二話 錆びた賽の目を赤く塗って(前)

 ──勝利の余韻よいんに浮かれていた彼らは忘れてしまっていたのだ。ここが悪意に満ちた迷宮の、その腹の中だという事を。


 かわいた音を立てながら転がっていく二つの賽子ダイス。音が鳴り止んだ時、赤目が一対。上を向いていた。


「しまった、敵襲だ!」


 シドの叫びに全員が後ろを振り返る。そこには影が四つ。こちらに牙をかんと向かって来ている。


 前衛が後衛の援護えんごをするには、残されていた時間は余りにも短かった。


 先制攻撃。


 怪物達は差し合わせたように、四体共がシドに向かって襲いかかっていく。怪物三体分の攻撃が集中すれば、もろ斥候せっこうでは、ひとたまりもないだろう。


「オイオイオイ、こりゃ聞いてねぇぞ!」


 シドの体は震えていた。足も、腕も、瞳も。両奥の門歯を打ち付けて、恐怖という音をき鳴らしている。


 震える手で短刀を構えるけれども、ブレる刀身を見れば、それが何の意味も持たない事が理解できた。


 一体目の怪物が、手に持った短刀をシドの胸に向かって突き出す。


 きっと咄嗟とっさの事で硬直こうちょくしてしまっていたのだろう。


 手に持っていた短刀の事など既に頭に無く、シドはそのまま胸に刃を突き立てられた。


 心臓が底冷えしたような感覚。古びた短刀が胸に押し付けられる圧迫感。その苦しさに押し負けて、腹の中にまっていた空気が押し出された。


「ッッ、ハッ!」


 しかし短刀は革鎧かわよろいの表面を削り、音を立ててすべっていくだけで、その身に傷を付けずに終わる。


 よろいを身にまとった人間を殺すには、刃は余りにもなまりすぎていた。


「GYAAARA!」


 襲撃者は金属を擦り合わせたような声でうなり、いら立ちを表してくる。


「GRRRRA!」


「GROOOOR!」


 その上、一体目に呼応こおうして後ろに続く二体も鳴き叫んできた。不快な音がそこら中に響き渡っていく。


「は、判別できました!こ、小鬼が四体!」


 られる松明たいまつの炎によってかすかに照らされた、卑しき赤かっ色の肌。それは確かに、小鬼にしか持ちえないものだった。


 だが、今それを知ってどうなるのだと言うのか?小鬼だと分かったからといってこの状況を打破だはしうる解決策が出るはずも無い。どうする事もできないのだ。


 前衛がシドに近づくまで、自分でえてもらうしかない。


「おいシド、持ちこたえてろ!今すぐ行く!」


「マルコ、持ちこたえろ、ったってよぉ!どうしろってんだ!」


 短刀が革鎧かわよろいを貫けない事を学んだのだろう。二体目と三体目は同時にシドへと飛びかかり、地面へと叩き伏せんとする。


 苦しまぎれに放ったシドの一撃。


 図太い腕から振るわれた短刀は、軽快にさえ思える音と共に小鬼の頭蓋をかち割った。が、もう一体の方に体を掴(つか)まれた。


 震えた足では、まともな体勢さえ保てない。シドの体は、そのまま地面に組み伏せられる。


「ァ……」


 漏(も)れる微(かす)かな声に、アンネの悲鳴が上がる。


「うそ…… シドさん!」


 そして不幸な事に、シドはその攻撃によって後頭部を強く打ち付けてしまった。それで気絶してしまったのだろう。ピクリとも動かない。


 致命的状況ファンブル。例え【軽癒】を使ったとしても、気絶や毒などの身体の不調じょうたいいじょうは治せない。


 それにアンネはしばらく使い物にならないだろう。直接襲われはしなかったものの、間近まで迫っていた恐怖は、彼女の精神を削り取っていった。


「うそ、うそ……」


 倒れ伏(ふ)すシドの体に、アンネは何を見ているのだろうか。ただ震えて、同じ事を呟(つぶや)いて、何もできないままでいる。


 そんな状態では、自己暗示じこあんじである呪術じゅじゅつは使えない。シドの傷ついた体をいやす【軽癒】すらもできはしない。


 つまり、シドを自衛できる状態まで引っ張りあげるのは不可能だという事だ。今の彼は、ただ小鬼共の凶刃きょうじんに無防備にさらされている。


「とっととシドから離れろクソッたれ!」


 そこでようやく、マルコが短刀を振り回しながらシドの方へと向かいながら小鬼を追い払う。


 それに、やっと後衛の二人が後退を終えた。お陰で陣形を建て直すこともできた。ようやく、まともに戦闘ができると思えた。


「おいシド、怪我は無いか!?」


 ああしかし、すでに遅過ぎたのだ。


「おい、シド……」


 彼の首からとどまること無く血液が流れ出ていく。一筋、二筋、枝分かれては太くなっていく小川のように。


「嘘だろ?」


 ポタリ。ポタリ。


「ぁ…… あ……」


 マルコの瞳から溢れ出る血涙けつるいがシドのくちびるこぼれ落ち、それはやがて首筋へとからみついていく。二人のと血が混ざり合って、薄汚れた迷宮の岩肌へとしたたった。


「ああ、アァ!」


 目を見開いて、迷宮に閉ざされた天を見上げ、体は脱力してひざを折る。ただ感情のままになげさけぶ為に。


 けもののような慟哭どうこくは迷宮の壁をあちらへ、こちらへ、跳ね回ってき乱す。


 咆哮ほうこうは悲鳴へ。悲鳴は呻き声へ。


 そうやって、全てを吐き出して、吐き出して、吐き出して、吐き出し切って、音が止んだ。皆ただここにたたずんでいるだけだった。


 まるで夢からめたように。あれほどまでにき出されていた衝動は、あっという間に消え失せた。


 それでも折り重ねられた感情の波は、未だに彼らの手足をしびれさせ続けている。


 遠くから聞こえる足音が響くだけの迷宮の中、友を失った戦士はうつむいたまま立ち上がった。


 たった一つの感情だけを拾い上げて。


「殺してやる」


 明確な殺意、憎悪。友のかたきたんと闘志を燃やし、心の刃を研ぎます。


 彼は渾身こんしんの力を持って、目ざわりな小鬼共を排除せんと走り出した。


 小鬼もようやく構えを取って、獲物えものに短刀を突き立てんと笑みを浮かべる。


 一匹殺したのだから、もう一匹でも変わるまい、と。


 マルコがけ出したのを切っ掛けに、戦いはようやく始まった。あまりにもさわがしく、そして遅すぎた開幕だった。


 マルコを先頭に、横にケインとケイが走る。アンネとシエラはあわてて、付かず離れずの位置を維持しようとする。


 マルコは真ん中の小鬼へと突撃してゆき、手に持ったナイフを腰だめに構えた。


 それに対して小鬼も、マルコへ向かって足を出し、短刀を振りかぶって立ち向かっていく。


「GRAAAAA!!」


「ア゛ァッッ!!」


 咆哮ほうこうがぶつかり合い、それから身体がぶつかり合った。


 二人がお互いに射程に潜り込んだ瞬間、マルコはいきなり右足でん張り、静止する。


 マルコがそのまま走っていればたどり着いていただろう地点。そこに向かって、緻密ちみつに計算された、小鬼の渾身こんしんの一撃が放たれた。


「AA?」


 それは小鬼の思惑おもわくとはかけ離れて、迷宮の床と短刀の刀身をわずかばかり削るだけに終わる。それどころか小鬼の体は無防備な状態に置かれてしまった。


 小鬼の顔からは、勝利を確信した余裕が消える。代わりに生まれたのは、もちろん恐怖だ。


 マルコが絶好の機会を逃す理由は無い。左足にてもう一歩、力強くみ込んでいく。そして右足を思い切り振り上げ、小鬼の鳩尾みぞおちへと憎しみを込めた蹴りを入れる。


 小鬼の体格は人型にしては非常に貧しい。成体の、そのまた一番大きな者でも子供を二周り大きくした程度。通常の者は子供とそう変わりは無いという。


 それゆえ小鬼には、マルコの蹴りにあらがすべは有るまい。従って、その左後ろの小鬼も巻き込んで倒れ伏せる事となった。


 最後に残された小鬼は仕返しだと言わんばかりに飛び上がる。それから、マルコの首元を狙った必殺の一撃を放った。これならば革鎧かわよろいにも阻まれない。


 ……稚拙ちせつな。


 パキリ、と薄い陶器とうき亀裂きれつが入ったような音が鳴り響いた。


 小鬼の持っている短刀は、恐らくは新米の探索者がよく持っている安物だ。強い呪いが込められた訳でも無いそれはいとも容易たやす劣化れっかする。


 長い年月様々な所を渡って、ロクに手入れもされていなかったのだろう、刀身までび付いていて革鎧かわよろいを削る事しかできない。


 そんな代物が新品同然の武器とぶつかりあったのだから、り負けるのは当然とも言えるだろう。


 その結果、赤黒く染まった刀身にはその半分程まで刃が食いこんでいる。さらには、その衝突の衝撃でできたヒビは、片側まで届こうとしていた。


 マルコはそのまま短刀を押し込んで小鬼の刃を切り飛ばす。いで、その短刀の勢いのままに、小鬼の頭を滅多めった刺しにした。


「こんな奴に、シドは殺されたのか」


 マルコが小鬼を殺した時、ただそこにはむなしさだけがあった。


 ……きっと、俺とお前ならどこまでも登って行けたのに、何でこんな所で置いていくんだよっ!


 あれほど復讐ふくしゅうしたかったはずなのに、もう熱は消え失せてしまって、殺さなければいけないという義務感だけが残っている。


 マルコは短刀を構え直し、二体の小鬼に狙いを定めた。


「きゃあ!」


 ガリガリと木が削れる音と共に、か細い悲鳴が聞こえて来る。先ほどのさけびを聞きつけて来た増援が襲ってきたのだ。


「マルコ、残りの二体処理しとけ! アンネとシエラは後ろに下がるんだ!」


「……ああ」


 そのまま前進していくマルコの見届け、ケインは一度深呼吸した。


 振り向いて後衛の援護えんごへと向かう。二人に怪我が無い内に処理してしまわなければ。


「この野郎め、これでもくらいなさい!【火弾】」


 不意に襲撃された事への報復ほうふく。シエラは小鬼への憎しみを込めて呪言じゅごんさけぶ。


 それは鈴を転がすように、酷く美しい声色で。それは己をだまし、世界を書き換える為の宣誓せんせいだ。


 松明たいまつに左手を当て火を分かち、ゆっくりと木扮もくふんへと移し替えていく。パチパチと弾ける火の粉と共に、火は彼女の拳二つ分ほどまで大きく育った。


 シエラが息を吹きかけてしばらくした後、火球は主人からの命に従って、重い腰を上げるように、少しずつ勢いを上げて飛んでいく。


 火は手前にいた小鬼に衝突した。新たなたきぎまとわりついた事でよりいっそう燃え盛っていった。


 そして、火が大きくなっていくにつれてたきぎの悲鳴もまた、それと同じように大きくなる。


 生きたまま焼かれて死ぬのはどのような苦痛なのだろうか?その身を焼く炎は転がり回っても消える事がない。正に、焼き尽くすまで決して消える事の無い呪詛じゅその炎。


 流れてくるのは、まるで人が焼けるような匂い。最初は例えば豚や鳥を焼いた時の。その後には様々な匂いが入り交じって、不快としか表しようが無い、そんな匂い。


 残りの小鬼らはその光景に思わず後ずさりをする。


「ふん、清々したわ!」


 ああ、これは使えるな。奴らは火の脅威を学んだ。だからそれを逆手に取ろう。


「シエラ、合図したら【火弾】を使うフリをしてくれ!」


「わ、分かったわ!」


「エイベルは左を頼む!」


「ああ」


 仲間が生きたまま燃やされるのを見て、自分がそうなりたいと思う奴などいないだろう。


 当然、もう一度来ると分かれば何らかの対処をしようと戸惑とまどうはずだ。そこを突いて仕留しとめる。そういう策だ。


 ゆっくりと、敵をらすように進んでいく。突撃するよりもこうして少しずつ進んで行く時の方が威圧の効果としては高い事もある。


 ……小鬼と俺との間が五歩の距離となった時、その時に仕掛ける。焦る必要はない、慎重しんちょうに行こう。


 一歩、二歩。距離は段々とせばまっていく。焼け落ちた肉の塊の臭いが、段々とうすくなっている。


 三歩、四歩。エイベルは大盾で小鬼の攻撃をいなしては殴りつけていた。あっちもそう長くは掛からないだろう。


 五歩、六歩七歩。小鬼とケインの間に残っているのは五歩のみ。仕掛け時だ。


「シエラ、やれ!」


【火弾】


 んだ声が響き渡り、小鬼の顔に焦りが生まれた。もちろん呪術は発動しない。だがそれは小鬼共には理解し得ない事だ。


 案の定、残りの二体共が硬直する。


 ケインはそのすきに脚をバネにして、軽く飛び上がる。小鬼の視線は、その間もシエラに集中していた。だから対処する事もできていない。


 眼前の小鬼が短刀を持ち直す頃には、ケインはすでに槍を突き出していた。上からの、体重を乗せた重い刺突。


 当然それは、小鬼が頭の上にかかげていた短刀をあめ細工のように打ち割り、そのまま頭蓋ずがいを刺し貫いた。


 エイベルの方も小鬼を一撃で挽肉ひきにくにしている。


 大剣という鉄の塊は、上手く叩きつける事ができればこの上ない暴力になる。蝙蝠の時に一撃で終わらなかったのは、きっと当たり所が悪かったからだろう。


 そうこうして背面での戦闘はようやく終了した。


 マルコの方はというと、一体はすでに使い物にならず、もう一体は体勢を崩していた小鬼だった。だから思っていた通り、難なく終えられたようだ。


 ここは迷宮の通路で、何が来るかも分からないというのに、全員で床にへたれこんでいた。まるで腰が抜けたように、立ち上がれなかった。


「ハ、ハ」


 思わず、ケインの口から乾いた笑いがこぼれ落ちる。






 ……






『古びた短刀』


 数打ち物の粗悪な短刀。


 多くの探索者が夢を抱き、たずさえていたそれは、ねばついた黒血におおわれびついた。


 今ではその短刀が、いやしき者共の手に握られている。

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