さようなら! 惑う心と散り行く命!【3-2】

 何を浮かれていたのだろう。

 何故か何が起こっても順調にいくと思っていた。平和な日常なんて簡単に壊れることをついこの間体験したばかりだというのにすっかりと忘れていた。

 背筋に冷たい汗が流れる。頭は負の感情に囚われつつあり、肺の機能が低下したかのように息苦しかった。


「霜月さん!!!!!!!!」


 喉が擦りきれる程の声量で叫ぶ。

 だが、彼女から反応が帰ってくることはなかった。


「霜月さん!!!!」


 慌てて駆け寄りうつ伏せに倒れた夕を起こす。

 目は虚ろで呼吸も浅い。医療に詳しくない真昼でも少女が危険な状態であることは瞬時に分かった。


「きゅ、救急車! そうだ早く救急車を呼ばなきゃ!」


 ポケットのスマホを取り出し電話を掛けようとする。


「止めとけ。時間の無駄だ」


 数字をタップしようとしたところで入り口で突っ立っていた恐竜に静止される。妙に落ち着いた態度が癇に触ったが、それどころじゃない状況が真昼の怒りを圧し殺した。


「どういうこと?」

「そいつの頬に傷があるだろ」


 夕の顔を見ると確かに右頬に切り傷がある。だが、こんな傷で彼女が倒れている理由が真昼には見当がつかなかった。


「そいつはアサミとかいう女が持ってたナイフによって出来た傷だ」

「!? そういえばあのナイフは精器を細分化出来るってアサミが」

「そーだ。恐らく標的の精器に突き刺すことで本来の威力を発揮するんだと思うが、あのタテヤマとかいう野郎。こいつがナイフを叩き割った時に残った刃で反撃してきやがった」

「そのせいで霜月さんが?」

「多分な。この手の武器は精密に作る分、扱いはかなり難しい。壊れた状態で意図しない箇所に刺したとなると何が起きてもおかしくねーさ。見たところ霜月の精器は壊れちまってる。穴が空いてるっている言い方の方が正しいか。どっちにしろ長くは持たねーな」

「そんな細かいことどうでもいいよ。それでどうやったら霜月さんを助けられるの!」


 真昼が強く言うなり恐竜は一度口を閉ざした。何かを考えてるような素振りだった。


「教えられない」


 数秒にも満たない時間が経過し出てきたのは酷く残酷な言葉だった。流石の真昼も我を忘れて掴み掛かってしまう程。


「アケボノ!」


 右手でぬいぐるみの首を掴み一心不乱に睨み付ける。


「俺は教えない」

「何で! どうしてっ!」

「未来が見えるからだ」

「意味が分からないよ!」


 投げ飛ばしたくなる衝動を必死に抑えアケボノと対峙する。感情に任せた真昼の姿勢とは裏腹に恐竜は恐ろしく静かだった。


「お前は多分、いや絶対にそいつの――霜月のためなら何だってする。自分がどうなったって構わず助けようとする。それが俺には堪えられない」

「アケボノはボクがやりたいことに手を貸してくれないの?」

「そういう訳じゃない! お前が女の体になったのは俺の責任だし、お前によって生かされている今、手助けはしてー!」

「だったら手伝ってよ!」

「だけど俺は自己犠牲の精神で人を助けるのは気に食わねぇ! 良いじゃねーか自分さえ助かれば! 他人なんて放っておけよ! 自分が元気なら他の奴なんてどうでもいーだろ!」

「そうはいかない」

「何で!」

「だって命を救ってもらったから」


 真昼の強い意志がこもった言葉にアケボノが息を呑んだ。


「霜月さんが助けてくれなかったらボクは蟹に殺されてた。あの時終わってたんだ。だから受けた恩は少しでも返したい」


 聞き終わるなり「ちっ」と大きく舌打ちをするアケボノ。助けられたことを持ち出されると立場が無いのだろう。何せアケボノも彼女に救ってもらった一人なのだから。


「……俺と同じように精器を分け与えればいい。自前の精器が機能しないなら誰かのを分けてやりゃ良い」

「──! じゃあボクのを!」


 アケボノは精器を分解出来る!

 これで霜月さんを救える!


「ほら見たことか! だから言いたくなかったんだ! いいか良く聞け! お前がこいつに精器を分けるってことは完全なお前にはなれなくなるってことだ! 男には戻れないかもしれねーんだぞ!」

「そんなこと言ったらもうアケボノに──」

「俺はっ!!」


 心に直接突き刺さるような声が真昼から言葉を奪う。感情で突き進もうとする少年と同じ、気持ちに任せた叫びだった。


「お前が精器を集め終わったら返そうと思ってる……!」

「っ──!?」

「お前を滅茶苦茶にしたのは俺だ。俺がいなければお前は平穏無事に暮らせてた。だからお前の、真昼の日常を壊した俺には責任があるんだ!!」

「でも精器を返すとアケボノは」

「そうだ死ぬ。でもそれが俺の贖罪だ。俺はお前を元に戻してから死ぬんだ」

「…………」


 アケボノの考えを聞き終えると、真昼がぬいぐるみを持つ力が急激に強くなった。


「馬鹿ぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」

「ぬわぁ!」

「誰がそんなこと頼んだ! ボクが何時アケボノに死んで欲しいと願った! ボクは人の命を奪ってまで、元に戻りたくない!」

「でも俺はあの日もう死んだんだ。それを今更──」

「アケボノは今生きてる!」

「──!?」


 恐竜を掴む手は次第に震えていく。

 同時に声も。


「アケボノは今生きてるだろぉ。それに精器が完全じゃないと男に戻れないなんて可能性の話じゃないか……。未来のことなんて、今を乗り越えてから考えれば良いんだよ」

「真昼……」

「ボクは、ボクは二人に生きていて欲しいんだ」


 ポツリと雫が落ち、玄関のタイルにシミを作った。

 恐竜を地に降ろし上着の裾で目を擦る。涙は次から次へと出てきて止まることは無かったが、視線の強さは保ったままだ。

 気まずい間が二人を襲う。だが静寂は長くは続かなかった。


「本当に、いーんだな」

「うん、一思いにやって」

「後悔してもしらねーからな」


 言って、とことこと恐竜が少年に近づいていく。


「俺の手を握れ」


 言われて真昼は膝を折りアケボノへと近付く。そして綿の柔らかさを感じながら小さく短いぬいぐるみの手を握った。


「これでいい?」

「あー、問題ねー」


 平然と答えながら反対の手で夕に触れるアケボノ。ぬいぐるみゆえに何を考えているのか全く伝わってこなかったが、語感から真剣なのははっきりと分かった。


「霜月さん、大丈夫だよね」

「物事に絶対はねー。こいつの精器とお前の精器が反発して噛み合わねー可能性もあるにはある。問題ねーとは思うが、こればっかりは運だ」

「そっか」


 夕を見ると呼吸音は倒れた時よりも小さくなっていた。このままフェードアウトしてしまうのかと思えるほどに。


 頑張れ、霜月さん。絶対に生きて!


「本当は――」

「ん?」


 突然アケボノが小さく切り出した。申し訳なさが滲み出た低い声で。


「俺だって本当は死ぬのはこえーんだ。今日だってあわよくばうめーもん食えればいいなってこっそり付いてきたのに、アサミやタテヤマが現れた時俺は怖くて出れなかった。もしかしたら精器を取られるんじゃないかって、ずっとヒヤヒヤして表に出れなかったんだ」

「アケボノ……」

「俺は自分のことしか考えられねーんだって気付いたよ。それ以上に自分の臆病さにもな。情けねーよな」


 アケボノがここまで自分の気持ちを吐露するのは初めてだ。普段の真昼であれば掛ける言葉は見つからなかったかもしれない。しかしながら今の真昼は、数時間前よりもちょっとだけ強かった。


「死ぬことが怖くない人間なんていないよ。誰だって死ぬのは怖い。ボクも最初にセソダに行った時は怖くて仕方なかった。今だって実は怖い。だからアケボノの感情は普通でありきたりだと思うよ」

「……ありがとよ」


 小さな小さな人間が感謝を述べた数秒後、真昼の意識はヒューズが切れたように飛んだ。

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