2.虚飾と傲慢
数分後――ベリアルは、万魔殿の中枢ともいえる
黒い床と赤い壁で形成された廊下が延々と続く。
最奥には、巨大な扉があった。
表面には冷徹な輝きを放つ金星と、七つの首を持つ龍のレリーフが彫り込まれている。
「失礼しまーす」
ベリアルは、躊躇なく扉を蹴り開けた。
そうして目の前に広がったのは、途方もなく広大な円形の空間だった。
天井には特殊な加工を施した悪魔の骨のシャンデリア。
捩れた角を持つ無数の頭蓋骨の眼に、青い鬼火の光が揺れている。
シャンデリアのさらに上にはぼうっと光り、鳴動する粘膜が見えた。細かな血管が縦横無尽に走り、さながらレース模様の如く肉の天井を彩っている。
「――不敬である」
低い女の声が響く。
直後、広間の奥から強烈な白光がベリアルに向かって放たれた。
視界が白く塗り潰された。
轟音とともに壁と床とに亀裂が刻まれ、崩落するシャンデリアが瞬く間に灰燼と化した。
やがて臓腑を震わせるような残響を残し、光は消えた。
「……これはこれは」
無傷のベリアルは目を細め、左手を軽く振るった。
その左手には、大振りな円筒形のライターがある。
一部が変形したそれは芯から烈炎を吐きだし、灼熱の剣を形成していた。燃える剣を片手で構えたまま、ベリアルは視線だけであたりを見回す。
空中に、無数の瓦礫や骨片が静止している。
手を叩く音が響いた。直後、静止していたものが全て一斉に動き出す。
まるで映像を巻き戻ししているかの如く、壁や床などの元の場所へと瓦礫が戻っていく。
そうして破壊の痕跡は、またたく間に消えた。
「……ひどいな。ずいぶんな挨拶だね、ルシファー」
「貴様が五分遅れたからだ、ベリアル」
広間の最も高い場所を浮遊する玉座で、黒髪の女が軽く顎をそらした。
美しく――そして、禍々しい女だった。
眼、鼻筋、唇、喉、肩、足――肉体を構成する全ての要素が完璧に整っている。豊かな乳房の形も、引き締まった腰の細さも、全てが絶妙だった。
しかし黒革の衣に包まれた肌は青白く、死人のそれを思わせる。
頭の周囲には七色の光球が浮かび、腰まで届く黒髪に螺鈿模様のような輝きを添えている。
「あと一分でも遅れていれば、貴様を虚無に還していた」
妖しく煌めく黒髪を掻き上げて、女がすっと赤い瞳を細める。
地獄の最高権力者――魔王ルシファー。
かつては至高の天使であったものの天に反逆し、大戦の果てに地獄へと落とされた。
その名は天使のみならず、人間にも未だ恐怖とともに語られている。
「そんなひどいこと言わないでよ。友達だろ」
ベリアルはライターをポケットに収めると、ふわりと宙に浮かび上がった。
広間にはルシファーの玉座の他にも、七つの玉座が浮遊している。
そのうちの一つ――『虚飾』と刻まれた玉座に、ベリアルは足を組んで座った。
「五分なんて遅刻のうちにも入らないよ。五十六億七千万年に比べれば」
「思い上がるのも大概にしろ、形ある虚無。――跪き、許しを請え」
「……わかった。確かに私も調子に乗りすぎた」
組んだ足を下ろすと、ベリアルはしおらしく目を伏せた。
「遅れて申し訳ない。そして無礼な口を利いて悪かった。天使長ミカエルの亜流品」
強烈な白光が弾けた。
ベリアルは座ったまま、左手で指を鳴らした。
それだけで周辺の空間が歪み、黒ずみ、ルシファーから放たれた光弾を消滅させる。
「……貴様、謝罪という行為の意味を知っているのか?」
「悪い事をした時に適当なことを言って取り繕うことだろう、天使長ミカエル亜種」
「ルシファーだ! 奴と混同するな!」
玉座の肘掛けに拳を打ち付け、ルシファーが吼えた。
ようやく感情を見せた魔王に対し、ベリアルはくつくつと笑った。
「……いいか、よく聞け。奴が、私の亜流品だ。忌々しい神にとって私の顔は渾身の出来だったようでな、だから奴に使いまわした。私が、原点にして頂点だ。わかったか?」
「わかったよ、2Pカラー」
「お前の髪の青いところ全部抜くぞ」
「やだなにそれ怖い。わかった、もうやめるよ。ごめんねぇ」
口先だけで謝罪して、ベリアルは玉座の肘掛けに頬杖をついた。
「で、何? なんだって私を呼び寄せたんだい? デートなら願い下げだよ」
「その偽りの舌を引き抜くぞ。――貴様に仕事だ」
ルシファーは唸ると、掌を上に向けて片手を伸ばした。
掌から赤い光が迸る。それは瞬く間に頭上へと駈け上がり、オーロラの如く天井を覆った。
「撮影地点は
不気味なオーロラに映し出されたのは、地獄へと沈む霊魂の様子だった。
青白く輝く人影のようなものが、深淵の闇へと落ちていく。ほとんどの影は濃度の差はあれど、赤黒い煙のようなものを纏っていた。
「……魂の数が少ないね」
「そうだ。最近、地上から地獄へと落ちてくる霊魂の数が減っている」
「動物とかの霊は基本的に比重が軽いから、すぐに次の生へと移る……だからここに落ちてくるのは比重の重い人間の霊魂。その数が減ってるということは――」
顔の紋様をさすりながら、ベリアルはオーロラを見上げた。
「人間の寿命が急激に伸びたとか?」
「そこまで急激な技術革新の様子は見られんな」
「ふぅん……それじゃ、考えられるのは――」
「霊魂がどこかに流れている」
ルシファーは一つ指を鳴らした。
すると、どこからともなく黒煙が漂い、ルシファーの手に収束する。そうして現われたのは、カラフルなガムボールを大量に詰めた硝子の容器だ。
『イスカリオテ』と書かれたそれの蓋を開け、ルシファーはガムボールを一つ取り出す。
「……通常、霊魂というのは生前の罪業によって比重が変わる。穢れた重いものは地獄に、清らかな軽いものは天界に……」
「でも、最近は死者が天に向かうことはほとんどない」
薄く笑うベリアルに、ガムを噛みながらルシファーは「そのとおり」とうなずいた。
「最近の人間は全て必ず地獄にやってきて、燃料として用いられる。原動機たる
「なのに地獄に辿り着く霊魂が減っているということは――」
赤いキャンディを取り出しながら、ベリアルはすっと目を細める。
「……協定を無視して天界が干渉してるとか?」
「私もそれは考えた」
ルシファーは渋い表情でうなずいた。
「しかし、間者の話では天界は一九九九年から現在まで内乱状態にある。……果たして、地上に干渉する余地が連中にあるのかどうか」
「ああ……そういえばそうだったね。なら、人間が妙な知恵をつけたのかな」
「原因は不明だ。霊魂は減るばかり。我らが地獄の発電は、全て罪深い人間の魂によってまかなっている――そこでベリアル。貴様の出番だ」
その時、広間の空気が急に重みを増した。
魔王から放たれる威圧感によって気温は急激に下がり、光は影へと沈んでいく。
「ベリアル――不正の器、虚無の形、悪の体現。地獄一の無礼者にして、九君主の一角よ」
重く冷やかな闇の中で、ルシファーの瞳だけが熾火のように赤く光っている。
ベリアルは足を組んだまま、緑の瞳を細めた。
「……私に何をして欲しいの?」
「霊魂の行方を探れ。このままでは、地獄のエネルギー供給に支障を来たす」
「……仕方がないね」
ベリアルは肩をすくめると、玉座の背もたれに体を任せた。
ころころと口の中でキャンディを転がしながら、彼女は闇を見上げる。
「霊魂が絶えれば、ここがまた殺しか拷問かセックスしか娯楽のない地獄みたいな場所になってしまう。……いや、まぁ。ここ地獄なんだけどさ」
「――それと」
瞬間、広間は元の景色に戻った。
先ほどまでの闇が夢だったかの如く、シャンデリアは煌々と輝いている。
「……貴様に頼みたいことがもう一つ」
ルシファーは、視線をいくらか彷徨わせた。妙に様子がぎこちない。
「……ベルゼブルを探せ。地上にいるはずだ」
「なんで?」
「魔王たる私と、魔王補佐である奴との間に、ちょっとしたコミュニケーション上の問題が生じた。詳細は禁則事項となっているのだが、その結果として奴は地上へ……」
「ベルゼブルと喧嘩したな?」
「禁則事項だ」
「先週、万魔殿が炎に包まれてたのはそれが原因だな? だから君、機嫌が悪いんだ」
「禁則事項だ。貴様に話すことは――」
「ガキかよ」「やかましい!」
肘掛けに魔王の拳が叩き付けられた。
瞳を不規則に光らせながら、ルシファーは大きく肩を上下させる。やがて呼吸を鎮めると、彼女は気を取り直すかのように何度か咳払いをした。
「……奴は、貴様より先に地上に出た。『霊魂の流れを探る』と言って。……普段、会議にも出ないほど出不精の奴がわざわざ地上に出たのは、やはり、その……」
「君のせいだろうね。素直に謝罪したら?」
「………………な、ぜ、わ、た、し、が、あ、た、ま、を、さ、げ、る?」
これ以上ないほどに顔を引きつらせるルシファーに、ベリアルはくすっと笑った。
「それでこそ元欠陥天使だ。その傲慢こそが、君を君たらしめるもの。――いいだろう」
ベリアルは腕を組んだまま、玉座からふわりと浮かび上がった。
緩やかに地上へと降り立つと、ひそかに打ちひしがれているルシファーを見上げる。
「これは貸しだぜ、魔王陛下」
「早く失せろ。資料は後で回してやる」
「それが物を頼む態度かい? ――ま、いいか。なんせ地上だ。そうだよ、地上だ!」
ベリアルは踵を返し、扉に向かって大きく両手を広げる。
見えない霊気が空気を震わせる。巨大な扉は、ベリアルの目の前で独りでに開いた。
「地上! 地上! 久々の地上だ」
意気揚々と歩き出すベリアルの背中を、ルシファーは薄気味悪そうに見た。
「……ずいぶんな浮かれようだな」
「そりゃ浮かれるさ! まったく自分が
扉の前に立ち、ベリアルはわずかに振り返った。
肩越しにルシファーに緑の瞳を向けると、黒い紋様をいびつに動かして笑う。
「では、行ってくる。良い報告を期待したまえ、ルシファー」
「……仕損じたら殺すぞ、ベリアル」
ベリアルは喉の奥で小さく笑い声を立てると、軽い足取りで廊下へと出た。
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