其の十一 思慕暴走――、コップいっぱいの恋は、例え溢れていても注ぐ手を止めることができない


 サックスを真っ黒なケースにしまい込もうとしていた先輩がピタっと手を止め、「なんだ?」と呟きながら再び訝し気な目を私に浴びせる。


「――先輩と、少し……、話がしたいんです……、ダメですか?」


 ――彼の訝し気な目つきが丸々と見開かれ、橙色の空にクエスチョンマークが舞う。


「……僕と? 何の?」


 ――果たして、『勢い』。

 「何かしなくては」と先輩に声を掛けたのはいいものの、その先に具体的なプランがあったわけではなかった。焦った私はグルグルと急ピッチで脳みそを動かし、思いついた言葉を深く吟味することもなく、外の世界に吐き出す。


「ク、『クロユリ』好きな人……、周りにいないので……、その、『クロユリ』の話を、誰かと、したくて――」

「……今からか?」

「……ダメ、ですか?」


 ――果たして、『手ごたえナシ』。

 絞り出した私の提案に対して、先輩の頭上、クエスチョンマークの増殖は止まらない。口を半開きにしながらジーッとこっちを見ている先輩の視線に耐えられなくなった私は、思わず目を伏せてスカートのすそをギュっと掴む。


 ――や、やっぱり無理、先輩と……、距離を近づけていくことなんて、私には、到底――



 世界が一瞬だけ止まって、ハッとした私の意識が音に支配される。

 耳に流れ込んだ旋律は『夏ぐれ』で――

 サビのメロディが湿った空気に混じり、先輩の横顔は相変わらず綺麗だった。



「――『クロユリ』で最初に聴いた曲が、『夏ぐれ』だった」


 演奏を止めた先輩が、夏の空に向かって声を投げる。


「僕はJ-POPは普段あまり聞かないんだが……、たまたま耳に入った『クロユリ』の声が妙に耳に残ってね」


 先輩の柔らかい声が風にそよいで、静かに紡がれる音は不思議と私の耳によく響く。彼の前髪がさらさらと遠慮がちにそよぎ、私は何故だか視線を外すことができなかった。


「――どうにも気になってしまい、他の曲も聴いてみたんだ。……まるで魔法使いのように彼女は歌い方を変える。何度も聴いていると、全ての曲にストーリーがあることに気づいた。……歌詞だけでは到底表現することのできない、深い深い物語。彼女の声と、楽器の音と、抑揚と、響きと――、全てが交じり合って、彼女は一つの世界を創りあげていた」


 橙色の空に濃い藍色が混じり、綺麗に分かれたグラデーションが夏の空を彩る。私は、なんだかこの世界には先輩と私しか存在しないんじゃないかって――、子供じみた妄想に、フワフワと心が落ち着かない。


「――気づいたら、僕は彼女の創る音楽の虜になっていた。同じ音楽家として、ここまで表現力に差があるものなのかと、それまでの僕の音楽観がガラッと百八十度変わった。――その時から僕は、一人の奏者として彼女を『超える』コトを目標に立てた。まずは彼女が創る世界を完全に理解し、自分でそれを表現できるようになってから――、僕自身の世界を表現していこうと……、そう、決めたんだ」


 誰かに投げかけるように、でも自分自身に問いかけるようでもあって――


 丁寧に言葉を紡ぐ先輩の顔は、見ていて呼吸の仕方を忘れてしまうくらいに真剣だった。幾ばくかの静寂が私たちの間を流れ、ポツンと声を落としたのは『私』で――


「だから、かな――」


 こぼれたその声を拾うように、先輩の顔がこちらに向かれる。


「先輩がサックスを初めて聴こえてきた時、『クロユリ』を聴いた時と同じ感覚がしたんです。ただメロディが同じだから……、って理由じゃなくて、なんだろう、まるで宇宙を漂っているような、フワフワと私の身体が空に連れていかれるような、不思議な心地がして――」


 ――フッと先輩の顔が綻び、私の心臓がドクンと波打つ。


「……面白い感想だ、宇宙か……、もちろん宇宙に行ったことはないが、確かに最初に聴いた時、僕もそんな感覚になったかな――」


 ――あっ……

 遠慮がちに笑う先輩を眺めながら、私の身体から伸びた一本の細い線が先輩の制服の中に入り込んでいく。先輩と同じ感想を共感できたという事実が、私はシンプルに嬉しかった。


「――ありがとう」


 ――そして、彼は唐突にお礼を言った。


「……僕は自分ではまだまだだと思っているが、僕の演奏で少しでも君が『クロユリ』の世界を感じることができたなら……、これほどうれしい事はないよ」


 先輩の顔は相変わらず真剣で、私の人生の中でこれほどまでにストレートに感謝をする人が居ただろうかと――、私が好きになった人は、びっくりするくらい純真で、まっすぐな心を持った人だと知った。


 彼の内面を垣間見た私は、もっと先輩のことが知りたくなって、心が、気持ちが止まらなくなって、思わず脳裏によぎった台詞が、そのまま口から飛び出て――


「せ、先輩は、行くんですか? 今度の日曜日、クロユリの単独ライブ……」



 ――私は、昨夜思いついたとある『仮説』の、『検証』を決行する。



「……ああ、応募はしていたんだが抽選から外れてしまってね……、残念ながら今回は諦めるしかないかなと思っている」


 ――果たして、『確信』。


 ――やっぱり、先輩と、『アジサイ』さんは、同一人物――



「――あの、実は私、『クロユリ』のチケット二枚当たって……」

 ――あっ……。


「……一緒に行く相手も、いなくて、その……」

 ――ダメ、止まらない……。


「――よかったら、い、一緒に……、どうですか?」



 ――言っちゃった。



 ドクドクと高鳴る心臓は今にもバクハツしそうで――

 だけど、ココまで来てしまった以上、後戻りができないのも知っていた。



 顔を真っ赤に紅潮させながら、俯いて地面に目を落としている私に向かって、少し裏返った先輩の声が飛び込んでくる。


「き、君と僕が? ……二人でか?」


 目をまん丸く見開きながらこちらを見やる先輩の顔は驚きに満ちていた。――突然の私の誘いに、明らかに『引いてる』。サッと体温が失われていくのを感じた私は、思わず早口で声を荒げた。


「い、イヤですよね! ……こんな、昨日までマトモに喋ったことのなかった……、わけのわからない女と一緒にライブなんて……」

「あ、いや、そういうワケでは――」

「大丈夫です……、ごめんなさい! 忘れてください!」


 ――果たして、『限界』。

 その場にいることに耐えられなくなった私は、ぺこりとナナメ九十五度くらいのおじぎを披露したのち、目を瞑りながら屋上の入り口へと駆け足で向かう。さきほどまでフワフワと夢心地だった気分とは一転、全神経が「早く逃げろ」と緊急指令を与える。


 ガチャリとドアノブを回し、キィッと錆びた鉄がこすれる音が聴こえて――


「――ま、待てッ!」



 ――果たして、『大声』。

 私が聴いた中で、最も大きな先輩の声が耳をつんざき、くるっと振り向くと、さっきよりも近い位置で先輩が荒い呼吸を繰り返している。


 ――その距離、約二メートル。


「……ちょっとだけ……、十秒でいい、考えさせてくれ」

「…………へ?」


 ――果たして、『なんで?』

 このタイミングで、十秒でどんな結論が導き出されるというのか……、私には皆目見当もつかなかったが、だけど先輩は腕組みをしながら真剣に何かを考えている。


「……だがしかし、いや、あれを使えば、よしんば、そうなったところで――」

 ――そして、何やら念仏のようにブツブツと独り言を漏らす。


「――あ、あの、気を遣わなくてもいいですよ……、どうせ私みたいな、顔は地味なくせにやたら胸だけでかくて、脳みそが筋肉とおっぱいで構築されているくだらない女……」


「――よし、共に『クロユリ』を聴きに行こう、春風」



 ――果たして、『なんで??』

 おそらく、私の最後の台詞は先輩の耳には入っていない。「えっ」とマヌケな声を漏らしたのは『私』で――、私は先輩の放った言葉の意味を素直に受け取ることができなかった。


「先輩……、い、今、なんて――」

「……何度も言わすな、一緒に行こうと言ったのだ、春風杏々香よ」

「……いいんですか?」

「いいも何も、お前が誘ったんだろう。……『クロユリ』の生演奏だ。みすみす見逃す道理はあるまい」


 

 ニコッと遠慮がちに先輩が笑って、自分の顔がくしゃっとつぶれていくのを感じて――


「――ありがとう……、ございますッ!」


 胸からこみ上げてくる喜びを、真正面から先輩にぶつけた。

 面食らったようにキョトンとしている先輩が、ポリポリと頬を掻きながらフワフワと不安定なトーンの声を上げる。


「……あ、ああ。変なヤツだな、そんなに僕と『クロユリ』のライブに行くのが嬉しいのか……?」

「――えっ、あ……、は、はい! とっても……、楽しみです!」


 『想い』がだだ漏れだったことにようやく気づいて――、さっきから赤くなりっ放しの私の顔は、ゆでダコのそれをはるかに凌駕している。


「あ、あのそれじゃあ……、れ、連絡先教えてもらって……、いいですか?」

「……連絡先?」

「えっ? ……あ、ハイ、当日の待ち合わせの連絡などをしたいので……、電話番号でも、チャットアプリのIDでも――」


 ――果たして、『不可解』。

 至極当然の質問だったと思うのだけど、首を斜め四十五度に傾けている先輩は明らかにピンと来ていない。


「――すまない」

 そして、唐突に謝る。


「……僕は、パソコンは私用で使うのだが……、いわゆる携帯電話の類を持っていないんだ。必要に感じたことがなくてね」

「…………へっ?」

「詳細については、電報を送ってくれないか? すまないがうちは固定電話も引いていなくて――」


 ――カァカァと見下ろすようなカラスの鳴き声が響き、私はポカンと口を開け放ったままフリーズしている。

 私が好きになった人は、びっくりするくらい純真で、まっすぐな心を持っていて――


 そして、噂通りにちょっと変わった人だった。

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