第3話

 ゴミのような夏だった。

 私は高校からの帰り道、小石を蹴飛ばし考えていた。それはとりとめのないことだ。とりとめのなく、行き場がない。例えば、小さい頃に連れて行ってもらった山のこと、小川を水がごうごうとうねり、川辺の石の裏には小さな虫がついていて、それを見せると母は顔をしかめた。例えば、小学校の途中に転校した友達のこと、文通は三回目でどちらともなく終わってしまった、あの子は私のことをいつまで覚えていたのだろうか。例えば、将来のこと、私は誰と出遭い、関係を繋いでいくのだろうか、それも結局いつしか途切れてしまうものでしかないのに、それをしなくてはいけないのだろうか。

 歩道橋を上ると、電線の上に私の住む団地が見えてきて、私の足は歩みを遅めた。眼下の二車線を操られたように行き交う自動車たちを眺めて、私は複雑な気持ちを抱えていた。空を見ると眩しかったので、また車道に視線を落とした。隅の排水溝が干からびていた。私はさっき別れた関内くんの背中を思った。

 今日で登校日が終わり、明日から夏休みだった。

 帰りの会の際、教室に入って来た担任は明日からも業務があるのかあまり嬉しくはないようだった。しかし教壇まで来ると、まだ若く精悍そうな彼は頬に力を入れてちゃんと腹式呼吸式の大きな声を出した。

「はい、明日から夏休みだ。机周りに忘れ物はせず、自分のものはきちんと持って帰るように。それと休みだからと言って羽目を外しすぎないように。一時の気の緩みは内申書にも影響するし、来年の受験にも関わってくるから、それを忘れるな。しかし……」彼は強い口調でそこまで言うと、窓の方を見て、梅雨の気配がすっかり消え失せた晴れ間を仰いだ。そして再び生徒の方を見ると、その眼差しは一層に演技がかった光を宿していた。「しかし、実質自由に使える最後の夏休みだろう。長い休暇は自分の好きなことや、やってみたいことに挑戦できる滅多にない機会だ。それは何だっていいんだ。多くの中から選んだらいい。とにかく時間を無為にせず、それぞれ目標を決めて有意義な夏を過ごしてみなさい」

 それを聞く生徒たちの目は既に両手に有り余る時間を夢想し、口元を緩めていた。数人の男子は小声でこれからの計画を囁きだし、いくらかの女子は目配せをし、ある者は興奮気味に椅子元の足を動かした。私もこれからのことを考えてみたが、糸がこんがらがったように何も思い浮かべることができなかった。

 生徒たちの高揚は帰りの会が終わると頂点に達した。帰りの会によってそれまで保たれていた微かな緊張の糸は断ち切られ、教室はどっと押し寄せる雑音の波に飲み込まれた。生徒たちは、さながら鎖から放たれた犬のようだった。私は席を立たずにじっと頭の中を掻き分けるようにして、自分が何をしたいかを探っていた。数分と経たずに他のクラスも終わったのか、次々と廊下に雑踏が吐きだされた。それを隅に追いやりながら頭を働かせたが、やはりだめだった。

 ふと気づくとサオリが、鞄と体育館の靴袋を手に、机の前に立っていた。

「何してんの、ユカ?」

 彼女もやはり興奮していた。普段はシニカルな表情を湛えているが、今では他の連中と大差なかった。彼女は背を屈めて私の顔を覗きこんだ。

「ユカは夏休みどうするの?」

 サオリの声と重なって、近くの女子たちのグループの声が私の脳内で反響した。「今度ね、家族で旅行するんだー」「へーいいねー。私は家でずっとゲームかなあ」「えーうちも行っていい?」「もちろん。夏休みって結構だるいよねー」「でも、一緒にだらだら過ごしたりすんのも楽しそうじゃない?」「それなら彼とがいいかなー」「初耳だけどー? いつから付き合ってんの?」「まあいいじゃん、それより何するー?」「えーと私はねー……」

「ねえ、ユカ? 私はさ、ユカと一緒にいたいな。でもどっか行くのもいいね。街でも家でもさ……――」

 頭の中がなんだかぐるぐるした。

「ねえユカは夏、何がしたい?」

 ねえ、ユカ――。

 私はねー……。

 ぐるぐるして、寒気がして、目のチカチカするような気持ち悪さがあって、私は目と耳を塞ぎたくなった。私はどこにも行きたくない、私はあなたたちではないんだ、私はここにいたくない、私は。

 私は、

「死にたいかな」

「えっ」

 きょとんとするサオリに私はハッとして頭を振った。

「う、ううん。何でもない、何でもない。ぼーっとしてた、こないだ見たテレビのこと考えてた」

 我に帰ると袖口の辺りが異様に冷たく、背に汗を感じた。私は自分が不意に零した言葉をこれほどまでに否定しようとしたことはない。早く、何か早く違うことを言って気を逸らさなければと思った。

 しかしその必要は突然の闖入者によってなくなった。サオリは口を噤み、私の一言など認識しなかったかのように、新たな状況に満足げに微笑んで、そそくさと別れを告げて扉に向かって行った。

 私の机の前にはサオリと入れ違いに、関内くんが立っていた。

「あ、あのさ、宮野。ちょっといい?」

 関内くんはさして品のよくもない顔を抱えて、量産型にみすぼらしいシャツを身に纏いながら、私を昇降口とは反対側に位置する人気のない一階近くの踊り場にいざなった。彼はおどおどして弱った羊のようだった。踊り場でようやく振り返ったかと思うと、UFOでも降りてきたかのような目をしてどもる寸前のような声を出した。

「宮野、俺と付き合ってくれない?」

 関内くんだなあ、と私は離人症的に思った。関内くん。自分が誰にもなれないということを分かっていながら、不安に突き動かされ誰かになろうとしてしまうのが関内くんだ。その様子は傍には、非常に哀れでみっともなく見える。

「ほら、夏休みって暇だし、宮野ってちょっと不思議な感じとかするけど、でも前からいいなって思っててさ」

 彼は必死にかっこよく聞こえそうな声で私を誘っていた。彼はしかし無言の私に焦っているのがバレバレだった。

 確かに私は関内くんのことは気になっていた。しかしタイミングが悪かった。私の脳は完全に凍りついていた。不細工に固まってしまい熱がなかった。もう何もかもが馬鹿らしく思えて仕方がなくなっていた。言葉から私の口から出ていた。

「……だめだよ」

「どうして?」

「どうしてもだめ。だって関内くん、私のこと好きじゃないもの」

「なんでそんなことが分かるの?」

 だって私のことなんにも知らないんだもの。

 心の中で呟くと、関内くんがうわずった声を上げてわずかに右腕を動かしたのを無視して、私は昇降口へと早足で向かった。私は一度も後ろを振り返らなかった。彼に対してざまあみろとさえ思っていた。そして、最後は駆け足で校舎を抜け出した。


 なんであんなことをしたんだろうと私は思った。サオリに対しても、関内くんに対してももう少しやりようはあったはずだ。

 歩道橋から建物の群れを眺めていると、あのとき口にした死にたい気持ちが、後悔と織り混ざって、段々と胸の内で大きくなっていくのが分かった。気体が実体を伴っていくように、それは身体を獲得していった。あまり心地の良いものではなかった。

「それにしてもあれはないよなあ……」

 高い所に立っても昨日と変わらぬ景色に飽き飽きするだけだったので、私は諦めて歩道橋を降りて、家に向かい、大通りに沿って潰れた電器店の角を右に曲がった。陽射しはジリジリと熱く、電柱の陰もアスファルトに焼きついていて、それをさらう風はなかった。まるで重力が足されたように、私はもたつく足を引き摺った。

 そうして帰路を歩いていると、前方の建物から出てくる二人組が目に入った。二人は親しげにしていたが、歳は離れているように見えた。一人はスーツを着た中年で、もう一人は私と同じセーラー服で真っ白な袖が陽の光を反射していた。自然な不自然さがそこにはあった。私はぼんやりと二人を横目に通り過ぎようとしたが、彼らの出てきた建物の看板のrest/stayの表記が網膜に映り、目をやるとその女子はどこか見覚えのある顔だった。私は気がつくと、並んで歩く二人に近づいて、彼女の白くて華奢な腕を後ろからつかまえていた。

「ちょっと何やってんの!」

「あっ、えっと、ユミ?」

「ユカだよ!」

「ああ、そうそう、ユカ」私が彼女を連れてゆこうとすると、マリは隣の男性に「あっ、ごめん、友達なの」と言って、肩越しに「じゃあね」と手を振った。

 私はマリの腕をつかんだまま、路地をいくつか進んで男の見えないことを確かめると、その手を離して呆れながら彼女を見た。マリの手は外に出たばかりだからか、とても冷たかった。

「どうしたのユカ? そんなに気負った顔して。真っ青だよ」

「どうしたの、じゃないでしょ。マリ、何やってたの」私は息を整えながら言った。

「何って? セックス?」

「そうじゃなくて! どうしてそんなことするのかっていうことよ。彼氏ってわけじゃないでしょ?」

私が訊くと、マリは鈴を転がしたように笑った。「そんなわけないじゃん、何言ってんの。おかしいね、ユカは」

 私はどうして彼女がそんなことばかりするのか分からなかった。そして悪いことをした彼女が、他人事のようにふざけてられることに無性に腹が立った。目に力を入れてマリを睨むと、彼女の小さな顎の輪郭が陽に溶けて見えた。

「ねえ、なんでそんなことするの?」

「なんでって、男が求めるから?」

「っていうかマリって学校は? 私と同じ高校でしょう?」

「去年辞めたよ」

「じゃあその制服は?」

「ああ、これ?」

 楽しげな声を出すと、彼女はスカートの裾を詰まんで軽く振った。

「可愛いから着てるの。この方が男が喜ぶし」

「はあ?」

「ん? 何、分からないの?」そう言って彼女は歩き出した。私も慌ててそれに並ぶ。「需要と供給よ。需要があるところを狙わないと、金にならないじゃない」

「需要って……」

「そういう男が多いのよ、制服を着てる方がいいって。なんでだろうね、自分の青春を取り戻したいのかな。だからそれに合わせて制服とか下着とかを売る子も多いし。それで努力に見合った金を受け取る。単純な物々交換よ。分かるでしょう、正当なことよ。何も一を二に換えているんじゃない、もちろん気分次第ではそれもありうるけどね」

「ねえ、それはなんとも思わないの」

 私は張り裂けそうになる胸で彼女に訊いた。喉から出たのは私のものではないようで、まるで何かに縋っている声に聞こえた。汗が頬を転がり、首筋に流れた。マリは両手を広げてみせた。

「だって何もないじゃない。誰も何も思わないし、何もおもしろいこともなければ、何もつまらないこともない。ねえ、ここはそういう世界なのよ」

「私はマリ自身に訊いてるんだよ」

 私が言うと、彼女は以前のように不機嫌に顔を曇らせたが、思い直したように表情の筋を緩めて、ポケットの財布から紙切れを取り出した。

「まあ、分かんなくてもいいわ。ユカだっけ? 再会したのも何かの縁だし、これあげる」

 彼女は私の手にそれを握らせると、するっと踵を返して元来た道をふらふわと戻って行ってしまった。

 残された手の紙を広げると、そのノートの切れ端にはボールペンで書かれた十一桁の数字が並んでいた。持ち主の性格に似合わない綺麗な筆致だと思った。私はそれをポケットに入れて、またひとり帰路を歩み始めた。

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