忘却の男 パラレル×クロス

Eika・M

第1話 F氏

「向こうの自分はいま何をしている時間だろう」

 ふと漏れた自らの言葉にF氏はうんざりしてコーヒーの残ったマグカップで口を塞いだ。新居のベランダに立って、ひつじ雲と高層ビルの群れとで形成されたモザイク模様を飽きもせず眺めていた午後だった。都営住宅に転居して以来ずっと頭から離れないイメージ。もうひとりの自分がいる。この世界に。もうひとりのオレは引越しする前の部屋で今も変わらぬ暮らしをしている。隣人の騒音に耳を塞ぎ、悪妻の言動に眩暈を覚え、それでも病床の彼女を見捨てることもできず、人生のリベンジを夢見て無駄骨を繰り返している。悪妻と無駄骨はこちらも同様だが。それにしても莫迦げた妄想だと自分でも呆れる。科学的根拠の欠片も無い。早く新しい生活に慣れてこんな妄想から解放されたい。最近はうまく抑えられていたつもりだった。でも隙をついてまた出てきた。やはりこの鬱陶しい妄想を止めるにはあれをやるしかないのか。前のアパートに行く。そして誰も住んでいないことを確認する。現実を目の当たりにすればおかしなスイッチが入ったまま戻らなくなった脳もリセットされるだろう。そうだ。何を躊躇している。時間だけは両手からこぼれるほどあるじゃないか。そう今からだって。リビングのほうに振り返るとまるで待っていたかのようにダイニングテーブルに置かれたスマホが震えた。妻からだ。飲み下したコーヒーと同量の苛立ちが喉の奥から絞り出された。

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