第一章 第二節 野獣の独奏

 長椅子車両の電車に乗った俺が立って端席の手摺棒に捕まっていると、エカさんは俺を呼んだ。と言っても名前で呼ばれたことは一度もなく、いつも「バイト君」だ。そのエカさんは端席に座って小首を傾げ、キョトンとした表情で俺を見上げる。


「あ、おはようございます」

「おはよう」


 ニコッとして朝の挨拶を返してくれた。薄暗い店内やライブハウスでばかり対面してきたので、これほど明るい場所で見るのは珍しい。エカさんの笑顔は爽やかで、健やかで、華やかに見えた。こんな表情をするのかと初めて知り、寝不足の俺の気分を上げてくれる。


「電車の中で会うのって初めてだね」

「そうっすね」


 慣れない場所での会話なのでどういう表情とテンションで話していいのかわからず、俺は視線を逸らして答えた。


「なんか機嫌悪い?」


 焦りを生む質問をされた。それに俺は慌てて答える。


「いや、そんなことないっす。朝はいつもこんな感じで」

「なるほど。……ん? もしかして寝不足?」

「わかります?」

「うん。目の下にクマできてるから」


 それはよろしくない表情だ。ただでさえいかつい外見なのに。


 俺はこのいかつい外見がコンプレックスで、しかもそれが原因だと思うが人が寄り付きにくい。だから友達は時間をかけないと深い仲にならないし、親密な関係の異性もできたことがない。とは言え、男女関係なく俺の方に苦手意識はない。つまり人見知りではない。

 人見知りと言えば……高校1年の時の片思いを思い出してしまう。彼女の高校卒業と同時に会うことはなくなったが、それでもどこか俺の意識にまだ残っている。一度好きになるとなかなか吹っ切れないのだなと、絶賛恋愛勉強中だ。


「これ使う?」


 するとエカさんから言われた。淡い感情の明後日の方向に意識が向いていたが、そう言えば俺は今エカさんとばったり会って話している最中だった。エカさんはキョトンとした表情に戻っていて、手に持ったチューブ状のナニカを差し出していた。


「なんすか、それ?」

「ファンデーション」

「ファンデーション!」


 あまりに意外なものだったので、俺は張りそうになる声を抑えるのに必死だった。そんなものを俺は使ったことがないし、ごつい顔の俺が使うと悲惨なことになる。それこそホラーだ。

 もしも俺がやっている軽音楽で目指しているのがビジュアル系バンドなら使う奴もいるのだろうが、そもそもその音楽性は自分の容姿から選択肢に入っていない。


「うん。目の下に塗るとクマ隠せるよ?」

「あぁ」


 なるほど。そういう使い方もあるのか。確かにそれなら男にも需要は生まれる。

 と納得したところで背中のドアが開いた。俺が通う備糸高校の最寄り駅に着いたようだ。備糸駅からたったの2駅だし、電車が発車して少し経ってからエカさんが俺に気づいたというのもある。ほんの少しの会話でエカさんとはお別れだ。

 俺はファンデーションのことには答えず「また店で」が無難かな、なんて言葉を考えていた。するとエカさんの方が先に口を開いた。


「この駅で下りるんだったよね?」


 その言葉を耳にした時俺はもう半口を開けて出口に向いていた。そんな俺の視野の一番端っこ、横目に捉えたエカさんが立ち上がった。


「ん?」


 俺の疑問に答えることなくエカさんは俺の腕を取り、降りる母校の生徒の流れに乗ってなんとエカさんまで電車を降りた。俺は腕を引かれているのだが、なんだか目立つ。恥ずかしい。周囲は制服姿の高校の同級生や後輩が目立つ。


「エカさん?」


 ホーム脇の階段を上がる時、エカさんを呼んでみるが返答はない。斜め後ろから見るエカさんの表情は微かにしか窺えないが、ルンルンと鼻歌でも聞こえてきそうなほど軽やかな雰囲気を醸し出す。俺は腕を引かれるままだった。

 そして改札口の手前でエカさんが俺を連れ込んだのは駅の多機能トイレ。


「え? え? エカさん?」


 もちろん俺は焦る。入室際の周囲の訝しげな視線が痛かった。男女でこんなところに入れば当たり前だろうし、何より都合が悪いのは、ここは俺の母校の最寄り駅だ。


 ガチャッ


 エカさんは多機能トイレに俺を引っ張り込むと素早く鍵を閉めた。多機能トイレなだけあって2人入ったくらいでは窮屈さを感じない。するとエカさんはとても楽しそうな表情を浮かべて俺に寄ってきた。


「うふふ」


 魅惑的な笑みだ。店で会えばスタッフと客としてそれなりには話す。しかしそれだけだ。プライベートな交流は一切ない。だから今の距離感に戸惑う。

 エカさんは肩にバッグをかけ、右手には先ほど差し出したファンデーションのチューブを持っている。俺も肩に通学鞄をかけているが、空いている両手は後ずさりとともに背後の洗面台を掴んだ。両脇の手摺が逃げ場を無くす。


 ――ん? なんで逃げているような構図なんだ?


 状況を呑み込めていない俺にエカさんは言った。


「動かないで。そのままの体勢で目を閉じて」


 心臓がバクバク鳴るが、よくわからないので言うとおりにした。けど何をされるのか恐怖と期待があったので薄目を開けて様子を窺った。するとエカさんはファンデーションの蓋を開けて指先に粘液を乗せた。その指先でそのまま俺の目の下に触れる。

 なんだか心地いい。エカさんの指が俺の目の下を左右に行き来する。強くもなく、そうかと言ってくすぐったいほど弱くもなく、絶妙なタッチで気持ち良かった。


 エカさんはまたファンデーションの粘液を指先に乗せると今度は反対の目の下を擦り始めた。

 あぁ、なるほど。俺は今洗面台に背中を取られて手で支えながら軽く腰掛けている状態だ。必然的に腰は下がる。身長の低いエカさんからしたら図体のデカい俺の顔に手が届く高さだ。だから動くなと言ったのか。


「よし、できた。これでオッケー」


 途中から完全に目を閉じていた俺はエカさんの元気な声で我に返った。僅かな至福の一時は終わりを迎えたらしい。俺はゆっくり目を開けた。そこには満足そうな表情のエカさんがジッと俺を見ていた。


 エカさん……と言うか、エカさんが参加していたピンキーパークというバンドと最初に会ったのは中学を卒業してすぐ。高校生になる前の春休みだった。U-アンダー19ロックフェスの会場。俺のバンドと共にピンキーパークも出演バンドとしての出会いだった。

 と言っても、その頃のエカさんにそれほどの印象があったわけではない。ピンキーパークはヒナさんというギターボーカルの人が強烈な印象を放つ、ヒナさんのワンマンバンドだったからだ。


 その後バンドとして会うことが増え、会話を交わす程度にはなる。俺が憧れていたガールズバンド、ダイヤモンドハーレムによくヒナさんが噛み付いてはエカさんがそれを宥め、周囲に気を配るという役回りだということも知った。


 俺がエカさんとまともに会話をするようになったのはゴッドロックカフェでアルバイトを始めてからだ。エカさんはバンド現役当時、ゴッドロックカフェでライブをやったり、飲みに来たりと、出入りをしていたから。活動終了後も飲みには来る。

 当初はまだあどけない感じを残す女子大生という印象だった。並べば間違いなく俺の方が年上に見えただろう。しかし最近エカさんは雰囲気が変わってきた。垢抜けたようで、化粧も変えたのか大人っぽくなった。尤も、今でも並べば俺の方が老けて見えるだろうが……


 こんな感じで店や対バンライブの会場で会えばそれなりに話すが、今までプライベートな交流はない。連絡先も知らない。そんな垢抜けたエカさんが満足そうな大人な笑みを浮かべて今俺を見ている。しかも多機能トイレで2人きり。俺の心臓は暴れている。


「鏡見てみて」


 するとエカさんは言った。俺がどういう行動を取っていいのかわからずオロオロしているとエカさんは俺の両腕を取って――本当は肩を掴みたかったのかもしれないが、この時洗面台から腰を上げた俺の肩はエカさんにとって高かったのだろう――俺の体を180度回転させた。

 そこにはどこかスッキリしたような表情の俺がいた。あったはずの目の下のクマは見事に無くなっていた。

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