5.ハンティング

 その場所は、どうやら『旧市街』と呼ばれているらしい。

 煌びやかな高層ビルはほとんどなく、大理石や煉瓦で作られた古びた建物の方が多い。

 どうやら海が近いようで、冷たい風には微かな潮のにおいを感じた。


「……なにかいるな」


 不穏な空気の震えを感じつつ、ベリアルは駆ける。


「風が胸に響くね……嫌な感じだ」


 そうして、ベリアルはある一つの建物の前に着地する。

 そこは、元は聖堂だったらしい。天井は半ば崩れかけ、壁は一面が枯れた蔦に覆われている。

 ベリアルは、さして警戒もせずに正面から幽霊聖堂に近づいた。

 足を進めるにつれ、空気が明らかに変わっていく。


「……間違いない。天使がいる」


 悪魔がいる時は、その場の空気は濁る。

 一見なんの変哲もない場所で人間が居心地の悪さを感じるのは、そこに姿を隠した悪魔がいるからだ。

 感覚が鋭い者ならば、一瞬だけ硫黄のにおいを感じるかもしれない。

 しかし今、ベリアルを包んでいる空気は違った。

 冷ややかで澄み切った――都会ではありえない空気。

 厳かで、峻険な印象さえも感じる。


「……やれやれ、居心地が悪いね」


 キャンディを一つ口に放り込み、ベリアルはぶるりと体を震わせる。

 天国の門を思わせる扉の前に立ち、一呼吸置いた。


「――連邦捜査官だ!」


 一回言ってみたかっただけのセリフを叫びつつ、ベリアルは扉を蹴り開けた。

 返事はない。ただ張り詰めた静寂が、彼女を出迎えた。

 ベリアルは扉の前に立ったまま、さっと堂内を見回した。

 朽ちてはいる。

 しかし白のレースを幾重にも折り重ねて作ったような、見事な建物だった。

 物憂げな彫像の他に、人影はない。

 雫の音に顔をあげれば、崩れた天井から雨雲が覗いた。

 左頬の紋様をしきりにさすりつつ、ベリアルは聖堂の中へと一歩足を踏み出した。

 すると、視界の中央に一瞬赤い線が走った。


「おや?」


 左に首を傾げた。

 左半身が、ずるりとずれた。


「……お、や、ぁ?」


 そのままベリアルの体は左右に分かれ、倒れた。

 体の正中線で真っ二つにされたその体から、赤やら青やらの臓物がこぼれ落ちる。

 てらてらと光る血が、地面に丸く広がっていった。


「――冥府の鼠め」


 両断された悪魔の体を前にして、天使は機械的な所作で剣から血を振るい落とした。

 その風貌は、人間が想像する天使とはおおよそかけ離れている。

 身の丈2メートル弱。

 群青の鎧に鎖帷子。牙を向く悪鬼を模した兜が、青白い顔の鼻から上を覆っている。

 背中には、燕に似た形の灰色の翼が一対。


「……終わりましたね」


 囁きとともに、聖堂の薄闇が揺らいだ。

 悪鬼の面が六つ浮かび上がり、両断されたベリアルの体へと滑るように近づいてくる。

 最初の天使が、居住まいをなおした。


「マステマΓ。悪魔は他にもいるだろうか」

「恐らくは」


 ベリアルの左半身の傍に立ち、マステマΓと呼ばれた天使は冷徹にその姿を見下ろした。

 真っ二つになった体を足で蹴飛ばし、槍の穂先で執拗に突く。

 そうして、やがて興味を失ったようにマステマΓはベリアルに背を向けた。


「これらは死体に巣食う蛆虫のようなものです」


 マステマΓの周囲で、他の天使達がまったく同時にうなずいた。

 己と瓜二つの姿をした彼らを見回し、マステマΓは淡々とした口調で言葉を続ける。


「大群で群がり、魂を浅ましく食い荒らす。恐らく我々の計画を嗅ぎつけた魔王がよこしたのでしょう。この一匹だけではないはず。ただちに周辺を捜索し――」

「――ひっでぇな」


 笑い声とともに、ずぶりと嫌な音がした。

 マステマΓはわずかに体を痙攣させながら、振り返った。


「傷ついたぞ」


 ベリアルが笑っていた。――左半身だけで。


「なっ、なっ……」

「マステマじゃないか。おしおき専用の量産型天使」


 痙攣するマステマΓに、ベリアルの左半身は半分だけの笑顔を浮かべて囁く。

 その手は、悪鬼の天使の胸元に深々と突き刺さっていた。


「お、おまえっ、確かに……死……ッ!」

「君達、普段は道を誤った人間とかを懲罰するための存在だろう。あと、悪魔に嫌がらせしたりさ。こんなところで一体、何をしているんだ?」

「おのれ、悪魔め――ッ!」


 別のマステマが叫び、剣を手に躍りかかる。

 黒い閃光が走った。

 それは襲いかかったマステマの右肩に突き刺さり、勢いのままに背後の壁へと縫い止めた。


「グッ、あぁあああああああアアアア――!」


 身をよじらせ、マステマが絶叫する。

 そこに刺さるのは悪魔の鉄針だ。

 ただただ苦痛を与えることに特化したそれはグロテスクな螺旋形。マステマの鎧を貫通し、動くたびに肉と骨とを破壊する。


「私には右側もあるんだよ」

 

 気の抜けた声。

 見れば倒れたままのベリアルの右半身が、投擲の姿勢で手を伸ばしていた。

 その断面を見て、マステマのうちの一体が悲鳴を上げた。


「こ、こいつ――体の中に、!」

「な、なんですって――!」


 ベリアルの左手に貫かれたままのマステマΓが息を飲む。


「なにもないが、あるんだよ」


 ベリアルの右半身が、いびつな笑みを浮かべた。

 見ればその断面には確かに、なにもなかった。内部に満ちていたはずの色鮮やかな管やら袋やらは全て瞬く間に消失し、ただただ黒い何かが揺れている。

 地面に広がっていたはずのベリアルの血もまた、黒い煙と化して消えていった。


「――ひどいね、せっかく内臓を模倣してそれっぽく見せてたのに」


 ベリアルの右半身と左半身が、漆黒の炎に包まれた。

 同時に、マステマΓの胸から湿った音ともに左手が引き抜かれた。


「う、ぐぁ……!」

「おかげで体内が元通りすっからかんだ。空っぽの体腔が寂しいよ」


 呻き声とともに崩れ落ちるマステマΓをよそに、ベリアルは炎から現われた。

 何事もなかったかのように、左右揃った姿となっている。

 そしてその左手には、煌めく群青の結晶があった。

 霊素核――自らの心臓ともいえるものを目にして、マステマΓは悲鳴を上げた。


「き、貴様……!」

「おや、最新型かな。霊素核を取り出しても喋れるんだ。それじゃこれはどうだい?」


 ベリアルは首を傾げると、左手に力を込めた。

 ガラスの砕け散るような音が響く。

 あっさりと、マステマΓの霊素核は塵となった。

 恐ろしい悲鳴が響き渡った。

 身をよじらせ、マステマΓは地面に背中から倒れ込む。他のマステマが助けようとするのも空しく、中枢たる器官を失ったその体は煙と化して消滅していった。


「……マステマじゃこの程度が限界か。仕方がないね」

「貴様……! よくもマステマΓを!」


 怒号とともに、残る四体のマステマが動いた。

 鎧が軋む。槍が唸りを上げる。床を踏み砕き、二体のマステマが突進してくる。この二体は体格も大柄で鎧も重厚。他に比べて重武装だった。

 さらに後方でもう二体が飛翔。

 灰色の翼が俊敏に動き、その姿は一瞬にして掻き消えた。

 合計四体。正面からは重武装のマステマ。飛び回る二体はどこから来るのか予想不可能。

 ベリアルは、さして表情も変えない。

 黒のコンパクトを取り出し、手早く唇にルージュを塗り直す。


「……準備体操でもしておこうか」


 そうして、かつりと靴音を鳴らした。

 たったそれだけで、ベリアルを中心に衝撃波が走った。

 マステマ四体は、その直撃を喰らった。

 飛行していたマステマが高い天井に叩き付けられ、壁を破壊して吹き飛ばされる。

 重武装のマステマの槍は砕け散り、その破片が星の如く散った。


「――上だ! 気をつけろ!」


 切羽詰まった叫びに、重武装のマステマのうち一体が反射的に視線を上に向けた。

 直後、その胴体が背後から刺し貫かれた。


「悪いね、嘘を吐いた」


 声にならない悲鳴を上げるマステマに、ベリアルは肩をすくめた。

 その左手には、ライター。

 灯芯から生じた炎の剣が、マステマの胸を貫通していた。


「貴様ァア――!」


 残る重武装のマステマが叫び、その手に剣を生じさせて襲いかかる。

 至近距離から迫る切っ先に、ベリアルは


「おぉ、仲良しだね。仲良しは――」


 灯芯剣で刺したままのマステマを盾にした。

 剣はマステマの甲冑をあっさりと貫通し、その腹部に深々と突き刺さった。


「グゥウ――!」「な――ッ!」


 くぐもった呻き声によって、同胞を貫いたマステマに動揺が走る。

 そして、悪魔は動きを止めた獲物を決して逃さない。


「仲良く死ね」


 ベリアルが微笑んだ瞬間、灯芯剣が勢いよく燃え上がった。それは串刺しにされたマステマのみならず、それを刺し貫いた同胞さえも炎の内に呑み込んだ。

 二つの絶叫が混じり合い、聖堂の空気をびりびりと震わせる。

 業火の中で、マステマの体が崩れ落ちていく。

 そうして全てが焼け落ちた後には、二つの透き通った群青色の結晶が浮遊していた。

 霊素核だ。それも圧倒的な熱量によってひび割れ、砕け散った。

 それを確認したところで、ベリアルは炎を鎮めた。

 直後、爆発めいた音を立てて壁がぶち破られた。


天式霊威てんしきれいい――懲罰の鎚パニッシュボルト!」


 高く飛翔する二体のマステマ。それらがまったく同時に、天に向かって槍を向けた。そこに霊気が収束し、聖堂の天井に向かって無数の紫の光球を放った。

 これは人間や悪魔に罰を下す際、マステマ達が好んで用いる術だ。

 光球は電気を纏い、強烈な雷を懲罰の対象に叩き込む。


「消えろ、悪魔――ッ!」


 マステマの咆哮とともに、光球は紫電を漲らせた。

 爆ぜたような音を立てて強烈な光を放つそれに、ベリアルは視線さえ向けなかった。


「うるさいよ」


 ただ、灯芯剣をぶんと振る。燃える灯芯が揺れ――そして、しなった。


「……は?」


 いずれかのマステマが呆けた声を漏らす。

 悪の灯芯の刃が、伸びた。

 炎の鞭と化したそれは不吉な風切り音を立て、荒れ狂う。

 まずは稲妻を発生させようとしていた光球へとぶち当たり、閃光とともにこれを消滅させた。

 そして飢えた大蛇の如く、マステマ達へと襲いかかった。

 一体目は反応が遅れ、胴体を真っ二つに裂かれた。

 二体目はかろうじて避けたものの、翼の先端部分を切り落とされた。


「あ、ギッ、ひぎっ……アアアアアアアア……ッ!」


 血を吐くような叫びとともに、翼を傷つけられたマステマが墜落した。


「おやおや、可哀想に」


 ベリアルは悶え苦しむマステマに歩み寄り、血を流す翼を見下ろした。

 そして、灯芯鞭を軽く振った。鞭が硬化して刀に戻った。


「ばっさり落とさないと見栄えが悪いね」


 なんの躊躇もなく、マステマの翼を切り落とした。

 血が滝のように流れ落ち、絶叫がびりびりと空気を震わせる。翼を切り落とされたマステマはわけのわからない叫び声を上げ、手足をめちゃくちゃに動かした。

 と、その四肢が急に弛緩した。

 ぼこぼこと霊的細胞が泡立ち、煙と化して消えていく。

 あとには、霊素核が残った。それはベリアルの目の前でぴきぴきと音を立て、砕けた。


「おや、翼を落とされただけで消えちゃった」


 ベリアルは顔の紋様を掻きつつ、灯芯剣をくるくると弄んだ。


「お、お、オォオオォオオオ――ッッ!」


 絶叫が響く。ベリアルが振り返ると、あの壁に縫い付けられていたマステマが飛んでいた。


「よくも、よくも同胞を!」


 紫の炎がマステマの体を包み込んだ。

 そしてそれを突き破るようにして、真の姿のマステマが現われた。

 曇り硝子を思わせる光の翼。頭上に浮かぶのは暗い光輪。群青色の金属外殻。悪鬼の兜は完全に頭と一体化し、そこに浮かぶ無数の瞳が鬼火のように輝いていた。

 灰色の翼が閃光を放つ。同時に衝撃波とともに、マステマの姿が掻き消えた。


「おや、真化しんかか」


 ベリアルがわずかに目を見開いた。

 その瞬間、マステマの姿はベリアルの眼前にあった。


「永遠に苦しめ、冥府の鼠め――ッ!」


 槍に、炎が灯る。殺意と熱気とを纏うその一撃を、ベリアルは避けもしなかった。


「……マステマの本気なんて、こんなものか」


 ため息。直後、鈍い音が響いた。

 熟した果実が潰れたような音とその感触に、しかしマステマは驚愕の声をあげた。


「なっ……?」


 槍は、確かにベリアルの胸に突き刺さっていた。

 鳩尾――人間と同じく、多くの天使と悪魔にとっては急所だ。

 何故ならそこには、霊的生命体の心臓ともいえる霊素核が宿っているのだから。

 けれども、手応えがない。


「ねぇ、聞きたい事があるんだけどさ」


 さらに槍を深々と胸に埋めたまま、ベリアルは涼しい顔でマステマに話しかけてくる。


「君達、ここで一体なにをしてたの?」

「き、貴様……貴様、何者だ……!」

「質問しているのは私なんだけど」

「一体なんなんだ、貴様は! 全ての霊的生物は体内に霊的細胞で構成された器官と霊素核を持つ! 天使も、悪魔もだ! なのに貴様の体はどういうことだ!」

「失礼だな。私にだって霊素核はあるよ。だからさ、質問に……」

「ふざけるな! こんな、こんなことがあって――!」


 怒鳴り声を上げたマステマは、そこである事に気づき、ひっと息をのんだ。


「なっ……槍、が……」


 マステマの槍は確かにベリアルの体を貫き、柄の半分ほどまで埋まっている。

 本来ならば、ベリアルの背中を穂先が突き破っているはず。

 なのに、槍が貫通していない。

 それどころか、槍はひとりでにずぶずぶとベリアルの胸へと沈んでいく。


「な、ど、どうなっている! なにが――ッ!」

「……何、私のナカがそんなに気になるの?」


 とっさに離れようとするマステマの手に、ベリアルはそっと自分の手を重ねた。

 キィンと甲高い音が小さく響く。

 瞬間、マステマは指一本動かすことができなくなった。

 ベリアルが、ごくわずかな霊気を手を通じて流し込み、その自由を奪い取ったのだ。


「お、のれ……!」


 なんとか抵抗しようとマステマは四肢に力を込める。

 しかし震えることしかできないマステマに、ベリアルはおもむろに顔を寄せた。


「暴れるなよ。私のナカが気になるんだろう? 天使のくせにやらしいねぇ。まぁ、お前からはロクな情報も入手できなさそうだし――特別に堪能させてあげよう」


 ベリアルは、わずかに口を開けた。

 赤く彩られた唇。艶やかにぬめる舌。人間と同じ形をした白い歯。――そして、闇。


「あ――」


 それを見た途端、マステマの震えが止まった。

 ベリアルの歯の向こうには、奈落があった。

 決して抗いようのない――命あるものを呑み込む絶無だけが、そこにあった。

 それが迫るのを前にして、マステマはかすれた声を漏らした。


「た、たすけ――」「やだ」


 命乞いはあっさりと拒絶された。


 そして砂糖菓子を喰らうかの如く、ベリアルの歯はマステマの頭部をたやすく噛み砕いた。

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