がおぼつかない。


 けど、あたしとタマちゃんはまたすぐに仲良くなった。仲良くなって、また崩れた。


 近くにいればいるほど、忘れる頻度は高くなっていった。


 けれど、忘れるのはあたしに対しての記憶だけで、他のことだけは覚えているようだった。まるで、切り落としたかのように。


「病院の先生も、記憶喪失は個人によって傾向が変わるから明確な対処はできないって言ってました」


 もう聞き飽きた説明だった。医者は神様じゃないのだ。それは分かっているけど、縋るしかないあたし達にとってはひどく力の抜ける言葉だ。


「生活に支障が出るようなら一度大きな病院に行って検査をしてもらったらどうだって言われたんですけど」

「生活に支障はないよね。あたしとさえいなければ」

「・・・・・・! そ、それは・・・・・・!」


 蜜葉ちゃんの言葉に勢いはなく、あたしに届く前に地面に落ちる。


「ごめんね蜜葉ちゃん。あたしがしっかりしないといけないのに」

「い、いえ」

「あたし、甘えちゃったんだよ。もうタマちゃんと仲良くしちゃいけない、知り合っちゃいけないって思ってたのに。タマちゃん、相変わらずあたしを見つけると犬みたいに抱きついてこようとするの。それを見ると、揺らいじゃうんだ」


 もっと強い意志を持って拒絶ができれば、こんなことにはならなかった。蜜葉ちゃんもこんな顔をしない。


「何度話しかけられても、冷たくあしらって、何度手を差し出されても、その手は掴まないって決めてたのに・・・・・・もしかしたら今度は大丈夫かもしれないって、思っちゃって・・・・・・結果、また蜜葉ちゃんに悲しい思いをさせた。ほんと、ダメだねあたし」

「それは違います! 本当に悲しいのは――」

「でも安心してよ。次こそは絶対、うまくやるから。もう知り合わない。もう仲良くしない。あたしとタマちゃんは、好きも嫌いも生まれない赤の他人。それで終わりにするから」


 それは最善手じゃない。最善手であってたまるか。思い出と、過ごした時間を無かったことにすることが最善手であるはずがない。死んだってごめんだ。


 けど、それしかない。妥協を重ねて、諦めて、そうするしかない。


 それにあたしは、もう死んだのだ。


 誰かにとっての自分って、きっと記憶なのだ。


 身体でも心でも、魂でも命でもなんでもない。誰かに忘れられた瞬間、人は死ぬ。


「もうこれで最後にするから、ごめんね蜜葉ちゃん。それから、ありがとう。ばいばい」


 蜜葉ちゃんにとってあたしは死神のようなものだろう。大切な姉の記憶を殺す厄災。そんなものが家へ訪れれば心中穏やかではないはずだ。


 あたしは、いてはいけない存在なのだ。


 最後に深く、頭を下げる。地面には蟻が行列を作って行進していた。心なく、本能と脊髄反射だけで生きられたらどれだけ楽だろうか。


 踏みにじられたとしても、なにも感じないのなら、いいなって思う。


 踵を返して、あたしはその場を去る。あたしがいればそれだけ、蜜葉ちゃんも辛いだろうから。


「――ひよりさんっ!」


 背中に投げかけられた声は重く、あたしの足を止めるのには充分だった。


 振り返ると、潤んだ瞳がこちらを見据えている。


「ひよりさんはまだ、お姉ちゃんのことを好きでいてくれていますか・・・・・・?」

「・・・・・・・・・・・・」


 一蹴した。


 なにを馬鹿げたことを。


 この期に及んでまだ言うか。


 これほどまでの惨状を見ていれば、分かるはずだ。


 あたしがあの子をどう思っているかなどと。


 消えた記憶と潰えていく未来のなか、何を抱いたかなど。


 分かるはずだ。


 そんなの。

 

「好きだよ、ずっと」


 焼けてしまうほどに強い日差しの下。


 叶うことのない願いが花を揺らす。


「・・・・・・ずっと」


 水滴が落ちて。


 あたしの足下も、微かに濡れていた。 

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