「ここまで来て引き下がるなんてできないさ」
「K先生は亡くなったよ」
夏目青年にあれこれと追加の調べ物を頼んだ猫目石は、別れ際に忽然とその事実を告げた。
青年は心底驚いたようで、ずり落ちる眼鏡を直そうともせず、一瞬目と口を丸く開いたが、やがて猫目石の表情からそれが嘘ではないと分かったのだろう、心底残念そうに項垂れた。
「このこと、おばあちゃんには……?」
「まだ伝えていない」
「言わない方が良いかな?」
「いや、あの夏目前会長のことだ、こちらから報せなくとも事実を知るのは時間の問題だろう」
「僕はどうしたら……」
「ただいつも通り平和に暮らせ。その平和はこれから僕と助手で守ってきてやる」
冷たい潮風が吹き荒む波止場に二台の車が停まっている。中型のトラックで普段は専ら海産物の運搬を担当している車両である。トラックの荷台の外壁にはそれぞれ“高橋水産”と“飯島漁業”とペンキで書かれているが、そのどちらも所々が剥げかけており、年季と潮風の影響を思わせるものであった。
荷台によりかかりながら私は尋ねた。
「本当に行くのか?」
「無論だ。ここまで来て引き下がるなんてできないさ」
絹の擦れる音と共に、背中の荷台の中からそんな回答が返ってきた。私は改めて自分の格好――黒のウェットスーツ――を見直す。全身にしっかりとフィットしたその衣服は物理的な熱光学迷彩と電子的な
「二人合わせて戦闘機が一機買えるくらいかな。まあ、持つべきは金と権力を持つ兄妹だな」
荷台が開かれ、私と同じような格好に身を包んだ猫目石がふわりと飛び降りた。軍服姿の彼女は幾度となく目にしてきたが、こうして本格的な装備をした、言わば臨戦態勢の彼女を見るのは初めてのことであった。
「僕からすればもはや懐かしい装備だがね」
「軍人時代か?」
「大戦中は特殊部隊にいた。まあ、光学迷彩装備自体は僕も初めての経験だがね。つい最近実用化されたものさ。銃は一般に流通しているものだが、この光学迷彩服がこれ以上にないくらい高価なんだ。君、くれぐれも壊さないようにしたまえよ」
そう言うと猫目石はくっくっくと笑みを浮かべた。まるで新しい洋服や玩具を買い与えられた子供のような反応である。
「戦争でも始めるつもりかね」
トラックの助手席に座っていた男がこちらを見下ろしながら尋ねた。漁夫に変装をした猫目石の兄だった。
「逆さ。戦争が起きないために我々が向かうのだ」
猫目石はニヤリと笑って、私の左足を、さながらスポーツ選手に気合を入れるコーチのようにパンと引っ叩いた。
「僕らの戦争はもう終わっている」
私はその言葉に強く頷いた。私たちの戦争は終わっている。あの日、幽霊屋敷と呼ばれる家で出会った時から、我々の新しい人生が開始されたのだ。だからこれから敵の懐に向かうのは派手にドンパチするためではない。この世界、我々の平和を守るために行くのだ。そう自覚した時、不思議と自分の中から恐怖や緊張といった感情が消えていくのが感じられた。
「こちらは明朝、日本時間0700に人質救出作戦を開始する。総指揮は日本陸軍第一師団の三上大佐が執られる。集めたメンバーは過去と親族を全て洗った全く
「Ms.Mの乗るあの船は書類上は完璧なまでの民間船だ。それでいて本来の持ち主である佐伯氏、つまりその名を騙るMs.Mは軍上層部にも影響力を持っている状態である。そこで、僕と助手が、あくまで民間の犯罪者として侵入し、奴の犯罪の証拠を掴む」
「勝てば官軍、負ければ賊軍。お前たちが任務を果たしたならその罪は如何様にももみ消すことができるが、失敗するばそうもいかない。この国自体がMS.Mの手に落ちる可能性すらある。それに、奴の持つ軍隊は非常に強力だ。任務は隠密かつ迅速に行われなければならないだろう」
「目標は三つだ。人質である子供の救出、Ms.M本人の逮捕、そして奴の運営する犯罪組織の実在証明だ」
猫目石は私の方を向き直して、
「僕が船内に潜入する。君の任務は陽動と援護だ。これを着けたまえ」
そう言って差し出されたのはワイヤレスイヤホンのような機器である。私は言われるままにそれを右耳に装着した。
「こちらのジャミング下でも使用できる通信装置だ。盗聴も絶対に不可能。ただし向こうからのジャミングには耐性がない。もしも船上で僕からの指示が途切れたら通信端末でコード<221B>にアクセスしろ。次の指示が書いてある」
「分かった」
Ms.Mが掲示したタイムリミットまであと一時間――我々の最後の戦いが幕を開けた。
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