第二章 第五節 野獣の独奏

 8月最初の日、俺はゴッドロックカフェの営業に立っていた。開店の17時より少し前に出勤すると、1時間ほどで1人の若い男がやってきた。俺と同年代で不愛想な彼はもう何度目かの来店だ。


 彼は2階の貸しスタジオを17時か18時から2時間ほど個人練習で使うベーシスト。この日は18時からで、週に1回くらいの割合で来店する。以前は学校があるからか、制服のままで来た。一度帰宅しているのかもしれないが、着替えずに来た。

 学生服の時は備糸西高校の制服だった。確かピンキーパークの元メンバーヒナさんが出身の高校だった。彼女の制服姿は見たことがないが、話に聞いたことはある。夏休みのこの日、彼は私服だ。


「いらっしゃい」


 特に何も言わず彼は会員証を示す。名は児玉恒星こだま・こうせい。会員手続きは以前に杏里さんがやったのだろう。俺は今まで気にしていなかったが、生年月日は俺の1つ年下になっている。

 俺が会員証を預かると彼は無言でベースを背負ったままスタジオに向かって店を進んだ。そんな彼を見送って数分後、店にやってきたのはエカさんだった。


「やっほう」

「いらっしゃい」


 思わず俺の表情は綻ぶ。彼女のその笑顔に癒されるようだ。


「やっとテストが終わったよぉ」


 ぐったりした様子でエカさんはカウンター席に着いた。見た目は暗い髪色で清楚で大人の魅力を感じるのに、先日一緒に夜遊びをしたからか俺に対してフランクだ。もちろん今までも緊張はなかったが、少しは仲が良くなったという印象を抱かせるので、それが俺にとっては嬉しい。


「何にします?」


 エカさんの前にコースターを置きながら俺は問い掛ける。


「カシオレ」

「はいよ」


 エカさんご注文のカシスオレンジを用意していると、エカさんが話を振った。


「こないだは送ってくれてありがとうね」

「いえ。こっちこそ楽しかったです」

「えへへん。そう言ってもらえて私は嬉しいぞ」


 エカさんは満足そうに言った。バンドを紹介してもらった日のあの夜遊び以来、俺たちは初めて会う。


「そうだ、バイト君」


 既に出したカシスオレンジを飲んでいたエカさんはふと思い出したように俺を呼ぶ。まだバーに他の来客はおらず、今は俺たち2人だけの空間だ。


「ライン教えてよ」


 一瞬なにを言われているのかわからなかった。情けなくも俺は綺麗な女性や美少女とライン交換をしたことがないから。いや、1人だけいた。美人の人妻店長が。まぁ、彼女は仕事上の関係だから連絡先の交換は当然だ。

 いや、そう言えばもう1人いた。高校の同級生雲雀裕美ひばり・ゆみだ。彼女はダイヤモンドハーレムのボーカルギター、古都こと先輩の妹で、1年生の時に同じクラスだった。今の3年生も再び同じクラスになり、クラスのグループラインがきっかけで個人間でも繋がっている。


 2年前、備糸高校では知らない奴はいないほど美少女で名の通っていた古都先輩。その妹の雲雀裕美もまたため息が出るほどの美少女だ。まぁ、俺からの目線はあくまで客観的なものであって、俺は清楚で大人な感じの人が好みだ。


 それはさて置き、俺はエカさんから連絡先の交換を求められていることを悟って、慌ててスマートフォンを出した。何を慌てているのだか。バンドを紹介してもらったり、元交流バンドだったり、スタッフと客の関係だから何も不自然ではないのに。一瞬で自分の期待を自己嫌悪に変えた恋愛偏差値の低い俺である。


「登録完了。スタンプ送ったよ」


 QRコードを読み込むと、エカさんはそんなことを言いながらスマートフォンを操作していた。俺のラインアプリに友達として登録されたエカさん。表示名は『EK』になっている。EKaの意味だろうか。アイコンも顔がはっきりしていない画像なので、俺は『エカさん』と登録し直した。


「オーロラはどう?」


 スマートフォンをカウンターに置いたエカさんが問い掛ける。オーロラとはエカさんに紹介してもらって俺が加入したバンドだ。


「大学生はテストが終わって今日から全体練習再開です」


 この日2度目のスタジオ練習に俺は行っていた。大学生もテストが終わって夏休みになり、8月中の練習は昼間にしていた。スクーターで都心まで行って、その後備糸市まで移動するのは骨が折れるが、夏休み中はフル出勤だからありがたい時間帯だ。

 大学生のテスト中に俺は持ち曲を覚えた。そして編曲アレンジもした。ベースのパートだけとは言え初めての創作だったので、どういう評価を受けるのか一抹の不安もあった。しかしメンバーからは概ね好評だった。ドラムのヤスからのリクエストで手直しをした箇所はあったが、そのヤスからもダメ出しまではされず自信になった。


「曲はバッチリ?」

「はい」


 と言ったところで俺は思い出した。自分の手荷物から封筒を取り出すとそれをエカさんに手渡した。


「エカさん、これ。カナメから今月のライブのチケット預かってきました」

「わっ、ありがとう」


 中には2回分のチケットが入っている。エカさんはそれを嬉しそうに収めた。その嬉しそうな表情は誰に対するものなのだろうか。わざわざカナメから預かったって言わなければ良かっただろうか。少し胸が痛んだ。


「はい、チケット代」

「あざす」


 俺はエカさんから現金を受け取り、それを店の売り上げと区別できるように収めた。


「楽しみだなぁ、オーロラのライブ。久しぶりだし」


 エカさんは言葉のとおり楽しそうな表情で遠くを見ながら言う。


「カナメからずっとライブ観に来いって言われてたし」


 その言葉に傷ついたが、俺は自分を誤魔化すように傷ついてないと内心言い聞かせた。


「バイト君がステージに立つのも楽しみだなぁ」


 その言葉には飛び上がるほど嬉しくなった。たったそれだけの言葉なのについ今しがたの落ち込みを忘れる現金な俺である。


「そう言えばエカさんって、そもそもカナメとはどういう知り合いなんすか?」

「あぁ。オーロラはピンキーパーク活動当時に交流があったバンド。対バンで一緒になったの」

「なるほど。と言うことは、ピンキーパークの元メンバーもみんな知り合いなんすね」

「そうだよ」


 そう答えたエカさんはカシスオレンジを口に運んだ。この時エカさんの目が俺に向いていないのをいいことに、俺はエカさんの手元を目で追い、そしてその薄い唇に意識が向いた。

 まだ酔っていない状態のエカさんに無邪気さはなく、落ち着いていて綺麗な人だと思う。無邪気なエカさんは憎たらしくもどこか可愛らしさを含み、今のエカさんは清潔感があって品がいい。そんなエカさんの二面性がどうしてかズルいと思ってしまう。


 そんなことを思っているとエカさんが俺を見て目が合ったので、俺は慌てて視線を逸らした。褒められないと思うような目でエカさんを見ていたことに自己嫌悪する。けどエカさんは特に気にした様子もなかったので、それに安堵する俺がいた。


「そう言えば、カナメがライブの後エカさんも打ち上げに来ないか? って」

「え? 行っていいの?」


 言葉を弾ませたエカさんを見て、また俺の胸は小さく痛む。カナメからエカさんを打ち上げに誘っておいてくれと頼まれた時も、エカさんとカナメの仲を疑って気持ち悪かった。ただ後になって冷静に考えれば、連絡先は知っている者同士なんだから自分で誘える。俺にエカさんへの声かけを任せたのだと気づいて少し冷静になった。

 しかし今のエカさんの弾んだ表情は複雑だ。単純にオーロラの打ち上げに参加することが楽しみなのか、カナメに誘われたと思って嬉しいのか。


「バッチリ空けとくね。もう書いたから」


 そう言いながらエカさんは自分のスマートフォンを俺に向けた。液晶画面はスケジュール帳の表示だった。文字は小さくて読めないが、スケジュールを掲げるなんてオープンなようだ。


 この後他の常連さんも来店し、エカさんはその常連さんたちとも絡んで楽しそうにしていた。俺が好きなこの店で楽しそうにしてくれるのは俺自身嬉しい。

 そしてエカさんは20時前に退店した。直後、貸しスタジオの利用客に入れ替わりがあり、俺はそれに対応しながらこの日の業務を進めた。

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