レクチャー・フォー・デビル

伏見七尾

Prologue.墜天

0.天より墜ちるラジエル

 嵐の空を、天使は駆けていた。


 うねる風を裂き、叩きつけるような弾雨の幕を突き抜ける。

 雷光に照らされたその姿は、人間の想像するようなそれではない。

 ほっそりとした真珠色の金属外殻で形成された体躯。頭部には白の光輪が浮かび、眼窩には二対の眼が青く燃える。背中には、幾何学的な形の青い光の羽が展開されていた。

 鋭い剣にも似た形の足で雲を裂き、天使は亜音速で飛行を続ける。

 不意にその視界に、黒い影がよぎった。


「――止まれ、座天使ラジエル」


 自らの名を呼ばれ、白の天使――ラジエルはわずかに眼を細めた。

 一体の天使が、ラジエルの左にぴったりとつく。

 仄暗く光る光輪。闇に溶け込むような群青の金属外殻。光の羽はスモークガラスのような灰色で、ラジエルよりもさらに鋭い形をしていた。


「こちらは天界懲罰部隊『煉獄』が一、マステマΒベータ


 天使がラジエルに顔を向けた。

 牙を剥き出す悪鬼を模したような顔面。無数の眼が、ぼうっと光っている。


「ただちに真化態しんかたいを解き、降伏せよ。貴女に残された選択肢は恭順か、消滅の二択だ」

「私はどちらも選ばない」


 ラジエルは短く答えた。透き通った氷を思わせるような、澄んだ声をしていた。

 水晶を打ち鳴らすような音とともに、青い光の羽がゆらりと翻った。

 ラジエルは、反転した。青く燃える四つの瞳が、悪鬼の顔を真っ向から睨む。


「必ず生きて天界に帰るわ」

「戻っても意味はない」


 吹き荒ぶ風の音の中、マステマΒの声はどこまでも空虚に響いた。


「……神霊の園たる至高天は遠い昔に隔絶され、栄光の天使達は身を隠して久しい。……残されたのは狂った天使と、貴女のような物好きな天使だけ」


 雷光が空を切り裂いた。

 大蛇の如くのたくる紫の光が、ラジエルとマステマΒの金属外殻を鋭く光らせる。


「もはや神はいない。天にも、地にも、どこにも」

「いいえ、神は必ず戻られるわ。あの方は、人間と天使に約束したはずよ」

「……もはや言葉など無意味か」


 マステマΒが緩く手を広げた。

 鉤爪を備えたその両手に光が収束し、一本の槍と鞭とを形作る。


「……たった一体で、この私と戦うつもりなの?」

「……やり方次第だ。天界での戦いで貴女は疲労し、いくらかの傷も受けているはず」

「それでもマステマに私が敗北する道理はない」

「やり方次第だと申し上げたはずだ」


 マステマΒの右手から紫の炎が迸った。

 それは槍へと流れ込み、穂先から柄までを禍々しく染め上げる。

 その時、ラジエルの聴覚は異音を捉えた。

 なにか大きな物が空を飛ぶ音。天使の飛行音とも、鳥の羽ばたきの音とも違う――異質な音。


「……これは、まさか」

「確かに正攻法では貴女には勝てない。だが――これならどうだ、ラジエル」


 マステマΒが槍で示した方向に、巨大な影が浮かんだ。

 雷光の走る雲の影が切り裂かれて、巨大な機械の鳥が現われた。翼の下に四つの巨大なエンジンを備え、頭の代わりにコックピットを持つそれは間違いなく――。


「人間の旅客機――どうしてこんなところに!」

「……今はマステマΔデルタが制御している」


 マステマΒの言葉通り、旅客機のコックピット部分に黒い影が見えた。恐らくあのマステマが旅客機のシステムに干渉し、ルートを大きく狂わせているのだろう。


「さて、マステマΒが天界の叡智たるラジエルに問う」


 炎の槍が旅客機へと向けられるのを見て、ラジエルは呆然として首を横に振った。


「やめなさい……やめなさい、貴方達! そこまで堕ちたというの!」

「乗客乗務員含めて恐らく三〇〇人超」


 マステマΒはラジエルの言葉を無視して、淡々と言った。

 群青の金属外殻が軋み、投擲の姿勢を取った。雷光が、そのおぞましい面を白く照らした。


「人間の命と自分の命――貴女は、どちらを選ぶ?」


 槍が唸りを上げた。

 暴風をものともせず、烈炎を纏ったそれは旅客機めがけて放たれた。


「おのれ、マステマ――ッ!」


 咆哮とともにラジエルの青の羽が強烈な衝撃波を後方に叩きつけた。

 槍を追い、天使の体が加速する。

 音が遠のく。風が幾万もの雨雫が静止する。

 神速に達した天使の視界では、黒雲を迸る雷光さえも減速して見える。


天戦輪・光彩陸離ガルガリン・オーヴァードライヴッ!」


 速度を緩める世界の中で、ラジエルは槍に向かって鋭く手を振るった。その手に銀の車輪が閃き、青い稲妻を纏いながら槍へと迫った。

 爆音――高速回転する車輪は、旅客機を狙う炎の槍に命中する。

 槍の破片が飛び散る。その炎と煙の向こうに、雨に濡れた悪鬼の面が光る。


「……人間など見捨てれば良かったのです、ラジエル様」


 悔しげに四眼を細めるラジエルに、一瞬で距離を詰めたマステマΔが囁く。

 直後、その槍がラジエルの胸を深々と刺し貫いた。

 星の如き真珠色の破片が散る。赤い血が噴きだし、雨とともに地上へと落ちていく。

 槍が引き抜かれた途端、ラジエルの姿が陽炎の如く大きく揺らいだ。

 次の瞬間――そこには白髪の少女の姿があった。

 青い瞳を大きく見開き、白髪の少女は――ラジエルは呆然と自らの胸元を見下ろす。

 白と銀の服に赤く濡れた大穴が穿たれ、背後の雷雲が覗いている。


「ああ……」


 その背中で、二対の翼が力を失う。ゆっくりと、ラジエルの体が崩れ落ちる。

 墜落が始まる刹那、ラジエルは最後の力を振り絞って去りゆく旅客機へと手を伸ばす。血の気の失せた指先から青い閃光が走り、旅客機へと飛んだ。

 青い光に包まれた旅客機は、荒天の彼方へと消えていった。

 ラジエルは一瞬だけ、表情を和らげた。

 しかし、すぐにその瞳から光は消えた。力を失ったその体は、重力に従って落ちていく。

 そうしてラジエルの姿は、鉛色の雲の向こうに消えた。


「……愚かな方だ」


 マステマΒは新たな槍をその手に生じさせると、近くを飛ぶマステマΔに視線を向ける。


「他部隊に召集をかけた後、地上の『収穫』に加勢する――良いな」

「承知」


 機械的な応答を聞きつつ、マステマΒは再度ラジエルの消えた方向を見た。


「……念には念を入れるべきか」


 その頃、遥か下方――地獄では、一体の悪魔が暇を持て余していた。

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