不健全な誰かのノート

パEン

ミッドナイト・リストカット

「生きてるって実感できるから、自分を許してあげられるから、誰かが心配してくれるから」

 酔って降りた知らない駅の近く、深夜のコンビニの前。カッターナイフを右手に、手首を切ろうとしていた少女がいた。『可哀想』だとか『心配だ』とかは思わなかったけど、単に初めて見る光景に興味が湧いた。決して止めたわけじゃない。

名前も知らない少女がリストカットをする理由を聞きながら、僕は少女の顔も見ず煙草を吸う。メンソールの味はもう慣れてしまって、爽快感も罪悪感も感じなくなっていた。

「他に自分を証明する手段がない、嫌いな自分を傷つけて満足したい、承認欲求を満たしたい」

 火を消してポケット灰皿に煙草を放る。煙の代わりに思った言葉を吐いてみたが、やはり美味くはなかった。不快な味が口の中に残っただけだ。

「……意地悪なことを言うんですね」

「君のリスカする理由を分かりやすく訳しただけだよ」

「私みたいに何回もリスカしてみたら見える世界も変わりますよ」

「常連ってわけだ?」

「このコンビニなら、いつもの、でカッターが出てくるレベルです。流石に倫理的に出してくれませんけど」

「カッターの使い方が随分と情熱的なんだね」

 もう一本煙草を吸おうと思ったが、もう煙草は残っていない。さっきの不快な味を何とかしたかった。そう思いながら、やはり少女の顔は見ずにまた言葉を吐く。口の中の不味さと元カノとの思い出は、少ししかなくても溢れる程あっても鬱陶しいことに変わりはない。

「メンヘラって言うんでしょ? そういうの」

「その言葉で片付けられるのも癪ですけど、もうそういう認識でいいです」

 少女は自分の手首を撫でた。暗くてよくは見えないが、きっと何度も切った身体には浅い、しかして崖のような痕があるのだろう。

「自分が生きているって信じられなくて怖いんです。痛みは、痛みだけは生きていることを自覚させてくれます」

「なるほど。めちゃくちゃに殴ってあげようか?」

「本気にしちゃいますよ?」

 少女は、まるで冗談で告白された女の子のようなセリフを吐く。やはり顔は見ていないが、頬を染めていたり、悪戯っぽい笑みが浮かんでいるといいと思う。

「何も出来ないし、リスカなんてしてる自分のことがひたすらに嫌いです。嫌いなヤツをいじめているんです、私は」

「ふむ。やっぱりめちゃくちゃに殴ってあげようか? キックを付けてあげてもいい」

「カッコいいですね、お兄さん。見知らぬ女の子の嫌いなヤツをいじめてくれるんですか?」

「勿論。ちょうど煙草が切れてイライラしていたんだ」

「ただのヤニカスでしたか。やっぱり本気にしたら駄目ですね」

 少女はやっぱり小悪魔的な言葉で返事をする。教室の中で、少女と二人会話しているような錯覚に陥る。青春追体験だ。思えば、年下と付き合ったことはないな、とふと思う。甘酸っぱい、顔の分からない後輩とのワンページは何もかもが違えば成り立っただろうか。

「誰かに構ってほしいんです。誰かに気にしてほしい。そう思ったのが、そもそもリスカを始めた理由だった気がします」

「じゃあ、僕が釣れたのは成功だったってことかな」

「ええ。いやらしいお兄さんじゃなくてよかったです」

「僕が君を今から連れ去るっていう可能性は考えないの?」

「はい。勘ですけど、お兄さんはそんなに悪い人でもなければ思い切ったことのできる人でもないです」

「言うねえ。君は将来騙されやすそうだ」

 まだ口の中は不味いし、少女の顔も分からない。やっぱり煙草が吸いたいが、当然煙草は切れたままだ。

 そういえば、明日も仕事だ。終電の時間が近い。大人になったな、と思う。これが学生の頃ならば、明日はサボる日だと割り切れた。今ではもう帰らなければという思考に支配されてしまうようになってしまった。これは成長なのか、劣化しただけなのか。答えは一生出ない気がする。

「リスカって、一人でするんですよ」

「人にしてもらうリスカがあるんだ? それは中々ロックだね。捕まりそうだ」

「それはただの傷害罪です。そうじゃなくて」

 コンビニから人が出てくる。袋の中に何が入っているかは分からないけど、お酒でも買ったのではないだろうか。すっかり酔いも覚めたから、もう一杯くらい呑みたい気もする。

「結局のところ、私は一人なんですよ、何回リスカをしたって、心配されたって、怒られたって、咎められたって、私は一人なんです。誰にとっても、リスカをしたところで私はただの『リスカをするヤバい女』でしかないんです」

「まあ、そうだろうね。結局他人事だから、興味はあれど関心はないんだろ」

「興味と感心の違いってなんですか?」

「僕が知るわけないじゃないか」

 腕時計を見る。終電が危うい。

「だから、寂しいんです。リスカだけじゃ足りなくなったんです。傲慢、ですかね」

「今更だけど、本当に初対面の僕にする話じゃないね」

「本当に今更です」

 タクシーで帰る手段を考える。高いが、なしではない。少女の顔は分からないし、口の中はいまだに不味い。だけども、少女の話を聞かずに帰ると一生後悔する気がするのだ。

「お兄さんにお願いがあるんです。いやらしいお兄さんだった場合、嬉しいお願いですよ」

「終電が近いけど、僕はどうしたらいいかな?」

「すぐに済みますから」

 僕も、思春期の学生みたいに意地悪を言った。中途半端に帰るつもりなんてないのに。気になる女の子には意地悪したくなるものだから、仕方がない。

「分かった。僕は何をすればいい?」

「一つ。キスマークを付けてほしいです」

 少女はそう言って、僕の前に来た。背中を向けているから、変わらず顔は見えない。ありきたりな表現になるが、濡れ羽色の肩下まで伸びた長い髪に、雪肌がよく映えていることが分かる。耳下にほくろがあるのが印象的だ。

「参ったな。犯罪じゃない? それ」

「合意があれば何事も合法です。首……髪の下にお願いします。誰にも見られたくないので。私だけのモノです」

「どのみち数日で消えるけど?」

「消えたら、また付けて下さい」

「電球じゃないんだけどな」

「誰かに傷付けて欲しいんです。初めての方法で」

「暴力じゃ足りない?」

「経験済みです」

 節電とかエコとか馬鹿にしているみたいな明かりを放つコンビニをバックに、僕は少女の髪を横に流す。首は雪なんかより白く見えて、夢でも見ているのかと勘違いしそうになった。煙草では味わえなくなった少しの罪悪感を抱えながら、彼女の首に口付ける。実のところ、キスマークを付けるのは得意だとは言えない。大人なのに大人ぶりたかったのか、それは言わなかった。

 口をすぼめ、肌を吸う。少女の身体が一瞬跳ねた気がした。幸いにも、毒のような痕は一回で付いた……のだと思う。髪を戻し、終わったよと声をかける。当たり前みたいに、口はまだ不味い。

「ばっちり。これ、コンビニの前ですることじゃないんだけどな」

「ありがとう、ございます。通報されたらレイプされたって証言しますね」

「今すぐ殴ったら記憶は消える?」

「思わせぶりですね」

本当に煙草が吸いたい。非日常というのは、中々体力を使うもののようだ。そういえば、鞄の中に買い溜めしていた煙草が一箱あったな、と思い出す。

「もう一つのお願いなんですけど」

「結構ぐいぐいくるね」

「終電がなくなる前に、と思いまして。気遣いです」

 煙草の箱を取り出す。いつも一箱吸い終わる頃には箱がぼろぼろになっているから、この状態の箱は何となく好きだ。

「察しがいいですね。いや、少しよすぎて怖いですけど」

「と、いうと?」

「察していたわけではないんですか? 煙草を、一箱貰えないかと思いまして」

 箱を手の中で転がす。まだ開封もしていないこれは、最近値上がりして辛い。

「煙草は……手の込んだ自殺だ。やめた方がいい」

「お兄さんは死にたいんですか?」

「社会人はみーんな死にたいさ。例外なくね」

「奇遇。メンヘラも例外なく死にたいんですよ」

 僕は百円ライターと一緒に煙草を差し出す。顔は前を向いたまま、腕は右へと。小さな手が煙草を受け取ったので、僕は一言を添えて帰ることとする。

「メンソール煙草、吸い方で検索して吸うといい。喫煙はその箱限りにしときなよ。じゃあ、僕は帰るね」

 時間を見る。終電には間に合いそうだ。早く帰って、美味しいものを少しだけ食べたいと思う。

「あの!」

 もう歩き出していた僕に、少女が声をかけてくる。後ろは向かない。こういう時、お互い顔は知らないくらいでいいのだ。情が湧くと、思考が情にジャックされる。顔を知らなければ、それは幾分マシになる。

「次は、いつ会えますか」

少女の切羽詰まった声が聞こえる。

 分かる。少女は何かに依存したいのだ。若い頃は、そう思う時期がある。

 自分にとっての『絶対』が欲しい。

 自分だけの『絶対』が欲しい。

 不安定な自分を安定させてくれると勘違いさせる、何かに憧れているのだ。

 声をかけたのは失敗だったな、と思った。

 少女にとって、不健全な僕はあまりにも『特別』すぎたのだ。

無視しても後悔していただろうな、とも思う。

だから、僕は一言だけ返した。

「煙草はいい。死にたくなくなるよ」

 少女が何か言っているのを聞かず、僕は駅へと歩く。

 結局、顔どころか名も知らないままだったなと気が付いた。

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