第6話 ミキの瞳に恋してる

 塾が休みの月曜日に何度か伯父に会いに行った。


 例の女性と父との関係を知りたいのもあるが、一番は『ミキ』に会いたかった。

 かといって彼女の家の前でじっとしているわけにもいかず、いつも出来るだけゆっくり通り過ぎたが、赤い車がいつもなかった。不在なのだろう。

 ぼんやり歩いているといつの間にか自分の家にいた。


(どうしちゃったんだろう…せっかく黄疸が治ってきたのに、今度は違う病気になっちゃったのかな)


 勉強に集中出来ないので、中学受験によく出題される宮下奈都の短編を開いた。ネットで見つけた『君の瞳に恋してる』という曲をリピートにして。


 本の中では新生活になじめない主人公の太一が、本屋で出会った女子から目が離せなくなっていた。ボクは太一の気持ちがわかり過ぎた。


 読み終わると両隣に兄とユンジュンがいた。

 兄はピアニスト志望の中学二年生。ユンジュンは伯父から譲り受けた壺に住んでいる美形中国人だ。


「ふーん、キミの瞳に恋してる、んだ」「やっぱりタカシってば最近おかしいと思った」


 圧が強い二人に矢継ぎ早に詰問され、ボクと本は床に転がった。


「ミ、ミキちゃんに恋だなんて…ちょっと気になってるだけで…いてて…」


 ボクが痛むお尻をさすりながら言い訳すると、2人は大笑いした。


「へぇ、ミキって名前なんだ」「隅に置けないな、さすがマナブの甥っ子」「だね」


 伯父のモテを兄が知っていたよりも、ミキの名前を知ってると思っていたのでびっくりした。


「な、名前…っ!」


 ボクが混乱していると、ユンジュンが、


「俺は『キミ』って言ったんだぜ?ミキなんて知らないさ」とニヤニヤして言った。


「さ、全部話せよ」と兄にすごまれ、ボクは重い身体をゆっくり起こした。



「謎の美少女か」「伯父さんちだと隣の青葉小学校だな。中学の学区は一緒だけど…タカシは私立だろ?」


 二人があまりに具体的に話を勧めるのでボクは頬を真っ赤にした。デブスなボクに好きな子なんていない。相手がボクの気持ちを知ったら、気持ち悪がられるからだ。


「う…っ、そ、そんなことは考えてなくて…ただ、とっても素敵な子だなって…」


 ボクが泣きそうになると二人は頭を同時にかいた。シンクロが面白くてボクが思わず笑うと、


「オレ達応援するから困ったら言うんだぞ?」と兄が宣言し、ユンジュンも真面目な顔で力強く頷いた。


 二人が面白がっているのが丸見えで、ボクは大きくため息をついた。




 それからも『ミキ』を見かけることはなかった。

 しかし11月に入り近所の街路樹のフウが真っ赤に紅葉すると、出会いは意外な場所で実現した。


「ただいまっ!父さんいるの?」


 月曜日は塾がないので伯父の家に寄って帰ってくることが多い。しかしその日は雨予報だったので帰ってきたら、家の駐車場に父のグレーの車があった。


 笑い声がするリビングに勢いよく入ると、父と母、そして綺麗な母娘が一斉にボクを見た。頬が一気に熱を持つ。


『なんでここに?』と言う言葉を飲み込んだボクは慌てて挨拶した。


「・・・こっ…こんにちは!」


「隆くんね。私は酒井由樹と言います。こちらは娘の美樹です」とその母親は美しい声で自己紹介し、丁寧に頭を下げたのでボクも慌てて下げた。


 母も周りの親と比べると綺麗な方だと思っていたが、近くで見ると段違いに美しかった。

 父の横には、皆から見えないのをいいことにユンジュンがニヤニヤしながらソファーの背もたれに座って長い足を持て余している。あまりにカッコいいので緊張が解けた。


「隆、この方は伯父さんとお父さんの親しい友人なの。夏にイギリスから引っ越してきてね、挨拶に来てくれたのよ。娘さん青葉小学校に通ってるんですって」と母が説明すると、


「俺はよく殴られたよ」と父が笑う。


 両親とも彼女を知っている様子に、ボクは心底ホッとして失礼なことを考えていた。


(やっぱり父と釣り合わないもんな…)


「嫌だ、さとる君ってば!あとで覚えてなさいよ!あのね、隆君、はお父さんがやんちゃだから懲らしめただけよ」


 どう見てもには見えないその綺麗な人は言った。親せきの人たちみたいに父を智君と呼んでいる。

 そして伯父と父との思い出を話してくれた。

 ボクは彼女の心地いい声で語られる昔話に耳を傾けながらも、母親の隣に座るミキを直視できなかった。


(君から目が離せない、なんて嘘だ!恥ずかしくて見ていられないじゃないか…ボクは息をするタイミングがわからなくて死んでしまう…)


 由樹の話が途切れると、ふいにジーンズとグレーのトレーナーのミキがボクの前に仁王立ちした。見上げると、彼女は威圧的に命令した。


「ねえ、ピアノ聴かせて。弾けるんでしょ?」


 挑戦的に言われてボクは思わず見返した。弾けないなんて絶対に言えないし言いたくない。ちょっとムッとしたボクが、


「誰の曲がいい?」と聞くと、ミキは「そうね、シューベルトがいいな」と人差し指を頬に当てて答えた。

 シューベルトは苦手だが引き下がれない。


 ボクはピアノの椅子に座り、シューベルトのピアノソナタの楽譜を広げた。が、ふと思いつきでSiaの『chandelier』を適当にアレンジしてクラシック風に弾いてみた。

 母が目を一瞬丸くしたが、父と由樹が気が付かずに話しているのを見、いたずらだと気が付いて薄く笑った。


「ふーん、素敵なアレンジのシューベルトね。その曲聴いたことあるけど、好きよ」


 聴き終わってミキはボクのピアノを褒めた。

 そして、ピアノのそばに来て「日本は久しぶりだからいろいろ教えて」と言って手を差し出した。

 急にドキドキしてきたボクは、やんわりと彼女の手を握ったが、ミキはニヤっとしてボクのぽよぽよの肉が巻いた手を痛いほど握った。


った!」


「ふふふ、そんな握手じゃあ嫌われてるって相手に思われちゃうわよ?タカシ君の手、とっても柔らかくてマシュマロみたい。ピアノも弾けるし魔法使いの手ね」


 両親も由樹も笑っていたが、ボクは彼女の凛とした声と美しさに芯からしびれていた。今どんな顔をしているのか自分でもわからなかった。




 ボクはまたいつか彼女に会えるのを楽しみにしながらベッドに入った。こんな素敵な日がボクなんかにくるなんて信じられなかった。

 帰宅した兄は噂のに会えなくて酷く残念がっていた。月曜日はピアノ講師のレッスンがある。

 しかしボクは兄がミキに会えなかったのでほっとしていた。だって兄はカッコいい。バレンタインデーには必ず片手以上のチョコを貰う。ピアノも上手いし優しいし、背も高いからモテるのだ。

 彼女の前で王子然とした兄とデブスな自分を見比べられたくなかった。




「こんにちは、タカシくん」


 また会えるように祈ったボクだが、すぐに願いが叶った。塾でジーンズと紺のトレーナーの彼女が立ち上がってボクに挨拶すると教室がどよめいた。


「えー、タカシ!知り合いかよ?」「タカシ君、私にも彼女を紹介して」


 綺麗すぎるミキを遠巻きにしていた塾生は、ボクが教室に入って彼女と知り合いとわかり周りに押し寄せた。


「え…えっと、彼女は酒井美樹さん。青葉小だよ。引っ越してきたんだ」と彼女の隣に立って紹介した。


 彼女はにこりとしてから、皆に挨拶した。その後もボクに塾の事をいろいろ質問したので、教室でのボクの評価が急上昇した。


 だって普通の彼女は近寄りがたいのに、ボクと話す時だけ祖母が畑で育てている真白な芍薬しゃくやくがほころぶときのようにふわりと笑うのだ。瞳は真っ黒の宝石のようで、ボクのおデブな身体が写っているにもかかわらず嫌悪感が感じられないのもボクを歓喜させた。

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