其の十六 宵闇夢夜――、リアリティは、想像していたより何倍もくっきりとした輪郭で形どられている
――夢の時間は、いつかは必ず終わってしまう――
「……ココで、大丈夫なので、今日は、ありがとうございました……」
「む? そうか……、結構遅くなってしまったな。ご家族の方に一言謝りたいのだが――」
「――だっ、大丈夫! ……ですっ、からっ――」
慌てたように私は声をまくし立て、ギョッとした顔つきの先輩が「そうか?」と一言こぼすように漏らす。
繋がれた手が解かれ、そよいだ夏風の涼しさが妙に寂しくて――
「――春風、もし君がよかったら、明日また屋上に来るといい」
――ふいに先輩が、そんなことを言った。
「――えっ……?」
パチパチパチと三回瞬きを繰り返した私は、先輩が言っている言葉の意味を一瞬で理解することができない。『もしや』と何かに気づいた時には、ドクドクと心臓がスロースタートに跳ね上がっていき――
「――さっきはあんなコト言ってしまったが……、夏の夜風にさらされている間に頭が冷えた、僕が音楽を捨てるなど……、再び天動説が世の常になるくらいにあり得んことだ」
「そ、それじゃあ――」
私の顔が赤ちゃんみたいにくしゃっとつぶれて、釣られるように先輩もフッと笑って――
「……ああ、サックスは続ける。……妙に『クロユリ』を意識するのはヤメだ。僕は、僕にしか創れない世界観で、おま――、この世を……、この世界の人々を、魅了してみせる――」
心の奥底から湧き出た感情が、マグマみたいに熱くなって私の全身を巡る。思わず先輩に抱き着きそうになった私だったが――、而して一握りの自制心が全神経に急停止を命じ、両手をめいっぱいに広げたところで私はピタリと硬直した。
「良かった……、もちろん、行きます。『毎日』、行きます!」
ポリポリと頬をかく先輩はなんだか照れ臭そうだった。浮き立った私の心は誇張なく天にも昇りそうで……、別れを告げた後、その背中が暗がりに消えてからも、私は視線を外すことができず――
自分が今、阿呆みたいにただ突っ立っているのは、火照った身体を涼ませるためだと、誰に向けてでもな言い訳を心の中でこぼした。
※
ボーッと部屋の角を見つめる。自分の手を撫でる。
身体が熱くなるのを感じ、すぐにバッと離す。そしてまた、ボーッと部屋の角を見つめる。
「――あっ、明日英語の小テストがあるんだ、勉強、しなくちゃ――」
――何かをごまかすように独り言を漏らし、ムクっと立ち上がる。ガサゴソとスクールバッグをまさぐり、B5サイズの単語帳と筆記用具を取り出した。
椅子を引き、
机に向かい、
手にもったボールペンをくるくると弄びながら――
そのままくたぁーっと、机の上に突っ伏した。
……集中、できるワケ……、ないじゃないッ――
はぁっと大仰なタメ息を吐いた私は、助けを求めるようにスマホ画面に目を向ける。
「……あっ、アジサイさん……、っていうか先輩――」
――『カトレア』のページを開いた私の心臓がゴトリと動き、私はほぼ無意識に綴られたテキストを目で追った。
HANDLE:アジサイ DATE:7月9日(日)
今日は、クロユリの単独ライブに行ってきました。
以前、抽選に外れたので諦めるしかないと書き込んでいたのですが、知り合いからチケットを一枚譲り受けることができて、その人に一緒に行こうと誘われたんです。
生で観る『クロユリ』の演奏は……、圧巻でした。CD音源ではとても感じることができない迫力があって……、本当に、心が震えるような体験でした。
……実は、『クロユリ』のライブを観終わった直後、同じ音楽家としてのレベルの差をありありと見せつけられ、僕はショックのあまりに呆けてしまいました。「もうサックスを吹きたくない」と思ってしまうほどでした。……実際、僕が一人で観に行っていたら、そのまま音楽を辞めてしまっていたかもしれません。
でも、一緒に行った彼女が、僕の演奏を好きと言ってくれたんです。
辞めて欲しくない、とも……。
「辞める」なんて、そんなカッコ悪いこと言うなと、怒られてしまいました。笑
なんだか自分が、大袈裟に騒いでいる子供のように感じてしまって……、気づいたら「辞めたい」という気持ちは消え失せていました。
この場で言ってもしようがないことですが、改めて彼女に言いたい。
ありがとう。
「…………これって――」
――私の、こと、だよね……?
ポツンと、心の奥底に一滴の絵の具が垂れて、じわじわと水面に広がっていく。
橙色に染まった私の心臓が、柔らかい体温を全身に伝える。
複雑に絡まった糸が解けたように、ふにゃりと力が抜けてしまった私は――
「……どう、いたしまして――」
ポツンと、こぼすようにつぶやいて、本日二度目の涙がツーっと頬を伝った。
HANDLE:杏 DATE:7月9日(日)
アジサイさん、こんばんわ!
単独ライブ、行くことができてよかったですね! 実は私も観に行ったんです。
生で観るクロユリ、凄かったですね! 綺麗で、神秘的で、力強くて……。
……確かに、彼女の存在感は同じ人間とはとても思えなくて、なんだか遠く、違う世界の住人のように感じるかもしれません。実際、私もそう感じました。
でも、何かに一生懸命に向き合って、必死に何かを伝えようとしている人って……、どんな人でも、とても『素敵な姿』に映ると思います。その姿に励まされる人が、絶対にいるんだと思います。
だから、アジサイさんが、音楽を「辞めない」決意をしてくれて、本当に、よかった……。
――思うがままに指を動かし、今まさに『投稿ボタン』を押しやる寸前だった私の身体が、ピタッと止まる。
「……先輩、私のこと、どう思っているんだろう――」
――通り雨のごとく現れ、唐突に『クロユリ』が好きだと言い出し、
――屋上に毎日おしかけ、「一緒にライブに行きましょう」などと宣い、
――手を繋いだだけで、頬を朱色に染める――
……恋愛初心者の私でもわかる。ココまでわかりやすければ、たぶん普通の男の子なら『コイツは自分に好意があるな』と、容易に犯行動機を推察するだろう。
――而して、相手は『あの先輩』だ。着流しを身に纏い、サングラスを掛けながらゲタを鳴らす――、およそ生まれた時代を間違えたとしか思えない『かぶき者』だ。そもそも今までのやり取りから、先輩が私の思慮に気づいているとは思えない。
――百人に一人の恋を成功させるのに、しり込みしている余裕なんてないんじゃないかしら――
ふと脳によぎったのは、『呑み屋のオッサン』の皮を被った親友の声。
『ある作戦』を思いついた私の心臓は、さっきからドクドクと落ち着きがない。
――先輩は、私が……、『杏』の正体が『春風杏々香』だということを知らない。つまり……、
『杏』の姿を借りれば、私は先輩の本心を聞くことができるかもしれない――
罪悪感で、胸が痛んだ。
どうしようもなく卑怯なやり方だなと、自分を呪った。
――でも私は、テキストを打ち込む自分の指を、どうしても止めることができない。
HANDLE:杏 DATE:7月9日(日)
ところで、アジサイさん。一緒に行ったその子って、もしかして彼女ですか?
……もし違うなら、その子はアジサイさんのことを好きなんじゃないですか?
アジサイさんは、その子のこと、どう思ってるの?
無機質なフォント文字の投稿ボタンを、タンッとなんでもないように押しやる。ブラウザ画面が切り替わり、私は、自分が数秒前に打ち込んだテキストを無意識の内に目で追い――
ハッと我に返って、私は思わず、手に持っていたスマホをベッドの上に投げ捨てた。
――どっ……、どうしよう!? やっちゃった、やっちゃった、やっちゃった、やっ――
椅子の上で一人、体育座りをしながら縮こまっている私は思わずギュっと目を瞑る。
何も見たくなくて、何も聞きたくなくて――
――でも、そのまま何も知らないでいるのは、もっと耐えられなかった。
……十五分くらいだろうか。ぐるぐると思考のループから抜け出すことができず、その時間は永遠にも感じられた。両膝を両手で抱えながら、少しだけ瞼を開けて無機質なスマートフォンへ目を向ける。
色気のない黒のゴムカバーに囲われた最先端の通信端末は、ただそこに存在しているだけで――
――ええいっ、もう、なるようになれっ!
ガバッと立ち上がった私は、むんずとスマホを鷲掴みにし、迅雷のごとくロック画面を解除する。デジタル画面に映し出されたのは『カトレア』のページで、『アジサイ』という名のHNからの投稿が一件。
――跳ね上がる心臓を両手で押し込めながら、私は黒いフォント文字を必死に目で追う。
HANDLE:アジサイ DATE:7月9日(日)
杏さん、こんばんわ。
その子は、残念ながら彼女ではありません。笑
不思議な子でして、ある日フラッと現れて、僕の演奏を好きだと言い始めたんです。
……その子が、僕のことを?
なんだか女性はやっぱり、恋愛話が好きなんですね。笑 幼馴染にも同じようなことを言われました。でも、違うと思いますよ。彼女は純粋に『クロユリ』が好きで、僕が『クロユリ』の曲を演奏していたので興味を持っているだけだと思います。それに……
僕は、恋愛をしないと、決めているんです。
もし本当に彼女が僕に好意を持っていたとしても、僕はその想いに答えることはできません。
――えっ……。
跳ね上がる心臓を両手で押し込める必要はなくなった。
呼吸の仕方を忘れた私の目に、無機質なフォントのテキストだけが映る。
最後の一文、綴られた文章の意味を、そのまま受け止めることを脳が明確に拒否していた。
――それでも……、およそ受け入れられない現実だったとしても――
目の奥がぐいっと引っ張られるように、
まるで自分の意思が乗っ取られてしまったかのように、
デジタル画面に表示された最後の一文を、私はもう一度目で追った。
もし本当に彼女が僕に好意があったとしても、僕はその想いに答えることはできません。
そこには、確かにそう綴られていた。
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