第15話 地図をもたない不安

「彩花、もう相談にはのれない」

 そう言うなり、桃子はカウンターに額をぶつける勢いで頭を下げた。近くの席の男がケータイを手に立ち上がったのをきっかけに顔をあげると、口を半開きにしたまま固まっている彩花の顔が目に入った。その口が「に」の形をしていた。「相談にのって」と言いかけた彩花を桃子は遮ったのだった。

「なんで?」

 彩花のきれいな眉がシンクロのようにそろってあがった。貴一が好きだからという本当の理由を、桃子は苦笑いでごまかした。

「やっぱり、自分で考えて判断した方がいいよ。人に決断してもらうなんてバカげてる」

「私、桃子にいろいろ判断してもらってよかったと思ってるよ」

 桃子のセリフを最後まで聞かず、彩花は首を横に振った。

「この間だって、桃子が早すぎるって言ってくれてよかったって思ってる。男って、体の関係ができると離れていくから」

 何もなかったのだろうとは想像ついていたが、はっきり彩花の口から聞くと胸のつかえがおりた。と同時に自責の念にもかられた。「早すぎる」といったのは、彩花を思ってではなく、貴一との関係を嫉妬してだったからだ。桃子の醜すぎる嫉妬のせいで苦しむことになった貴一を、桃子はその目で見てもいた。

「彩花、佐野先輩のこと、好き?」

「うん」

 満面の笑みで彩花はうなずいた。

「すごく大事にしてくれる。今までの男だったら、体の関係を断ったら逃げていったのに、佐野さんは違うもの。私には男を見る目がないから、桃子に佐野さんを勧めてもらってよかったと思ってる。ね、だから、これからもいろいろ相談にのって」

 無邪気な彩花の笑顔が胸に痛かった。相談にのりたくないのは、これ以上、貴一と彩花に関わっていると苦しいからという自分勝手な都合なのだから。

「ねえ、私がまだ早いって言わなかったら、先輩と寝てた?」

「うん」

 即答だった。

「でも、寝てたら、今頃続いていなかったかもしれない。男って、体の関係ができてしまうと、後はどうでもよくなるところがあるから」

「先輩はそういう男じゃない」

「うん、よくわかったもん。いい人だよね。でも、桃子が付き合いなって言ってくれなかったら、付き合ってない。やっぱり、桃子は男を見る目があるよね」

「先輩が彩花を好きだっていうんじゃなかったら、付き合えなんて言わなかったと思うよ」

 桃子の言葉の意味を知ろうと、彩花は長い睫を何度かしばたかせた。

「どういう意味?」

「そのまんまだよ。先輩が彩花に告白したんでなかったら――その逆で彩花が先輩を好きだっていうんだったら、やめろって言ってた」

「なんで?」

「わかんない? 私が先輩を好きだから」

 すっと胸が軽くなった。持ちきれなくなった荷物をかたっぱしからその場に投げ下ろすかのように、桃子はまくしたてた。

「彩花のことを考えてじゃない。先輩が好きだから、早すぎるって言ったの。嫉妬の気持ち。先輩の気持ちが私にないってわかってても、最後の一線だけは越えてほしくなかったから。フラれたけど、今もまだ好きなの。だから、相談にはのってあげられない。ふたりがうまくいくようになんて、してあげられない。そんな気になれない」

 恋を失った。友情も失うかもしれない。そんな覚悟で打ち明けたが、彩花は怒り出すどころかずっと冷静に桃子の話を聞いていた。

「佐野さんを好きだったのに、どうして付き合えなんて言ったの?」

 カンパリオレンジを飲んで一息いれた彩花が尋ねた。

「誤解しないで。責めてるんじゃないの。単純に知りたいだけ。なんで『佐野さんは私の好きな人』って言ってくれなかったの」

「『私の好きな人』って言っていたら、彩花はどうした? 告白されたけど付き合わなかった?」

 ファジーネーブルをすっかり飲み干し、桃子は言った。

「付き合ってなかったと思う」

 五分ほど考え込んでから、彩花はそう答えた。

「私の好きな人だってわかったら身を引いたってこと?」

「うん」

「彩花が先輩と付き合わなかったとしても、先輩は私を好きにはならなかったし、私と付き合うってことにはならなかったよ」

「……」

「彩花が身を引こうがどうしようが、先輩が私を好きじゃないってことに変わりはなかったの。だからどう転んでも今と結果は同じ」

「身を引くってわけじゃなくても、タイプじゃないから付き合ってなかったと思う」

 彩花は同じようなことを三か月前にも言っていた。同じ店の同じカウンター席で。

「ねえ、どうして付き合えって言ったの」

「先輩が好きだから――好きな人には幸せになってもらいたかったから」

「私のことを思ってってわけではなかったのね」

 すねたように、彩花は唇を尖らせた。

「彩花のこともちゃんと考えてたよ。先輩がとんでもない男ならダメって言ってた。彩花、泣く恋はこりごりだって言ったじゃない? 先輩なら絶対彩花を泣かさないっていう自信があったから」

「桃子のことは泣かしたわけだけど」

「まあ、そうなるけど……」

 失恋してさんざん泣いて過ごした日々は彩花にはお見通しだった。

「佐野さんに気持ちを伝えようとは思わなかったの?」

 貴一にそれとなく気持ちを伝えたが、まともに受け取ってもらえなかったと桃子は伝えた。

「せつないね」

 自分の恋のように、彩花は物悲しい調子で呟いた。

「わかった。桃子に相談にのってもらえないのは痛いけど、そういう事情ならしょうがないよね」

 彩花の無邪気な笑顔に、今度は救われる気分だった。

「ごめんね。他の男のことならまともに判断できるけど、先輩となると嫉妬のバイアスがかかってちゃんとした判断を下せないから」

「桃子なしでちゃんとやっていけるかな」

「大丈夫。間違ったって何だって、自分で考えて出した答えなら、納得がいくでしょ。後悔もあるけど、間違えて学んでいく。だからこそ、今までと違うタイプの人と付き合った方がいいのかなって彩花は考えたんだし」

「それでも不安はあるの。地図をもたないで歩いている感じ」

「人生って、そういうものじゃないの――」

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