其の八 心憂吐息――、タメ息を吐くと幸せが逃げるというが、タメ息をやめたら幸せになれるわけでもない


「――はぁ~っ……」


 本日吐いたタメ息の数は――、煩悩の数などとうに超えている。数分おきに胸が苦しくなり、過呼吸寸前で胸に溜まった空気を口から思いっきり吐き出す。ベッドの上で一人ゴロゴロと転がりながら、私は生産性のない生命活動を約二時間ほどぶっ通しで続けていた。


「――はぁ~っ……」


 ――どこぞの恋愛ソングのBメロじゃないんだから……、私に限って、好きな人のことを考えて胸が苦しくなる、なんて――


 心の中で悪態をまきちらしながら――、だけど私の意思とは裏腹に、屋上でのワンシーンが何度も何度も脳内に再生される。いくら頭を振っても、枕に頭をつっぷして大声を出しても、そのイメージは頭にこびりついて離れてくれなかった。


「――はぁ~っ……」


 いよいよ限界を感じた私は、何か気を紛らわそうと近くに放っていたスマホを手に取る。チャットアプリに赤丸の通知が一件、ほぼ無意識に立ち上げて覗いてみると、差出人は『如月双葉』だった。


 メッセージ:あなた、一体何度タメ息を吐いたら気が済むのかしら?


 思わずガバッと起き上がった私は、部屋の窓をガラガラと乱暴に開け放ち、キョロキョロと周囲に目をやる。夜中の住宅街は静寂がひたすら広がっており、街灯の光が寂しそうに光っているだけだった。


 ――あの子……、エスパーなの……?

 はぁっと、それまでとは違った類のタメ息を吐きだした私は、伝家の宝刀『既読スルー』を決め込み、無表情のままチャットアプリを画面外へと押し出した。

 ぼふっとベッドの上に再び腰を掛け、手慣れた手つきでスマホの操作を続ける。ブックマークしてあった『カトレア』のページに飛ぶと、今日の日付で一件の新着書き込みが目に付く。





 HANDLE:アジサイ  DATE:7月3日(月)

 こんばんわ。今週の日曜日は国際フォーラムでいよいよクロユリの単独ライブですね。規模の大きい会場でのライブは初めてなので、どうしても行きたいのですが……、残念ながらチケット抽選は外れてしまいました。笑 誰か譲ってくれないかなぁ……。





 ――そっか……、今週の、日曜日だっけ。

 スッと立ち上がった私は、おもむろに机の引き出しへと手を伸ばす。後生大事に封筒に入れたままの二枚の紙切れを取り出し、そこには無機質なフォントで『クロユリ CONCERT TOUR』と綴られている。ワクワクと遠足前日のような高揚感が私の胸に広がり、気づけば息が詰まる感覚は収まっていた。


「アジサイさん、抽選外れちゃったんだ。一枚譲ってあげようかな、でもなぁ……」


 ――いくら気心知れた仲とはいえ、相手は名前も顔も年齢も性別すら定かではないネットの知人……、SNS初心者の私にとって、ネットで知り合った人とリアルな繋がりを持つのは正直抵抗があった。ただチケットを渡すだけならまだしも、直接会って二人でライブを――、なんてことになるのはちょっと怖い。とはいえ――


「――チケット一枚だけ余ってもしょうがないんだよね。でも、クロユリを知っている人なんて、私の周りにはいないし――」


 言いながら、ハッとなる。

 耳に流れてくるのは、艶のある低音で彩られる『夏ぐれ』のメロディと――


「……冬麻、先輩――」

 自分の世界に溺れるように、一心にサックスを吹く一人の男子高校生。



 ――いやいやいやいや……、イヤイヤイヤイヤイヤ――

 誰に向けるでもなく、顔を真っ赤にして両手をブンブンと振る私の姿は、はたから見たらおそらくかなり滑稽だろう。スーハーと大仰な深呼吸を繰り返し、無理やり自分の気持ちを落ち着かせた私は、静かにスマホ画面に目を落とす。自身が『クロユリ』のライブチケットに抽選したことは触れず、アジサイさんの愚痴へ同調するような当たり障りのない文章を打ち込み、送信ボタンをタンッとタップした。


 ぼふっとベッドへと倒れ込むと、柔軟剤の柔らかい匂いが私の鼻をくすぐる。スッと眼を瞑り、瞼の裏の暗闇が私の視界に広がり――、だけど、相変わらず眠気はやってこなかった。


 世の中には今、どれくらい恋をしている人がいるのだろうか。

 どれくらいの人が恋に苦しみ、恋を楽しんでいるのだろうか。



「……そんなこと、考えたコトなかったな……」


 ――今日は独り言がよくこぼれる日だ。幽体離脱したもう一人の私が、フワフワと宙に漂いながらクスッと笑う。パチッと目を開けた私は何の気なしに再びスマホを手に取った。チャットアプリに赤丸の通知が一件、ほぼ無意識に立ち上げて覗いてみると、差出人は『如月双葉』だった。


 メッセージ:さる企業の調査結果によると、初恋が実る確率は百人に一人らしいわ。……これは面白いコトになってきたわね。


 画面越しの悪友にジト目を再々向けた後、私は鬼神の如くタップ操作を繰り返す。「うるさい! さっさと寝ろ!」と秒で打ちこんだ後、送信ボタンを指で力強く押し込み、チャットアプリを画面外へ追いやる。先ほど開いていた『カトレア』のページが画面上に広がり、私は一件の新しい書き込みに目を落とす。


 ――あ、アジサイさん、また何か書き込んでいる。

 ボーッとした頭で、綴られた短い文章を目で追いながら――

 デジタルテキストの文字群に、自分の意識が吸い込まれていくのを感じた。





 HANDLE:アジサイ  DATE:7月3日(月)

 唐突ですが、杏さんはどの季節が好きですか?

 僕は季節の中では『夏』が一番好きなんです。

 夏は確かに暑くて、エアコンの無い熱帯夜など、地獄そのものでしかないのですが。笑


 それでも、太陽の日差しを肌で感じることができて、ジワジワと汗が浮かび上がっていく感覚が、なんだか僕は生きているなって、そう思うことができるんです。


 ……って、いきなり何でこんなことを言い出したかというと、今日丁度リアルでそういう話を人としたんです。しかも、その人とはほどんど話したことがなくて、自分でも何でそんな話をしたのかもわかりません。


 でも、なんだかこの出来事を誰かに聞いてほしくて、思わず書き込んでしまいました。自己満足なので、聞き流してもらってけっこうです。

 さて、今日も扇風機が活躍しそうです。笑

 おやすみなさい、良い夢を――





 窓の外、遠慮がちに唄を歌っている鈴虫の音が私の耳の中で反響する。ボーッと液晶画面に視線を落としている私の二つの瞳は、何かを『見る』というやり方をどうにも忘れてしまったみたいで――



「――これっ、って……」



 ――本当に、独りごとがよくこぼれる日だ。


「……まさか、ね」


 幽体離脱をしたもう一人の私が、何かを誤魔化すようにフッと笑った

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