第四章 第五節 野獣の独奏
一生忘れられない思い出ができたのは8月最後の週末だった。それはまったくの予想外で唐突にやってきた。尤もこの夏は濃かったのでそのすべてが忘れられないと思うが、それでもこの日の思い出は一番だ。
週末のゴッドロックカフェは忙しい。しかし忙しい故に時間が経つのは早く感じる。ただやはり疲労困憊だ。そんな状態で閉店時間を迎え、表に鍵を掛けた時だった。エカさんから電話があった。
『バイトくぅん!』
開口一番陽気で無邪気だ。絶対に酔っている。
「酔ってんすか?」
『酔ってないよぉ』
わかった、わかった、酔ってるな。
「で、どうしたんすか?」
『迎えに来てぇ!』
「は?」
『ゼミのみんなと都心で飲んでたら終電逃しちゃって、今中間駅にいる』
いや、別に俺以外にも頼れる人はいるだろうに。しかしそんな野暮なことを言って、その役回りが他の奴にいくのはエカさん大好きな俺には我慢ならない。俺は素直に応じた。
「閉店作業まだ終わってないんでこっちを1時に出ますよ?」
『わかったぁ。それまで駅前のファミレスにいる!』
エカさんが言った中間駅とは都心と備糸駅の真ん中ほどで、備糸市・都心間ではそこから路線が連絡する。エカさんは中間駅までは帰れたものの、そこから先の電車が既にもうなかったらしい。
て言うか、中間駅は俺の自宅の最寄り駅の1駅隣だ。そこからスクーターでエカさんを送って、更に自宅に帰ったら明け方になってしまう。今度こそ警察にニケツが見つかりそうだ。それでもエカさんのためだ。俺は喜んで身を粉にする。
しかしそんな俺の心配は杞憂に終わった。閉店作業を終えてエカさんのいるファミリーレストランまで到着したのはもう夜中の1時半だった。出てきたエカさんが言うのだ。
「バイト君の家に行こう!」
「は?」
「実家暮らしだとマズい?」
「いやマズくは……」
俺の実家は部屋数こそ多くないが広さはあり、一戸建ての2階にある俺の部屋も広めだ。だから末広バンドなんかはよくたまり場にしていた。女の人を入れたことはないが、男家庭。兄貴が高校生の時に女を連れ込んだこともあるが、その時親は大らかだった。
「じゃぁいいね。レッツゴー」
しかし俺は女性を部屋に入れるということの意味をまったくわかっていなかった。宅飲みを知った時はあれほど嫌悪したのに、自分の身に起きた場合に至っては無頓着なガキんちょだ。しかもこんな時間だ。
以前エカさんに怪我の介抱してもらった時なんかは2人で朝まで一緒にいたから、その経験も無頓着に拍車をかけた。あまり深くは考えておらず、エカさんの送迎が予定より楽になったくらいにしか思っていなかった。
俺はスクーターにエカさんを乗せた。以前のとおりエカさんは足置きに屈んで、両手はフロントボディーを掴んで招き猫。俺はしっかり膝を閉じる。
「風気持ちいい!」
エカさんは実に無邪気で時々後頭部を逸らす。
「今日も童貞君が元気だー!」
もういちいちツッコまない。好き放題しゃべらせて、途中コンビニに寄って、俺の自宅までやってきた。親も3人兄弟の2番目の兄貴も寝ているのでそっと部屋まで入る。1番上の兄貴は就職して近くで一人暮らしをしている。
「へぇ、ここがバイト君のお部屋なんだ」
ローテーブルの前に座ったエカさんは部屋をぐるっと見回す。そんなに珍しいものはないだろうに。ただ移動中の無邪気さはなく、エカさんに余裕を感じる。
プシュッ
そしてコンビニで買った缶酎ハイを開けた。
「俺、風呂入ってきてもいっすか?」
「えぇ……、お酒付き合ってくれないの?」
「だって、バイト後で汗っぽいから」
「しょうがないなぁ。バイト君のエロ本でも探しながら1人で飲んでるよ」
とのことらしい。オカズはスマートフォンの中だから、別に何を探されても大した物が出てくる部屋ではない。
そうして俺が風呂を済ませて部屋に戻ると、エカさんは大人しく座って飲んでいた。
「バイト君、私もお風呂入りたい」
「マジっすか?」
「ダメ?」
「まぁ、いいっすけど」
「部屋着にTシャツ1枚貸して」
「それだけ?」
「うん、うん。バイト君だとサイズが大きいから十分」
確かにそうだろう。それなので俺は白のTシャツを1枚エカさんに渡した。エカさんを洗面所に案内して部屋に戻る。
エカさんは30分ほどで戻って来た。しかしその時の魅力と言ったらない。髪はしっとり濡れていて、俺のTシャツは大きな胸からそのまま下にストンと下りている。膝丈のワンピースみたいだ。俺のむさ苦しいTシャツが、この人が着るとなぜこんなにもファッションになるのか。
「バイト君、ドライヤーない?」
「え? ドライヤー?」
そんなもの男社会の家庭にあったっけ? みんな短髪だから必要のないものだ。オカンなら持っているかもしれんが既に寝ているから寝室に入れないし、洗面所では見たことがない。
「そっか、ないのか……」
肩にタオルをかけたエカさんに落胆を示された。それに焦って俺は言う。下心があったわけではない。焦りから咄嗟に出たのだ。
「俺が髪拭きましょうか?」
「え? いいの?」
エカさんは眩い笑顔を向けてくれた。それでエカさんは俺に背中を向けて飲酒の続きを始める。まだ飲むのか。まぁ、いいけど。俺はエカさんの背後からタオルで髪を拭き始めた。
「うふふ。極楽、極楽」
エカさんはご満悦のようだ。しかし女の人の髪に初めて意識して触った。タオル越しではあるが、細くて繊細だ。たかだか俺の家のシャンプーなのに、漂う匂いもいつもと違って感じる。
「髪を拭いてくれてるお礼にいい物を見せてあげよう」
「ん?」
エカさんがそんなことを言うので俺は手を動かしながら首を傾げた。するとエカさんは自分の脇にあった衣類に手を伸ばした。元々エカさんが着ていた服で、スカートとシャツが重ねてある。
「ぱぁっ!」
「うがっ!」
突然、エカさんがそのシャツを掴んで上げたので、俺から変な声が出た。なんとそこには、エカさんの畳まれたスカートの上に乗った、上下の下着があったのだ。
「うふふ。喜んでくれた? 童貞君」
またこの人は童貞を揶揄って遊びやがって。しかし悔しいかな、しっかり動揺したさ。いや、ちょっと待て。俺は気づいてしまった。エカさんが着ている俺のダサいTシャツの下、その薄い布切れ一枚の中は、まさか一糸纏わぬエカさんの肌……?
それに気づいてから俺はぎこちなくエカさんの髪を拭いた。女の人を連れ込むことがこれほど刺激的だとは。しかしこれを刺激と言うにはほんの序章に過ぎなかった。
「ありがとう」
髪を拭き終わるとエカさんは俺に振り返った。その笑顔に癒される。
「今日は泊まってっていいんだよね?」
あれ? そういうことになるのか? 深夜バイトのフル出勤で感覚が麻痺していたが、確かにこんな時間で部屋にいて、風呂にも入れたんだ。そうなるのか。
しかしエカさんが泊まると気づいて、俺の心拍数は一気に上がった。
「は、はい……」
「私、バイト君に襲われちゃう?」
「頑張って紳士的でいるので安心してください」
なんとか言葉を振り絞った。大好きなエカさんからの信頼を失いたくない。しかしエカさんは俺と対面した状態で俺の両手を握る。温かくて、小さいのにとても柔らかい。するとニコッと笑った。
「セックスは興味ない?」
「え!」
童貞になんてことを聞くのだ。興味なんてあるに決まっている。否定は強がっているだけだということも理解しているから、返答に困る。俺はじっくり間を空けて渋々答えた。実際は即答だったかもしれんが自信はない。
「あります……」
「今から私としない?」
「揶揄って――」
「違うよ」
言葉を遮られた。
「3カ月前のエカさんを繰り返す――」
「それも違うよ」
また言葉を遮られた。
「お酒飲んでてそういう気分なの」
酒のせいかよ……
「それにこないだ助けてくれた時に格好いいなって思った余韻がまだ抜けてなくて」
酒のせいだけではなかった。しかし綱渡り効果か? それって継続性はあるのか?
「実はその助けてくれた時の君の裸を思い出して、濡れたことあるし」
相変わらず言葉が露骨だ。しかしその卑猥な表現にどう触れていいのかわからないので、俺からはコンプレックスに関する自虐的な言葉しか出ない。
「こんないかつい俺とするんすか?」
「タイプだって言ったじゃん」
「は?」
「言ったでしょ? 私は大きい人が好みなんだって。譲二君、素敵だよ」
ここで名前を口にするなんてズルい。今まで一度もなかったのに。俺はもうメロメロだ。
「いや、でも……」
「私みたいな汚れた女が初体験の相手じゃ嫌かな?」
「そんなことないっす! エカさんは清潔感があって綺麗だから願ってもない!」
「うふふ。良かった。じゃぁ、いいよね?」
唇で舌を噛んで微笑むエカさんは凄く魅惑的で妖艶だった。そして手を離し、軽く腰を上げると俺の首に腕を巻き付ける。
「私、頑張ってちゃんとリードするから。まずはキスからね。キスも初めて?」
俺は顔中に熱を帯びながら首肯した。あぁ、もうダメだ。俺はコロっと落ちた。
「ファーストキスいただきます」
そうして俺はエカさんから口づけられた。
その後ベッドに移動し、俺は呆気なく童貞を卒業した。「呆気なく」と言うのはあくまできっかけが唐突だったから呆気ないと感じただけで、内容は凄く濃くてエカさんの母性に包まれた夜だった。
「エカさんって肉食系っすか?」
「今知ったの?」
獣を捕食完了である。
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