4.私の妹、地獄で見てない?

 助手席に天使を載せたのは初めてだった。


「まだ拗ねているのかい、ヴァニティー」


 低い声で唸り続ける愛車のハンドルを、スーツ姿のベリアルはそっと指先で撫でる。それでもヴァニティーは落ち着かず、計器盤をちかちかと明滅させた。


「こら、やめないか。あとで新鮮な肉をやるって約束しただろう?」

「……この車、生きているのね」


 助手席に座るラジエルは、興味津々といった様子で車内を見回す。

 その身に纏うのは寝巻でも、天使が纏う制服でもない。白のブラウスに青いチェックのスカート、ハイソックス――ベリアルが適当に選んだ品だった。


「そうだよ、ヴァニティーだ。私の可愛い子」

「悪魔ベリアルは、燃え盛る戦車に乗って現われると聞いたわ。車に乗り換えたの?」

「秘密さ。――あ、こら。カーナビを切るな、悪い子」


 真っ暗になった画面を、ベリアルはぺしんと叩く。

 しかし愛車は意地になっているのか、ナビは沈黙したまま動かない。

 ベリアルは仕方なく、片手でショッキングピンクの小型端末を取り出した。


「ちょっと、運転中にスマートフォンの操作は地上では厳禁よ」

「それ、人間の規則だろう。それにこれはスマートフォンじゃない」

莫迦ばかなこと言わないで。地上にいるなら人間の規則に従いなさい。どうしても使いたいのなら、いったん停車すること」

「うーるーさーいーなー、もー」


 心底鬱陶しそうに顔を歪めつつ、ベリアルはのろのろとヴァニティーを路肩に寄せた。

 端末の液晶をタップし、表示された画面を確認する。

 そんな些細なベリアルの動作にも、ラジエルはわかりやすく興味を示した。


「……地獄には、そういう機械があるのね」

「んー? 何、ヘルフォンを見るの初めてなの?」


 助手席からわずかに身を乗り出すラジエルに、ベリアルは小型端末を見せる。

 外観は人間のスマートフォンそのものだ。背面には、果実のシルエットが記されている。


「フォービドゥンフルーツ社の最新機種。ヘルフォン13だ」

「……禁断の果実フォービドゥンフルーツ社? それはつまり、リンゴ――」

「フォービドゥンフルーツ社だ。フォービドゥンフルーツ社なんだよ。似た会社があるかもしれないけどまったく無関係だ。――よし、もう三ブロック先だね」


 ヘルフォンを片付け、ベリアルはアクセルを踏み込む。

 ヴァニティーが今走っているのは、旧市街のアーケード街の近くだ。

 窓越しに見えたアーケード街は、平和な賑わいに包まれている。天使と悪魔の戦いによってもたらされた惨状の痕跡は、もはやどこにも残っていない。


「……本当に魔王補佐が、こんな場所にいるの?」

「ああ。この前確認したし、SNSで居場所も特定――って、何書いてるの?」


 助手席でなにやら書き物を始めたラジエルを、ベリアルは横目で見る。


「貴女から聞いたことを書き留めているのよ」

「こんな時まで仕事かよ」

「これは私の使命よ。ただの仕事ではないの」


 さらさらと白紙に紡がれていくのは、一見すると精緻な模様にしか見えない。

 天使文字――人間の魔術師が知恵を絞っても解読の叶わなかったそれをさらさらと書き記しながら、ラジエルは小さくため息を吐いた。


「いつもなら霊気を使って、情報を出力できるんだけど……翼を失ったせいでいろいろと不便だわ。でも紙とペンで書くというのも、良いものね」


 ベリアルはちら、とラジエルの様子を見る。

 一見すると、平静そのものだ。翼を失った痛みも喪失感をまるで感じていないように見える。

 けれども時折、ふとした拍子に背中を気にしている。

 こうして仕事に没頭しているのも、痛みや喪失感を紛らわせるためのものかもしれない。


「……ねぇ」


 考え込んでいると、ラジエルが躊躇いがちに声を掛けてきた。

 いつの間にかペンを走らせる手は止まり、じっとノートに視線を向けている。


「なんだい、もう運転中にヘルフォンはいじってないけど?」

「そうじゃなくて……聞きたいことがあるの。さっき、聞きそびれたことなのだけれど」

「へぇ、なんだい?」


 ベリアルがたずねると、ラジエルは困ったように視線を彷徨わせた。

 そしてヴァニティーのエンジン音に消されそうなほど小さな声で、たずねた。


「ラグエルという天使を、知らない?」


 ベリアルは一瞬、黙った。


「どうして、私にそんなことを聞くの?」

「探してるのよ。もうずっと昔から。どこを探しても見つからなくて……知らない?」

「知らないね。聞いた事もない」

「そう……貴女が知らないということは、地獄にはいないのね」


 ラジエルは、ほんの一瞬だけ微笑んだ。

 残念そうにも、安心したようにも見える――曖昧な笑みだった。


「……なんで悪魔に天使の行方を聞くわけ? 君、なんでも知ってる天使だろう」

「皆が言うほどなんでも知ってるわけじゃないわ」


 ラジエルは深くため息を吐き、窓を見た。

 青い瞳が物憂げに外の景色を眺める様を、ベリアルは無表情で見つめる。


「……ラグエルは、私の妹。私の半身とも言える存在よ。でも、遠い昔にどこかに消えてしまった。神は、『彼女は死んだ』と仰ったけど……」

「なら、死んだんでしょ」


 視線を前に戻し、ベリアルは素っ気なく答える。


「探す必要、ある? 連中が『死んだ』って言い切ってるのにさ」

「……そうかもしれない……でも、私は――」

「――まずいな。のんびりしすぎた。ちょっと急ごうか」


 言い淀むラジエルをよそに、ベリアルはアクセルを踏み込んだ。

 なにかを振り切るように、ヴァニティーは加速する。

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