第一章 第四節 野獣の独奏

 俺がエカさんと電車でばったり会ったその週末、金曜日のことだ。学校では目前に近づいた夏休みに向けてピリピリしていた。そう、昨年までのように浮かれてはいなかった。

 備糸高校はギリギリ進学校だから受験生である同級生は、学校の夏期補習や予備校の夏期講習に向けてピリピリしていたのだ。俺にとってそんな空気は他人事で、この日もアルバイトをしにゴッドロックカフェにやってきた。


 先代店主が住んでいた2階が住居から貸しスタジオに改装されてから、開店は17時。17時は俺の出勤時間で、その頃から中高生や大学生年代のバンドマンがスタジオ練習にやって来る。この日の予約は好調で埋まっていた。

 そんな彼らの受付を世話しながら俺はバーの開店準備を始める。いくら17時開店になったとは言え、基本的に食事を置いていない店なのでオープンと同時にバーの客は来ない。だから開店と同時に開店準備が始まる。早くても最初の客が来るのは18時だ。


 この日もそんなルーティンをこなすように俺は仕事の手を進めていた。すると杏里さんがバックヤードから出てきた。


「遅くなってゴメン」


 恐縮そうに杏里さんが言う。杏里さんにしては様子が珍しい。

 いつも杏里さんは俺より早く出勤している。とは言っても、17時より少し前で俺より少し早いくらいだ。俺が出勤の日は2人で、俺が非番の日は杏里さん1人で開店準備を進める。この日今まで杏里さんは、バックヤードで事務仕事をしていた。


「大丈夫っす」

「重ねて悪いんだけど、譲二」

「なんすか?」


 まったく元気がない様子の杏里さん。やはり恐縮そうにも見える。


「今日店任せて大丈夫?」

「ん?」

「あたし帰ってもいい?」

「まぁ、いいっすけど、どうしたんすか?」


 1人で店を任されるのは杏里さんが新婚旅行で不在だったとき以来だ。その経験があるし、今では深夜バイトまでしているから1日くらい特に問題はない。


「体調悪い……」

「え? 大雨――」

「コロされたいの?」


 みなを言い切る前に脅された。いやだって、杏里さんが、あの杏里さんが体調不良だなんて。いつも元気で不敵に笑う杏里さんだぜ? 大雨どころか台風や大地震だって疑ってしまう。


「シツレイシマシタ」


 ただ杏里さんは怒らせると怖いので一応詫びておく。すると殺意の籠った目を引っ込めて杏里さんは虚ろな表情に戻った。確かに表情が真っ青かもしれない。心配になってきた。


「とにかく大丈夫ならお願いね」

「うっす」

「それからもうすぐ夏休みでしょ?」

「うっす」

「フル出勤できない?」

「へ?」


 思わず間抜けな声が出てしまった。フル出勤?


「あたしあんたが夏休みの間休む」

「……」


 返す言葉もない。どうしたと言うのだ。

 俺の知る限り、ゴッドロックカフェを店主が1カ月以上空けたのは3年前に1回だけだ。当時は大和やまとさんが店主をしていた。彼は店と並行してボランティアで当時下積みのダイヤモンドハーレムの面倒を見ていた。そのダイヤモンドハーレムが武者修行の全国ツアーを回ったのでその引率だ。

 これは俺も高校入学前の話だから後から聞いて知った。その時は当時大学生だった店主の従兄妹杏里さんがアルバイトとして店を任されたとか。


 しかし今のアルバイトは高校生の俺だ。しかも血縁関係なんてありもしない。こんな若造に1カ月以上も店を任せるのか? ただ杏里さんの体調は心配なので気に掛ける。


「杏里さん、体調大丈夫すっか?」

「それさっきあたしが言った。て言うか、あたしが言った時に心配しろ」


 そんな恨み言を吐く。確かに天気や天変地異の心配をしたから反省しよう。


「とにかくあと1週間、譲二の夏休みが始まるまであたし1人の出勤は頑張るから、夏休みはお願い」

「わ、わかりました」


 それだけ答えると杏里さんは力なく裏口から店を出て行った。勝手口のような裏口のスチールドアが閉まる音を耳にした直後。


 カランカラン


 今度は表のドア鈴が鳴った。防音の観点から前室があって2枚扉になっているゴッドロックカフェ。その店内側の扉に来客を知らせるドア鈴がついている。入って来たのはリクルートスーツ姿の女性客だった。


「ったく。生!」


 その女性はカウンター席に乱暴に座ると、これまた乱暴に隣の椅子にバッグを置いた。17時台のバーの来客も珍しい。そして俺には認識のない黒髪の女性客だが、店には慣れた様子なので、俺がまだ知らない常連さんだろうか?

 座るなり女性はスマートフォンを向いて視線を下げたので、顔もはっきりとは認識できない。けどたぶんやっぱり知らない客だと思う。それなので基本セットになっているコースターと灰皿の組み合わせを女性の前に置いた。そして一度離れた。


 女性をジロジロ見るのも失礼だと思ってビールサーバーでビールを汲みながら俺の視線はさ迷う。10席程度のカウンター席に、その奥には4人掛けの円卓が4卓のホール。ホールの前面は小さなステージと、背面は音響スペース。小さなライブハウスさながらの店だ。

 カウンター席の前を通過すると右手にバックヤードがあり、左手にステージ袖のドアがある。その廊下を突きあたると裏口があって、外に出ると脇には屋外階段。階段を上がると貸しスタジオだ。

 元が居住スペースだった2階だから仕方ないが、なんとも動線が整理されていない店である。


 俺は泡がグラスの縁まで盛り上がったビールを女性の前に置いた。


「はい、生っす」

「ん」


 喉だけ鳴らした女性。「うん」の意味らしい。その女性はグラスを持ち上げると口をつける前に言った。


「バイト君、私煙草吸わないの知ってるでしょ?」

「あれ?」


 俺は慌てて灰皿を下げた。しかし俺のことを認識している。そしてこの呼び方。そう思った瞬間、この女性が誰だか繋がった。


「ヒナさん!」

「……。何よ?」


 ビールを一口飲んでいたヒナさんは一度間を空けて喉を鳴らすと、途端に攻撃的な目を俺に向けた。まさか彼女がピンキーパークの元メンバーで、ボーカルギターだったヒナさんだとは。

 俺のイメージでヒナさんはプライドが高く高尚で、しかしリア充を謳歌している。ギャルではないが服装もメイクも髪色も派手。ガールズバンドにはそれこそいそうな雰囲気。


 しかし目の前にいるヒナさんは黒髪で、服装は地味なリクルートスーツ。何と言ってもメイクが地味だ。薄暗い店内でもさすがに会話をするほど面と向かって、そしてカウンターを挟んだ近距離で見ればメイクの程度はそれなりに掴める。


「ぷはぁっ」


 そのヒナさんは2口目を喉に通していた。もうグラスにビールは半分も残っていない。


「お代わり用意しときます?」

「そうして」


 とのことで、俺は2杯目のビールを用意してカウンター席に置いた。その時にはもう1杯目は無くなっていので、グラスを下げた。


「久しぶりですね」

「そうかも」

「随分雰囲気変わりましたね」

「前の方が良かったって?」

「いや、そういう意味じゃ……」

「わかってるわよ。私だって前の方が超絶可愛かったことくらい」


 自分で言うかそれ……。超然かどうかは判断できないが、リア充全開の雰囲気を出すヒナさんは確かに一定の男に受けるのであろう容姿だった。過去形だ。今のヒナさんがダメなんじゃなくて、イメージが全然違い過ぎるから過去形になってしまう。


「仕方ないじゃない。就活なんだから」

「あぁ」


 そう言えば今週、電車でエカさんと会った時に話した内容と合致する。それでこの地味な感じか。けど俺は今のヒナさんの方が女性としてポイントが高いと思うが。黒髪好きだし。エカさんの暗い髪色も良かったな。思い出すと多機能トイレでの至近距離が鮮明にイメージできるから今でも照れてしまうが。


「就活大変なんですか?」

「大変に決まってるでしょ! 私なんか総合職目指してるからなのか、訪問先の禿オヤジたちが女の数が少ないから新鮮とか言って鼻の下伸ばして。挙句の果てにはセクハラまがいのことまで言ってくるし。経験人数? もう数えてないわよ。うんたらかんたら……」


 相当ストレスが溜まっているらしい。それで飲まずにはいられず、忙しいにも関わらず1人で来店したというところか。

 ヒナさんの愚痴はしばらく止まらなかった。すると一息吐いたところでヒナさんは言った。


「あんたも飲みなさない」

「うっす。ありがとうございます」


 機嫌は悪くても俺のドリンクも出してくれるらしい。


「酒以外は飲んじゃダメよ?」

「は? 無理っす。俺高校生っす」


 どうやら違ったようだ。自棄酒の相手を探しているご様子です。


「つまんねー奴。飲め!」

「無理っす」

「どうせ高校生に見えないじゃん」

「老けてて悪かったっすね」

「悪いなんてもんじゃないわよ。杏里さんより年上に見えるし。だから悪いと思ってるなら酒に付き合え」

「なんすか、その理屈」


 しばらくそんな押し問答を続けていると、18時を過ぎてやっと他の常連さんが来店した。その男性常連さんがヒナさんの自棄酒に付き合ってくれて俺は事なきを得た。

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